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TITLE:  高校退学処分無効確認訴訟をめぐって
AUTHOR: 山口 明子
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第110号(1991年9月)
WORDS:  全40字×498行

 

高校退学処分無効確認訴訟をめぐって

 

山 口 明 子 

 

I.事件の概要と裁判の経過

 

1)事件の概要

1986年11月11日の昼休み、私立H高校の午後の授業の本鈴が鳴る直前、教室内で喫煙したとして十数名の生徒が事情調査され、その結果、原告Aを含む4名は喫煙の事実があったとして学則賞罰規定による懲戒処分を受けた。既に2回の謹慎処分歴のあった原告と他の1名は退学勧告処分となった。しかし原告は喫煙の事実はないとして自主退学を拒否したため翌1987年3月23日退学処分を受け、同年5月14日、この処分の無効確認を求めて大阪地裁に訴えを起こしたのである。

(文中、調書のローマ数字は尋問の回数、アラビア数字は調書の頁数を示す。但し調書は倉石調書以外は報告者がワープロで写したもので、裁判所が作成したものと内容は同じであるが、頁数は異なる。敬称はすべて略させていただく)

 

2)裁判の経過

経過の主なもののみを挙げる。

1987. 5.14. 大阪地裁に訴状を提出。請求の趣旨は判決文によれば
1.原告と被告学校法人H学園との間において、被告H学園の設置しているH高等学校の校長被告林敏夫が昭和62年 3月23日に原告に対してなした退学処分が無効であることを確認する。2 以下略。
88. 4.21┐
88. 6.30┘
証人・倉石文昭(原告を3度目に取り調べた生活指導主任)に対する尋問が行われた。原告が喫煙したとのメモがあり、これが原告が喫煙したと学校が認定する大きな根拠になったことが明らかになったが、メモを書いた生徒の名は明らかにされなかった。
8. 4. 原告への本人尋問。
89. 5.12. 原告は準備書面(5)とともに市川須美子・日本福祉大学講師による意見書を提出。
6.22. 被告は準備書面(5)によって市川意見書に反論した。

9.13┐
11.17┘

証人・岩田英世(原告を2度目に取り調べた生活指導担当教諭)に対する尋問が行われ、倉石証言の中にあったメモを書いた生徒の名前が判明した
90. 2.15. 証人・原口賢治(メモを書いた生徒)に対する尋問が行われた。証人自身には当時の様子やメモの内容についての明確な記憶はなかった。
4.22. 原告とともにM組教室から帰ってきた友人・小濱尚夫の陳述書提出。
4.26┐
7.5 ┘
被告・林敏夫(H高等学校長)に対する本人尋問。主としてH高校の教育方針・禁煙指導などについて質問。
10. 4. 双方準備書面(6)を提出し 結審。
  その後 裁判所より和解勧告があったが不成立に終わる。
91. 6.28. 判決。1.原告の被告らに対する請求をいずれも棄却する。以下略。

 

II.争点と裁判所の判断

争点は大きく分けて4点であった。

 

1.事実について

・原告の主張「退学処分は喫煙行為があったとの誤った事実認定に基づくもので違法、無効。火のついた煙草を友人から手渡されて手に持ったのみである」

・被告の主張「原告が喫煙した事実に誤りはない」

・判決「喫煙の具体的態様を確定することはできないが、原告もまたH組教室内で喫煙したものと認められる。

 

2.手続上の問題

・原告の主張

(1)退学処分には必要な職員会議の全員一致の議決を経ていない。懲戒処分としての手続要件を欠く。

(2)不当な取調べによって確定された事実を基にして処分を行ったものであり、無効

・被告の主張

(1)差別的取扱をした事実はない。威圧的な尋問や自白の強要はしていない

(2)H高校には退学処分について、職員会議で全員一致で可決を要するとの慣行はない

・判決

(1)H高校において退学処分は職員会議における全員一致の議決が必要との慣行はないことを認めるに足りる証拠はない。

(2)威迫、強要または欺罔するなどの不当な聴取、教育的配慮に欠ける聴取はなかった

 

