◆199312KHK137A3L0850EFM
TITLE:  子どもの権利と学校の規律権能 − 子どもの権利条約批准にあたっての「学校=法外特殊部分社会」論批判 −
AUTHOR: 北川 邦一
SOURCE: 大手前女子短期大学『研究集録』第13号(1993年12月)
WORDS:  全40字×850行

 

子どもの権利と学校の規律権能

− 子どもの権利条約批准にあたっての「学校=法外特殊部分社会」論批判 −

 

北 川 邦 一

 はじめに
 (一) 条約批准案国会審議における政府見解
   (1) 子どもの権利と学校の規律権能に関する政府見解の要点
   (2) 国会の議論における「学校=法外特殊部分社会」論の特徴
 (二) 「学校=法外社会」論関連主要判例の検討
   (1) 駒場東邦高校退学処分事件
   (2) 昭和女子大学退学処分事件
   (3) 富山大学経済学部単位不認定事件
   (4) 修徳学園バイク退学処分事件
 (三) 子どもの権利条約に照らした「学校=法外特殊部分社会」論の問題点
 おわりに
 註

 

  はじめに

 

  わが国においても早晩批准される見込みである「子どもの権利に関する条約」 [註1] の第13、14、15条は、表現・情報の自由、思想・良心・宗教の自由、集会・結社の自由等の、子どものいわゆる市民的権利は他人の人権や公共の安全を害するような特定の場合で、かつ、法律の定めによって制限される場合にしか制限され得ない、と定めている [註2] 。それ故、子どもの権利条約が批准されるならば学校における子どもの市民的権利はこのような保障を受けるものとして扱われなければならないはずである。

  ところが、この条約批准案の準備段階及びその国会審議の過程で、政府・文部省は、条約批准後も、子どもの権利と学校の規律権能について、概ね次のようにまとめられる見解にたって対応することを明確にしてきている。

 「学校は、教育目的達成のために必要であるならば、法律の具体的根拠に基づかなくても一定の規律を定め、それによって、憲法上の自由や人権も含めて、学生・生徒・児童の権利を制限できる。」

  このような見解は、結論的に言って、いわゆる「部分社会」論の影響を受けて学校をその言う「特殊な部分社会」に含めるものであり、学校における生徒等を日本国憲法の最高規範であるはずの人権保障の外に置くものであり、その意味で、本質的に法の外に置こうとするものである。それ故、「学校=法外特殊部分社会」論と名づけるのが適切であろう。さらに簡便のためには「学校=法外社会」論と呼ぶこととする。

  本稿は、わが国の学校における子どもの権利の十全な保障への展望を切り開くために、その重大な障害を成すであろう「学校=法外社会」論の特徴と問題点を指摘し批判克服することをめざす試みである。

 

 

  (一) 子どもの権利条約批准案国会審議における政府見解

 

  (1) 子どもの権利と学校の規律権能に関する政府見解の要点

  子どもの権利条約批准案をめぐる国会審議で学校の規律と子どもの権利にかかわる政府側答弁等の要点を示せば次のようである。

 @第12条と「校則」(1992年2月27日、第123国会衆議院文教委員会) [註3]

 坂元弘直政府委員・文部省初中局長:「校則の法的根拠でございますが、…人格の完成をめざす教育を施す、そういう組織体としての学校で一定のルールを校長が定めて子供たちを規律するということは、これは累次の最高裁の判決、それから地方裁の判決でも認められているところでございます。…昔はいわゆる特別権力関係、一般権力関係などという言葉で学者が説明したりなんかしておりましたが、判例ではそういう言葉を使ってはおりませんけれども、そういう特別な関係にある学校と子供との間は、法律上の具体的な根拠がなくても、一定のルールを定めて、それを合理的な範囲内である限りは子供に強制することが可能である、そういう判決、判例に基づいて、私ども、校則は『校務をつかさどり、所属職員を監督する。』ということが規定されておる学校教育法28条の校長の職務として決め得るものだというふうに考えております。」

 A高校生の政治活動と条約第15条(92年3月10日第123国会参議院文教委員会) [註4]

 (1969年10月31日の高校生の政治活動に関する文部省初中局長通知が条約第12条から15条に牴触しないかとの質問に対して)

 坂元政府委員:「現行の我が国の憲法でも、今先生が挙げました条約の規定と同じ権利は保障されているわけでございますけれども、心身ともに未発達な児童生徒を教育するというそういう観点から合理的な範囲内でならば、こういう制限をする、注意をする、規制をするということは可能ではないかというふうに私どもは考えておりますが、その法律論はいざ知らず、基本的には私どもとしましては、未だ心身ともに未発達な段階にある子供たちに対する指導としては一切適切な指導ではないかというふうに現在でも考えているところでございます。」

 B条約と国内法整備(92年4月23日、第123国会衆議院予算委員会) [註5]

 丹波實政府委員:「国内法との関係では…例えば第2条の差別の禁止の規定と非嫡出子の相続の問題、あるいは条約第9条、第10条と出入国管理制度との関係、あるいは条約第13条から第15条までの自由権の規定と…学校と校則との関係といったものが検討され、その結論と致しまして新たな立法措置は必要はないという結論に達したということでございます。」 

 C子どもの権利全般についての基本的認識(92年3月23日、第123国会参院予算委) [註6]

 鳩山邦夫文部大臣:「子供が権利の主体だということ…それは日本国憲法でも国際人権規約でも、当然わが国のお子さんたちも権利を持っておるわけだし、権利を行使することができるわけですから…コペルニクス的な発想の転換があったわけでは私はないと思う…」

 宮澤喜一内閣総理大臣:「この条約に言っております子供の権利そのものについては、国際人権規約もありますし、わが国憲法、国内法でもそれを認めて保護していると思いますけれども、…必ずしも十分ではない…」

 D子どもの権利と学校内部規則(92年6月3日、衆議院文教委員会) [註7]

  小西正樹説明員・外務大臣官房審議官:「この条約(子どもの権利に関する条約を指す引用者)の第13条から第15条は、児童に対しまして表現の自由、宗教の自由等を保障し、かつ、これらに対しては法律によって定められる制限のみ課することができるということを定めております。これは、本件条約が国家と国民一般との関係を念頭に置いたため、このような関係において権利に一定の制限を課すには法律によって定められることを要する旨を規定したものでございます。学校等の特別の目的をもった施設が、その目的を達成するために必要な範囲で校則を含む内部規則を定め、そのような内部規則によってこの条約に定められております権利に一定の制限を課すことを禁じたものとは解せられないわけでございます。また、校則その他の学校の規則につきましては、この条約も第28条2におきましてその存在を当然の前提として認めているわけでございます。

 …諸外国におきましても、心身ともに発達途上の段階にある児童の人権に対しましては、学校における教育的観点から一定の合理的範囲内であれば指導を行い得るということで、校則は広く認められているというふうに承知しております。…これらの点につきましては、わが国の立場と諸外国の立場は基本的に共通していると申せると思います。」(下線は引用者)

 E条約14条と日の丸・君が代(93年4月22日第126国会衆議院本会議) [註8]

 森山真弓文部大臣:「条約第14条の思想、良心の自由は、既に憲法や国際人権規約に規定されているところでございますが、これは一般に、内心について、国家はそれを制限したり禁止したりすることは許されないという意味と解釈されるものと承知しております。/わが国におきましては、長年の慣行により、日の丸が国旗、君が代が国歌であるという認識が広く国民の間に定着しているものでございまして、学校教育におきましては、学習指導要領に基づき、児童生徒が国旗、国歌の意義を理解し、それを尊重する心情と態度をしっかり育てるために、入学式や卒業式などにおいて、国旗掲揚、国歌斉唱の指導を行うこととしております。/この学習指導要領に基づく指導は、児童生徒が将来広い視野に立って物事を考えられるようにとの観点から、国民として必要な基礎的基本的な内容を身につけるために行われているものでございまして、児童生徒の思想、信条を制約しようというものではなく、したがって、本条約第14条に反するものではないと考えます。」(引用中の記号「/」は改行を示す。以下、同じ。)

 F学校規律の子どもの権利への優越(同日同会議) [註9]

