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TITLE:  大学教育と「官尊民卑」 − 戦前の私立大学の名称に関連して − 
AUTHOR: 木村 陽吉
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第122号(1992年9月)
WORDS:  全40字×94行

 

大学教育と「官尊民卑」

−−戦前の私立大学の名称に関連して−−

木 村 陽 吉 

 

はじめに

  過日の大阪高法研9月例会発表報告と質疑で一寸気になっていたことがありましたのでそれを文章化してみました。それは「戦前の私立大学は、大学の名称を使っていたが専門学校程度であった。」という発言についてです。大学令にふれて少し私は発言しましたがその誤りを正す発言は続かず黙認(若い方々)が殆どでした。大学には法制上なれなかったが、文部省も「大学」を冠する私学(法制的には専門学校)を認可していた事実の裏付けとして、普通の専門学校と違い大学予科(当時は2年制多し)でリベラルアーツの勉強後、学部(3年制)へ進んでいたことがあげられます。大学令までの一時期のことですが法制的な専門学校の格付けと実際とは違っていたことを明確にすべきだと思い、拙文を書いた次第です。

  官尊民卑とは「政府・官吏を尊く、人民を卑しいとすること」(広辞苑)であるが、ここでは、官立の旧帝国大学は優れた高等教育を施し、卒業生も優秀であったが私立大学は押し並べて程度が低く卒業生もさほどでなかった、という一般的認識について考察することとしたい。

 

1.明治憲法下の勅令主義による大学設立差別

  明治維新後の脱亜入欧、いわゆる文明開化の波に乗り、関東の慶応義塾や関西の同志社をはじめとして高等教育機関(大学)への脱皮を志向する民間の教育機関が続々と現われた。しかし、上からの殖産興業政策による資本主義の移入と同様、教育においても政府は中央集権的国家統制を図り、当初は官立の帝国大学以外の公立、私立の大学設立をみとめなかった。

  (1) 1886(明19)年3.2帝国大学令公布

     1877(明10)年設立の東京大学は改組され「帝国大学」となる。

    1897(明30)年京都帝国大学設立(「帝国大学」は東京帝国大学と改称)

    1907(明40)年東北帝国大学設立、1911年(明44)年九州帝国大学設立

    1918(大7)年北海道帝国大学設立

     帝国大学令による大学設立は以上の5帝大のみで、公・私立大学や単科大学は不認可。

   (2) 1894(明27)年6.25高等学校令公布、帝大の予備教育機関となる。

  (3) 1903(明36)年3.27専門学校令公布

  これまで必要に応じて文部大臣が設立を認可してきた各種の専門学校を統一的規程の下においた。修業年限は3年以上、入学資格は中学校もしくは修業年限4年以上の女学校卒業者、公・私立は文部大臣の認可による設立とし、1903年3.31詳細な公私立専門学校規程を定めた。

  当時大学は帝国大学以外に存在しなかったので、専門学校は大学と制度上区別されていた。先述のとおり文部省は制度上私立大学の設立を認めなかった。しかし、同年文部省は1年半程度の予科を持つ専門学校に対して「大学」という名称をつけることを正式に認可することにした。そのため有力な私立専門学校は次々と大学と改称した。例えば、慶応義塾、早稲田、東京法学院(中央)、明治、法政、同志社、京都法政(立命館)等。

 

2.大正デモクラシーと高等教育改革

(1) 1917(大6)年9.20 臨時教育会議官制公布

  第1次世界大戦への参戦と物価高騰、米騒動、労働争議や小作争議の増加、護憲運動や普通選挙運動等はロシア革命の影響も加わり、いわゆる大正デモクラシーの波をわき立たせた。教育の自立・自由化の運動に対しては内閣直属の諮問機関として臨時教育会議を発足させ、その答申にもとづき帝国主義段階での天皇制教育体制の再編成が図られた。

(2) 1918(大7)年12.6大学令公布

  従来の帝国大学令による官立の独占体制を改め官立、公立、私立の総合大学(学部制)と単科大学の設立を認めた。高等教育機関の増設は皇室に対する「危険思想」の普及につながるとしぶる山県有朋(帝国陸軍創設の元帥)らに対して、初の民間宰相原敬は、帝国大学の目的であった「国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スル」に「人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養」を加えて思想統制を強めるための布石とした。

  今まで専門学校令によって運営されていた私立大学などは帝国大学と同格となった。しかし、私立大学の設立認可には多額の国庫への供託金を課せられるなどきびしい条件がつけられた。その要件をみたして、1920(大9)年に慶応、早稲田、明治、法政、中央、日本、国学院、同志社、1921(大10)年に東京慈恵会医科、1922(大11)年に竜谷、大谷、専修、立教、立命館、関西、東洋協会(拓殖)等々が文字通りの大学へ昇格した。

  帝大以外の官公立の単科大学としては、1919(大8)府立大阪医科大(大阪大)、1920(大9)東京商科大(一橋大)、1921(大10)京都府立医科大、1922(大11)新潟、岡山の医大、1923(大12)千葉、金沢、長崎の各医大、1928(昭3)大阪商科大(大阪市大)1929(昭4)神戸商科大(神戸大)、東京工業大等が専門学校から昇格した。

  ちなみに大学令による新設帝大は1925(大14)京城、1928(昭3)台北、1931(昭6)大阪、1939(昭14)名古屋である。これで旧帝大は内地7、植民地2計9となる。なお、私立大学と官公立単科大学には高等学校(卒業生の大半は帝大に進学)に匹敵する大学予科(3年制)を併設するのが普通であった。

 

3.就職差別と学歴社会

  旧憲法下の教育体制と就職に於て、女子差別は格別であったが、Tで述べたように東京帝大より10年以上も古い歴史と伝統を持つ有力私大でさえ帝国大学令により制度的に差別された。それは官公庁や民間企業の就職でも帝大優位となって表れ、社会的慣行を形成した。特に東京帝大をはじめとする帝大法科は中央政府の官僚や裁判官の養成機関の如き観を呈し、その立身出世ぶりから世間では「学士様なら娘をやろうか」の第一の対象であった。敗戦によっても解体されなかった日本の官僚制の基礎は大学の「官尊民卑」の風潮の中で築かれたと言っても過言ではない。大学令公布以降官公立大学と私立大学の制度的差別は解消したとはいえ、就職における「官尊民卑」の採用状況は変らなかった。民間有力企業では私立大学卒は、帝大卒より給与の格付けが一段下にされることがまかり通っていた。そのような状況の中で大学卒の実力を試す厳格な就職試験もやらずに、大学の肩書と面接で合否を決める世界でも余り類例のない採用慣行が定着した。

  戦後の労働法制下に於て、大卒男子の初任給差別は解消したが、採用における慣行は存続し、今日でも銘柄大学指定校制は表面の門戸開放・大学平等の背後で巧妙に運用されて「学歴社会」の壁を形成しているといえよう。

                              1992.9.7

 



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