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TITLE:  <権力>をとらえ切れず、<権力者>を作り出す理論 − 服装・頭髪にかかわる校則についての議論から − 
AUTHOR: 原田 琢也
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第149号(1994年12月)
WORDS:  全40字×125行

 

<権力>をとらえ切れず、<権力者>を作り出す理論

− 服装・頭髪にかかわる校則についての議論から −

原 田 琢 也 

 

  高法研の皆様,ご無沙汰しています。仕事の関係で兵庫県の山中に引っ越したことと,第二子が誕生したことで,足が遠のいてしまっています。定例会の場で皆様とともに議論を深めることができればよいのですが,なかなかそうともいきません。そこで,投稿という形で,私がこの3年間こだわり続けてきた一つの問題を,皆様に提起させていただくことにしました。

  まずは,次の文をご覧下さい。

 

  とりわけ最近生徒たちは閉鎖的な小さなグループを作り,服装,外形を似せようとする。

  そして外形の違う者を排除し,自分は排除,仲間外れにされないようにおびえる。この ような傾向が強くなった時,学校が制服指導を強化し,「服装の乱れは心の乱れ」,  「非行は芽のうちにつみとれ」というスローガンで立ち上がり,それが生徒の中に浸透 していった時,制服違反者は単なる変わり者でなく,「心の乱れ」た者,反道徳者とし て教師からも,生徒仲間からも「つみとられる」運命におちいるだろう。もはや学校は 何ら校則違反者に制裁を加えることはない。制裁以上に強力な心理的武器を手にするの である。現実の制服制度は多くの学校でこのような姿で実施されているケースが少なく ない。その意味で規制は強制であり,規制服は強制された制服と変わりはない,といえ よう。

 

これは坂本秀夫さんの『校則裁判』(三一書房)の一節です。細かい校則を盾にした服装指導に内在する問題の本質を,「心理的武器」という言葉でうまく言い当てておられます。「心理的武器」とは,排除をちらつかせながら,人の身体に入り込み,その人の心の構造を形成し,表面的にはその人があたかも<主体的>な行動をとっているかのように見せかけながら意に沿う行動を強いる,そういう<力>であるわけです。この<力>は,人に対して外部からある行動をとるように圧力を加えていくのですから<権力>に他ならないわけですが,ただ,人の内部に入り込んでしまいその人と同化してしまう点において,外部からは決して<権力>とは認識され得ない,そういう<権力>なのです。学校の諸問題を考えていく上でも,社会の差別問題を考えていく上でも,この<目には見えない権力>を問題対象化していくことは,もはや欠くことができない重大なことなのではないでしょうか。にもかかわらず,法理論は,この<権力>をとらえることができないのです。このことは次のような言葉となって現れてきます。

 

 大原中学校事件(千葉高裁判決―筆者)や神川中学校(京都地裁昭和60年,61年判 決―筆者)の場合,生徒本人が制服を抵抗感なく着ていた以上,法的問題にすることは 無理な事情があったと思われる。(同書より)

 

<目には見えない権力>は,制服を着ているあらゆる生徒を「制服を抵抗感なく着ていた」ように見せてしまうのです。

  もちろん,制服を拒否している子どもたちの場合は,こういうことにはなりません。しかし,彼らが制服を拒否しながらも学校に登校できているという事実は,即ち,学校において彼らの<子どもの権利>が十全に保障されている証しともなってしまうのです。彼らは学校において様々な力に抗しながら日々の学校生活を送らねばならないでしょう。しかし,<法>の言葉は,彼らの苦闘を拾いあげることすらできません。

 これは,法解釈の問題ではありません。<法>というものの足場に横たわる,根本的な問題だと思われます。私はここに<法>の限界を見ます。<法>はそれ以上のものでもなければ,それ以下のものでもない,ただそういうものなのです。皆様はどのようにお考えになるでしょうか?

  このことは,私たち教育法に何らかの形でかかわりを持つ者にとっては,厳しいことかもしれません。しかし,このことを自ら引き受けていかない限り,私たちは,<法>が,あるいは<人権>が,目指す方向とは全く逆の方向へと進んでしまわざるを得ないのです。即ち,<権力>へとです。坂本氏は同書の冒頭において,次のようにも述べられています。

  特に校則裁判判決に現れた裁判官の教育観,生徒観の貧しさ。それが裁判官の口から重々しく語られているのは,喜劇に近いといえようか。校則裁判では生徒・親が勝訴したのは一件だけで,他はすべて敗訴しているが,裁判官のこの程度の論理で,生徒と親が納得するとは思えない。学校と裁判所に対する不信感が深く残されたにちがいないのである。

 