 武藤嘉文外務大臣:「(条約第12-15条の)これらの規定は、教科書の採択に際し、児童の意見を聴取することを求めるものではないと理解しています。また、これらの規定は、学校等の特別の目的をもった施設が、その目的を達成するために必要な範囲で校則などの内部規則を定め、この条約に定めた権利に一定の制限を課すことを禁じたものではないと理解しております。したがって、学校において、その教育目的を達成するために必要な場合、児童の政治活動に制約が加えられるようなことがあっても、これがこの条約に反するものではないと考えます。」

 森山文部大臣:「学校と児童生徒との関係のお尋ねにつきましては、各学校は、学校の教育目標達成のため必要な合理的範囲内におきまして、児童生徒に対し指導や指示をしたり、必要な場合には懲戒等の処分を行うものでございます。この点につきましては、本条約の批准によって何ら変更されるものではないと考えます。…/…教科書等の採択につきましては、個々の児童を直接の対象とした行政上の手続等ではなく、この条約に言う意見を表明する権利の対象となる事項ではないものと承知しております。/また、表現の自由、集会、結社の自由、につきましては、既に、日本国憲法や国際人権規約の規定により児童生徒に保障されているものでございますが、この条約もこれらと同趣旨の規定であると考えております。日本国憲法等におきましても学校は、教育目的達成のために必要な合理的範囲内であれば、これらの権利に制約を加えて指導を行い得るものとされているところでございまして、学校が、心身ともに発達の過程にある児童生徒の政治的活動等について一定の制約を加えることは、この条約に反するものではないと考えます。」

 G日の丸・君が代の指導・強制(93年5月20日衆議院外務委員会) [註10]

 古堅実吉委員:「日の丸・君が代の学校での強制は、してはならない問題でありますけれども、仮にそれがあれば、個々の子供としてはその信念に基づいて拒否することが許されると言うふうに考えるべきだと思いますがいかがですか。」

 (小西正樹説明員及び武藤大臣の前掲Eと同旨及び日の丸・君が代指導は条約第29条1項(c)の国民的価値観の尊重にも合致するとの答弁等があった後)

 武藤外務大臣:「指導することということになっているわけですから、それに従わない場合は、それはやはりペナルティーを受けることになると私は思うのです。」

 富岡賢治説明員・文部省高等学校課長:「児童生徒はそのような学校の指導を受ける必要がございます。具体的にその指導を、例えば立ち上がらないとかそういうふうなことにつきましては、個々の子供のそういうケースについて処分するかどうかはということは、学校が慎重に考えることでございますが、国旗・国歌の指導を受けなければいけないということは変わりません。」

 

  (2) 国会の議論における「学校=法外特殊部分社会」論の特徴

 a) 学校内部における一般人権の制限

  以上、文部省初等中等教育局長(上記@、A)、丹羽實政府委員(B)、外務大臣官房審議官(D)、外務大臣及び文部大臣(F)の答弁にみられるように、日本政府は国会の子どもの権利条約批准案審議において一貫して、本稿冒頭で言うところの「学校=法外社会」論をとっている。

  @においては、「学校=法外社会」論が、用語は変化しているが、学校と子どもとの関係を「特別権力関係」とする特別権力関係論と共通の基盤にたつものであることが示されている。

  又、ここでは法律上の具体的な根拠がなくても「合理的な範囲内であるかぎりは」と述べて、憲法、条約の規定に基づく子どもの権利に背反し得ることを黙示の前提として、子どもを強制することができるとしている。この点、Dでは、さらに「合理的な範囲」を越えて、「必要な範囲」としている。「合理的な範囲」、「必要な範囲」の判断の基準は法的客観的には明示されておらず(@ではひとり校長の裁量に委ねられており)、この限りでまさしく法治主義の否定である。

  Aの「法律論はいざしらず」という表現の中には「学校=法外社会」論の、法律論的根拠をもたない無法な特徴が垣間みられる。

  Dの下線部分では、「学校=法外社会」論特有の考え方がいっそう明らかに表明されている。それは、子どもの権利の制限ないし保障について法律の果たす役割は、「学校との関係における子ども」に対してと「国家との関係における国民一般(としての子ども)」に対してとでは根本的に異なるとするものであり、特別権力関係論や後述の「部分社会」論判決の論理を踏襲するものである。しかし、条約第13条から第15条の子どもの権利保障規定は専ら「国家と国民一般との関係」を念頭においたものであると限定して考えるべきことの論拠はあげられていない。

 b) 学校の管理運営への生徒参加の無視ないし軽視

  又、諸外国とわが国とで校則による子どもの権利の制限についてはほぼ同様であると述べられているが、米、豪、加、及び大半の西北南欧諸国では学校内部規律の制定を含めて学校の管理運営への生徒参加及びこれを補足・代理する父母参加は通例となっている。1990年9月30日、海部内閣総理大臣も参加した「子どものための世界サミット」が採択した「1990年代における子どもの生存、保護および発達に関する世界宣言を実施するための行動計画」は、子どもの権利条約は「子どもがその成長と福祉のために必要な社会的、文化的、教育的その他の努力に十分参加することを含む、…普遍的な法的規準を定めるものである」と明言している。又、1990年秋の国連総会で採択された「少年非行の防止に関する国連ガイドライン(リヤド・ガイドライン)」も「青少年を、教育過程の単なる客体でなく、その活動的で実効をもたらす参加者として関与させること」(21項C)、「学校方針の作成及び学校の意思決定には生徒からの代表者が出されていなければならない」(31項)と定めている [註11] 。世界的な民主主義の趨勢からすれば学校の管理運営への生徒・親の参加は当然の権利となっている。一般社会市民としての権利を含む、学校の成員各個に保障されるべき権利を学校内部において総合調整するためにこそ、生徒・親の学校の管理運営への参加が認められなければならないのである。

 c) 子どもの政治参加・社会参加の貶視・否定

  Aに関して述べれば、1969年の高校生の政治活動に関する文部省通知は、学校の内外、放課後、休日を問わずおよそ高校生の一切の「政治的活動」を教育的価値のないものと決めつけ高校生をそれから遮断することを指示したものである。今日、教育条件や食品公害、消費者問題、自然環境・地球環境の保護、南北問題、民族問題の解決、平和・核兵器の廃絶、等々、子どもの要求や権利でおよそ本来の意味での「政治的」でないものこそむしろ少ない。人類と成人、日本の直面している問題は、高度な教養をもち行動する主体へと発達しゆく子ども・青年の参加を必要としている。教基法第8条のいう「良識ある公民たるに必要な政治的教養」の育成のためには、これらの問題への高校生の積極的取り組みは、事柄・場合に応じて法律に基づく一定の制限が要るとしても、全面否定されるべきでなく発達の度合いに応じて奨励されるべきである。「学校=法外社会」論によるなら、あるべきその規準は示されず、結果として、大半の保守的な学校管理者による子ども・青年の可能性の抑制とそれへの反動としての抑制の効かない子ども・青年の要求・行動の暴発とが懸念される。

 d) 「指導」の名による日の丸・君が代強制

  E及びGでは「指導」の名によれば「心情、態度」育成を生徒が受容するべきことを強制してよいとされている。このような論法が成り立つとすれば、少なくとも学校では、子どもの、思想、良心の自由の保障は殆ど無意味なものになってしまう。又、このような「指導」に従わない者にはペナルティをもって強制すると述べている。これこそ管理主義教育そのものである。ここに「学校=法外社会」論こそわが国管理主義教育の元凶であることの一端が露呈されている。

 e) 「累次の判決」に基づく、子どもの権利に関する従来方針の維持

  日本政府は検討の結果(上記B)、1992年3月13日、第123国会への条約批准案をこれに伴う新たな国内立法措置は不要であるとして提案した [註12] 。この措置は、子どもの権利条約以前にもわが国においては憲法、国際人権規約により子どもの権利は守られていた、今後子どもの権利条約を批准してもわが国における子どもの権利保障状況に根本的な変化はないという認識(C)、条約批准後も基本的には学校は「校則」によるなどして従来通り児童生徒を管理・強制できるという認識(@)と一体となっている。

