◆198210KHK005A2L0301GHM
TITLE:  教員による懲戒行為と違法阻却−刑法三五条・学校教育法二条−
AUTHOR: 吉田 卓司
SOURCE: 関西学院大学法政学会「法と政治」第33巻第2号(1982年10月)
WORDS:  全40字×301行

〔判例研究〕

教員による懲戒行為と違法阻却
 ― 刑法三五条・学校教育法二条 ― 


吉 田 卓 司



(東京高裁昭和五六年四月一日判決、
判タ四四二号一六三頁、判時一〇〇七号一三三頁)

〔事実の概要〕

 昭和五一年五月一二日、被告人たる中学校教員Kは、当時の勤務校体育館内で、体力診断テスト実施の際に補助係をすることになっていた生徒A(当時中学二年)が「何だKと一緒か」と言ったのを聞きとめ、「今言ったことをもう一度先生に言ってごらん。」 等々の言葉で注意を与えつつ、数回Aの頭部を殴打したとして暴行罪に問われたものである。(なお、Aは本件当日から八日後に脳内出血で死亡した。本件裁判所は、被告人の当該行為と同人の死亡に因果関係ありと認むべき証拠はないと、傍論で述べている。)

〔判旨〕

 (私憤に駆られて手拳で強く数回殴打した旨認定説示する原判決には、「被告人の本件行為の態様並びにその動機・目的の認定において、重大な事実の誤認がある。」とした上で、)
 「有形力の行使は、・・・教育上の懲戒の手段としては適切でない場合が多く、必要最小限度にとどめることが望ましい」が、「教師が生徒を励ましたり、注意したりする時に肩や背中などを軽くたたく程度の身体的接触(スキンシップ)による方法が相互の親近感ないしは一体感を醸成させる効果をもたらすのと同様に、生徒の好ましからざる行状についてたしなめたり、警告したり、叱責したりする時に、単なる身体的接触よりもやや強度の外的刺激(有形力の行使)を生徒の身体に与えることが、・・・教育上肝要な注意喚起行為ないしは覚醒行為として機能し、効果がある」ので、「いやしくも有形力の行使と見られる外形をもった行為は学校教育上の懲戒行為としては一切許容されないとすることは、本来学校教育法の予想するところではない。」
  「そこで本件についてこれをみると、・・・本件行為の動機・目的は、Aの軽率な言動に対してその非を指摘して注意すると同時に同人の今後の自覚を促すことにその主眼があったものとみられ、またその態業・程度も平手及び軽く握った右手の挙で同人の頭部を数回軽くたたいたという軽度のもの」であって、「これと同人の年令、健康状態及び行った言動の内容等をも併せて考察すると、被告人の本件行為は、」「懲戒権の行使としての相当性の範囲を逸脱してAの身体に不当・不必要な害悪を加え、又は同人に肉体的苦痛を与え、体罰といえる程度にまで達していたとはいえず、同人としても受忍すべき限度内の侵害行為であったといわなければなら」ず、「結局、被告人の本件行為は、・・・外形的にはAの身体に対する有形力の行使ではあるけれども、学校教育法二条、同法施行規則二二条により教師に認められた正当な懲戒権の行使として許容された限度内の行為と解するが相当であ」り、よって「本件行為は、刑法三五条にいわゆる法令によりなされた正当な行為として違法性が阻却され、刑法二〇八条の暴行罪は成立しない。

