◆199706KHK172A1L0273E
TITLE:  子どもの権利条約と少数者の権利
AUTHOR: 伊藤 靖幸
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第172号(1997年6月)
WORDS:  全40字×273行

 

子どもの権利条約と少数者の権利

 

伊 藤 靖 幸 

 

1.はじめに

  子どもの権利条約を日本が批准してから、3年が経過した。この条約については一般の関心も高く、研究論文や解説書も数多くのものが出ている。私も、この条約について本研究会で発表したこともあって(1990年5月)、ずっと興味をもっていた。また一方で、最近、大阪府立外教の在日朝鮮人問題についての副教材である「大阪と朝鮮」の編集にかかわったことが、私にとって在日朝鮮人の問題を子どもの権利条約や国際人権法の観点で考えるきっかけとなった。そのつもりで、この条約を見てみると、「アイデンティティ保全の権利」(8条)、「マイノリティの権利」(30条)などの条文が目につく。というわけで、2回に分けて子どもの権利条約と在日朝鮮人の問題を報告させてもらう。まず今回は、一般論として子どもの権利条約の批准後の状況・国内実施の問題について述べ、それから30条「マイノリティの権利」等と在日朝鮮人の権利について考える。次回は、8条「アイデンティティ保全の権利」と在日朝鮮人の「名前・国籍」の問題となる予定である。

  ここで「在日朝鮮人」とは、朝鮮半島にルーツを持ち日本に定住している人々を指す。国籍では、韓国籍・朝鮮籍はもちろん日本籍の人々も含まれ、さらにそれらの「ダブル」も含んでいる。

 

2.「子どもの権利条約」の現段階

  「子どもの権利条約」の批准・発効からはや3年が経過した。まず、日本政府の対応を中心に、本状約をめぐるこの間の経過と今後の予定等を簡単に見ておこう。

(1) 消極的な政府の姿勢

  まず第一に指摘されなければならないのは、日本政府の一貫した消極的な対応である。本条約の審議過程から、政府は国内法制への影響を最小限化する方向で発言しており(世取山)、そうした方向はその後も変わっていない。条約発効直前の94年5月20日の文部省通知も、「新たな立法を必要としない」要するに現状を変える必要はないという趣旨であった。難民条約や女子差別撤廃条約の発効に際しては、国内法の整備が行なわれたが、本条約については一般の関心も高いのにもかかわらず、国内法の整備はまったく行なわれなかったのである。

(2) 日本政府報告書の問題点

  その後の政府の対応は、96年5月30日に出された日本政府報告書で知ることができる。ここでまず若干報告制度の説明をしておこう。報告制度は国際人権条約でもっとも一般的に行なわれている実施措置である。他の実施措置として、国家通報制度・個人通報制度・司法的メカニズム等があるが、司法的メカニズムはいまだ欧州や米州機構など地域的なものに留まり、ある国の人権侵害を他国が通報する国家通報制度は国家間の紛争に転化することを恐れて実質的には機能していない。人権を侵害された個人が直接申し立てを行なう個人通報制度は、B規約等で一定の成果をあげつつある。しかし、B規約の個人通報制度を実施するには選択議定書を批准する必要があるが、日本政府はいまだ「検討中」とのことで未批准であり、わが国では実施できない状態がつづいている。報告制度は、条約の締約国が条約上の人権保障の義務をどのように履行しているかを自らレポートし、それを条約機関が審査するというものである。他の制度に比べ国家にとっては抵抗の少ない制度であり、主要な国際人権条約がすべて採用している制度である。本条約の場合、効力発生後2年以内に1回目の報告を行い、その後は5年ごとに行なうことになっている(44条)。本条約では前例のない急速な締約国の拡大があったために、10名という少ない人数で構成されている子どもの権利委員会では、おしよせる各国の報告書を審査しきれないということが問題となっている。他の委員会なみに18名に増員する案が可決されたが、実現のためにはまだ時間がかかるのである。そうした人数の問題もあってか、条約規定の解釈を行なう一般的意見の作成は現段階では予定されていない。

