◆ H21.01.19 東京地裁判決 平成19年(行ウ)第767号 東京都立南葛飾高校不起立再雇用拒否事件(再雇用拒否処分取消等請求事件)     主   文 1 被告は,原告に対し,211万円並びに内192万円に対する平成20年3月15日から及び内19万円に対する平成19年1月18日から,いずれも各支払ずみまで年5分の割合による金員を支払え。 2 原告の処分の取消,無効確認及び義務付けを請求する訴えをいずれも却下する。 3 原告のその余の請求を棄却する。 4 訴訟費用は全体を3分し,その1を被告の負担とし,その余を原告の負担とする。     事実及び理由 第1 請求 1(主位的請求)  被告が原告に対し,平成19年1月17日付けでした再雇用拒否処分及び再任用拒否処分をいずれも取り消す。  (予備的請求)  被告が原告に対し,平成19年1月17日付けでした再雇用拒否処分及び再任用拒否処分はいずれも無効であることを確認する。 2 被告は原告を東京都再雇用職員又は東京都再任用職員として採用せよ。 3 被告は,原告に対し,484万0800円並びに内144万円に対する平成19年1月17日から及び内340万0800円に対する平成20年3月15日から,いずれも各支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。 第2 事案の概要  本件は,平成19年3月31日に東京都立高等学校教諭の職を定年退職した原告が,再雇用職員及び再任用職員の採用選考の申請をしたのに,東京都教育委員会(以下「都教委」という。)が,原告を不合格とした(以下「本件不合格」という。)のは,裁量権の逸脱,濫用に該当すると主張して,本件不合格処分の取消(主位的請求)又は無効確認(予備的請求),再雇用職員又は再任用職員として採用せよとの義務付け及び国家賠償法に基づく損害賠償(不法行為時からの慰謝料及び弁護士費用に対する遅延損害金並びに再雇用された場合の最終給与日からの得べかりし利益に対する遅延損害金)を求めた事案である。 1 前提事実(証拠による認定事実については,かっこ内に証拠を挙げた。) (1)当事者  原告は,昭和49年4月1日,都教委によって東京都公立学校教員に任命され,以後,都立高等学校教諭を歴任し,平成3年4月1日〜平成16年3月31日の間都立A高等学校教諭,同年4月1日〜平成19年3月31日の間都立B高等学校教諭を務め,同日付けで定年退職した。  被告は,地方自治法180条の5第1項1号,地方教育行政の組織及び運営に関する法律(地教行法)2条に基づき,都教委を設置する地方公共団体である。都教委は,地教行法23条に基づき,学校その他の教育機関の設置管理や,職員の任免等の事務を管理,執行する行政庁であり,その権限に属する事務を処理させるため,事務局として東京都教育庁(以下「教育庁」という。)を置き(同法18条1項),教育長を任命し(同法16条1項),教育長は,都教委の指揮監督の下に,都教委の権限に属する全ての事務を司り(同法17条1項),教育庁の事務を統括し,所属の職員を指揮監督する(同法20条1項)。 (2)本件再雇用,本件再任用制度 ア 都教委は,東京都公立学校再雇用職員設置要綱(以下「要綱」という。)を定め,定年退職等によりいったん退職した教職員等を地方公務員法3条3項3号に定める特別職の非常勤職員(嘱託員)として新たに任用し,再雇用する(以下「本件再雇用」という。)制度を実施し,教育庁人事部長が定める「東京都公立学校再雇用職員設置要綱の運用について」(以下「運用内規」という。)により運用している。また,教育庁人事部は,嘱託員任用事務の手引を作成しているが,これによれば,本件再雇用制度は,昭和60年の定年制施行に伴って制度化されたもので,その趣旨は,退職者に生きがいと生活の安定を与えるとともに,長年培った豊富な知識や技能を退職後も役立て,学校教育の充実を図ることにある。  要綱は,嘱託員の任命につき,〔1〕正規職員を退職又は再任職員を任期満了する前の勤務成績が良好であること,〔2〕任用に係る職の職務の遂行に必要な知識及び技能を有していること,〔3〕健康で,かつ,意欲をもって職務を遂行すると認められることという要件を備えている者のうちから選考の上,1年以内の雇用期間付きで(ただし,要件審査の上,満65歳に達する年度の3月31日まで,4回に限り更新できる。)都教委が任命し,選考方法等については,教育庁人事部長が別に定めると規定している。