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TITLE:  「色覚異常」と学校教育
AUTHOR: 伊藤 靖幸
SOURCE: 大阪教法研ニュース 第218号(2005年2月)
WORDS:  全40字×277行


「色覚異常」と学校教育


伊 藤 靖 幸



 1.はじめに


  私はこの「色覚異常」に関する問題の専門家ではなく、この問題についてあまり深く考えてみたことはなかったというのが実情である。そんな私がこの問題に興味を持つことになったのは、2002年に私の勤務校で発覚した「事件」がきっかけである。後述のように1995年からは高校では色覚検査は健康診断の必須項目からはずされていたのであるが、私の勤務校等のいくつかの府立学校でまだ色覚検査が一律に行なわれていたことが府教委の調査で明らかになり、府教委から見直しを指導されたのである。この「事件」は新聞でも報道されることになった。(2002年7月6日付け朝日新聞)しかし私の勤務校では、もちろん2003年から一律の「色覚検査」は廃止されたが、この問題について十分教職員の間で議論されたということはなかった。かく言う私もこの問題が心の隅にはひっかかっていたが、「まあこのごろは文科省も府教委もいろいろな通達や指導を出すので、ついうっかりすることもあるだろう」というぐらいの認識であった。しかし2004年に発行された「知っていますか?『色覚問題と人権』一問一答」(解放出版社)を読んで、まさに目からうろこが落ちる思いがした。次に朝日新聞の記事にもコメントを書いておられる高柳先生の「つくられた障害『色盲』」(2002年朝日文庫版)を読むなどつけ焼刃程度ではあるが勉強をして、やはりこの問題が大きな人権問題であってしかも私の勤務校を初め現場の教員の認識はまだ薄いのではないかと考えた。というわけで、勤務校の今年度の職員向けの人権研修にこの色覚問題をあつかうよう提案し、事のついでに本研究会でも発表することにしたのである。


 2.「色覚異常」の基礎知識


 1) そもそも「色覚異常」とは
  文部科学省は2002年に「色覚に関する指導の資料」という十数ペ−ジのパンフレットを発行し全国の学校に配布している。(以下、「資料」として引用する。)2003年度から定期健康診断から色覚検査を全廃するのに先立って、教職員が「色覚異常」について正しく理解し適切な指導を行なうために作成したとされる。
  その「資料」では「色覚異常」を次のように定義している。「色覚の検査をしてみると、その結果が大多数の人とは明らかに異なっている人がいます。これらの人が医学的に『色覚異常』と診断されます。以下に色覚異常というのはそのような医学的診断による異常をいうこととします。」さらに日常生活にはほとんど支障のない程度であることが大半であるとし、特別視する必要はないが教育活動で配慮が必要となる場合があると述べる。
  これはたいへん慎重に記述されていると思う。「色覚異常」の「異常」はたいへんセンシティブな語であり、上述の2冊の本でももっと良い呼び方はないかと苦慮しつつまだ定着した呼び方が無いために「色覚異常」を使っている。私は一般に「異常」には2つの大きな意味があると考える。一つには単に多数と異なるという意味で、価値の評価を含んでいない。しかし正常に対して異常と言う場合、単に多数と異なるという以上の価値判断を含んで用いられる場合がある。たとえば、現在の日本では眼鏡やコンタクトレンズをしている人の方がむしろ多数派であるが、医学的見地からは眼鏡等を使っていない人が「正常」で多数派が「異常」なのである。また、道徳的見地から「正しい立場」の人々が自らと異なる立場の人々を「アブ・ノーマル」だ「異常」だとレッテル貼りをすることも多い。ここで、文部科学省はできるかぎり価値判断を避けて、単に多数と異なる状態としているとみられ、それは正しい立場であると私は考える。