〔研 究〕

一、本件における争点は、事実認定の点を除けば、教員による懲戒として刑法上許容されうる行為は何かという点である。これは、単に学校教育法一一条の解釈の問題ではなく、刑法三五条を介して、刑法上の違法阻却の一般原理につながる問題である。本稿では、主に右の刑事法的見地から、本判例に考察を加えることとしたい。その際まず、教員の懲戒権規定の沿革とその本質を明らかにせねばならないであろう。
  教員による懲戒権行使に法的根拠が与えられたのは、明治三三年の小学校令四七条に「小学校長及教員ハ教育上必要と認メタルトキハ児童二懲戒ヲ加フルコトヲ得但シ体罰ヨ加フルコトヲ得ス」と規定されたことに始まる(1)。そしてこの懲戒権規定は、明治二三年の教育勅語および同三〇年代の教科書国定化等とともに、国家主義的教育を拡充するものと位置づけられよう(2)。だとすれば、戦後、学校教育法に同様の規定を存置したこと自体が、問題となる。少なくとも、そこにおける「懲戒」の定義には、根本的反省が加えられるべきであった(3)。しかし、この点に関する反省は、はたして十分であったといえるのであろうか。そこで、戦前・戦後の判例と学説を概観し、本判決評価の布石としたい。

二、戦前の判例としては、大正五年の大審院判決(4)が、まず挙げられる。これは、尋常小学校一年担任が、自分の受け持ち教室での授業中、それを妨害し、侮蔑的態度をとった三年生(一一歳)の胸をつかみ、引き倒してこぶや傷を負わせたものである。一審、二審の有罪判決に対して、大審院は、逃避しようとした児童に対し「相当ノ力ヲ加へ其懲戒権ヲ行使シタリトセハ敢テ不法ノ行為卜言フヘカラス」と判示し、過失傷害の点については、原審の過失認定が不十分であるとして、地裁へ移送した。すなわち、死傷・健康障害の避止という限度はあるにせよ、教員の児童に対する暴行行為は、容認され、たとえ傷害が惹起されても証拠不十分等を理由に懲戒権は、巧妙に保護されていたといえよう(5)。換言すれば、戦前の判例の態度は、体罰横行の現状(6)を是認し、むしろそれを助長するものと言わなければならない(7)。
  戦後は、これと対照的に、教育法上禁止される「体罰」の成立範囲が、通達等により大きく拡げられ、その結果、懲戒権行使の許容範囲は、厳格に制限されることとなった(8)。それにともなって、判例の基本的態度も、大きく変化した。そのリーディングケースは、昭和三〇年の大阪高裁判決である。同判決は、(1)基本的人権の尊重と暴力を否定する日本国憲法の趣旨、(2)右趣旨によって刑法暴行罪の刑が加重されたこと、(3)さらに同規定が非親告罪化されたことを理由に、「殴打のような暴行行為は、たとえ教育上必要があるとする懲戒行為としてでも、その理由によって犯罪の成立上違法性を阻却せしめるというような法意であるとは、とうてい解されない」と判示した。そして最高裁も、被告人の上告を棄却し、右判決を支持した(10)。この最高裁判決後、中学校教員の体罰による傷害致死罪を認めた事例(11)、成績向上を図ろうと生徒二五名に暴行した中学校教員の事例(12)、教員の体体罰非難するなどした生徒三五名を殴打した事例(13)、鼻付近を一回殴打し、全治一週間の顔面打撲症を負わせて傷害罪とされた事例など、学校における生徒への体罰行為に刑事責任を認めた判例がみられる(15)。
  しかし、戦後も本判決のように、教育活動内の教員による有形力行使について不可罰とした判例もある。前記最高裁判決以前には、中学校教員が、教室から逃げ出した生徒を追跡・連行する等の所為を、正当業務行為とした判例がある(16)。この事例では、精神的興奮ないしショックを与えるような連行行為が教師としてなすべき正当業務とされ、連行の際「足蹴にして暴行を加えた」との公訴事実は、認定できないとされた。この判示の状況設定、および(証拠不十分という)不可罰理由が、前記大審院判決と類似している感は、否めない。また、前記最高裁判決以後にも、教員が訓戒のために児童の頭を上から押えた行為を、体罰禁止規定にふれず、まして刑法上暴行罪該当性もないとした判例がある(17)。その判決理由として、平手で二回位という当該行為の軽微性とともに、その訓戒が通常往々ありうる形の行為態様であることを挙げているが、しかし、「通常往々ありうる」ことが正当な根拠といえるかには、疑問なしとしない(18)。なお、事案はやや異なるが、非行性のある少年を補導更生させる意図で暴行を加えた中学教員が暴行罪等に問われた事例(19)では、情状を詳細に判示した上、執行猶予に付された。このように、個々の判例の是否はともかく、教員の生徒に対する有形行使についての寛大な傾向は、戦後もなお根強く判例の中に見うけられる。