そして,運用内規は,嘱託員の選考方法として,勤務実績,適性及び健康状況について所属長の推薦書及び希望者の申込書を徴し,希望者の意欲及び意向を確認するため面接を行い,面接,推薦書及び申込書により希望者を総合的に判定し,採用を決定すると規定している。 イ 被告は平成13年度から,地方公務員法28条の4,5に基づき,定年退職等によりいったん退職した者を,従前の勤務実績に基づく選考により,1年を超えない範囲内で任期を定め,常時勤務を要する職(同法28条の4)又は短時間勤務の職(同法28条の5)に再任用する(以下「本件再任用」という。)制度を導入し,平成14年度から実施している。東京都総務局人事部及び教育庁人事部が作成した「都における再任用制度の導入(概要)」によれば,本件再雇用制度の導入の経緯として,団塊世代の退職により,若年労働者が減少する中で,退職者の知識,経験を即戦力として活用する必要性が高まったとの事情及び公的年金の満額支給開始年齢の引上げに伴い,60代前半に雇用機会を提供して生活保障を図る必要性が高まったとの事情があり,採用については,従前の勤務実績に基づく選考による能力実証を経た上で決めると定められている。  その選考要件は,本件再雇用制度の上記3要件と同じである。(証人C) (3)本件不合格に至る経緯 ア 教育庁は,都立高等学校長らに対し,平成15年10月23日付けで,15教指企第569号「入学式,卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」(以下「本件通達」という。)を発した。その内容の要旨は以下のとおりである。  〔1〕学習指導要領に基づき,入学式,卒業式等を適正に実施すること。  〔2〕入学式,卒業式等の実施に当たっては,別に定める実施指針のとおり行うものとすること。  〔3〕国旗掲揚及び国歌斉唱の実施に当たり,教職員が本件通達に基づく校長の職務命令に従わない場合は,服務上の責任を問われることを,教職員に周知すること。  上記の実施指針には,国旗は,式典会場の舞台壇上正面に掲揚し,国旗掲揚の時間は,式典当日の児童,生徒の始業時刻から終業時刻とすること,式次第に「国歌斉唱」と記載すること,国歌斉唱に当たり,式典司会者が,国歌斉唱と発声し,起立を促すこと,式典会場において,教職員は,会場の指定された席で国旗に向かって起立し,国歌を斉唱すること,国歌斉唱はピアノ伴奏等により行うこと等と記載されている。(証拠略)  高等学校学習指導要領は,学校教育法43条に基づき文部科学大臣が定め,平成11年3月に告示されたものである。高等学校学習指導要領には,国旗及び国歌に対して一層正しい認識をもたせ,尊重する態度を育てることが重要であるとの認識に基づき,入学式や卒業式等において,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導する旨を定めている。平成9年度卒業式と平成10年度入学式での国旗掲揚,国歌斉唱の実施率は,東京都以外の多くの地方公共団体の公立高等学校では100%であった。(証拠略)  本件通達が出される前は,都立高等学校の校長から教職員に対し,卒業式等の国歌斉唱時に国旗に向かって起立し国歌を斉唱するよう命じる職務命令が発令されたことはなく,不起立者に対して懲戒処分がされた事例はなかったが,本件通達以降,起立斉唱を命じる職務命令が発令されるようになり,職務命令に違反した不起立は懲戒処分の対象とされるようになった。教育庁が策定した教職員の非行に対する標準的な処分量定によれば,職務命令違反は,減給又は戒告相当とされているところ,従前の運用によれば,1回目の不起立による職務命令違反は,基本的に戒告処分とされている。(証拠略,証人C,原告本人) イ 原告は,平成16年3月1日,都立A高等学校の校長から,口頭及び書面で,同月5日の卒業式の国歌斉唱の際は国旗に向かって起立し国歌を斉唱することを命じられた(以下「本件職務命令」という。)。この職務命令書には,本件通達及び地方公務員法第32条(法令及び上司の職務上の命令に従う義務)に基づく命令である旨記載されていた。(証拠略)  原告は,同月5日の卒業式の国歌斉唱の際,本件職務命令に違反して起立せず(以下「本件不起立」という。),同月31日,都教委から,本件不起立が職務命令に違反し,全体の奉仕者たるにふさわしくない行為であって,教育公務員としての職の信用を傷つけ,職全体の不名誉となるとして戒告処分を受け(以下「本件戒告処分」という。),同年6月28日,服務事故再発防止研修を命じられ,これを受講した。原告は,都公立学校教員在職中,本件戒告処分以外に懲戒処分を受けたことはない。  