  日本の学校教育における制服や髪型規制、所持品検査、アルバイト禁止、休暇中の旅行の「届け出」制・許可制、バイク「三ない」規制、印刷物配布・集会・結社の自由の許可制、自己教育情報の本人非開示、等々は、本来、憲法や国際人権規約の人権保障条項によっても認められないはずである。しかし、これについては、「未成年者にも人権を保障するべきだ」ということが我が国の社会常識のレベルでは判然とせず、それについては明文法規の規定がなかったことも一因を成していた。この点に関しては、子どもの権利条約が批准されその規定に照らすならば、上述のようなわが国学校における子どもの権利侵害の多くが是正されるべきことは一見して明白になる。ここに子どもの権利条約のひとつの重要な意義がある。

  ところが、政府の見解はこれと異なり、子どもの権利条約の批准にも関わらず従来通り子どもの権利を制限できる、続けるという。そしてその根拠として「累次の最高裁の判決、…地方裁の判決」を挙げている(@)。そこで、次にその「累次の判決」なるものを見ることとする。

 

 

  (二) 「学校=法外特殊部分社会」論関連主要判例の検討

 

  ここでは、文部省当局者が上で「累次の判決」として念頭に置いていると推定されるものと、それに関連して最高裁が「部分社会」論を採用し始めた前後以降の判決で学校における子どもの権利と学校の規律権能に関わるものとの中から主なものを取り上げて検討する [註13]

 

  (1) 駒場東邦高校退学処分事件東京地裁判決 昭和47年(1972年)3月30日

 @判決文抜粋 [註14]

 「学校長が、教育そのものに内在する自律作用として、生徒の行為に対して懲戒権を行使しうることは多言を要しないところであり…、これを発動するかどうか、懲戒処分のうちいずれの処分を選ぶかを決定することは、この点の判断が社会観念上著しく妥当を欠くと認められる場合を除き、原則として懲戒権者の裁量に任されていると解するのが相当である。」

 「未成年者とくに高校程度の教育過程にあるものについてその教育目的を達するのに必要な範囲で表現の自由が制限されることがあっても必ずしも違法ではないと解されるから、債権者高校がビラの配布や集会を行なうには校長または生徒会主任の許可を得なければならないとしていることをもって直ちに表現の自由を保障した憲法の規定や公の秩序に違反する無効なものということはできない。また、債務者高校が政治的な集会やデモに参加することを禁止したのは、心身ともに未成熟で十分な思考のできない高校生が特定の政治的思想にのみ深入りすることの弊害を防止し基礎的な教養の習得をはかるとともに、ややもするとこれらの集会、デモが暴走化する傾向があったことから生徒の安全を守るためであったことは前認定のとおりであって、未成熟者に対する教育上の配慮にもとづく相当な措置であると解されるから、これまた表現の自由を保障した憲法の規定や公の秩序に反する違法なものとはいえない。/したがって、許可をうけずにビラの配布や集会を行なったことおよび禁止に反して政治的な集会、デモに参加したことを理由に懲戒処分を加えたからといって憲法に違反する無効なものということはできない。…」

 A考察

  この判決には、旧来の特別関係論に特徴的な用語も「部分社会」論のそれも直接には現れていない。しかし、この判決には、以下のように述べている点で、前記子どもの権利条約批准案国会審議における「学校=法外社会」論、及び後述の最高裁判決の「部分社会」論に通ずる基本的な論理が見られる。

  @学校長は、教育そのものに内在する自律的作用としての懲戒権を有し、その発動、処分の種類の選択は、「社会通念上著しく妥当を欠く」場合以外、その裁量に任されている。

  A未成年者に対しては、教育目的を達成するのに必要な範囲であれば、「教育上の配慮」にもとづいて、憲法上の権利としてのビラ配布やデモ、集会参加などの表現の自由や集会の自由を制限しても違法でも違憲でもない。

  ここで論理的に問題なのは、未成年者の教育のためという理由であるならば、憲法や法律に根拠のある個人の人権や権利を、憲法や法律の根拠に基づかなくても校長の裁量で制限できるとしている点である。

  何をもって「社会通念上著しく妥当を欠く」とするかの規準、どのような場合に未成年者ないし子どもに対する教育上の配慮によって彼らの憲法上、法律上の権利を制限することができるかという規準が憲法や法律の根拠に基づいて示されないままに学校ないし校長の裁量が優先されるならば、学校における子どもの人権・権利は「社会通念上著しく妥当を欠く」までに損なわれてしまうおそれがある。今日のわが国の学校の校則・管理主義に関わる問題的状況は、学校ないし校長の裁量がまさに「社会通念上著しく妥当を欠く」までに至っていることを示している。

  逆に言うと、子どもの権利を保障するためには、やむを得ず子どもの権利を制限する場合、学校における教育的配慮が社会通念に照らしても妥当であり得るようその規準を民主的客観的に法律で定めておく必要がある。子どもの権利条約第13条第2項、第14条第3項、第15条第2項は、まさに子どもの権利の制限はそのような法律の規定に基づくべきことを定めている。

  もっとも、判決文によって考える限り、当該事件における債権者元高校生に対する退学処分は学校としてやむを得なかった、したがって、債権者元高校生の高校生徒として地位を定める仮処分申請を却下する判決主文自体は正当であったと言い得る可能性は多分にある。また、判決当時、子どもの権利条約はなく、子どもの権利を制限する直接の根拠となる明文の法律の規定はなかったという事情もあろう。

  しかし、そうであったとしても、判決理由は、当該高校の他の生徒の教育を受ける権利や身の安全を保障する必要等の憲法上、法律上の根拠に基づいて申請者元生徒の人権や権利の制限を正当化すべきであったのであり、軽々に「教育的配慮」や校長の裁量によって根拠づけるべきではなかったのである。

 

  (2) 昭和女子大学退学処分事件最高裁第3小法廷判決  昭和49年(1974年)7月19日

 @判決文抜粋 [註15]

  「(A)憲法19条、21条、23条等のいわゆる自由権的基本権の保障規定は、国又は公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障することを目的とした規定であって、専ら国又は公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互間の関係について当然に適用ないし類推適用されるものでないことは、当裁判所大法廷判例(昭和四三年(オ)第九三二号同四八年一二月一二日判決・裁判所時報六三二号四頁 [これは三菱樹脂高野事件判決引用者注] の示すところである。したがって、その趣旨に徴すれば、(B)私立学校である被上告人大学の細則としての性質をもつ前記生活要録の規定について直接憲法の右基本権保障規定に違反するかどうかを論ずる余地はないものというべきである。所論違憲の主張は採用することができない。

 ところで、(C)大学は、国公立であると私立であるとを問わず、学生の教育と学術の研究を目的とする公共的な施設であり、法律に格別の規定がない場合でも、その設置目的を達成するために必要な事項を学則等により一方的に制定し、これによって在学する学生を規律する包括的権能を有するものと解すべきである。特に私立学校においては、建学の精神に基づく独自の伝統ないし校風と教育方針とによって社会的存在意義が認められ、学生もそのような伝統ないし校風と教育方針の下で教育を受けることを希望して当該大学に入学するものと考えられるのであるから、右の伝統ないし校風と教育方針を学則等において具体化し、これを実践することが当然認められるべきであり、学生としてもまた、当該大学において教育を受ける限り、かかる規律に服することを義務づけられるものといわなければならない。もとより、(D)学校当局の有する右の包括的権能は無制限なものではありえず、在学関係設定の目的と関連し、かつ、その内容が社会通念に照らして合理的と考えられる範囲においてのみ是認されるものであるが、具体的に学生のいかなる行動についていかなる程度、方法の規制を加えることが適切であるとするかは、それが教育上の措置に関するものであるだけに、必ずしも画一的に決することはできず、各学校の伝統ないし教育方針によっても自ずから異なる…。」(下線及び(A)、(B)…は引用者が付した。以下も同様。)

 A特徴

  この判決は、まず下線部(A)部で先行最高裁判例の憲法の人権規定の私人間直接適用否定説を踏襲し、下線部(B)でこれを私立大学における学生の権利制限に適用している。

  この下線部(A)は、私立大学についてであるが、擬制を凝らして、結果的に学校による憲法・法律の規定に基づかない一方的な内部規律ないし裁量による学生の人権制限を是認しており既に「学校=法外社会」論の要素を含んでいる。