 2) 医学的知識
  日本眼科医学会学術部の色覚検査表等に関する調査研究班が1999年に纏めた「色覚異常に対するマニュアル」は「色覚異常」を次のように分類している。まず色覚異常で主として問題になるのは、後天的なものではなく「先天色覚異常」である。その「先天色覚異常」には1「先天赤緑異常」、2「先天青黄異常」、3「全色盲」の三種類があるが、3は非常に稀であり、2はさらに稀であるので、一般には「先天色覚異常」とは「先天赤緑異常」の事をさす。さらにこの「先天赤緑異常」のうち赤錐体視物質の異常を「第一異常」と呼ぶ。この「第一異常」は赤錐体視物質が欠損している「第一色盲」と赤錐体視物質に変化が見られる「第一色弱」に分類される。一方、緑錐体視物質の異常が「第二異常」でありこれも「第二色盲」と「第二色弱」に分類される。また「色覚正常」を「三色型色覚」と呼び「色盲」を「二色型色覚」、「色弱」を「異常二色型色覚」と呼ぶ事もある。
  このような医学的説明を聞けば、「欠損」等の強烈な表現もあってやはり「色覚異常」に「病的な」もので価値的に劣るといったニュアンスが残ってしまう。しかし、「色覚異常」は、単に多数の人とは色の見え方が異なっているというだけで、通常の生活にはほとんど支障はないものである。今のところ「色覚異常」にかわる適当な用語が見当らないのでここでもかっこ付きで「色覚異常」と呼んでいるが、「異常」という語にはどこまでも価値的に劣ったというニュアンスがつきまとってしまう。「色覚問題と人権」では個人的な感想として、「医学の分野で昔からある色覚のタイプ違いを、多数者の側を『正常』、色覚の異なる側を『異常』と規定してしまい、そのまま研究を続けてきたこと」が問題で今日の色覚差別の要因のひとつであるとしている。私も一般に医学の分野では、「色覚異常」ばかりではなく現代の人権感覚からすれば問題のある用語を使用し続けている例が多いのではないかと思う。もちろん学問の性質上止むを得ない点もあるが、基本的にこれまで医学の世界では、あまり患者の人権に配慮をして来なかったのではないかと言ったら言い過ぎであろうか。

 3) 「先天色覚異常」の原因(遺伝のしくみ)
 「先天色覚異常」は伴性劣性遺伝の形式をとる。つまり X 性染色体に乗る遺伝子によって伝わる遺伝であって、男女によりで発現頻度が異なる。そのしくみは「色覚正常」遺伝子が乗る X 性染色体を X 、「色覚異常」の遺伝子が乗るものを x とすれば、次のようになる。女性の場合 X X 、X x 、x x の3つの組合せが存在し X X が「色覚正常」、x x は「色覚異常」となる。X x の場合は「色覚正常」であるが「色覚異常」の遺伝子を持つので保因者(キャリアー)となる。男性の場合は X Y と x Y の組合せがあって、前者が「色覚正常」、後者が「色覚異常」となる。日本人の場合「色覚異常」は男性で約5%(20人に1人)であり女性は約0.2%(500人に1人)程度とされる。女性の保因者は10%位である という。したがって、普通の規模の学校には必ず「色覚異常」の生徒がいると考えていなければならないだろう。また白人種の場合は「色覚異常」の人の割合は日本人より少し高いとされている。(しかし欧米諸国の場合「色覚異常」について日本のように学校で一律の検査を行なう等の神経質な対応はなされておらず、それで問題が起きているわけでもないという。)
  色覚異常が発現する最も多い男女の組合せは、X x (保因者)の女性と X Y の男性の組合せで、この場合生まれる男の子が「色覚異常」となる確率は50%である。自分たちの息子が学校で「色覚異常」と判定されると、以前は医者を初め理科系には進めない等多くの制限が行なわれておりそのような進路指導も行なわれていたので、本人や家族に大きなショックを与える事になっていた。しかも、この最もよくあるケースでは、父親は「色覚正常」であるので、息子の進路が制限されるのは自分のせいであると母親が悩むことになってしまうのである。


 3.石原式検査表について


  これまでの学校の色覚検査で定番的に用いられてきた石原式検査表について述べてみよう。文部科学省は2003年の一律の色覚検査全廃後も、色覚検査を個別に実施できる体制は備えておくように指導しているので、まだどの学校にもこの検査表は置いてあるはずである。一度手にとってじっくり検討してみることをお薦めする。私の勤務校でつい最近まで使用されていたのも、このかなり年代物の石原式検査表であった。