3.懲戒処分としての問題点

・原告の主張

(1)仮に喫煙の事実があったとしても本件処分は社会通念上著しく妥当性を欠くもので裁量権の逸脱、或いは裁量権の濫用に当たり違法無効

(2)同じ機会に喫煙しながら処分を受けていない者がいる。不公平な処分である

(3)原告は卒業に必要な出席日数を満たし、卒業に必要な程度の成績を挙げていたのに、H高校は退学勧告の後、原告に学習指導を行わず、退学処分を行ったのは反教育的

・被告の主張

「懲戒権の行使は校長の裁量に委ねられており、行使は適法であった」

・判決

(1)私立学校における懲戒は懲戒権者の合理的裁量に委ねられている。本件退学処分に裁量権の逸脱または裁量権の濫用の違法はない

(2)差別的事情聴取をしたとは言えない。処分を受けた4人以外に喫煙をした生徒がいたことを認めるに足りる証拠もない

(3)本件退学処分が反教育的であり、著しく妥当性を欠くとすることはできない

 

4.被告学校法人の債務不履行と被告らの不法行為

・原告の主張(1)(2)略

(3)原告は謹慎処分中も授業料を納入していたにもかかわらず、学校法人はその期間中学習指導を行わず、3月23日になって退学処分にしたのは教育的配慮がなく違法。

・被告の主張

「喫煙から退学処分まで相当の期間があったのは、原告から自主的な退学の申出を待ったからである。本来、退学勧告の時点で退学処分にできた以上、退学処分までの間、原告に学習指導をしなかったこと等に違法はない」

・判決(1)(2)略

(3)停学措置は懲戒処分としての停学処分でなく、事実上の措置である。退学勧告に原告が異議を唱えたために、退学処分までに3箇月余りの期間があり、その間、学習指導を行わなかったことを違法とまでいうことはできない。

 

III.判決の検討

 

  以上に見たように、判決はほとんどの場合被告の主張を認め、時として被告以上に厳しく原告の主張を退ける。しかしその判断に問題はが多いと思われる。以下にごく簡単にそのいくつかを指摘する。

 

1.判決は「原告もまたH組教室内で喫煙したと認めるのが相当である」と述べ、この結論に導くものとしていくつかのことがらが挙げられている。

@「原告が喫煙の事実を自認した」

  しかし原告は岩田に対しては「吸うたと言いたいんなら吸うたでいいやろ」と述べたのであり「吸った」行為そのものを認めているわけではない。これを主張するのは倉石のみであるが、後に述べる点を勘案すれば、むしろ、倉石の言う如くこれを原告の自認と認めるべきではない。

A「母親の影響」?

  判決は「原告自身は懲戒処分を受け入れていたのに母親に唆されて喫煙の事実を否定し始めた」と言っているように読み取れる。

  しかし原告がその日帰宅後すぐに喫煙していないことを母親に告げ、また母親から担任にその旨は伝えられている。おそらく先の「自認」同様、この学校に居たくないとの思いが先行したために、直後の事情説明や意思表示に不足する点があったのであろう。

B「後に学校を訪問した際、不満を述べなかった」

  これについて原告はこの訪問の理由を「類似行為と喫煙予備行為と喫煙行為と違いを聞きに行きました」(調書27頁)とはっきり述べている。この訪問があった1月16日の報告者のメモによれば原告は倉石と応接室で会い、喫煙行為・類似行為・予備行為の区別を質問し、次いで、当日、自分以外に煙草を吸った生徒の名を出せばその生徒らも処分されるのかと尋ねたとのことである。倉石はこれを肯定し、名前が分かれば今からでも処分すると答えた。それで原告は敢えてその生徒らの名前を挙げることなく帰宅したのである。

その時この処分に不満を述べなかったのは事実であろう。しかしそれはこの訪問の趣旨がそこにはなかったからにすぎない。このころすでに原告に不満のあることを学校側は熟知していたのであって、原告としてもこの訪問でわざわざそれに触れる必要はなかった、いやむしろ係争中であるから言動には充分注意するようにとの弁護士の忠告に従って、原告はこの件に言及しなかったと解し得るのであって、不満を述べなかったことが事実を認めている証拠とは言えない。

 