  下線部(C)、(D)は、「部分社会」という用語は使っていないが、後述する富山大学経済学部最高裁判決の、大学は「特殊な部分社会である」とする「部分社会」論の基本要素を含んでいる。

 B極端な人権侵害の容認

  この事件は1961年10月、昭和女子大学が学校当局に無届けで休憩時間や放課後に政暴法反対のための署名を学内で集めた民主青年同盟所属の同大学学生を退学処分にしたものである。理由は、学生が「学内外を問わず署名運動、投票…などしようとする時は事前に学生課に届出その指示をうけなければならない」「学生は補導部の許可なくして学外団体に加入することができない」等と定めた同大学「生活要録」規定の規律を破ったので学則の退学理由「学校の秩序を乱しその他学生の本分に反した者」に該当するというものである。

  第一審東京地裁は、昭和38年(1963)11月20日の判決 [註16] で、次のように述べて原告である被処分学生の身分確認請求を認めた。

 「わが憲法第19条は、思想の自由を保障し、同法第14条は信条のいかんによって差別待遇をすることを許さないとする原則を掲げている。…憲法のこれらの規定は、社会生活における個人相互間においても、思想、信条が互いに尊重され、思想、信条のいかんによって互いになんらの干渉、不利益を及ぼされることがないことを、社会の公の秩序として尊重する趣旨を含むものと解さねばならない。…これらの点(=教基法前文・第3条・第6条、学校教育法第2条、私立学校法第1条の規定の意味引用者要約)から考えれば、私立大学もまた、それが教育基本法、学校教育法及び私立学校法の適用を受ける学校である以上、個人がいかなる思想、信条を持つにせよ、単にそれだけの理由でこれに対し教育の門戸を閉ざすことは許されないとともに、学生が学校の教育方針とする思想と異なる思想をいだくに至ったとしても、これに基づき現実に学内の教育環境を乱し、その他学生の本分にもとる具体的行為が行われるに至らないかぎり、単にかような思想をいだいているということだけで、その学生の教育を受ける権利を奪うことは許されないものと解すべきである。」

  しかし、控訴審判決はそれを覆し、最高裁は原告の上告を棄却したのである。従って、上記最高裁判決抜粋の下線部(D)の「社会通念に照らして合理的」という範囲には、在学関係設定目的のためなら、全く精神の内面の思想、信条の自由さえ制限して構わないという極端な人権侵害迄が含まれているのである。

 C憲法の人権規定の私人間直接適用否定説

  下線部(A)の原典である最高裁大法廷判決は、該当部分に続けて次のように述べている。

 「このことは、基本的人権なる観念の成立および発展の歴史的沿革に徴し、かつ、憲法における基本権規定の形式、内容にかんがみても明らかである。のみならず、これらの規定の定める個人の自由や平等は、国や公共団体の統治行動に対する関係においてこそ、侵されることのない権利として保障される性質のものであるけれども、私人間の関係においては、各人の有する自由と平等の権利自体が具体的場合に相互に矛盾、対立する可能性があり、このような場合におけるその対立の調整は、近代自由社会においては、原則として私的自治に委ねられ、ただ、一方の他方に対する侵害の態様、程度が社会的に許容し得る一定の限界を越える場合にのみ、法がこれに介入しその間の調整をはかるという建前がとられている…」 [註17]

  しかし、人権規定の私人間への直接適用説をとる稲田陽一氏 [註18] は次のように指摘している。

  @近代人権の中で、資本主義体制の柱である所有権は、註解日本国憲法(566頁)や宮沢俊義・日本国憲法(279頁)が言っているように、私人間の適用が当然の前提になっている。

 A歴史的にも、「自然権」自体が隣人相互の問題であった。所有権や財産権という概念もローマ法以来の長い私法の歴史の中で成熟してきたものである。職業の自由の中核としての営業の自由も絶対主義下でギルド的独占に対して主張され、続いてブルジョア支配の確立後は職人的労働者の団結に対して向けられた。(故にこのような権利を専ら対国家的権利ということは、権利や近代法の沿革の事実に背く。)

  B憲法の人権規定の私人間への直接適用を否定する説は、憲法で規定されている諸権利のうちで財産権や営業の自由の直接適用を無意識のまたは暗黙の不動の基本前提としてそれから私的自治を引き出し、その優先のもとで、他の人権の間接的第三者効力をどれだけ認めるかと言う偏った調整論に立っている。

  C三菱樹脂最高裁判決は、高野側主張の人権については私人間の直接適用否定説をとっているが、会社側主張の憲法22条、29条の権利については直接適用をしてそこから契約の自由や企業側の一方的私的自治を引き出している。

 

  (3) 富山大学経済学部単位不認定事件最高裁第3小法廷判決 [註19] 1977年3月15日

 @事件1判決文抜粋

 「裁判所は、憲法に特別の定めがある場合を除いて、一切の法律上の争訟を裁判する権限を有するのであるが(裁判所法3条1項)、ここにいう一切の法律上の争訟とはあらゆる法律上の争訟を意味するものではない。すなわち、一口に法律上の争訟といっても、その範囲は広汎であり、その中には事柄の性質上裁判所の司法審査の対象外におくのを適当とするものもあるのであって、例えば、(A)一般市民社会の中にあってこれとは別個に自律的な法規範を有する特殊な部分社会における法律上の係争のごときは、それが一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、その自主的、自律的な解決に委ねるのを適当とし、裁判所の司法審査の対象とはならないものと解するのが、相当である(当裁判所昭和34年(オ)第10号昭和35年10月19日大法廷判決・民集14巻12号2633頁参照。)。そして、(B)大学は、国公立であると私立であるとを問わず、学生の教育と学術の研究とを目的とする教育研究施設であって、その設置目的を達成するために必要な諸事項については、法令に格別の規定がない場合でも、学則等によりこれを規定し、実施することのできる自律的、包括的な権能を有し、一般市民社会とは異なる特殊な部分社会を形成しているのであるから、(C)このような特殊な部分社会である大学における法律上の係争のすべてが当然に裁判所の司法審査の対象になるものではなく、一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題は右司法審査の対象から除かれるべきものであることは、叙上説示の点に照らし、明らかというべきである。」

 大学の「単位授与(認定)行為は、他にそれが一般市民法秩序と直接の関係を有するものであることを肯認するにたりる特段の事情のない限り、純然たる大学内部の問題として大学の自主的、自律的な判断に委ねられるべきものであって、裁判所の司法審査の対象になじまないものと解するのが、相当である。」

 A事件2判決文抜粋

 国公立の大学において大学が学校教育法第57条に根拠規定をもつ大学の「専攻科修了の認定をしないことは、…学生が一般市民として有する公の施設を利用する権利を侵害するものである…。されば、本件専攻科修了の認定、不認定に関する争いは司法審査の対象になる…」。(地の文は引用者による縮約。)

  「富山大学学則61条によれば…1年以上の在学と所定の単位の修得とが同大学の専攻科修了の要件とされているにすぎず…。右二要件が充足されたかどうかについては、格別教育上の見地からする専門的な判断を必要とするものではないから、司法審査になじむ…」。

 B判決の論理の特徴

  富山大学単位不認定事件は上告審では2件として争われた。

  事件1判決中の下線部(A)が、いわゆる「部分社会」論であり、(B)で大学をいわゆる「部分社会」に含め、(C)がこの事件と同種の事件に対する一般命題を定立した部分である。

  下線部(B)は、一面、前記昭和女子大事件最高裁判決下線部(C)の内容をほとんど取り込んでそれと近似した内容になっているとともに、他面、いわゆる「部分社会」論をとっている点で変化している。二重下線部で、「大学は…一般市民社会とは異なる特殊な部分社会を形成している」と述べている点がそれである。なお、@「一方的に」の語が消え、A「自律的」の語が加わった点も微妙な変化である。