 1) 歴史
  この検査表は、1916年に東京帝大教授石原忍が徴兵検査用に開発した「色神検査表」がその始まりである。1921年「学校用色盲検査表」として東京の半田屋から出版された。その後1968年に「学校用色覚異常検査表」と改題されたが基本的に同じ物が2002年度まで健康診断で一律に使用されていたわけである。私たちの世代では毎年全児童生徒に実施されていたので、たいへんなじみの深いこの検査表は仮性同色表と呼ばれるものの一種である。「色覚正常」者は識別できるが「色覚異常者」には識別できない色同士が仮性同色と呼ばれる。その仮性同色を利用して色のついた水玉もようで数字を書いて、「色覚異常」を判別しようとするのが仮性同色表である。石原式検査表は非常に精密なもので、大正時代に、非常に微妙な色の区別により精密に色を見分ける能力を判定する検査表を作成したこと自体は「プロジェクトX」的に画期的なことであると評価されている。しかし、徴兵検査用に開発されたものであるせいか、とりわけ女性の場合は石原式検査表の結果は不確実であるという。学校の検査でひっかかった生徒に対して市学校医(眼科)会が集中検査方式で精密検査を行なっている名古屋市では、石原式検査表で「異常の疑いがある」とされた女子の約50%が精密検査をしてみると「色覚正常」であるというデータが出ているのである。

 2) 石原式検査表の限界
  前述の眼科医学会学術部のマニュアルによれば、色覚検査表はあくまで、「異常の疑い」のスクリーニングが目的のものであり「色覚異常」を確定診断することは不可能であるとされる。石原式検査表は精度が高いために「色覚正常者」が誤読することがある(とりわけ女性の場合)。また、「色覚異常者」が全表を正読することもある。ちなみに「日本色覚差別撤廃の会」の会長の永田凱彦医師は大学に入るときに石原式検査表を全部暗記してクリアーしたという。数字を読み取らせる方式の石原式検査表では、そういう方法で「色覚異常者」が検査をクリアーすることは十分あり得る。さらに同マニュアルは色覚検査表で安易に「色覚異常」の程度の判定を決定することは避けるよう指摘している。また色覚検査表で色盲・色弱・全色盲を診断することはまったく不可能であり、第一異常と第二異常を100%正しく分類できる検査表はないとも指摘している。要するに、石原表 のような色覚検査表は「色覚異常」疑いのある者を抜き出すスクリーニングの意味しか持っていないということである。しかし我々教職員はかつて健康診断の時に、専門知識もないのにこのような色覚検査表を用いて「色覚異常」の有無や程度の診断まで行なってきていたのである。そこで次に簡単に学校における色覚検査の経過等を振り返ってみよう。


 4.学校の健康診断と色覚検査


 1) 経過
  学校では1920年に義務教育の中で色覚検査が規定された。翌1921年には上記の石原式の「学校用色盲検査表」が出版されている。その解説の中には「色盲者に不適当な職業は医師、薬剤師陸軍現役将校、その他すべての色を取り扱う職業」等の記載があり、これを根拠として色覚検査表の読めない者に様々な制限が加えられるようになってしまったのである。第2次大戦後の1958年には、学校保健法施行規則で健康診断に色覚検査が深い考えもなく必須化されることとなる。このころは毎年全児童生徒に検査することになっていた。考えてみれば大変おかしい話で「先天色覚異常」であるので途中で変わることはないのに、毎年検査を行なっていたのである。私は若い頃から血圧が高く、毎年の職場の健康診断で血圧を測られるたびにそれを指摘されていやな気分になることを繰り返している。血圧の場合は、変化するものであるから毎年検査することは当然であり、しかも本人の生活態度によって改善することができるものであるから、毎年同じような注意をうけるのも止むを得ない。しかし変化しようのない「色覚異常」の烙印を毎年毎年押され続けた生徒たちの気持ちを考えると、暗澹としてしまう。
  1973年からは小学校1・4年生と中学と高校の1年生だけに実施することになる。そして1995年からは小学校4年だけになり、ついに2003年から一律の検査は廃止されることになったのである。しかし、色覚に不安を感じる生徒や保護者に個別に対応するため「今後も色覚異常検査表など必要な備品を学校に備えておく必要があること」とされている。