2.推定される教室内の生徒の状況について

 「臨時3学年・学年会議録」によれば「丸山が自分のロッカーより煙草とライターを取り出し郷田と二人で喫煙。その前で眠っていた上が目を覚まし後ろの丸山から煙草をもらい喫煙」とあり、岩田証言によれば「原口メモに『教室の後ろの方で上・丸山・郷田が煙草を吸っていた』と書かれていた」とのことである(調書4頁)。また倉石証言は「この事実を上に確認した」と述べる(調書43〜45頁)。ところがこれらの証言は原告ら4人以外の生徒の行動については何ら言及せず、また原告が喫煙した場所について確言しない。 しかし裁判所は判決において原告や原告に有利な証言はすべて退け、学校側の主張を全面的に採用し、さらに原告らの行動について裁判所としての推定を示している。それは「上、丸山らが煙草を吸っており、そこに原告と小濱が加わり、原告は喫煙したが、上から小濱が煙草を受け取ったときに教師が入ってきたので、かれらはあわてて分散した」というもので、学年会議録の記載に小濱の名を加えたものとなっている。しかしこれには疑問が多い。

岩田にしても倉石にしても現場に居たわけではない。その場に居たのは原告・小濱・原口の3名だけであって、岩田・倉石の証言は伝聞にすぎない。しかも岩田証言は原口メモに書かれていたと称する内容に拠っている。ところが上述の如くこのメモはもはや存在しない。また結局のところ岩田が聞いたのは原口からのみであり、その他の教師が誰から何を聞いたかは最後まで明らかにされない。

  倉石は原告が煙草を吸ったのを上から聞いたと言う。しかしそれは事件当日ではなくすでに処分が決定し、謹慎処分を受けた上が生活指導室で謹慎中に、校長林の命を受けた担任に頼まれて倉石が確かめに行き、確かめたところ上は吸ったことに間違いないと答えたと言うのである。しかしそれは場所についてであって、吸ったかどうかではないと言う。ところが「ここ」というその場所がどこかは最後まで明らかにされなかったし、裁判所もまた聞き質さなかった。

 このような証言に信憑性があると言えるだろうか?

  結局当日原告が教室で喫煙したとしているのは既に存在しない原口メモだけである。しかしその筆者である原口自身そのメモに対する記憶も当日の事件の記憶も法廷での証言当日には既にあいまいであった。しかもそのメモの内容がどのようなものであったか、もはや知ることはできないのである。

  さらに、仮にメモの内容が岩田証言の通りであったとしても、そこに書かれていたことは事実ではなかったと考えられる。

  もし原口が原告の吸うのを見たとするなら、同時に入室し、ほぼ同時に煙草を持ったはずの小濱(判決も小濱が煙草を手に持ったことは認めている)になぜ何も言及しなかったのであろうか。喫煙グループとは別の生徒に全く触れていないのはなぜか。また場所について、原口は窓側の後ろと岩田には述べ、岩田は後で場所は少し違っていたと他の教師に言われたと言っているが(調書I13頁)、後で言われた場所での喫煙と原口が見たという場所での喫煙が同じものなのか、確認されたのであろうか。これらを合わせて考えると、恐らく原口が見たのは原告が教室に帰ってくる前の光景である。

  報告者は次のように推定する。

  11月11日の昼休み、原口らは中田ほか2名位の生徒と「教室の廊下側の真ん中より少し後ろ」でアルバイトニュースを見ながら喋っていた。原口は前にある黒板の方を向いていた。そのとき後ろの窓側で車座になって喫煙している一団があった。その中におそらく上、村勧、丸山、仲田、山下らが含まれていた。原口が見た(あるいは何となく雰囲気で感じた)のはこのときであろう。そこに原告と仲のよい上、丸山らが居りしかも原口自身、彼らが共に喫煙するのをそれまでに何度か見たことがあったから、原告もそこに居ると思いこんだのである。その時刻は予鈴が鳴る前か後か、原口ははっきり覚えてはいない(調書2頁)が、その日予鈴が鳴るまで担任が教室に居たから、それは予鈴以後であったろう。 原告が小濱とともに帰ってきたのはこの後である。彼はM組の教室で予鈴を聞き本鈴と思ってあわてて帰ってきたのであるから、教室に着いたのは予鈴が鳴り終わって少し経ってからだった。小濱と連れ立って帰ってきた原告は、教室の窓側の後ろ、ロッカーの前で喫煙するグループを見た。それは上、水上、仲田らの一団である。このとき丸山、山下らはそのグループと別れ、廊下側の後ろに移動していた。丸山は最後列の机に寝そべっており、原告はその前に座って山下らと話し始めた。また小濱は喫煙していたグループに近づいた。このとき村勧はすでにひとりで窓際に立って喫煙していたと思われる。