  日本政府の第1回報告書は発効から2年の期限である96年5月21日に少し遅れて提出された。形式的には委員会の採択した第1回報告書に関するガイドラインに従っており、それなりにまとまったものである。2回にわたる非公式ヒアリングによって、民間NGOの意見も聴取したことは画期的である。しかしそれが内容に反映しているとはいえない。基本的に新たな立法措置をしないという方針であったので、結局のところは現行の法律や諸制度の紹介・説明に留まっているのである。新しい制度として「子どもの人権専門委員」があげられているが、これも従来の人権擁護委員制度の枠内での取り組みの強化にすぎない。平均年令70歳で特に専門知識等を要求されているわけではないので、名誉職といった傾向も強く、現代の子どものニーズに答えられるかは疑問も多い(養父知美)。また条約の広報も不十分である。報告書では「百万本のバラ」ならぬ「百万枚のポスター」の配布が強調され、確かにわれわれも現場で目にしたが、学校に掲示されるポスターなどというものはたかだか1年もすれば剥がされてしまうものであり、そうした一過性のものよりも恒常的な広報活動が必要であろう。

(3) 今後の予定について

  こうした日本政府報告書は98年春ごろ「子どもの権利委員会」で審査される予定である。96年11月大阪で「子どもの権利条約フォーラム」では「模擬子どもの権利委員会」の試みが行なわれ、日本政府の報告書の審査の模様がシュミレ−ションされた(「検証子どもの権利条約」1997)。10名の日本の事情にも教育問題にも必ずしも詳しくはない委員に、限られた時間で「建設的対話」を積み重ねていくということは、なかなか簡単ではないと実感できた。こうした報告制度をより有効なものとするためには、市民NGOの役割が重要である。委員会もNGOを条約45条の「その他権限のある機関」と位置付け、情報提供を求めている。現在活発に市民レベルでの政府報告書へのオルタ−ナティブレポ−トが作成されているところである。

 

3.子どもの権利条約の国内実施をめぐって

(1) 条約の国内実施について 

  一般に条約が国内で実現される方法は、その国の憲法体制によって決定される。大きく分ければ、条約そのままでは国内効力を認めず、国内法につくりかえる方式=変形と、そのままで国内効力を認める方式=受容とになる。変形はイギリスなど少数の国で行なわれ、アメリカなど大多数の国は受容の体制である。日本の場合は憲法98条2項からして受容の体制であるとされる。