 2) 検査の目的の変遷
  このように長年にわたり学校では石原式検査表等を用いて、色覚検査が一律に実施されてきていたのであるが、実はその意義や目的は変化してきていたのである。1973年には「色覚異常の程度を調べる」が目的とされていた。1978年からは「色覚異常」の有無を調べると変化した。しかし使用しているのは同じ石原式検査表である。この検査表では確定的な「色覚異常」の有無も程度も診断できるものではないのにもかかわらずである。1995年になってやっと「授業に差し支えるか否か調べる、先天異常を選び出すものではない。」ということになった。そして2003年からは「色覚異常についての知見の蓄積により、色覚検査において異常と判別される者であっても大半は支障なく学校生活を送ることが可能であることが明らかになってきている」また「これまで色覚異常を有する児童生徒への配慮を指導してきている」という理由で一律の検査が廃止されるに至ったのである。生徒や保護者の求めにより個別に検査を実施する場合は「児童生徒及び保護者の同意を得る必要」があり「プライバシーを守るため個別検査ができる会場を確保」するという注意がつけられてある。当然のことなのであるが以前はこんな当然の配慮もしていなかったのではないか。
  さて、文部科学省はこのように「色覚異常」の生徒への教育上の配慮を指導してきたというが、ほんとうにそうだろうか?従来、色覚検査を行いながら「色覚異常」の生徒にわれわれ教職員は教育上の配慮をしてきたと言えるか?例えば、私の勤務校は定時制なので年配の生徒も在籍している。そこで、必要があればテストやプリントを拡大コピーしている。しかし「色覚異常」の生徒に配慮して板書やプリント等を工夫したという話は聞いた事がない。私の職場ばかりでなく、多くの現場で特に「色覚異常」の生徒に配慮していないのが実情であろう。そこで2003年に文部科学省は上述の「資料」を発行したのだが、これもどこまで読まれているのか甚だ心許ない。


 5.「色覚異常」と進路指導


 1) 「色覚異常」が排除される職業・資格
  上記の石原式検査表には1989年まで「色盲者に不適当な職業は医師、薬剤師陸軍現役将校、その他すべての色を取り扱う職業」の記載があった。また現在も使用されているという「東京医科大学式色覚検査表」では、600近くの職業を甲・乙・丙・丁に分け、「色覚 異常」の程度によりその適性を分類している。甲は「色覚異常者」がつくと「人命に係わる」もので医療関係や運輸関係の職業等があげられている。乙は「重大な過誤を来す」職業で印刷関係や小学校の教員も含まれている。丙は「仕事の遂行にやや困難を感ぜしめる」職業で農林・運輸(なんと人力「車夫」等)と多くの工員・技術者に加えて中高の教員も含まれている。「色覚異常者」であっても就業して差し支えないとされる丁にも様々な職業・職種が列挙されているが、管理職というのもあるが全体として単純作業や肉体労働が目立つ。「置き屋主人」「だふや」「巫女」「競馬予想屋」などが脈絡もなく並んでおりはっきり言ってきちんと系統的に考えられた表であるとは思えない。しかし、こうした記述が原因となって、長年の間多くの職業や学校で「色覚異常者」というより「検査表が読めないもの」が慣習的に排除され続けてきたのである。中には全盲の人は入学可で「色覚異常」の人は入学できないという事例も存在したという。もちろん「色覚異常者」にとって、でき難い仕事が存在することは事実だろうが、現実にはただの憶測で「検査表の読めないもの」が多くの職種や学校から排除されてきていたのである。近年かなり改善が進んできたが、まだいわれのない制限を設けている職種や学校も残っている。

 2) 「資料」の進路指導論
  上記の文部科学省の「資料」は進路指導についてどう捕らえているかを見ておこう。「資料」は「『色覚異常』を本人の一つの特性と考え、いたずらに職業の選択を狭めることのないよう指導」することと述べ、さらに「『色覚異常』がハンディになりうる職種を希望する場合は、正確な資料に基づいた情報を提供する」としている。全く正しい指摘だと思う。特に、「色覚異常」を本人の「特性」としているところはかなり思い切った指摘である。ここで、「色覚異常」に否定的な価値は全く与えられていない。ここまでくれば、「色覚異常」でなく「色覚特性」と呼ぶようにするのが良いのではないか。高柳医師も、「色覚偏位」あるいは「色覚特性」「色覚特異性」を「色覚異常」に変えて用いる事を提唱している。「色覚偏位」は少々わかり難く、「色覚特異性」にはまだ若干「異常」の否定的なニュアンスが残っている感じがある。「色覚特性」がもっとも適当のように思う。 「資料」はこのように「色覚異常」を個人の「特性」とした上で、「個人の特性と職業適性との関連は一概には言えない」とする。「色覚異常」についてもかなり個人差があり、他の要因も複雑に関連するので個々の職業について、個人の向き・不向きを明確にすることはできないという「資料」の立場は、明確に上記の「東京医科大学式検査表」の解説のような分類の誤りを指摘していると見られる。
  また「資料」は「色覚異常」について「運転免許がとれない」とか「工学部や医学部に進めない」との認識は全くの誤解でありと指摘し、こうした誤解の解消についても触れているのである。