原告は,同年4月1日,都立B高等学校に赴任した。同月7日の入学式,平成17年3月16日の卒業式,同年4月7日の入学式,同年10月10日の同校10周年記念行事,平成18年3月15日の卒業式,同年4月7日の入学式の各式典における国歌斉唱の際には,いずれの機会にも起立した。平成19年3月15日の卒業式は,警備担当として校舎入口警備を務めたため,式典には参加していない。 ウ 原告は,平成18年10月,都教委に対し,所定の手続に則り,都立B高等学校長の推薦書を提出して本件再雇用,本件再任用職員の採用選考に申し込み,都教委職員の面接を受けたが,平成19年1月18日,本件不合格の通知を受けた。  同校長は,原告の同校赴任後の態度から,教科指導,受験指導,部活指導,分掌業務等に熱心であり,生徒にとって良き教師であると判断し,上記推薦書を作成していた。(証拠略) エ 平成10年度〜平成19年度の間の本件再雇用,本件再任用職員の採用選考申込者及び採用者数は別紙のとおりである。  両制度を併願した場合,本件再任用職員の採用選考で不合格となっても本件再雇用職員の採用選考で合格する事例が多い。(証人C)  本件通達が出される前は,卒業式等の国歌斉唱時に起立斉唱を命じる職務命令が出されることはなかったため,不起立を理由に本件再雇用,本件再任用職員の採用選考に不合格となる者はいなかったが,不起立が職務命令違反とされるようになった平成15年度以降,職務命令に反する不起立により懲戒処分を受けた者で,採用選考に合格した者は存在しない。(証人C,弁論の全趣旨)  原告が不採用となった平成18年度採用選考では,戒告処分よりも重い減給処分,停職処分を受けた者で採用された者がいる。(証拠略)  平成19年度の本件再雇用職員の報酬額は,勤務日数月13日の場合で月額16万円,本件再任用職員の報酬額は,原告の定年退職時の職務級2級の場合で月額28万3400円である。(証拠略) 2 争点 (1)本件不合格の処分性の有無 (2)都教委による裁量権の逸脱,濫用の有無 (3)本件不合格による原告の損害額 3 当事者の主張 (1)本件不合格の処分性の有無(争点(1)) (原告の主張)  採用選考に合格すれば特段の事情がない限り職員として採用され,不合格になれば採用されることはないから,採用選考の合否の通知は,4月1日を始期とし,服務事故を起こすことを解除条件とする採用行為と解すべきである。そうすると,本件不合格は,本件再雇用,本件再任用拒否処分に他ならず,抗告訴訟で争うことのできる行政庁の処分に当たると解すべきである。  そして,本件不合格は,法令に基づく原告の申請を却下する処分に当たるのであり,本件不合格は取消し得べき又は無効なものであるから,東京都再雇用職員又は東京都再任用職員として採用せよとの義務付けの訴え(行政事件訴訟法37条の3第1項2号)が認められるべきである。 (被告の主張)  本件再雇用,本件再任用職員の勤務関係は,都教委による任命という行政処分によって成立し,採用選考に合格したからといって直ちに職員たる地位が生じるわけではないから,合否の決定と任命行為とは別個の行為である。都教委が原告に通知したのは,採用選考における不合格の結果であり,本件再雇用や本件再任用の拒否といった処分は存在しないから,その取消や無効確認を求める訴えは不適法であり,適法な取消訴訟等との併合提起という要件を満たさない義務付けの訴えも不適法である。 (2)裁量権の逸脱,濫用の有無(争点(2)) (原告の主張)  本件不合格は,その判断過程に見過ごし難い過誤があり,本件再雇用,本件再任用制度の目的を無視して,不起立者を排除するという不法な動機から報復的に行われたものであるから,裁量権の逸脱,濫用がある。  本件不合格は,本件職務命令違反を理由とするものであるが,日本の侵略戦争の歴史を学ぶ在日朝鮮,中国人の生徒に対し,日の丸や君が代を卒業式に組み入れて強制することは,教師としての原告の良心が許さない。したがって,このような原告に起立斉唱を命じた本件職務命令は,原告の思想及び良心の自由(憲法19条)を侵害する違憲,違法なものであり,本件職務命令違反を理由とする不合格は裁量権の逸脱,濫用に当たる。  仮に,本件職務命令が適法であるとしても,本件不起立は,卒業式の進行を阻害したり,混乱に陥らせるような態様ではないこと,懲戒処分の中で最も軽い戒告処分とされていること,原告は本件戒告以外に懲戒処分を受けたことがなく,本件戒告後,研修を受講し,その後,定年退職するまでの間,校長の職務命令に従い,起立し続けたこと,原告は生徒にとって良き教育者であり,教育技能に優れ,教育熱心であることからすると,本件不起立のみを理由に,勤務成績が良好でないと判断したことは,客観的合理性,社会的相当性を著しく欠いている。  