  喋っている原告の左側から火の点いた煙草が回ってきたとき、教師が教室に入ってきた。このとき小濱もまた火の点いた煙草を上から渡され、吸おうとしていた。二人はあわてて火を消した。教師が入ってきたのは本鈴の鳴る前だから、二人が帰ってきてから教師が入ってくるまでは極めて短時間である。原口は二人が教室に帰ってきたことに気付いていない(調書3頁)。

  数分前に帰ってきた二人のうちの一人が、それまで教室に居た十数名のうちの三名と一緒に煙草を吸っていることを、十数人居た教室のなかでキャッチするのであれば、なぜ二人が一緒に教室に帰ってきたことに気付かなかったのであろうか。なぜ小濱の行動には触れないのであろうか。それはおそらく原口が見た喫煙グループで小濱が吸っていなかったからというだけでなく、小濱本人が居なかったからである。そして原告もそのグループには居なかった。しかし原告は原口と同じクラスである。いつも見ている。しかも教師が入ってきたときには教室に居た。だから原告も喫煙していたと原口は思いこんでしまった。しかし小濱は別のクラスの生徒である。顔見知りではあったかもしれないが、いつもそこに居るというわけではない。見なければ名前は出てこない。事実居なかったから名前は出なかった。このことこそ、小濱と一緒に行動していた原告もまたそのときには教室に居なかったことを証明するものではないだろうか。

  また判決は「(原告が)煙草を吸ったことが明らかな丸山について喫煙行為を見た旨の供述をせず…」(判決19頁)と述べているのは、それこそ原告が丸山たちが煙草を吸っていたとき教室に居なかったことを物語っている。丸山が吸ったのは原告たちが教室に帰ってくる前であって、原口はそれを見た。原告が帰ってきたときには丸山はそのグループからは離れ、最後列の机に寝そべっていたのである。

裁判所は学校側の証言を取上げ、最終的に原告の喫煙を承認したが、それでも教室に入ってきたことが明らかで、上から煙草を渡されたと陳述している小濱の存在を無視することは不可能だった。だから手渡しの順序を変え、丸山から原告、原告から上、上から小濱へとルートを付け加えたのである。しかしこれは教師らの想定しているルートとは明らかに異なっている。教師らの証言には小濱の名は全く出てこない。持っただけで懲戒処分の対象となるという規定からすればまことに不可解な処置である。

  さらに裁判官は「初めに自白しながら後になって否定するのは不自然」「火の点いた煙草は誰から手渡されたのか分からないといった到底理解しがたい供述」と述べて、原告の「手に持っただけで消した」という供述は到底信用できないと言う(判決21頁)。しかしこれは学校と生徒・親との関係、あるいは生徒同士の関係への全くの無知を露呈するものと言わねばならない。

  確かにいささかの無思慮、甘えがあったにせよ、謹慎処分2回を既に受け、学校では煙草を吸わないために昼休みには自分の教室にいないようにしていた(陳述書2頁)原告が、自分の努力を分かってもらえず、絶望的な気分で「もうこんな学校には居たくない」と思い、「吸ったなら吸ったでええやろ」と言ったということは、生徒の心情からすれば充分あり得ることで、決して「不自然」ではない。ここで原告は自認したという意識はなく「居たくないから、あとのことはどうでもよい」という意味に過ぎなかったのである。そして一旦は「あんな学校に居たくない」という子どもの言葉を受入れ、学校に言われる通りにしておこうかと思った父母が「やはり息子が吸っていなかったという事実だけははっきりさせたい」と考えて、再調査を学校に申し出るに至ったこともまた親の心情として充分理解できることであり、何ら「不自然」とは考えられない。

  火の点いた煙草が後ろから回って来ることも稀ではないことは原告の証言にあるが、喫煙者は生徒の約75%、うち学校で吸う生徒はその三分の一(原口調書8頁)と言われるH高校の現状ではあながち「不自然」とは言えない。手に持った煙草を吸わずに消したのはそのとき教師が教室に入ってきたからではあるが、もし教師が来なかったとしても「吸わなかったと思う」と原告は証言している(調書4頁)。それが原告の努力の証であり、むしろ教師はそれを認め励ましてやるべきではなかったろうか。