感情レベルでは,私も氏と同じように,親や生徒が裁判で勝てればどれだけよかっただろうかと思っています。しかし,もう少し冷静に事態を見つめてみなければなりません。そもそも,校則にまつわる諸問題の根底には,法的には問題対象化できない「心理的武器」(=<目には見えない権力>)という問題が介在しているのでした。そしてこのことについて,氏ご自身も「法的問題にすることは無理な事情があったと思われる」と述べられているのです。にもかかわらず,片方で,この問題を法的に問題対象化できない裁判官の「論理」を非難なさるのです。どういう権限がおありで,このような無茶なことを人に要求できるのでしょうか?氏は,現実の世界にいながら,自らを現実とは遊離した理念の世界に置き,そこから現実で生きる人々を批判しておられるのです。ここにあるのは,まさに<権力者>の姿勢です。

  私がここで坂本氏を引用しているのは,何も坂本氏個人を批判するためではありません。教育法学の依って立つ足場を相対化するためなのです。私たちは,よほど注意をしていなければ,氏と同様の誤謬を犯してしまいます。たとえば,私は,定例会や学会で,「教師は人権意識が低い」という批判を度々耳にしてきました。この批判も多くの場合は同様の過ちの上で成立しています。批判者は,実際には自らも<権力>に突き動かされて,たとえば服装や頭髪の指導といった行為を行っていたとしても,自分の内に入り込んだ<権力>を相対化できていることだけをもってして,<権力>の呪縛から自分だけは解放されたような錯覚に陥り,他人を批判しているのです。客観的に見れば,その批判者自身も,批判されるべき行為を自ら実践していることには違いなく,「人権意識が低い人」と映ってしまいます。つまり,「人権意識が低い」といって他人を批判する人も,自らの<意識>の内では「自分は人権意識が高い」のですが,客観的には「人権意識が低い」ことには変わりないのです。また「人権意識が低い」と批判された教師の中にも,自らを内省し,<権力>を相対化しながらも,やむをえず行為に及んでいる人(つまり「意識は低くない人」)も多くいるのです。人の<意識>のありようは,その人でなければわからないはずです。にもかかわらず,この批判は,表面的な事象から勝手に行為者の心の内を押しはかり,そして「意識が低い」とレッテル張りをしてしまうわけです。しかも,自分の行為は不問に付してです。ここには,教師が服装指導の際に決まって口にする,そして教育法の理論が批判してきたところの,「服装の乱れは心の乱れ」という言説と全く相同のからくりが潜んでいるわけです。このような離れワザができるのも,坂本氏同様,自分だけは,現実世界から解放されたかのような錯覚に陥っているからに他なりません。

  現実世界から,理念の世界を志向することは素晴らしいことだと思います。しかし,このことと,自らだけが理念の世界へ到達できたかのように錯覚し,そこから現実で生きる人々をあげつらうのとは全く別問題です。教育法学の考え方,あるいは<人権>という言葉には,私たちを知らぬ間に後者の立場に誘い込む魔力が秘められています。これは,「人権意識」という言葉からもわかるように,<法>の考え方が人間の行為というものを,意識作用としてしかとらえることができないことに由来しています。<権力>は意識以前の心の深層(=「感覚」あるいは「無意識」)を形成しています。しかも,教師も生徒も親も,社会の多くの成員の深層を貨幣のように流通しているのです。そのような事情を顧みない法理論は,表面的な現象だけをとらえて,行為者の<善意/悪意>だけを問題にし処断していくのです。

  中学時代,丸刈り・制服を拒否し,不登校に陥った経験を持つA君とその母親が,次のように語ってくれたことが印象的です。

 

 A君:僕も,切り捨てられました。「人権の会」の人たちは,僕が私服登校してる時は 応援してくれたりしてましたけど,何か違うなあと思いだしてからは…

  母親:すごく排他的です。学校を批判するけど,やってはることは同じことですよ。

 

私たちは,この言葉を真摯に受け止める必要があるのではないでしょうか。

  私が,ここに提起した問題は,ある人には,些細な問題であるかのように映るかもしれません。そしてそういう人は決まって,私に対して「木を見て森を見ずだ」という批判を浴びせます。しかし,これは,校則問題という議論の場にたまたま浮かびあがってきたパラドクスではないように思われます。あらゆる教育法の議論の根底に,この比喩に即して言えば,あらゆる「木」の根っこに,隠されていた問題なのではないでしょうか。この問題を不問に付しながら眺める「森」とは,幻影にすぎないことになります。

  また,ある人は,「この問題は心理学や社会学の問題であり,法学の問題ではない」と言って片づけてしまいます。では,枠内に収まらないからといって真実を切り捨て,真理を歪曲してしまう理論とはいったい何なんでしょうか。そんな理論が「学」という衣で身をまとい,正統性を主張することはそら恐ろしい気さえするのです。

  この問題をどう考えていけばよいのでしょうか。できることなら皆様と共に考えていきたいと思うのです。

 


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