 6.教育上の配慮と「色のバリアフリー」


 1) 教育上の配慮について
  「資料」は「色覚異常」の生徒への教育上の配慮について「誰でも識別しやすい配色で構成し、色以外の情報も加える工夫が必要」と述べる。より具体的に「黒板は明るさが均一になるように照明を工夫」「黒板は常にきれいな状態に保つ」「白と黄のチョ−クを主体に使う」「白・黄以外のチョークを使用する場合は、色以外の情報を加える」といった指摘が並んでいる。上でも述べたが、これまで学校で「色覚検査」を行なって来たがついぞこのような配慮が必要であるという話は聞いたことはなかった。10年前にもこのような資料が作成されたそうであるが、大阪の高校でこのような資料が活用された例はあまり耳にしなかった。文部科学省も府教委ももう少し積極的に教職員に研修等を行なう必要があるのではないか。
  さて「資料」はさらに図画・工作等の評価の仕方についても述べている。「図画・工作などでは個々の見え方や感じ方を大切にし、創造的能力を高めるようにする」また「造形的な表現活動においては、色彩などの個性的な違いにとらわれることなく、造形表現への取組の意欲・態度を含め総合的に評価」するように指摘している。つまり、「色覚異常」の生徒の絵画の色使いが特異であったとしても、それだけで低く評価することのないように念を押しているのである。なかなか行き届いた配慮であるはあるが、ここでもこの趣旨がどれだけの教職員に伝わっているかが問題であろう。

 2) 「色のバリアフリー」について
  建築設計などで高齢者や障害者に使いやすいように配慮することを指す「バリアフリー」という語は、近年かなりポピュラーになってきている。この概念を「色覚異常」に適用すれば「色のバリアフリー」ということになる。考えてみれば「色覚異常」の者を排除するのではなくて、「色覚異常」であっても快適に安全に生活できるように色彩デザイン等を考えていくのが当然の筋道であろう。上記のようなチョ−クの使用法についての配慮や交通信号の色が「色覚異常」の者にも識別しやすいように変化したこと等が「色のバリアフリー」の例であろう。そういえば、交通信号は最近では色だけでなく、歩いている人と、止まっている人の姿をかたどったものになり、いっそう識別しやすいものになってきている。


 7.まとめ


  先に触れた朝日新聞の記事にある高柳先生のコメントがやはりこの「色覚異常と教育」の問題の本質をついていると思う。彼女が鋭く指摘しているように、結局のところこれまで学校では深い考えもなく一律に色覚検査を行い、「色覚異常」のレッテルを貼るだけで、ろくにフォローも配慮もしてこなかったのが実情なのである。とりあえずは我々教職員が「色覚異常」について正しい知識を持つことが肝要であるだろう。最初に述べたように、私の勤務校では私が講師となってこの問題で校内職員研修を行なった。内容はここで書いたようなことで、特に新しい情報があったわけではないのだが「こんな話は初めて聞いた」等の素朴な感想が多かった。私の話ぐらいで役に立ったとすれば、やはりこの問題についての教職員一般の認識が不足しているのであり、文部科学省や府教委は教職員への研修・啓発活動をもっと行うべきであろう。思うに諸外国ではあまり問題とされていない「色覚異常」が、日本ではこのように差別的な扱いをされていたのは、学校で毎年毎年くりかえし健康診断の時に石原式検査表等で色覚検査を行い続けてきたからに他ならないだろう。日本人や日本の社会がもともと「色覚異常」に敏感であったのではないと考えられるからである。この「色覚異常」をめぐる問題はいわば日本の学校教育の悪しき成果なのである。一般に日本の学校教育は部活動・修学旅行そしてこのような全員一律の細かな健康診断など、本来教職員の担うべき範囲を超えたものを抱え込み過ぎているのではないだろうか。




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