(1) | 沖原豊『体罰』(一九八〇年)二〇四頁。 |
(2) | 明治中期以後の国家主義的教育とは、「寄生地主制と、福沢のいう地主小作人的労資関係の支配する工場において、高率小作料と低賃金=長時間労働に耐え、帝国主義的軍事行動にも『欣然』と参加」しうる「臣民」を再生産するもの、といわれる(安川寿之輔「学校教育と富国強兵」(『岩波講座日本歴史15近代2』一九七六年)二五四頁)。このような国家主義的教育において、有形力行使をともなう懲戒権行使が、有効な手段として活用されていたことは否定できない歴史的事実である。 |
(3) | 利谷信義「親と教師の懲戒権」日本教育法学会年報4号(一九七五年)一九二頁参照。 |
(4) | 大判大正五年六月一五日刑録二二輯大正五年六月一一一一頁。 |
(5) | 同事件の経緯については、河野通保『学校事件の教育的法律的実際研究』上巻(一九三三年)二三七頁参照。 |
(6) | 河野・右掲書二三六頁以下参照。 |
(7) | 利谷・前注(3)掲論文二〇〇頁。 |
(8) | すなわち「身体に対する侵害を内容とする懲戒 −−なぐる、けるの類−−がこれ〔注・体罰〕に該当することはいうまでもないが、さらに被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒もまたこれに該当する。たとえば端座、直立等特定の姿勢を長時間にわたって保持させるという懲戒は、体罰の一種と解されなければならない」(昭和二三年一二月二二日法務府法務調査意見長官通達)とされ、さらに、「用便に行かせなかったり食事時間を過ぎても教室に留め置くことは肉体的苦痛を伴うから体罰」(昭和二四年八月二日法務府「生徒に対する体罰禁止に関する教師の心得」)とされた。なお兼子仁『教育法〔新版〕法律学全集16−I』(一九六三年)四三五頁以下参照。 |
(9) | 大阪高判昭和三〇年五月一六日、高刑集八巻四号五四五頁。この判例評釈としては、小田中聡樹「体罰の暴行罪該当性」小林直樹・兼子仁編『教育判例百選(第二版)』別冊ジュリスト六四号(一九七九年)一二四頁がある。 |
(10) | 最判昭和三三年四月三日裁判集(刑事)一二四・三一頁。 |
(11) | 東京地判昭和三三年五月二八日判例時報一五九号五〇頁。 |
(12) | 川内簡略式命令昭和四一年八月三一日教育判例研究会編(編集代表・野村好弘)『学校事故・学生処分判例集』八八五頁。 |
(13) | 高田簡略式命令昭和四四年五月一二日右掲判例集八八六頁。 |
(14) | 八代簡略式命令昭和四四年一〇月八日右掲判例集八八七頁。 |
(15) | 山吉剛「教師の懲戒権・体罰をめぐる判例の動向」季刊教育法二七号(一九七八年)一〇二頁以下、今橋盛勝「体罰の教育法的検討」同前一一六頁以下参照。 |
(16) | 旭川地判昭和三二年七月二七日判例時報一二五号二八頁。 |
(17) | 福岡高宮崎支判昭和四七年一一月三〇日福岡高検判決速報一一五五号一頁。 |
(18) | 前注(9)掲記大阪高判は、体罰行為が、全国的に現に広く行われていることは、それを不可罰とする実質的根拠とはならないと判示している。 |
(19) | 横浜地横須賀支判昭和三四年一一月二〇日下刑一巻一一号一四四頁。 |
(20) | 利谷・前注(3)掲論文一九二頁。 |
(21) | 兼子・前注(8)掲書四三五頁。 |
(22) | 笠間達男「『体罰是非論』論」少年補導二六巻八号(一九八一年)一〇頁、および本稿注(8)参照。 |
(23) | 内田文昭『刑法I(総論)現代法律学講座26』(一九七七年)一九一頁、藤木英雄『刑法講義総論』 (一九七五年)一八七頁。 |
(24) | 西原春夫『刑法総論』(一九七七年)二二六頁参照。 |
(25) | 藤木・前注(23)掲書一八六頁〜一八七頁。 |
(26) | 斉藤誠二教授は、正当防衛や緊急避難およびこれに近い場合に、体罰が許される(斉藤誠二『刑法講義各論T〔新訂版〕』(一九七九年)三四九頁)とされる。けれども体罰と正当防衛・緊急避難との加害態様には、能動と受動の本質的差違があるというべきである。その差違をあいまいにして、正当防衛・緊急避難の適用を拡大することは、結局、体罰一般を許容することにつながるであろう。 |
(27) | 中山研一『口述刑法総論』(一九七八年)一三九頁〜一四九頁参照。 |
(28) | 佐伯博士が、親権者または後見人の懲戒権行使として「子を懲戒場に入れること」のみを例示し、これは「監禁罪の類型に嵌るが、違法性が阻却される。」とされるのは、同趣旨か。佐伯千仭『四訂刑法講義(総論)』 (一九八一年)二一一頁〜二一二頁。 |
(29) | 本判決の判例研究としては、木村裕三「懲戒行為の限界」名城法学三一巻一号(一九八二年)九〇頁、および星野安三郎「生徒懲戒における『有形力行使』の適否」季刊教育法四一号(一九八一年)一四三頁がある。なお星野・右掲論文一五〇頁注(3)では、本判決が、「有形力の行使」という新しい用語を作ったと指摘される。しかし、「有形力の行使」という文言は、暴行罪の概念を表す際に、講学上一般に用いられており、別段目新しいものではない(たとえば、団藤重光『刑法綱要各論〔増補〕』(一九八一年)三三八頁以下参照)。 |
(30) | J. H. Pestalozzi, Brief an einen Freund über seinen Aufenthalt in Stanz (1799) 長田新訳『隠者の夕暮・シュタンツだより』岩波文庫(一九四三年)七五頁。 |
(31) | 和田修二「教育と体罰」季刊教育法二七号(一九七八年)九九頁以下参照。 |
(32) | 文部省初等中等教育局地方課「中学生の体罰に係る昭和五六年四月一日の東京高裁判決について」教育委員会月報昭和五六年六月号(一九八一年)二四頁。 |
(33) | 星野・前注(29)掲論文一四八頁参照。 |
(34) | 小田中・前注(9)掲論文一二五頁。 |
(35) | 木谷判事は、「生徒・児童等の身体に対する有形力の行使は、・・・これを一切許さないとするのも、教育の実情を無視した議論」であるとして、本判決の見解を是認すべきとされる(木谷明「学校事故と刑事責任」石原一彦ほか編『現代刑罰法大系3』(一九八二年)二二七頁)。しかし、むしろ安易に体罰が行なわれている学校教育の実情こそ問題であり(「報道された体罰事件」少年補導二六巻八号二六頁以下参照)、右見解には賛成できない。 |
(36) | 国家公務員法七九条一項二号、地方公務員法二八条二項二号参照。 |
(37) | 小田中教授が指摘されるように(前注(9)掲論文一二五頁)、最高裁が起訴の当否に疑問があるかの如き口吻をもらしている点は、注目されよう。その意味では、中学教師の体罰事件に関して、被害者生徒の親権者による告訴取下げ等の事情により、右教師を起訴猶予処分とした仙台地検の措置は、評価できよう(内外教育 昭和五二年六月一七日号二頁、なお沖原・前注(1)掲書二二頁以下参照)。 |