  なお、以上に見られる論理によれば、大学による学生の人権・権利侵害は「一般市民法秩序」の問題とされる限りでは救済され得る可能性を有する。

 C学生の単位認定・不認定確認請求権の否認

  最高裁は、事件1判決において同件「単位授与(認定)行為は、裁判所の司法審査の対象にならない」とした。又、事件2判決において経済学部専攻科学生であった被上告人の上告人経済学部長に対する「専攻科修了未修了、未決定違法確認請求」及びその予備的請求と認める諸請求を肯認したが、被上告人の「単位授与、不授与未決定違法確認」請求は単位の授与自体が司法審査の対象にならないから不適法であるとした。

  この事件では、主要には、履修届を出して履修・受験した(あるいは見方によれば履修・受験しなかった)科目の単位の授与・不授与の決定をすること(端的に言えば、合否ないし成績を出すこと、)を求めて争われたのであるが [註20] 、当時の大学設置基準にも規定のある、履修した科目の単位の認定・不認定を求めることが一般市民法秩序に直接の関係を有しない、と最高裁判決は言う。一般市民社会の法秩序意識からすれば誠に驚くべき学生の権利無視と言うべきであろう。

  本件両最高裁判決は、論理的には、大学による学生の権利侵害に対してそれが一般市民法秩序に直接に関係する限りで学生の権利を保障することとなる可能性を含んでいる。又、宗教法人や政党の内部問題を逐一司法審査することが可能か正当かという点では、「部分社会」論の司法審査制限論が捉えている問題にも充分な検討を要する。しかし、本件での現実の適用における限りは、「部分社会」論は、「部分社会」の中で憲法上の人権やそれに接続する個人の一般市民的な権利を基本的に保障する性格のものではないことが知られる。

 D特別権力関係論と憲法の人権規定私人間適用否定説との統合的性格

  本件の第一審富山地裁判決は、原告学生側の単位不認定等違法確認請求を一切却下したものであった。第二審控訴審名古屋高裁金沢支部昭和46年4月9日判決 [註21] は、経済学部の学部学生の単位不認定等違法確認請求については第一審判決及び最高裁判決と結論的に同じ判断であったが、専攻科学生針原雄四郎の専攻科修了の認定は司法審査の対象になるとして第一審判決中、針原に関する部分を取消し富山地裁に差戻した。これに対して、最高裁判決は、「厳密に」、針原に関してもその単位認定請求は司法審査の対象にならないと判示したのである。この点を除けば、最高裁事件1判決も「原審(=高裁)の判断は、結局、正当である」と述べており最高裁判決は高裁判決と結論は同じである。

  ところで、その高裁判決は次のように言う。

 「国立大学の在学関係については、当裁判所も原判決の説示と同じく、公法上の営造物利用関係であって、いわゆる特別権力関係に属すると考える」「国立大学(公立大学も同じ)と私立大学とはいずれも教育基本法、学校教育法の適用を受け、教育目的にはなんらの差異も認められないのであるけれども、国立大学にあっては公の施設の利用関係という点において私立大学と自ずから異なるものがあると言わなければならない。/しかし、いずれにせよ、(「控訴人ら代理人ら」、すなわち、学生側が主張するように抜粋者補足。)大学と学生とが対等にたって教育契約を締結するものと考えることは、教育の本質よりみて失当であって、到底採用のかぎりでない。/なお、控訴人ら代理人らは、特別権力関係論は法治主義に反するものであって、日本国憲法の下にあっては到底認めることを得ない旨主張する。/しかしながら、『特別権力関係』という用語の当否はさておき、私企業においても企業の秩序の維持をはかるため内部規律が定められ、それによって従業員間の秩序が律せられていて、これに対しては市民法秩序に関しない限り司法権行使が問題とならないごとく、公企業ないし公営造物関係において、その内部の秩序を維持するため規律を定めることはなんら憲法に違反するものでなく、その内部規律に対して司法権が及ばないものとすることも許されて然るべきであるから、控訴人ら代理人らの主張は採用できない。/ところで、…(『特別権力関係』論に三説あるがその一つをとり抜粋者補足)…特別権力関係の範囲内の事項についても、一般市民としての権利義務に関するものは司法審査の対象となると解すべきである。」

  これを見ると本件最高裁判決の大学=特殊部分社会論は、「特別権力関係」の言葉こそ用いていないが「特別権力関係」論 [註22] に深く根ざしており、従来の国公立学校における「特別権力関係」論による学生・生徒の権利制限論と私学学生等についての憲法の人権規定の私人間適用否定説とを統合する性格のものと捉えて大過ないであろうと考えられる。

 E「部分社会」論

  判決下線部(A)のような「部分社会」論とそれを(B)、(C)のように適用してゆく論法は、団体等の内部紛争に対する司法的介入の可否及び介入する場合の筋道を地方議会、大学、宗教団体、政党等の各種「部分社会」の特殊性(この場合であれば大学の自治と学生の教育を受ける権利等)に基づいて解明していない。言うところの特殊な「部分社会」に対して一律に司法権の介入を排除するべきであるとする根拠はないと考えられる [註23]

  このような「部分社会」論は、さらに次のような問題点をもっている [註24] 。@「すべて司法権は、最高裁判所及び…下級裁判所に属する」こと(憲法76条1項)、「裁判所は日本国憲法に特別の定めのある場合を除いて、一切の法律上の争訟を裁判(する)権限を有する」こと(裁判所法3条1項)が明文で定められている。それにもかかわらず、憲法又は法律(狭義)の規定に基づく根拠を明らかにせずに「事柄の性質上」と言うだけで司法権の及ばない「部分社会」を認め、そこにおける内部規律権が憲法、法律に基づく人権や権利よりも優越することを認めることは違憲、違法である。A上のような「部分社会」論とその適用は、「部分社会」、すなわち、法の及ばない弱肉強食の無法地帯を広範に認めることになる [註25] 。B現代では国家とその機関によるのと同等若しくはそれ以上に、団体や法人その他の部分社会等の、社会的権力による人権侵害が大きい [註26] 。根本的な価値は各個人の基本的な自由であり人権であり、これをこそ人民の主権によって守るべきであり、司法権もその一環を成すべきである。

 

  (4) 修徳学園バイク校則違反退学処分事件東京地裁判決 [註27]  1991年5月27日判決

 @事件と判決の概要

  東京都葛飾区所在の私立修徳高校は、校則で「無届けでの自動車類免許取得及び乗車については、退学勧告をする」等と定めていた。原告生徒は無届けで自動二輪免許を取得、自動二輪車を購入していたが友人が1987年11月、自動二輪運転中に交通事故死したことに衝撃を受け自動二輪を売却、免許を父親に預けた。同年12月、同校教諭から言われて運転免許証を提出し、基本的に乗っていなかったが、翌年1月22日の自主退学勧告を経て退学処分にされた。原告は、この退学処分を違法として損害賠償を請求し訴訟に及んだ。

  裁判所は、学校の指導・対応、原告の乗車行為の態様、性格及び平素の行状、当該退学処分の他生徒に及ぼす訓戒的効果、家族の態度等、この事件の具体的事実に立ち入って検討した結果、「本件退学処分は、社会通念上著しく妥当性を欠き、懲戒権者である校長の裁量権の範囲を逸脱した違法な処分である」として、要するに「被告は原告に対し、慰謝料・金108万4700円及びその利息分を支払え」との判決を下した。

 A判決文抜粋

  「<1>原告は、憲法第13条の規定は私立学校と生徒間の関係についても適用されるべきであり、仮に私人相互間の関係については右規定が直接適用されるものではないとしても、私立学校が公の性質を有し、私立学校振興助成法等によって公権的規制を受けていることからすると、私立学校と生徒間の関係については、憲法を直接適用するのと同様の人権保障が図られるべきであると主張する。

 <2>しかしながら、憲法第13条の規定は、同法第3章のその他の自由権的基本権の保障規定と同じく、国または公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障する目的にでたもので、専ら国又は公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互の関係を直接規律することを予定するものではない。私人間の関係においては、各人の有する自由と平等の権利自体が具体的場合に相互に矛盾対立する可能性があるが、このような場合におけるその対立の調整は、近代自由社会においては、原則として私的自治に委ねられているのであって、ただ、(A)一方の他方に対する侵害の態様、程度が社会的に許容しうる一定の限界を超える場合にのみ、これに対する立法措置による是正、あるいは私的自治に対する一般的制限規定である民法1条、90条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用による調整が図られる。