三、次に、学説について検討したい。
  教育法学においては、学校教育法一一条の懲戒を、そもそも刑法上の構成要件に該当しないものとし(20)、さらに積極的には、学習権保障的懲戒と位置づける説も有力である(21)。こういった学説は、体罰禁止規定を、「刑法の対象にならないような体罰でも教育の場にあってはしてはいけない」という考えを示すものと理解する教育学的見解(22)と軌を一にするものといえよう。
  これに対して、刑法学の側では、「教員の懲戒行為が、暴行罪の構成要件に該当したとしても、法令に基づく行為ないし正当行為として刑法三五条により違法性が阻却される」といった見解が、戦後もなお有力に主張されている(23)。確かに、刑罰の謙抑性ないし補充性の原則からすれば、体罰行為に対して民法・行政法上の責任が生じるのはともかく、その行為がただちに刑罰適用を受けるものでないことは、自明である(24)。そこで、体罰的有形力行使について、その犯罪不成立の根拠を懲戒権に求めることが、唯一妥当といえるのかが問題とされなければならない。たとえば、藤木教授は、その可罰性の判断基準として、懲戒権を認めた趣旨、目的、その権能行使により保全される利益、被害法益の性質、加害行為の態様を挙げ、その上で、当該の具体的体罰行為が社会通念上相当な範囲内である場合には、刑法三五条の適用が認められるべきだと主張される(25)。けれども、被害法益がきわめて軽微な場合には、可罰的違法類型としての構成要件に該当しないとか、あるいは、被害者側の同意によって保護法益が欠缺し、違法性が阻却されるという構成も可能で(26)、しかも有形力をともなう懲戒権の行使が不可避的に児童・生徒の肉体的苦痛を生せしめる以上、なおその侵害行為に違法性が欠けるというには、常にその侵害に優越する利益の具体的援用が必要である(27)。前述のごとく、教員の懲戒規定の趣旨自体に疑問があり、かつそれによって保全される利益とは何が明確化されえない限り、結論的には、児童・生徒に対する有形力の行使は、他の阻却事由該当は別として、法令による行為ないし正当業務行為として、換言すれば教育的懲戒行為を理由としては不可罰とされえないと解すべきであろう(28)。