(2) 直接適用可能性(self-executing)の問題 

 それでは、条約を直接援用して国内裁判所に権利実現を請求できるのだろうか。ここでself-executing性の問題がでてくる。受容の憲法体制をとる日本等の国にあっても、条約規定の内でself-executingなものは裁判所で援用できるが、そうでないものは援用できないとされるのである。そこでself-executingか否かを個々の条約規定ごとに判断する必要が生じる。その基準として、当事国の意志(明らかでない場合が多い)や規定の形式(「すべてのものは・・」であればself-executingであり、「締約国は・・」であればでないとされる)や明確性等があげられる。国際人権規約のA規約はself-executingではなく、B規約はself-executingであるとされることが多い。本条約については、4条で自由権的規定は即時実施義務、社会権的規定は漸進的実施とあることから、前者はself-executingであり、後者はそうでないとされ、国際人権規約のAB規約の分類を参考にして分別すべきであるとされる(広沢、市川、岩佐、瀬戸など)。しかし実際に分類しようとしてもそう簡単ではない。自由権的=B規約的内容であっても、形式は「締約国は・・」というものも多い。例えば13条表現の自由は「児童は・・」であるが、14条思想・良心の自由は「締約国は・・」である。こうした形式にほんとうに意味があるのだろうか。こうしたself-executing性の問題について、岩沢雄司は「条約の国内適用可能性」(1985)で次のように述べている。「当事国の意志」は不明確であることが多く、self-executing性を明確に否定している場合を除き、self-executing性を推定する。形式的な受範者が個人か国かは決定的な基準とはならない。明確性の基準は、その国の国内法制によって異なる。(同じ条約規定がある国ではself-executingであり他の国ではそうでないこともある。)また、条約のself-executing性にも国内法と同様に段階があると考えられ、個人の国に対する請求の根とする場合は高度の明確性が必要だろうし、国の行為を違法であるとする根拠としてはそれほどの明確性は要求されない。具体的な裁判の様態によっては同じ国内でも、同じ条約規定がself-executingであったりなかったりする相対的把握を岩沢は指摘している。彼によれば、従来self-executingでない条約規定は国内効力がないと考えられてきたが、そうではなくて、批准された条約は国内効力を持つのが前提であり、ある問題についてその条約規定がself-executingであるかが問題で、でなければその他の効果(間接適用など)はどうかというように考えるべきであるということである。しかしそうした議論はともあれ、従来の日本の裁判所においては、国際人権規約等の条約を直接適用しようとする傾向は見られない。伊藤正己はその原因として、上告理由が憲法違反に限られているため条約違反の主張は簡略に処理されるのが通例であり、また人権規約違反という主張を判断したとしても、最高裁は人権規約が憲法以上の人権保障をしているとは解釈していないため、人権規約違反の主張が意味を持ってこないことなどをあげている。伊藤はこういう状況に対し、国際人権規約のような世界的な効力をもつ条約には、条約違反を上告理由とする等憲法に近似した効力が認められて然るべきだと主張している。佐藤幸治も「自動執行的性格の明確な内容をもつ人権条約規定に違反する措置は、憲法違反に準ずるものとして重く扱わなければならない」としている。ただ最近はB規約が原則として直接適用可能として、B規約の解釈論を展開した京都指紋押捺拒否事件大高判94.10.28やB規約27条の権利は憲法98条2項に照らし誠実に遵守する義務があるとした二風谷ダム訴訟札幌地判97.3.27 などの新しい傾向の判例も見られるようになってきた。

 

(3) 条約の国内における効力順位 

  ここで条約の国内法上の位置付けの問題について触れておこう。条約が直接国内効力を持つ受容の憲法体制をとる国にあっては、条約の国内法上の効力順位が問題になる。これもその国の法体系によって異なるわけで、米国のように連邦法と同等という国や、オランダのように憲法を越える効力を認めている国もある。日本の場合、条約が法律に優先する効力を持つことには異論がない。問題は憲法との関係であって、学説でも条約優位説と憲法優位説の対立がみられた。当初はむしろ宮沢らの条約優位説が有力あったが、安保条約論議を機に、条約優位説をとれば法律より簡便な手続きで成立する条約によって実質的に改憲できることになることが指摘されるようになり、憲法優位説が支配的となった。安保条約の合憲性が争われた砂川事件最判も、条約の違憲審査の可能性を前提としつつ、「高度の政治性」を有し「きわめて明白に違憲でない」場合は憲法判断を控えるという構成であり、憲法優位説の立場であるといえる。近年国際人権法の進展とともに、国際人権法優位をとる論者(江橋)もでてきたが、やはり憲法優位説の範囲で、国際人権法に憲法に近似した効力を認めようとする佐藤幸治の立場が穏当であろう。