本件再雇用,本件再任用制度は,定年退職者の生活を支える目的のものであり,原則として希望者は全員採用される運用が想定され,現にそう運用されてきた。ところが,本件通達発令後,突如として不起立者を一律に本件再雇用,本件再任用の対象としない方針を採ったのは,不起立者を排除するという不法な動機で運用されていることを裏付ける事情である。 (被告の主張)  本件再雇用,本件再任用制度は,定年退職者の雇用の確保のみならず,定年退職者の豊富な知識や技能を役立てることにより学校教育の充実を図ることを目的としており,希望者全員を採用する義務を負うものではなく,採用に当たっては,都教委に広範な裁量権が認められる。  生徒や保護者らが出席する卒業式において,学習指導要領に基づく国旗国歌の指導という教育課程を実施するために校長が出した起立斉唱の職務命令に従わないことは,教育,指導を責務とする教育公務員としては,職の信用を傷つけ,職全体の不名誉となる重大な非違行為に当たるのであり,本件職務命令違反を犯した原告に対し,勤務成績が良好であるとの要件を備えていないと判断したことに裁量権の逸脱,濫用はない。本件職務命令は,原告に対し,特定の思想を持つことを強制又は禁止したり,特定の思想の有無を告白することを強制するものではなく,起立斉唱を拒否することが,原告の思想,信条と不可分に結びついているともいえないから,原告の思想及び良心の自由を侵害するものではない。 (3)損害額(争点(3)) (原告の主張)  本件不合格は,国家賠償法上の違法性を有する。原告は,本件不合格により,本件再任用職員(給与月額28万3400円)として1年間に得られるはずであった340万円0800円相当の経済的損失を受け,教師の職を奪われたことによる精神的苦痛は100万円を下らない。また,訴え提起を余儀なくされ,弁護士に訴訟遂行を委任せざるを得なくなったことにより,弁護士費用相当額の44万円の出費を強いられた。 第3 当裁判所の判断 1 本件不合格の処分性の有無 (1)原告は,本件不合格が抗告訴訟の対象たる行政庁の処分(行政事件訴訟法3条2項)に当たると主張し,処分の取消又は無効確認を求めている。しかし,前記前提事実のとおり,本件再雇用,本件再任用制度は,定年等によりいったん退職した一般職の地方公務員を,新たに選考の上,特別職の非常勤職員(本件再雇用職員)や1年以内の任期付き職員(本件再任用職員)として採用するものであるから,被告は,採用選考申込みがあれば合格させて採用する法的義務を負うわけではなく,採用選考申込者に職員としての採用を求める法的権利が与えられていると解することはできない。そうすると,不合格とされ,採用されなかったこと自体からは,原告の権利又は法律上の地位には変動が生じないという他ないから,本件不合格に処分性を認めることはできず,その取消や無効確認を求める訴えは不適法である。 (2)原告は,本件不合格が,一定の処分を求める旨の法令に基づく申請が却下された場合(行政事件訴訟法3条6項2号,37条の3第1項2号)に当たると主張し,本件再雇用,本件再任用職員として採用することの義務付けの訴えを提起している。しかし,同法3条6項2号の義務付けの訴えは,一定の処分を求める法令上の申請権に基づく申請が要件であり,本件再雇用,本件再任用職員の採用選考申込者には,職員として採用することを求める法的権利が与えられていないのであるから,原告には一定の処分を求める法令上の申請権があるとは認められず,上記義務付けの訴えは不適法である。 (3)以上によれば,原告の請求に係る訴えのうち,処分の取消又は無効確認及び義務付けを求める訴えは,いずれも不適法却下を免れない。 2 本件不合格の裁量権の逸脱,濫用の有無 (1)前記前提事実のとおり,本件再雇用,本件再任用制度は,定年等によりいったん退職した一般職の地方公務員を,新たに選考の上,特別職の非常勤職員(本件再雇用職員)や1年の任期付きの職員(本件再任用職員)として採用するものである。そうすると、都教委は,地方公務員法又は地教行法34条に基づき設定した要綱が定める一定の基準に従い,希望者を選考し,任命する権限を有するのであり,希望者全員を採用する義務を負うものではないし,採用選考に当たっては,広範な裁量権が認められる。