四、以上の検討からすれば、本判決の評価は、おのずから明らかとなろう(29)。本判決の特色は、スキンシップの程度をこえる「単なる身体的接触よりもやや強度の外的刺激(有形力の行使)」を生徒に加えることを、正当な懲戒権行使として、積極的に正当化した点である。この点で、本判決は、前記最高裁判決の枠を越えるものといえよう。
  本判決の依拠した法文上の形式的根拠は、学校教育法をうけて、同法施行規則一三条二項が、「懲戒のうち、退学、停学及び訓告の処分は、校長がこれを行う」と定めており、したがって、懲戒には、退学など校長の権限で行われるところの懲戒のほかに、校長および教員の行う、いわゆる「事実上の懲戒」、すなわち 「法的効果を伴わない事実行為としての教育的措置を講ずること」が含まれるということにある。この「事実上の懲戒」にどのような内実を与えるのかという点については、監督官庁の通達等の他、日本近代史上の歴史的教訓が、有益な示唆を与えることは言うまでもない。
  そこでさらに、本判決が「事実上の懲戒」に有形力の行使を含むとする実質的理由について検討を加えたい。本判決は、教師が生徒の身体に有形力を行使することが、「教育上肝要な注意換起行為ないし覚醒行為として機能し、効果があることも明らかであるから、・・・教師は必要に応じ生徒に対し一定の限度内で有形力を行使することも許されてよい場合があることを認めるのでなければ、教育内容はいたずらに硬直化し、血の通わない形式的なものに堕して、実効的な生きた教育活動が阻害され、ないしは不可能になる慮れがある」という理由を挙げている。ところで、「懲戒」の内実を考察する際、学校教育法一一条の体罰禁止の意義を顧慮する必要があろう。後の教育思想に大きな影響を与えたスイスの教育家ペスタロッチは、体罰に関して、「両親の加える処罰は、日夜子供と全く純な関係で生活もせず、また彼らと家庭を異にする学校教師ないし他の教師の加える処罰とはまるきり違う。これらの教師には子供の心情を惹きつけ且つ確保する多くの条件が欠けている。」と述べている(30)。殊に今日、大多数の児童・生徒が、いわば義務的に出席する学校で、方法的体罰が禁止される十分な理由がある。とすれば、本判例が、教員の懲戒として有形力行使を容認したこと自体、体罰禁止規定を有名無実化するものであるという批判をまぬがれ難い。
  しかも、当該行為が懲戒権行使として相当な範囲内か否かの判断基準ないし要素として、本判決は、生徒の年齢・性別等のみならず、非行内容や教育効果までも勘案するとしている。けれども、これらの基準・要素が、実際上教員にとって、懲戒を行う際の判断材料となるかは疑問である(32)。特に、教育的効果という判断要素にはきわめて多義的な内容を包含しうる点に注意しなければならない。たとえば、体罰行為によって教員が自分の言動に従順な児童・生徒を育成することは、ある意味で教育的効果があるといえようが、この意味での教育的効果とは、暴力行為を受容しかつそれに安易に追従する人間を生むことにほかならない。したがって、教育的効果といった不確定概念を法益衡量の要素とする場合には、慎重な留保が必要である。
  また、本件被告の行為の程度につき、本判例は、「いわば身体的説諭・訓戒・叱責として、口頭によるそれと同一視してよい程度の軽微な身体的侵害」としている。この点につき、言葉による心理的・精神的侵害と有形力による身体的侵害とを同一視しうるかについては、原則的に疑問である。刑法上の保護法益を明確化し、刑法の客観性を担保するためにも、両者の侵害形態は厳密に区別されるべきであろう。本判決におけるこの両者の同一視は、懲戒としての有形力行使を正当化するための斯瞞的表現と言わざるをえない。

五、すなわち、本判決は、刑法上教員に許される行為が何かを、明確化しえないような基準に依拠して結論を導いた点に問題があるばかりでなく、懲戒権行使の名目下に、「保護法益の欠缺」ないし「優越的利益の維持」を具体的に示すことなく、児童・生徒に対する暴行を容認する点で不当である(34)。
  なお、前述のように、教員の体罰行為に、例外なく国家の刑罰権が発動されてよいとは思われず、その意味では、その適用も、家庭内とはまたちがった配慮が必要となろう(35)。しかも教員にとって刑事事件での起訴自体が、大きな不利益をもたらしうる(36)ことも考えれば、検察官に対して、起訴段階における慎重な配慮が求められているといってよいであろう(37)。