(4) 間接適用について 

 条約を国内適用する方途として、わが国のような受容の体制にあっても、国内法化することがあげられる。本条約をめぐっても「子どもの権利基本法」(日本教育法学会)のような提案がある。しかし国内法に変えたくない政府方針の下ではすぐには実現できそうもない。条約の直接適用の道も今のところは、裁判所のあしどりは重い。そこで、「間接適用」の方法が本条約等をめぐって議論されている。「間接適用とは、憲法その他の法規範、法原則を解釈、適用する際の指針として、あるいはその解釈・判断を補強するものとして国際人権基準を援用すること(「テキストブック国際人権法」1996)」とされる。直接適用に消極的な裁判所も受け入れやすい方法であり、本条約でも非嫡出子の相続差別を違憲とした東京高判93.6.23 (この時点では発効していない)における本条約の援用もあり、有用な方法であるとされる(市川須美子)。しかし間接適用にもつめておくべき問題がある。憲法優位説をとるかぎり効力順位で下位である条約が上位の憲法の解釈基準になるのはおかしいという点、さらに未批准の条約も批准された条約も同じ効果なのかという点である。この点齋藤正彰「国法体系における条約の適用」(北法46巻3、4号)は憲法98条2項は「国際法調和性」の原則を表現したものとする解釈を示している。彼によればドイツでは国際法調和性の原則により、欧州人権条約に間接的な憲法的地位を認める方向に動いているが、日本でも同様に98条2項に、憲法に明らかに矛盾しないかぎり憲法解釈に条約を可能なかぎり顧慮する要請を読み込むのである。98条2項の文言から対象となるのは締結した条約と確立された国際法規であり、未批准の条約等の単なる任意の参照と「国際法調和性」の原則による援用とは区別される。また効力順位の逆転の問題も、憲法優位説の範囲で矛盾なく説明可能である。佐藤幸治が「憲法11条および98条2項は、人権条約と調和するように日本国憲法上の「基本的人権」の保障の充実を図ることを要請していると解すべき」(「国家と人間」1997p182)としているのも、同じ趣旨と考えられる。

 

4.30条「マイノリティの権利」と在日朝鮮人教育

(1) 「マイノリティの権利」について

  @B規約27条の「マイノリティの権利」  世界人権宣言にはマイノリティの権利はなく、これはB規約に初出の権利である。またB規約27条と本条約30条はほとんど同じ規定であるので、まずB規約27条に関する議論をふりかえっておく必要がある。実は国際人権規約については解説書が少なく、総合的なコメンタールは、1979年法セミ臨時増刊「国際人権規約」(以下旧コメ)と1996「解説国際人権規約」(以下新コメ)しかない。

 A訳語の問題  マイノリティの訳について、公定訳では「少数民族」とされているが、宗教的・言語的マイノリティも含まれているので、「少数民族」は不適切である(旧コメも新コメも指摘)。これに引きずられて、「子どもの権利条約30条も「少数民族」となっている(波多野)。波多野はまた、本条約の「否定されない。」(shall not be denied )は本来「否定されてはならない。」と強く訳すべきだが、B規約27条との関係で同様に「否定されない」となったと指摘している(波多野217 −218p)。B規約の場合、本条項は国家に対し積極的義務を課していないという文字どおりの消極的立場もあるが(旧コメはそうである)、1994年のB規約委員会の一般的意見23「27条について」6.1は「締約国は権利の存在とその行使を保護し確保する義務を負う」と指摘している(新コメ264p)。であるとすれば「否定されてはならない」と強く訳しておくべきだろう。

(2) 在日朝鮮人は「マイノリティ」か

  @B規約27条の「マイノリティ」か  本稿にいう在日朝鮮人には、国籍の上では日本籍と外国籍に分かれる。このうち日本籍の朝鮮人がB規約27条の「マイノリティ」であることにはほぼ問題がない。ただし従来こうした日本籍朝鮮人のマイノリティとしての権利が十分保障されていたわけではない。問題は外国籍の朝鮮人が本条に言うマイノリティかということである。実は政府見解は一貫して外国籍の在日朝鮮人をマイノリティとはみなしていない。旧コメ・波多野も同旨である。