したがって,都教委において,上記の採用選考に当たっての裁量権の逸脱,濫用がない限り,違法の問題は生じない。 (2)しかし,前記前提事実のとおり,本件再雇用,本件再任用制度の目的の1つが,定年制の導入や公的年金の受給年齢の引き上げに伴い生じた定年退職者等の生活保障にあること,いずれの選考基準も抽象的で,選考資料は本人の申請書,所属校長の推薦書及び面接の結果だけであり,改めて試験が実施されることはないという手続から,格別高度な能力,技能等が要求されるとは解釈できないこと,毎年約600名〜900名余り(平成10年度〜平成12年度)又は毎年200名前後の者(平成13年度以降)が本件再雇用又は本件再任用職員としての採用を希望し,そのほとんど全員が採用されてきた経緯があり,とくに本件通達発令前の平成14年度までは概ね全員が採用されていたことから,形式的には退職後の新たな採用ではあるが,事実上は,退職前後の地位に継続性があるものとして機能してきたと認められること等の事情に照らすと,希望すれば,定年後も本件再雇用,本件再任用職員として採用されるとの採用選考申込者の期待には合理性があり,一定の法的保護に値するというべきである。  そうすると,都教委の裁量権もこの見地から制限を受け,不合格の理由が著しく不合理であったり,恣意的であるなど,客観的合理性や社会的相当性を著しく欠く場合には,裁量権を逸脱,濫用したものとして違法との評価を受け,採用選考申込者の期待権を侵害するものとして,期待権侵害による損害賠償の責任があるというべきである。 (3)被告は,原告が本件再雇用,本件再任用制度の選考要件のうち,「職務の遂行に必要な知識及び技能を有していること」及び「健康で,かつ,意欲をもって職務を遂行すると認められること」の各要件を満たしていることを争わず,本件不合格の理由は,本件不起立による本件戒告処分のため,「勤務成績が良好である」の要件を満たさなかったことに尽きると主張している。なお,前記証人Cの供述中には,勤務成績良好でないと判断した根拠として,下位評価があったとの供述もあるが,何ら具体的事項を含むものではないから,上記のとおりに被告の主張を理解するのが相当である。  そこで,以下,本件不起立に関して本件戒告処分を受けたことのみを理由とする本件不合格が裁量権の逸脱,濫用に当たるかを検討することになる。 (4)本件職務命令の違法性の有無  原告は,本件職務命令が原告の思想及び良心の自由を侵害する違憲なものであり,本件職務命令違反を理由として本件不合格としたことは,都教委が有する裁量権の逸脱,濫用に該当すると主張する。  しかし,原告が本件不起立の理由として主張するところが,日の丸,君が代が過去の我が国において果たした役割に係わる原告自身の歴史観ないし世界観及びこれに由来する信念として,憲法19条によって保障されているとしても,このような考えを持つことと,学校の儀式的行事の国歌斉唱の際に不起立に及ぶ行為とは,不可分に結びつくとはいえない。原告は,卒業式は生徒と教師が作り上げるべきであり,他者から一律に強制されるべきではないとも主張するが,一般的には,このような原告の内心の信念と,原告が採った行動とが不可分に結びつくといえないことも同様である。また,全国の公立高等学校では,卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱が従来から広く実施され,起立斉唱する行為は,出席する教職員らに通常想定される行為であり,特定の思想を有することを外部に表明する行為と評価することはできないから,本件職務命令が,原告に対して,特定の思想を強制又は禁止したり,特定の思想の有無について告白を強要したりするものということはできず,生徒らに対して一方的な思想や理念を教え込むことを強制するものとみることもできない。原告は,憲法15条2項,地方公務員法30条,32条により,全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し,かつ,職務の遂行に当たっては,法令等に従い,上司の職務上の命令に従わなければならないという立場の者である。そして,本件職務命令は,国旗や国歌に対する正しい認識を持たせ,尊重する態度を育てるという学習指導要領の目的にかなうものであり,その目的,内容において不合理であるということはできない。  以上のとおり,本件職務命令は,原告の思想及び良心の自由(憲法19条)を侵害するものとはいえないから,この点に関する原告の主張は採用できない。 (5)上記のとおり,違憲とはいえない本件職務命令に違反した行為によって本件戒告処分を受けたことが,勤務成績の判断に際し,消極的要素として考慮され得ることは,直ちに誤りであるとして,これを不合理とすることはできない。  しかし,前記前提事実のとおり,本件通達が出される前は,国歌斉唱時に起立を命じる職務命令が出されることはなく,不起立は懲戒処分の対象とされず,不起立を理由に本件再雇用,本件再任用職員として採用されない者はいなかったものが,本件通達後,起立斉唱を命じる職務命令が出されるようになって,不起立が職務命令違反となり,この職務命令違反歴がある者は一律に不採用とされた。本件通達は,学習指導要領が要請する国旗国歌の指導という目的を充実させるために出されたものであり,起立斉唱を命じる職務命令によって達成しようとした目的は,本件通達前から既に存在していたのであり,この目的に反するという意味では,不起立に対する評価は,本件通達発出の前後で質的に変わりはないというべきである。被告は,本件通達が出される前には,不起立から直ちに勤務成績良好という選考要件を満たさないとは評価していなかったことになり,このような判断は,定年退職者の生活保障や長年培った知識や技能の活用による学校教育の充実という本件再雇用,本件再任用制度の趣旨に照らし,合理性を有するものである。また,本件通達後,不起立が職務命令違反とされるようになってからも,1回目の不起立は基本的に懲戒処分の中で最も軽い戒告処分相当とされ,起立斉唱を命じる職務命令は,教育課程の実施に関する職務命令の1つではあるが,年に数回程度の卒業式,入学式における国旗,国歌の指導に関するものであり,教育課程の実施に関する他の職務命令に比べて重要な特別の意味合いをもつとは考えられない(被告も,起立斉唱の職務命令違反が,戒告処分に相当する非違行為一般と異なる特殊な非違行為と捉えていないと主張する。)のであり,非違行為の程度として戒告処分相当とされていることも合理性がある。  さらに本件に関していえば,次のような点が考慮されるべきである。まず,本件不起立の態様は,他の教職員や生徒らに不起立を促すようなものではなく,式典の進行が阻害されたり,混乱したりした形跡はない。原告は,本件戒告処分に対して不服を申立てることなく,再発防止研修を受講し,その後,定年退職するまでの3年間,教育現場を混乱させたくないとの思いから,校長の職務命令に従い,毎年起立斉唱を行ってきたのであり,再び同種の非違行為に及ぶ可能性はかなり低いものである。また,原告は,本件戒告処分以外に懲戒処分を受けたことはなく,選考要件のうち,他の2要件を満たすことについては被告も争わず,所属校の校長は原告の勤務態度を評価して推薦書を作成している。  以上のような被告の不起立に対する従前の評価に照らすと,本件再雇用,本件再任用職員の採用選考の場面において,不起立という職務命令違反を余りに強調することには疑問がある。本件再雇用,本件再任用職員の採用選考要件は,学校教育の充実,つまり生徒,保護者の利益,ひいては公教育全体の信頼のために設けられているのだから,懲戒処分の対象としての評価と基本的に異なるところはないのであり,懲戒処分の対象としては非行の程度が軽いと評価しながら,採用選考の際には,これだけを理由に不合格となるほどの重大な非違行為に当たると評価することは,不合理と評価せざるを得ない。それに加えて,原告に関する上記具体的事情を総合して考慮するならば,本件職務命令違反に関して本件戒告処分を受けたという一事をもって,本件不合格に値するほどの重大な非違行為と評価することは,極めて不合理というべきである。  被告は,原告に関する上記のような具体的事情を考慮したとしても,本件不起立という職務命令違反がある以上,勤務成績良好との要件を満たさないとして不合格としている。このような判断は,教育課程の実施に関する職務命令の1つに過ぎず,その違反が戒告処分相当とされている本件職務命令に違反した本件不起立を過大視する余り,現実に本件不合格を告知された原告に関して前述のように認められる具体的事情を一切顧みない結果となっているに等しいのであって,定年退職者の生活保障及び長年培った知識や技能を活用することによる学校教育の充実という本件再雇用,本件再任用制度の趣旨からも,採用選考における従前の判断のあり方からも大きく逸脱し,前述のとおり法的保護の対象となる原告の合理的な期待を大きく損なうものといわざるを得ない。よって,本件不合格は,客観的合理性及び社会的相当性を著しく欠き,裁量権の逸脱,濫用があるというべきである。  