(1) 沖原豊『体罰』(一九八〇年)二〇四頁。
(2) 明治中期以後の国家主義的教育とは、「寄生地主制と、福沢のいう地主小作人的労資関係の支配する工場において、高率小作料と低賃金=長時間労働に耐え、帝国主義的軍事行動にも『欣然』と参加」しうる「臣民」を再生産するもの、といわれる(安川寿之輔「学校教育と富国強兵」(『岩波講座日本歴史15近代2』一九七六年)二五四頁)。このような国家主義的教育において、有形力行使をともなう懲戒権行使が、有効な手段として活用されていたことは否定できない歴史的事実である。
(3) 利谷信義「親と教師の懲戒権」日本教育法学会年報4号(一九七五年)一九二頁参照。
(4) 大判大正五年六月一五日刑録二二輯大正五年六月一一一一頁。
(5) 同事件の経緯については、河野通保『学校事件の教育的法律的実際研究』上巻(一九三三年)二三七頁参照。
(6) 河野・右掲書二三六頁以下参照。
(7) 利谷・前注(3)掲論文二〇〇頁。
(8) すなわち「身体に対する侵害を内容とする懲戒 −−なぐる、けるの類−−がこれ〔注・体罰〕に該当することはいうまでもないが、さらに被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒もまたこれに該当する。たとえば端座、直立等特定の姿勢を長時間にわたって保持させるという懲戒は、体罰の一種と解されなければならない」(昭和二三年一二月二二日法務府法務調査意見長官通達)とされ、さらに、「用便に行かせなかったり食事時間を過ぎても教室に留め置くことは肉体的苦痛を伴うから体罰」(昭和二四年八月二日法務府「生徒に対する体罰禁止に関する教師の心得」)とされた。なお兼子仁『教育法〔新版〕法律学全集16−I』(一九六三年)四三五頁以下参照。
(9) 大阪高判昭和三〇年五月一六日、高刑集八巻四号五四五頁。この判例評釈としては、小田中聡樹「体罰の暴行罪該当性」小林直樹・兼子仁編『教育判例百選(第二版)』別冊ジュリスト六四号(一九七九年)一二四頁がある。
(10) 最判昭和三三年四月三日裁判集(刑事)一二四・三一頁。
(11) 東京地判昭和三三年五月二八日判例時報一五九号五〇頁。
(12) 川内簡略式命令昭和四一年八月三一日教育判例研究会編(編集代表・野村好弘)『学校事故・学生処分判例集』八八五頁。
(13) 高田簡略式命令昭和四四年五月一二日右掲判例集八八六頁。
(14) 八代簡略式命令昭和四四年一〇月八日右掲判例集八八七頁。
(15) 山吉剛「教師の懲戒権・体罰をめぐる判例の動向」季刊教育法二七号(一九七八年)一〇二頁以下、今橋盛勝「体罰の教育法的検討」同前一一六頁以下参照。
(16) 旭川地判昭和三二年七月二七日判例時報一二五号二八頁。
(17) 福岡高宮崎支判昭和四七年一一月三〇日福岡高検判決速報一一五五号一頁。
(18) 前注(9)掲記大阪高判は、体罰行為が、全国的に現に広く行われていることは、それを不可罰とする実質的根拠とはならないと判示している。
(19) 横浜地横須賀支判昭和三四年一一月二〇日下刑一巻一一号一四四頁。
(20) 利谷・前注(3)掲論文一九二頁。
(21) 兼子・前注(8)掲書四三五頁。
(22) 笠間達男「『体罰是非論』論」少年補導二六巻八号(一九八一年)一〇頁、および本稿注(8)参照。
(23) 内田文昭『刑法I(総論)現代法律学講座26』(一九七七年)一九一頁、藤木英雄『刑法講義総論』 (一九七五年)一八七頁。
(24) 西原春夫『刑法総論』(一九七七年)二二六頁参照。
(25) 藤木・前注(23)掲書一八六頁〜一八七頁。
(26) 斉藤誠二教授は、正当防衛や緊急避難およびこれに近い場合に、体罰が許される(斉藤誠二『刑法講義各論T〔新訂版〕』(一九七九年)三四九頁)とされる。けれども体罰と正当防衛・緊急避難との加害態様には、能動と受動の本質的差違があるというべきである。その差違をあいまいにして、正当防衛・緊急避難の適用を拡大することは、結局、体罰一般を許容することにつながるであろう。
(27) 中山研一『口述刑法総論』(一九七八年)一三九頁〜一四九頁参照。
(28) 佐伯博士が、親権者または後見人の懲戒権行使として「子を懲戒場に入れること」のみを例示し、これは「監禁罪の類型に嵌るが、違法性が阻却される。」とされるのは、同趣旨か。佐伯千仭『四訂刑法講義(総論)』 (一九八一年)二一一頁〜二一二頁。
(29) 本判決の判例研究としては、木村裕三「懲戒行為の限界」名城法学三一巻一号(一九八二年)九〇頁、および星野安三郎「生徒懲戒における『有形力行使』の適否」季刊教育法四一号(一九八一年)一四三頁がある。なお星野・右掲論文一五〇頁注(3)では、本判決が、「有形力の行使」という新しい用語を作ったと指摘される。しかし、「有形力の行使」という文言は、暴行罪の概念を表す際に、講学上一般に用いられており、別段目新しいものではない(たとえば、団藤重光『刑法綱要各論〔増補〕』(一九八一年)三三八頁以下参照)。
(30) J. H. Pestalozzi, Brief an einen Freund über seinen Aufenthalt in Stanz (1799) 長田新訳『隠者の夕暮・シュタンツだより』岩波文庫(一九四三年)七五頁。
(31) 和田修二「教育と体罰」季刊教育法二七号(一九七八年)九九頁以下参照。
(32) 文部省初等中等教育局地方課「中学生の体罰に係る昭和五六年四月一日の東京高裁判決について」教育委員会月報昭和五六年六月号(一九八一年)二四頁。
(33) 星野・前注(29)掲論文一四八頁参照。
(34) 小田中・前注(9)掲論文一二五頁。
(35) 木谷判事は、「生徒・児童等の身体に対する有形力の行使は、・・・これを一切許さないとするのも、教育の実情を無視した議論」であるとして、本判決の見解を是認すべきとされる(木谷明「学校事故と刑事責任」石原一彦ほか編『現代刑罰法大系3』(一九八二年)二二七頁)。しかし、むしろ安易に体罰が行なわれている学校教育の実情こそ問題であり(「報道された体罰事件」少年補導二六巻八号二六頁以下参照)、右見解には賛成できない。
(36) 国家公務員法七九条一項二号、地方公務員法二八条二項二号参照。
(37) 小田中教授が指摘されるように(前注(9)掲論文一二五頁)、最高裁が起訴の当否に疑問があるかの如き口吻をもらしている点は、注目されよう。その意味では、中学教師の体罰事件に関して、被害者生徒の親権者による告訴取下げ等の事情により、右教師を起訴猶予処分とした仙台地検の措置は、評価できよう(内外教育 昭和五二年六月一七日号二頁、なお沖原・前注(1)掲書二二頁以下参照)。