 AB規約政府報告書における「マイノリティ」  日本政府は1980年に提出した第1回B規約政府報告書において「本規約のマイノリティはわが国には存在しない」として、マイノリティ一般の存在を否定している。アイヌについては生活様式に特殊性がないとし、在日朝鮮人は外国人で日本国籍を持たないので対象外としていたのである。86年の中曽根「単一民族」発言に対する内外の批判の後で1987年に提出された第2回政府報告書では、政府はアイヌが独自の文化を保持していることは認めたが、アイヌも在日朝鮮人も27条の問題はないとした。ようやく91年の第3回報告書において、政府も「アイヌ民族が本条にいうマイノリティであるとしてさしつかえない」としたが、ヒギンス委員等の在日朝鮮人問題についての質問に対し、マイノリティの定義は国際的に確立していない等として在日朝鮮人をマイノリティとはしない立場をくずさなかった。B規約委員会の日本政府へのコメント(93年11月4日)は主要な懸念事項として「日本政府のマイノリティ概念が在日朝鮮人を除外していること」をあげている。 

 B外国籍のものは27条の対象外か  上述のような、27条のマイノリティに外国籍のものは含まれないとする政府解釈は正当だろうか。1986年のB規約委員会一般的意見15「規約における外国人の地位」では「外国人は・27条の意味でのマイノリティを構成している場合は権利を否定されない」としているが、西ドイツなどマイノリティ概念は外国人に適用されないという政府もあり、国連機関の報告書にも同様の立場のものもみられる。1992年の「マイノリティの権利に関する宣言」でもこの問題は未解決である。しかし1994年のB規約委員会一般的意見23「27条について」は明確に「国民・市民であることを必要とされないように、永住者であることも必要がない」「マイノリティの存在は締約国の決定ではなく客観的基準によって確定される」とした。以上の経過からして、27条の権利は外国籍のものにも適用されると解するのが正当であり(新コメP261.265また岡本雅享「自由権規約27条に関する一般的意見の意義」法セミ477 )、外国籍の在日朝鮮人も27条の射程の範囲であると考えられる。ただし在日朝鮮人の中にもさまざまな主張があり、「マイノリティの権利」を主張するものばかりではない。AB規約とも1条には人民の自決権があげられており、「朝鮮学校」系の民族教育論は主として「人民の自決権」に依拠しているとみられる(「問われる朝鮮学校処遇」朴三石)。

(3) 子どもの権利条約30条と在日朝鮮人 

 @学説  波多野p230は従来の政府見解と同じく、国民でないので「いわゆる在日韓国・朝鮮人は本条の少数民族に該当しない」とする。一方、小島弘道「児童の権利条約と民族教育」(教職研修94.10 増刊p156−159)下村哲夫編「逐条解説 児童の権利条約」1995p126永井ほか編「解説子どもの権利条約」1990p135−138 等では国籍の問題に触れることなく在日朝鮮人教育等について述べている。上述のB規約27条についての経過を踏まえておく必要があるだろう。

 A政府報告書における30条のあつかい  第[章(最終章)「特別な保護措置」の306 パラグラフがこれにあたる。全体の最終パラグラフであるので目立つが、記述量は少ない。「30条にいう、・・児童についてもすべて、憲法の下での平等を保障された国民として・・権利が保障されている。」となっており、いちおう30条のいう「少数民族又は原住民集団に属する児童」の存在は認めている。しかし、「国民として」とあるのでここで念頭にあるのはアイヌのことであろう。アイヌが「少数民族」なのか「原住民」なのかは依然として明らかではない(波多野p220)。「国民」でないすなわち外国籍の在日朝鮮人はやはり、30条の射程外にされてしまっている。B規約27条をめぐる上述の経過からすれば、ここで政府がアイヌについても在日朝鮮人についても一言も触れていないのは、言及を意図的に避けた可能性が高いと考えられる(荒牧重人)。

  B小括  B規約27条で見てきたように、外国籍の在日朝鮮人も同条にいうマイノリティであり、ほとんど同じ規定である本条約30条の場合も結論は変わらない。従来の政府解釈をとっても、「日本籍朝鮮人」はアイヌの人々同様マイノリティである。従来、教育の場等でこうした「日本籍朝鮮人」の問題が意識されることは少なかった。今後日本籍の朝鮮人の数はますます増加していくとみられ、本条や29条c)の趣旨にそった施策が望まれる。また、国籍剥脱の経過から在日朝鮮人は少なくとも潜在的には日本国籍を持つと考えられ(大沼)、単純に日本国籍でないので30条は無関係であるという政府の解釈は通らないであろう。