そうすると,都教委は,その裁量権を逸脱,濫用して原告の期待権を違法に侵害したと評価せざるを得ないのであり,都教委の設置者である被告は,原告に対し,国家賠償法に基づき,期待権を侵害したことによる損害を賠償すべき法的責任があるといわなければならない。 3 損害額  期待権侵害により原告が被った損害について検討すると,前記前提事実から,採用選考に合格すれば,服務事故等,特別の事情がない限り,本件再雇用又は本件再任用職員として採用され,少なくとも更新までの1年間の任期内は稼働して報酬を得られるはずであったが,原告は,本件不合格により,本件再雇用又は本件再任用職員としての報酬を得られなくなったこと,両制度を併願した場合,本件再任用選考で不合格となった者でも本件再雇用選考では合格する事例が多いこと,本件不合格当時の原告の60歳という年齢に照らして再就職が困難であり,現に就職していないこと,原告の採用への期待は定年後の生活基盤に直接関連するもので,採用されなかったことによる定年後の生活上の影響は大きいものがあったと考えられること,その他本件に現れた一切の事情を総合考慮すると,原告が本件再雇用職員(報酬月額16万円)として採用され,1年間稼働した場合に得られる報酬額の範囲内に限り,相当因果関係のある損害と認めるのが相当であるから,損害額は192万円となる。  原告は,違法に教師の職を奪われ,精神的苦痛を被ったとして,慰謝料の支払を求めているが,本件再雇用,本件再任用職員として採用されることについての期待権は,採用されたならば稼働して報酬を得られるということが法益の中心なのであるから,上記のとおり,逸失利益相当額が損害額として認められる以上,本件不合格による精神的苦痛は,逸失利益相当額の填補によって慰謝されるというべきである。よって,この点に関する原告の主張は理由がない。  上記損害額や本件訴訟の難易等の諸事情を総合考慮すると,相当因果関係ある損害としての弁護士費用は19万円とするのが相当である。  そして,本件不合格が原告のもとに到達した日(平成19年1月18日)から民法所定の年5分の割合による遅延損害金(逸失利益相当額については,原告が請求するその後である平成20年3月15日からの請求の限度となる。)が発生することになる。 第4 結論  以上によれば,原告の請求は,主文第1項の限度で理由があるから認容し,原告の処分の取消,無効確認及び義務付けの訴えは,いずれも不適法であるからこれらを却下し,原告のその余の請求は理由がないから棄却し,仮執行宣言は相当でないのでこれを付けないこととし,主文のとおり判決する。 (東京地方裁判所民事第36部 裁判長裁判官 渡邉弘 裁判官 三浦隆志 裁判官 秋武郁代) 別紙 再雇用選考等の実施状況(定年退職者) (単位:人) 選考実施年度 調査対象      申込者数 合格者数 平成10年度 再雇用のみ      911  895 平成11年度 再雇用のみ      629  620 平成12年度 再雇用のみ      589  589 平成13年度 再任用のみ        5    3        再任用及び再雇用   108  108        再雇用のみ      120  120 平成14年度 再任用のみ       12    7        再任用及び再雇用   102  102        再雇用のみ      147  147 平成15年度 再任用のみ        7    7        再任用及び再雇用    91   91        再雇用のみ      155  154 平成16年度 再任用のみ        5    3        再任用及び再雇用    47   47        再雇用のみ      146  139 平成17年度 再任用のみ        3    2        再任用及び再雇用    38   37        再雇用のみ      130  123 平成18年度 再任用のみ        9    9        再任用及び再雇用    61   60        再雇用のみ      147  139 平成19年度 再任用のみ       43   31        再任用及び非常勤教員 101  101        非常勤教員       98   85 注1:平成10年度から平成12年年度までは、都立学校と小・中学校の合算数値である。 注2:平成13年度以降は,都立学校のみの数値である。 注3:平成19年度より再雇用職員制度がなくなり,非常勤教員へと変更になった。