 〔付 記〕
  本稿は、関西学院大学法学部判例研究会(昭和五六年一一月二六日、於関西学院大学)および刑事判例研究会(昭和五六年一二月二六日、於同志社大学)における報告をもとに、加筆したものである。

 〔追記〕
  本稿脱稿後、本件の判例研究として、瀬田川昌裕「学校教師の懲戒行為が暴行罪に問われた事例」秋田法学二巻一号(一九八二年)五〇六頁に接したので、若干の検討を付け加えたい。
  瀬田川氏は、被告人の行為の目的が「純粋に教育のため」であり、その行為が学校において通常性を認めうるもので、その行為の逸脱の程度が軽微であることなどから、「本件被告人の行為は、・・・可罰的違法性を否定すべきである」とされる(右掲論文・五一六頁)。
  右の主張の背景には、「学校という協同社会」の特殖性への考慮があるものと思われる。しかし、学校が教育の場であるからこそ、特に体罰が禁止され、暴力は許されないのではなかろうか。教員が、自己の行為を教育的であると信じていたこと、および体罰的暴行が日常化していることは、児童・生徒に加えられた肉体的苦痛を相殺する根拠となりえず、しかも右に挙げた事由によって、不可罰の範囲を拡大することは、学校現場において、恣意的な体罰の行使を招くこととなろう。






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