  「自分が喫煙していないことについて山下等から事情を聴いて欲しい」という要求をしていないと判決は述べている(19頁)。しかし翌日以後、父母は「見ていないという証言も聴いて欲しい」と度々学校に申し入れている。しかしその申入れを学校側は聞き入れなかった。裁判所は両親が証言することを認めなかったのである。

  また上述の如く、後日倉石に面会した際、原告は「吸った生徒の名前が今からでも分かれば処分を受けるのか」と尋ね、倉石は「今からでも処分する」と答えている。それを聴いて原告は吸っていないことを証言してくれる友人の名を出すことを諦めたのではなかろうか。例えば山下本人が、丸山によれば、喫煙していたのであり、そのことはその時点ではまだ学校側に知られていなかったのだから、自分の証言を頼むことで山下の行為が露顕する恐れがあることを原告は慮ったのではなかろうか。そして倉石の答えは、原告のそういう行動によって学校の処置の不適切さが暴かれるのを防ぐための一種の布石だったと考えられなくもない。

  「事実に反したことを楯に取られて処分を受けるというようなことがあれば一般の生徒たちから反発がある」と教師は言う(岩田調書II5頁)。しかし生徒たちはそのような「災厄の公平」を求めるだろうか。犠牲者は少ない方がいい。処分を免れた者を密告によって陥れようとはしない。事実いくつかの不公平な処分の例を原告も知りながら、教師には言わなかった。しかもそれは原告だけが知っているのではなく、噂として囁かれていた(調書6〜7頁)。この点でも、判決は生徒の感情や学校の現実に全く無理解と言ざるを得ない。判決は裁判官自身の知見に基づく思い込みに合致する「事実」だけを繋ぎ合わせ、残りは「不自然」と切り捨ててしまったのである。

 

3.証言全体を通じて感じられるのは、「事実」についての学校の特異な考え方である。

岩田・倉石の証言には「事実さえはっきりすればよいので、細部はどうでもよい」というニュアンスが感じられ、誰から何を聞いたのかは明らかにされず、彼らが根拠とするのは原口メモだけである。この原口メモにも時刻は記されず口頭で特定もされていない。ところがその結果として「事実」が判明したという。

 (それは具体的にどういう事実がはっきりしたんですか)「丸山という生徒だったと思いますけれども、煙草を持ってきて、火をつけて、煙草を吸って、その次に、上でしたか、だれかに渡した、そういった順番まで、その明くる日にははっきりしています」(その後は。上までいったんですけれども、その後の事実はどういう事実を確定したんですか)「先生が来たから何か消して、何かちょっと見えにくいところに隠したとかいうようなそういった部分までも、明くる日には報告を受けました」(今の話の中には原告の名前が出てきませんでしたけれども、どこに出てくるんですか)「消したというのは、多分原告の名前だったと記憶するんですけれども」(原告が吸ったうえで消したと、そういう事実ですか)「私は見ていませんから、それはわかりません」(事実を確定したのは)「はい。吸って消したというふうに考えたわけですけれども」(考えたというのは、一致した意見としてそうなったんですか)「そういうことです」(岩田調書I12〜13頁)

  これは、生徒らの証言から推測される事実とは勿論、判決の推測とさえ異なっている。判決は「丸山→原告→上→小濱」と推測しているのである(上述)。

  裁判所もまた「吸ったということさえわかれば、あとはどうでもいい」のであろうか。 さらに最終的に「事実」を確認したのは翌朝であり、午後3時からの学年会議で処分が決定したというが、すでに事件当日の夕刻、担任から原告の自宅に電話があり、煙草を吸ったから親同伴で出頭するようにと言われている。最終的な事実確認もなく処分も決定しないうちに、処分含みで親同伴の出頭が申し渡されているのである。それどころか翌日の登校が禁められたということは、正式の確認もなく処分の言渡しもないうちに、事実上被処分状態に入っていることになる。甚だ乱暴な措置と言わねばならない。

  被告校長は原告代理人の質問「停退学するときは違反の事実を伝えること、そして弁明の機会を与えることというのが、判例なり学説では言われてるんですけど、これは御存じですか」に対して「知りません」と答えているが、裁判所はこのような手続き無視・生徒の権利の侵害に対して一言の批判もしない。

 