 「<3>(教育基本法第6条の私立学校の『公の性質』の規定、私立学校法第1条による私立学校の『公共性』の規定は存在するが、私立学校法第1条による『私立学校の特性』『自主性』の規定、教育基本法第9条、学校教育法施行規則第24条・第55条による宗教教育の認容規定が存在すること等から考えても抜粋者要約)…(B)私立学校が公共性を有するからといって、直ちに私立学校を国または公共団体と同視したり、私立学校と生徒間の関係については、対公権力と同様の人権規律が適用されるものと解したりすることはできない。

 <4>また、…(私立学校法第59条、私立学校振興助成法・特に同第12条・第13条の規定等からすると抜粋者要約、)…私立学校の事業の運営に対し、公権力の高度の規制が及んでいるものとは到底いえない。そうすると、(C)補助金等の支出があるからといって、直ちに私立学校を国または公共団体と同視したり、私立学校と生徒間の関係については、対公権力と同様の人権規律が適用されるものということもできない。

 <5>以上によると、本件生活指導規定が憲法13条に違反するとの原告の主張は道路交通法との関係を見るまでもなく採用することができず、右憲法違反を理由として本件退学処分の違法をいう原告の主張は、前提を欠く。」

 「<6>(D)団体は、その結成目的を達成するため、当該団体自ら必要な事項を定め、構成員等当該団体内部を規律する機能を有する。高等学校も、また、生徒の教育を目的とする団体として、その目的を達成するために必要な事項を学則等により制定し、これによって在学する生徒を規律する機能を有し、他方、(E)生徒は当該学校に入学し、生徒としての身分を取得することによって、自らの意思に基づき当該学校の規律に服することを承認するに至る。もとより学校設置者の右権能に基づく学則等の規定は、在学関係を設定する目的と関連し、かつ、その内容が社会通念に照らして合理的なものであることを要する。(F)学則等の規定が合理的なものであるときは、その違反に対しては、教育上必要と認められるときに限り(学校教育法第11条)、制裁を科すことができ、これによって学則等の実効性を担保することも許容され、制裁が生徒の権利や自由を制限するというだけで、右規定が無効ということはできず、もとより、右制裁が科される結果、生徒が一般法令上禁止されない行為について制限を受けることになっても、そのために、学則等の規定の合理性が左右されるものではない。

  <7>(この段落、要約。)(G)学校設置者は、生徒を教育するという在学関係成立の目的に関連する限りで生徒の校外での活動についても規律することができる。本件高校をとりまく事情の下では、これを規制することも、学校設置の目的達成のために許される。本件高校における免許取得・バイク乗車の禁止の校則は、社会通念上十分合理性を有する。

 「<8>バイクの免許の取得等は本来的には生徒の学校外の生活にかかわることで、学校はその設置目的に関連する範囲内において規制の対象とし得るものであることに鑑みると、学校によるバイクの免許の取得等に対する規制は、学校のおかれた事情により色々な態様が有り得るのであり、教育の実践の場における賢明な選択に委ねられる点が大きい。(H)右選択は、それが合理的なものと認められる限り、他により賢明な方法があるからといって、違法の評価を受けるものではなく、より賢明な方法への変更は、教育関係者の叡知によって実現されるべきで、法によってこれを強制すべき性質のものではない。」(< >内番号、( )内番号及び下線は引用者。)

 B判決の特徴

  この判決の特徴は「学校=法外社会」論を次のように非常に精緻に展開していることである。

  (1) 1.人権規定の私人間直接適用否定説をとっている(判決抜粋段落<2>。<3>、<4>はそれを補強している)。2.「一方の他方に対する権利侵害が許容し得る限界を越える場合」にのみ人権規定を間接適用するべきであるとしている(<2>の下線部(A))。3.私学に公共性があっても私学とその生徒の間への人権規定の適用を否定している(<3>)。4.公費補助金の支出があっても私学と生徒の関係には対国家権力と同様の人権規律は適用できないとしている(<4>)。

  (2) 5.段落<6>全体で、精細な「学校=法外社会」論を展開している。二重下線の部分がその中枢部分であり、これをその他の部分によって補強している。6.学校や「部分社会」に限定せず「団体」一般が「内部規律権能を有する」と一般化した上で、高等学校をそのような「団体」に属させている。もっとも、「団体」一般の内部規律権能が「部分社会」のそれのように司法権の及ばない特殊なものか否かについては必ずしも分明に述べてはいないが、「高等学校も、また、…」と述べ、以下で高等学校については「特殊な部分社会」の規律権を認めているので団体一般を「特殊な部分社会」と捉えていると推測できる。(下線部(D))。7.生徒の在学関係は「部分社会への加入・身分地位取得契約」説 [註28] 的に捉えている(下線部(E))。8.下線部(F)では、制裁の法的根拠として学校教育法第11条の規定を挙げて論及している。9.しかし、下線部(F)によっても、生徒が法令上禁止されない行為(憲法上の人権によるものを含むはず。)を制限することができることの憲法や法律の規定による根拠は示されていない。

  (3) 10.段落<7>でバイク免許取得・乗車禁止校則の本件の場合についての合理性を、<8>で一般的な同様校則が正当であり得ることを主張している。

 C批判

  この判決については、妥当性を欠いて学校の都合で生徒対して一方的に定められている「校則」やそれに基づく処分の多い中でそれらに一定の歯止めをかけるものとして評価する見方もある。しかし、この具体的な事件に関する限りでは、余りにもひどい退学処分に対して当然の救済を認めただけのことである。

  この判決は、法理論としては、人権規定の私人間直接適用否定説や「部分社会」論を、バイク校則に関する具体的な事件に即して、私立校等学校について突き詰めて展開したものである。既述の論点は繰り返さない。

  論を突き詰めたその結末が、抜粋段落<7>、 <8>、特に下線部(G)、(H)である。

  教育のためなら教育関係者の叡知によって「社会通念上」許される範囲まで学校外の生活にわたって憲法上の所有権や道路交通法という法律によって認められた権利をも学校が制限してよいと言う。この憲法や法律の規定を越えた「社会通念」の許す範囲を判断するのは、まずは学校であるとされる。学校はまさしく法外に大きな力を認められるわけである。ここに、この判決が本件退学処分の違法性を認めてはいても、本稿の言う「学校=法外部特殊分社会」論に立つものであることが明瞭に現れている。

 

 

  (三) 子どもの権利条約に照らした「学校=法外特殊部分社会」論の問題点

 

  主として子どもの権利条約に照らして、「学校=法外特殊部分社会」論に属する政府見解・判例の問題点等をまとめると、次のようである。

  @「学校=法外社会」論は、憲法や法律に基づかなくても憲法の規定で保障された人権を制限することが可能であるとすることによって、人権の尊重及び法治主義の原理を損なう。

  A子どもの権利条約は、第13条から第15条で、表現・情報の自由、思想・良心・宗教の自由、結社・集会の自由は、他人の権利の尊重、国家・公共の安全・秩序等の限られた目的のために必要な場合で、かつ、法律(law、loi、すなわち、立法府の定める法規)によるのでなければ、これらの子どもの権利に制限を課すことができないと定めている。

  これらの権利についての「学校=法外社会」論の人権規定違反、法治主義違反は、条約によって、違法であることがあらためて確認される。

  B条約第16条は、子どもはその私生活、家族、住居、通信、名誉・信用についての不法な干渉又は攻撃に対して法律(law、loi)の保護を受けると定めている。問題のある「校則」が規定している髪型や服装、所持品、放課後・休暇中・家庭での生活はここで言う「私生活」(プライヴァシィ、privacy、la vie privee)に該当する。

  もし「学校=法外社会」論によって、これらの事項について、学校の中で憲法や法律の規定を侵すならば、条約に反する。

  C「学校=法外社会」論は、しばしば、学校の設置目的ないしそれに基づいて設定される内部規律の遵守と子どもの権利・人権とを比較考量し前者を後者よりも優位に置いて子どもの権利を制限する立論をする。