 

5.子どもの権利条約29条と在日朝鮮人教育

  29条(教育の目的)c)d)e)はA規約13条に新しい内容を付け加えたものである。本稿ではc)d)が関連する。

 c)「父母、文化的同一性(identity)、言語及び価値観、居住国及び出身国の国民的価値観、自己の文明と異なる文明に対する尊重の育成」

 波多野は、国旗国歌の指導は日本人生徒にとって日本が居住国であり出身国であるので本項の要請であるとする。(216p) 相良憲昭「児童の権利条約における教育関連事項」(「児童の権利条約」一粒社1995)も同様に29条の趣旨にむしろかなうとする。しかし、本項のアルジェリア原案に明らかなように、本項の趣旨は自己と異なった文明の尊重、とりわけ植民地支配あるいは人種差別体制の下にある子どももそのアイデンティティを奪われないということである(相良111p参照)。現行の条文からは波多野のような解釈もいちおう成り立つが、排他的な愛国心をかりたてるような日の丸・君が代の強制は本項の趣旨に反する。本項は在日朝鮮人を初めとする外国籍・日本籍の異文化を持つ子どもが、自らのアイデンティティを保持し(8条と関連する)、異なった文化をを尊重しあうような教育を要請していると見られる。したがって、本項は民族教育や他文化理解教育、他文化共生教育、国際理解教育等と関連する。8条、30条とあわせて本項は国内法では触れられていない在日朝鮮人への民族教育等の根拠となると考えられる。例えば朝鮮学校への1条校に準じた処遇、1条校である民族学校(大阪の2校)で指導要領にしばられず民族教育の時間を増加させること、日本の学校に在籍している朝鮮人生徒への民族教育の充実、異文化理解教育の充実等が考えられる。(条約が法律に優位し、指導要領の性質は諸説あるが法律より劣位であることは明白なので、指導要領は本項の妨げとならない。) 政府報告書の231 パラグラフは「学校教育法に規定する『学校』(民族学校でない日本の学校をさすと考えられる)で学ぶ外国人児童は基本的に日本人子弟と同様の教育が施されている」とあり、上記のような課題には一切触れられていない。ただ「課外において、外国人児童に対し当該国の言葉や文化を学習する機会を提供することは従来から差し支えないこととされ」という指摘は在日朝鮮人の「民族学級」を指しているが、ここでも「朝鮮人」を明記していない点に政府の意図が感じられる。

 

6.子どもの権利条約17条と在日朝鮮人

  17条「マスメディアへのアクセス」これも国際人権規約には見られない条文である。そのd)として「少数集団(マイノリティグループ)に属しまたは原住民である児童の言語上の必要性について大衆媒体が特に考慮するよう奨励する」とあり在日朝鮮人向けのラジオ・テレビ放送などの充実といった施策が考えられる。しかしここでも波多野は、「少数集団」は外国籍のものを含まないという解釈に固執して、韓国・朝鮮語放送の必要性を否定している(波多野p131)外国人の少数集団を認めれば、多くの国で何ヶ国語かの放送が必要となり、技術的経済的に不可能とする。しかし仮に少数集団を自国民に限定しても、出身国にアイデンティティを持つ少数集団は存在するのであるから同様の技術的問題はあるはずである。マスメディアの技術的進歩もあり(多チャンネル化等)、技術的経済的理由で、万の単位で存在する少数集団への条約上の要請が実現できないとするのはおかしいのではあるまいか。(在米コリアンが集中しているロスではコリアンむけの放送局もあるそうである。)ここでも、少数集団を自国民のみに限定すべき理由はない。

 



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