4.懲戒処分をどう考えるか

  事実関係あるいはその認定の手続きに関する疑義のほかに、いまひとつのこの裁判の争点は「仮に喫煙したとしても」として展開された「本件処分が学校における懲戒処分として妥当であったか」という問題であった。

  原告側・市川意見書の見解(準備書面(5)・市川須美子・日本社会事業大学講師「校則違反と懲戒処分の法理」による。なお市川講師は同様の見解を「教師の教育権と子どもの人権」<「行政法上の諸問題上」有斐閣1990>で述べておられる)は1)学校における懲戒は教育作用の一環であり、特に生徒に対する権利制限性の強い懲戒処分は教育上例外的・補充的な措置でなければならない。2)学則は学校の設置認可申請における添付書類であり(学校教育法施行規則3条)その変更は認可事項である(同4条2)。懲戒処分を含む賞罰は学則の記載事項となっている。しかし校則は学則の必要的記載事項には含まれず、別に法的根拠が用意されているわけでもない。従って校則違反にすべて懲戒処分の網をかけることは、懲戒処分制度の学校教育における基本的性質と矛盾する。懲戒処分の発動は、学校の教育・学習上の実害が、他の生徒や教職員の権利との衝突の強制的な調整の必要を生ぜしめた場合にはじめて問題となる。3)喫煙禁止校則は合理性をもつが、この校則の目的達成のための手段は禁煙教育の徹底であり、摘発および処分はは不公平感を増大させるのみである。さらに累犯加重規定の存在は、違反をたまたま摘発された者に著しく不利に働き、平等原則からして肯定できない。というものである。

これに対する被告側の反論は、準備書面(5)によれば、大要次の通りである。

1)学校における懲戒処分は教育的指導の要素を含まねばならぬというのは同感であるが懲戒処分と訓育・指導を併用し、一体として運用するのが教育効果を高める。2)本件校則が「校則違反のすべてに懲戒処分の網をかぶせる」ものとしているのは事実に反する。現実の運用においても機械的ではない。しかし校則を設けても非強行的なものとし、校則違反行為を懲戒処分の対象とせず、あるいは特別の例外的場合のみ懲戒の対象とするに止めるとすれば、どのような懲戒規定になるのであろうか。3)喫煙は発育途上の生徒の心身を害し、しかも違法行為であるから、学園を挙げて禁煙教育に取り組んできた。喫煙が自傷行為で懲戒の対象とすべきでないというのは学校現場の実情を無視した机上の空論である。見つかった者が損をし、見つからなかった者が得をするのは一般の懲戒制度を通じて言えることで、そのような不公平をなくすために努力しているのである。

また裁判所の見解は1)退学処分をもって極めて限定的かつ補充的なものとすることはできない。2)私立学校における懲戒は教育的見地から行われるべきものであるが、原則として懲戒権者の合理的裁量に委ねられており、被告高校の方針は社会通念上著しく妥当性を欠くとはいえない。校則や校則違反に対する懲戒処分は保護者に詳細に説明されている。3)喫煙は喫煙者以外の者にも健康上の害や不快感を及ぼす。賞罰規定細則により生徒の喫煙を禁止していることには合理的根拠がある。違反行為を謹慎処分の対象としていることも社会通念上著しく妥当性を欠くとは言えない。というものであった。

  判決は全面的に、被告以上に学校の懲戒権を強調していて、基本的姿勢がそうである以上、具体的な規定が存在し、保護者や生徒に予め充分に説明されておれば、手続上の瑕疵はないとする。決めるのは学校であり、問題はそれが知らされていたかどうかというだけになってしまうからである。

  喫煙については昨今の嫌煙権の主張を考慮に入れ、単に自傷行為ではないと述べて、禁煙規定の合理性を強調している。

  原告・被告双方の主張のみに関して言えば、被告の「意見書が『校則違反にすべて懲戒処分の網をかける』としていることは事実に反する。また現実の運用に関しても機械的ではない」との主張はH高校の生徒手帳の記載から見るかぎりでは説得力に欠けるように思われる。

  しかし裁判所の見解は上述の如く「私立学校における懲戒は原則として懲戒権者の合理的裁量に委ねられている」というだけでなく「退学処分をもって極めて限定的かつ補充的なものとすることはできない」とまで述べているので、この程度の食い違いは問題にもされない。校則違反を理由とした懲戒処分そのものの是非についても、ここで具体的に問題となっている禁煙校則は、原告も基本的にはその合理性を認めており、人権侵犯性を云々するには不適当であって、要するに量刑の問題になってしまい、それは先に挙げた裁判所の原則的立場によって簡単にクリアされてしまったのである。