  子どもの権利条約第3条は、「子どもにかかわるすべての活動において、その活動主体が公的もしくは私的な社会福祉機関、裁判所、行政機関または立法機関のいずれであるかにかかわらず、子どもの最善の利益を最優先考慮するべしと定めておりそのような立論を許さない。

  D「学校=法外社会」論が説くように、憲法や法律の人権・権利規定が効力を有しないような「部分社会」の存立を認めそこには司法審査が及ばないとし、学校もその「部分社会」に含めるならば、子どもの権利・人権は保護・救済されず、学校は無法地帯へと変えられてゆく。

  条約第4条は、締約国が条約の定める子どもの権利の実現のため「あらゆる立法上、行政上、その他の措置をとる」べきことを定めており、「部分社会」における子どもの権利に関する無法状態の存続・拡大・放置は是認されない。

  E意見表明等に関する条約第12条の子どもの権利の学校におけるあり方について、「学校=法外社会」論は、「校則」制定改正の際の意見聴取の必要や生徒各人に直接関係する司法的、行政的な措置について同条第2項の規定する手段、手続きが保障されなければならないことを極めて限定的消極的に認めるだけで、広く学校が内部規律を定める手続き、それを適用する手続き一般に学生生徒児童ないしその親が参加すべきことに積極的に言及しない。それどころか、学校の管理者が一方的に内部規律を制定できるかのように述べている。

  しかし、条約第12条によれば学校の管理運営についても子どもの意見表明が尊重されなければならず、世界の趨勢と条約の精神によれば生徒・親の参加が尊重されなければならないのであって、これらのことこそが強調されなければならない。

  F条約第5条は子どもの権利行使に当たっての親の指示・指導の権利・義務・責任の尊重を規定しており、「学校=法外社会」論における上記A、B、C、Eに関しての親の権利の軽視ないし無視は改められなければならない。

  G「学校=法外社会」論は、「部分社会」の内部への憲法の規定・立法府の定める法律の規定の効果の及ぶことに否定的・抵抗的であるので、例えば学校内での営利的宣伝の自由の制限など当然客観的に必要な制限を法律によってするという発想を欠き、学校内に必要な民主主義的秩序を造り上げてゆくことに寄与し得ない。

  H「学校=法外社会」論は、学校の設置目的遂行に当たって、子ども自身の参加・その保護者親の参加によって個別具体的な状況に即して、子どもの権利・その保護者としての親の権利に基づく学校の内部規律を設定することに否定的・消極的であるので、学生生徒児童の自主性・自発性、納得や了承によって守られるはずの学校内規律・規範の形成を妨げる。これは一般社会における規律・規範一般の形成への人々の無関心ないし反感を増大させる要因となる。

 

 

  おわりに

 

  最後に、「学校=法外部特殊分社会」論を克服して学校における子ども・青年の権利を実現してゆくために当面最重要と思われる諸課題を次に記す。

  @条約の規定する子どもの各権利、特に第12条から17条、及び30条の権利を学校において保障し、学校および教職員はその保障義務を負うことを法律によって明文で定めること(新法の制定又は法改正)。

  A条約第5条及び18条が定める親の権利と責任、義務を学校が尊重することを確認すること。

  B学校において営利的自由など、権利の制限の必要があれば法律によって定めること。

  C学校の内部規律(学則、「校則」等)の制定への子ども・親の参加権を法定すること。

  D以上が地域の実情に即して適切・妥当な方法で実現してゆくことを可能にするため、条例、教育委員会規則等を制定すること。それを可能にする立法的行政的施策を検討すること。

 

[註1] "Convention on the Rights of the Child", "Convention relatif aux droits de l'enfant". 日本政府訳は「児童の権利に関する条約」。本稿では教育法学会・教育学会で有力な訳語に従う。

[註2] しかも、憲法学の通説及び有権解釈によるなら、一般に条約の法的効力は形式的意味の法律より優越するとされている。

[註3] 第123国会衆議院文教委員会議録第2号20頁。

[註4] 第123国会参議院文教委員会会議録第2号3頁。

[註5] 同委員会議録第7号23頁。

[註6] 同委員会会議録第7号21,22頁。

[註7] 同委員会会議録第7号22頁。

[註8] 第126国会衆議院会議録第22号14頁。

[註9] 同前、16・17頁。

[註10] 以上、第126国会衆議院外務委員会議録第11号12・13頁

[註11] ユニセフ『世界子供白書1991』駐日代表事務所90年発行・60頁。なお、リヤド・ガイドラインは、日弁連『自由と正義』42巻2号・1991年2月・所収の英文からの北川訳による。

[註12] 1992年3月13日条約批准案「児童の権利に関する条約の締結について批准を求めるの件」及びその「(別紙)児童の権利に関する条約に関する日本政府の留保」並びに同日の外務省「児童の権利に関する条約の説明書」。なお、批准に際する政府案は条約第37条(c)(自由を奪われた児童の成人からの分離)について留保し、条約第9条1(子どもの父母からの分離)及び条約第10条1(家族の再統合のための出入国)について解釈宣言をするというものである。

[註13] 子どもの権利条約に関する文部省筋の見解で最も早く公表されたものに『学校経営』誌第36巻第12号(1991年11月号)のそれがある。同号は、冒頭に45頁にわたる「児童の権利に関する条約」の特集を組み、巻頭に岡本薫文部省国際局国際企画課課長補佐名の「『児童の権利に関する条約』について」と題する論考を載せた。ここにはつぎのような既述の国会審議政府答弁に通ずる見解が述べられている。

 「わが国については、…『憲法』や『国際人権規約』にもこの条約とほぼ同趣旨の規定があり、この条約の教育関係の条文に規定する児童の権利については、現行の法制においてもおおむね保障されていると考えられます。…条約を批准した後においても、児童の権利を不当に侵害してきたといったことがない限り、学校運営や生徒指導についての従来の取り扱いが基本的に変わるものではないと考えられます。」

  同号は岡本論考に続けて「学校経営編集部」名の「『児童の権利条約』について」と題する10項目計16頁の「Q&A」等を掲載した。この「Q&A」を含め同誌の児童の権利条約に対する特集記事の岡本論考以外は執筆者が明示されておらず、この特集は実際は文部省の編集著作によるものでないかとの風評がたった。その記述内容とその後、次第に明らかにされた文部省の見解は概ね合致している。

  この特集の末尾に6件の「関連判例抜粋」が挙げられているが、上記岡本論考及び「Q&A」を根拠づける意味と考えられる。さらに、叙上の状況から判断すれば条約批准に当たっての文部省見解の根拠にされていると考えて大きくは誤っていないと思われる。

  この6件の判例は、下記判例のうち【1】、【2】、【4】、【5】、【7】、【10】の6件である(番号に二重下線をひいて示す。)。この6件に加え、青木宗也ほか編集・労働旬報社・1984年・『戦後日本教育判例大系』(以下、<教育判例大系>と略記)所収の判例、及び、必ずしも網羅的ではないが筆者が収集した最近の判決の中から、子どもの権利条約とくに「学校=法外部分社会」論に関連して重要と見られる判決を抜き出すと次の諸判決があげられる。

  【1】駒場東邦高退学処分事件東京地裁判決。1972年3月30日。
  【2】昭和女子大学退学処分事件最高裁第3小法廷判決1974年7月19日。
 【3】a)富山大学経済学部単位不認定事件1(昭和46年(行ツ)第52号事件最高裁第3小法廷判決。1977年3月15日
 【3】b)富山大学経済学部単位不認定事件2。昭和46年(行ツ)第53号事件)最高裁第3小法廷判決。1977年3月15日
  【4】玉東中学丸刈校則事件熊本地裁判決。1985年11月13日。『判例時報』1174号所収。
  【5】鎌形学園バイク校則違反退学処分事件千葉地裁判決。1987年10月30日。『判例時報』1266号所収。
  【6】麹町中学校内申書訴訟最高裁第2小法廷判決。1988年7月15日。『判例タイムス』No675、59-101頁。又、『判例時報』1287号、65-75頁。
  【7】県立商業高校バイク校則事件高知地裁判決。1988年6月6日。要点『判例時報』1309号所収。
  【8】県立商業高校バイク校則事件高松高裁判決。1990年2月19日。要点は『判例時報』1362号44-47頁。
  【9】修徳学園バイク校則違反退学処分事件東京地裁判決。91年5月27日。平元(ワ)878号。判例時報1387号所収。
  【10】修徳高校パーマ退学事件東京地裁判決。1991年6月21日。『判例時報』1388号所収。引用はいずれも14頁。
 【11】鎌形学園バイク退学処分事最高裁第3小法廷判決。平成3年(1991年)9月3日。『判例時報』1401号。