 

5.停学処分と在学契約

  原告は「謹慎処分中も授業料を納入していたにも関わらず被告が原告に対して学習指導を行わなかったことを違法であり、そのために精神的損害を被った」としている(判決8〜9頁)が、被告は「退学処分まで相当の期間があったのは、原告から自主的に退学の申出がなされるのを待ったからであり、本来、退学勧告の時点で退学処分をすることができた以上、原告に学習指導をしなかったことに違法はない」(同12〜13頁)と反論して授業料には触れるところがない。判決もまた退学処分の延引については被告学校法人の主張を採り、授業料については不問に付している(同25頁)。

  判決の言うように「退学までの停学処置は事実上の措置であって、賞罰規定細則による謹慎処分がなされたのではない」(同24頁)のなら事態は一層明白である。被告の主張通りその時点で退学処分をする意思があったのなら、処分言渡し後の翌年1月に納入を断るべきである。ましてこれは銀行口座から引き落とされているのである(林調書II7頁)。自主退学の申出がなくとも、学校側に学習指導の意思はなかったのであるから、実行意思もないのに代金だけ受け取るというのは誠意に欠ける行為と言えるのではなかろうか。これに責任を感じず、裁判所もまたこれを指摘しないのは納得しがたい点である。

 

IV.裁判をふりかえって

 

  個人的な思いを述べることが許されるならば、この困難で報いられることの少ない長期の裁判に取り組んでくださった3人の原告代理人の方々に厚く感謝を申しあげる。その上で、いくつかの感想を述べておきたい。

 

1.弁論の方法について

  いわゆる校則違反を理由とする懲戒処分に対する異議申立てには、実行行為の有無を争うことは少なく、懲戒処分手続きの瑕疵、あるいは教育的懲戒としての妥当性について争われることが多い。それはひとつにはそれらの行為の有無の判定が困難でなく、争う必要がないからでもあろう(懲戒処分の実例については、坂本秀夫「生徒懲戒の研究」三省堂1987参照)。

  他方、校則で禁じられている行為の多くはそれ自身犯罪というわけではない。しかし喫煙は、たとえ罰則がないにせよ、未成年者喫煙禁止法に違反していることは確かである。それゆえにこの事件は、他の多くの校則違反による懲戒処分無効訴訟に比べひとつ余計にハードルを越えねばならない。本件が事実の有無を争ったのは、そもそも原告の努力を評価してほしいとの願いに基づいているが、ことがらの性質上、また止むを得ない方法でもあった。

  その点を考えれば、この事件は事実関係の立証にこそ主力を注ぐべきではなかったろうか。喫煙は類似行為・予備行為であっても処罰の対象とされているから、例え実行しなかったことを立証しても、「類似行為としてやはり処分の対象となり、訴えの利益がない」と退けられてしまったかもしれない。それならむしろ「類似行為と実行行為とを同一視するのは誤りである」との論を立てるべきではなかったろうか。「手に持たされても吸わなかった」という事実と、それを自分から明らかにしたことは評価されるべきである。それを「実行と同じ」というのは、あまりに生徒の努力を無視した扱いではないだろうか。むしろ「原告は手に持っただけで吸わなかった。吸う意思もなかった。持っただけであるのに、実行したと同じ処分を受けるのは不合理だから処分を取り消せ」という主張であるべきではなかっろうか。

  林校長に対する尋問への答弁から見ると、この「持っただけ」での処分に対して、学校側にもいささかのためらいが生じているようにも思われる(調書II12頁)。

「吸わなかった」という事実と「もし吸ったとしても」として展開される理論との間には飛躍がある。しかも確認を求めている事実と、それに全く反する場合を想定する論とを組み合わせると、あるいは吸ったのではないかと思わせる余地を生ずる。このような疑惑を生む方法を採ったのは賢明であったろうか。また弁論においても両方に重心がかかり、どちらも印象が弱くなったのではなかろうか。