  このうち、学校に関して「部分社会」論をうちだし、筆者が「学校=法外社会」論としてまとめる判例の傾向を主導したのは、判例【2】並びに【3】のa)及びb)である。最近の最高裁判決【11】もそれを踏襲しており特に新しい論点は示していない。判決【1】は、時期的に【2】、【3】に先立ち、『学校経営』誌が挙げた最も古いものである。その他の判決は基本的論理においては【2】、【3】に追随している。しかし、そのなかで、判決【9】は、最近の校則裁判では珍しく生徒側原告勝訴判決を出しているものであり、他方で、「学校=法外社会」論の枠内で精緻に検討を加えた結果、「学校=法外部分社会」論として最も完成された論を展開していると思われる。故に、【1】、【2】、【3】、【9】を取り上げる。

[註14] 昭和45年(ヨ)第9840号。要点は<教育判例大系>第3巻・220-224頁。両引用は222-224頁。

[註15] 昭和42年(行ツ)第59号。前注書・138-143頁所収。両引用は139頁。

[註16] 昭和37年(行)第23号。要点前注書・122-136頁。引用は130・131頁。

[註17] 民集17巻11号41頁。

[註18] 「人権の私人間の適用」『法律時報』49巻7号・1977年5月。@、A39頁、B37頁、C38頁。

[註19] この事件は最高裁では2件として争われ判決は同じ日に同じ最高裁第3小法廷で下された。事件1:昭和46年(行ツ)第52号、<教育判例大系>第3巻所収36-38頁。事件2:昭和46年(行ツ)第53号、同書38-40頁。

[註20] 一審富山地裁昭和45年年6月6日判決によれば次のとおり(<教育判例大系>第3巻30-34頁)。

昭和41年4月、一審原告富山大学経済学部学生6名及び同学部専攻科学生1名は同学部内田教授の担当諸科目を履修すべく履修票により届け出た。ところが被告経済学部長は同年12月26日、同教授の授業の各担当を停止する措置をし、学生に対しては代替科目の履修をするよう指示したが原告学生らはこれに従わず内田教授の授業に引き続き出席の上、同教授の実施した試験を受け同教授による合格の判定を受けた。同教授は昭和42年2、3月頃経済学部長に成績表を提出したが、相当の期間を過ぎても被告経済学部長もしくは同大学学長は原告ら提出の履修票について単位授与・不授与の決定、単位取得の認定、原告専攻科学生の履修届についての修了・未修了の決定、同専攻科修了の認定をなさなかった。それで原告らは右単位の授与・不授与、専攻科履修届の修了・未修了の決定をしないことが違法であることの確認か、さもなくば右単位取得、専攻科修了の各認定義務のあることの確認を求めて出訴した。

[註21] <教育判例大系>第3巻30-34頁所収。

[註22] 「特別権力関係」については、例えば、次のように説明されている。

 「特別の法律上の原因(法律の規定又は当事者の同意)に基づき、公法上の特定の目的に必要な限度において、包括的に当事者の一方が他方を支配し、他方がこれに服従しなければならないことを内容とする2主体間の関係。…国・公共団体と公務員との関係、伝染病患者の国立・公立病院の入院関係などがその例。その法律の規定又は当事者の同意から合理的に推測できる範囲内においては、法治主義の原理の妥当が排除され、個々の法律の規定に基づかずに、一方が他方に対し、その包括的な支配権の発動として命令・強制することができ、その関係内の秩序を維持するために懲戒できる等の権能をもつ。しかし、この概念については、基本的人権の尊重、救済の充実等の面から一般権力関係との相対化が進められ、更にこの概念自身を否定する傾向が強まっている。」(竹内昭夫他編『新法律学辞典』第3版・有斐閣・1989年)

[註23] 佐藤藤幸治著『現代国家と司法権』有斐閣・1988年「第2章U 『部分社会』と司法権」、特に198-201頁。なお、同氏によると、本件最高裁判決は「法秩序の多元性」論をいわゆる「部分社会」論として完成させたものといわれる。「法秩序の多元性」論とは、「国家なる社会の中にも種々の社会、例えば公益法人、会社、学校、社交団体、スポーツ団体等が存在し、それぞれの法秩序をもっている」とし、それらの「特殊的法秩序」と「国家法秩序即ち一般的法秩序」との関連をどの程度のものにするかは、国家が「公共の福祉の立場から決定すべき立法政策上の問題である」とする。この理論の影響の下に最高裁は、本件判決下線部(A)の後に指示の昭和35年10月19日の大法廷判決において、村会議員の出席停止の懲罰争訟について、「自律的な法規範をもつ社会ないし団体に在っては、当該規範の実現を内部規律の問題として自治的措置に任せ、必ずしも、裁判にまつを適当としないものがあり」、当該事件出席停止のごときはまさにそれにあたる、とした。(佐藤「『部分社会』論について」『判例タイムズ』No455・1982年2-5頁。)

[註24] 「部分社会」論及については本稿記述の佐藤幸治、樋口陽一、坂本秀夫諸氏の所論の外に次を参照。@藤井俊夫『事件性と司法権の限界』成文堂・1992年。特に99-116頁。A村山史世「兼子教育法学における法秩序構造」・森田尚人ほか編『学校=規範と文化』世織書房・1993年、402-3頁。B田中規久雄「部分社会論における学校の位置」『季刊教育法』第88号・1992年春。

[註25] 「もし、その所属団体の処理の仕方が違法であっても団体の構成員は団体の特殊な法秩序の故に、終局的にも裁判所に出訴して救済を求めることが出来ず、ただただ歯を食いしばって泣き寝入りする外ないとすれば一国内の随所に局部局部の支離滅裂の破綻を生じ、国民の不平と不満を招来することは必定である」(米内山事件最高裁判決昭28.1.16民集7巻1号12頁・真野裁判官少数意見)

[註26] 樋口陽一氏が「社会的権力からの人権を確保する必要性」(岩波講座『基本法学 6 権力』1983年・所収「社会的権力と人権」)、「結社する諸個人の自由」の憲法的価値の強調と「結社そのものが権利主体として個人と簡単に同列に並べられてはならない」(日本公法学会『公法研究』第54号・1992年所収「日本国憲法下の<公>と<私>」15頁と指摘するように、「私的自治」の尊重を優先して「部分社会」や団体、法人等と個人とを同等に考えるべきではないであろう。

[註27] 平元(ワ)878号。判例時報1387号所収。引用はいずれも10頁。

[註28] 伊藤進氏所説「在学関係と契約理論」『季刊教育法』第30号・総合労働研究所・1978年。

 

 [付記] @本稿は、1992年8月28日の日本教育学会第51回大会におけるワープロ印刷発表草稿「子どもの権利と学校の設置目的、自治・規律権能」(400字詰93枚相当)を基調とし、情勢の進展に応じた加筆と紙幅の制限による割愛・縮約をしたものである。
 A本稿脱稿後、坂本秀夫著『校則裁判』(三一書房、1993年7月刊)を手にした。同書が、修徳学園高校バイク退学事件1審判決、2審判決の問題点を指摘することよりも当該事件の生徒を救済した積極面を専ら力説している点(119-137頁)や学力テスト事件最高裁大法廷判決を高く評価するかのような姿勢(314頁)には若干の疑問をもつ。しかし、基本的には、同書が昭和女子大事件、富山大学事件その他、上記学会発表草稿及び本稿で筆者が問題としたのと重なる判決を本稿とほぼ同じ視角から論じていることに励まされる。

 


Copyright© 執筆者,大阪教育法研究会