  証人申請が極めて少数、しかも被告側証人しか認められなかったという原告にとっては甚だ不利な状況ではあったが、もう少し事実究明の方法があったのではないかとの感を免れない。例えば最終準備書面でも「原口は問題の日は原告を見る機会がなかったと思われる」(6頁)と述べられているが、被告側が拠り所とした原口メモに記されていなかった「時刻と場所」とを厳密に特定していけば、事実を明らかにする可能性は残されていたのではないだろうか。

 

2.「懲戒処分」の論点について

  本件処分が懲戒処分の具備すべき要件・限界を越えた裁量権の乱用に当たり違法であるとの後半の主張の前に、もうワンステップが必要だったのではないだろうか。これは喫煙が事実と認定されたときに備えての安全装置だったのであろうが、先にも述べたように、まずこの主張自身が、原告の主張の正当性への疑いを生じさせる惧れがあるからである。しかしなおこの主張をするのであれば、十二分の準備が必要であった。

  先述の如く、これは元来法に違反する行為である。違法かそうでないかが分かれる二つ(あるいは三つ)の行為を同類であるとして同じ処分をするということの違法性がまず問題にされるべきではなかったかろうか。

しかし本件では、懲戒処分として不適当との理由に、懲戒処分は本来例外的・補充的措置であらねばならないこと、および、学則の必要記載事項ではない、つまり法的根拠を持たない校則違反を理由とする懲戒処分は不可という2点を挙げた。

  法律違反とは言えない行為を禁ずる項目を多く含んでいる校則に違反したことを理由に学校が行う懲戒処分を容認する判決が多いという現状からすれば、罰則はないにせよ未成年者喫煙禁止法に明らかに違反する行為を、単に校則との関係のみにおいて懲戒権の逸脱とするのは、やや説得力に欠ける感がある。

  しかも原告側の主張の一つは「賞罰規定は学則の記載事項であるが、校則はそうではない」、従って校則違反を根拠として全面的に懲戒の網を被せるのは裁量権の逸脱であるとするのである。確かに校則は学則の記載事項ではない。しかし、H高校の規定では、単に校則ではなく、賞罰規定細則によって懲戒処分の対象となる行為が決められている。この細則は、学則の記載事項である賞罰規定に基づいて作られているのであるから、根拠法規があるということになる。しかし賞罰規定細則を拘束するものは何もないのであるから、校則に法的根拠がないとしてそれを否定しても、この細則が存在すれば事態は同じではないか。しかも必要記載事項とされる賞罰規定そのものが単なる届出事項であり、その文言は学校教育法施行規則そのものであって、これが公正な審査を受けるという保証もない以上、校則を理由付けに用いていなくとも、ことがらの内容は全く変わらない。いやむしろ学校の裁量の余地が一層大きくなると言える。だから被告の「校則を設けても非強行的なものとし、校則違反を懲戒処分の対象とせず、あるいは特別の例外的場合のみ懲戒の対象とするに止めるとすれば、どのような懲戒規定になるのであろうか」との皮肉な反論も、また逆に首肯させるものがあるとも言える。懲戒処分そのものを認めている以上、具体的にどういう場合に適用するかという問題は依然残るのである。

  興味あることは、被告側が「懲戒と指導とは分けられないが、懲戒が教育的でなければならぬ、また例外的・補充的措置でなければならぬという点は原告の主張に同感」(準備書面(5))とする点である。原則において両者の意見は一致していることになる。「教育的」懲戒を両者は認め、退学処分も例外的措置であるにせよ、否定はしないというのであれば、両者の差は結局どこにあるのだろうか。原告側も学則の必要記載事項であるからとして賞罰規定による懲戒処分を認めるのであれば、原告側が主張する「教育的」懲戒は結局そこに含まれることになってしまうだろう。

 

3.「教育的」懲戒処分があり得るか

  仮に原告側の言うごとく指導を繰り返すとしても「その実害が他の生徒や教職員の権利との強制的な調整の必要を生じせしめた場合」(意見書12頁)には懲戒処分に踏み切らざるを得ないもしこのとき賞罰規定に基づいて懲戒処分がなされたら、それは止むを得ない「教育的」懲戒として認めるのであろうか。指導によって改善されない生徒を学校という「教育」の場から隔離することがどのような教育であり得るのであろうか。結果的にあり得たとすれば、それは生徒自身の自己教育力によるものであり、同時に学校の無力無能の表明であって、これを学校の教育的措置と呼ぶのは傲慢と言わねばならない。しかし「教育的」懲戒を認め、しかもそれは学校でどうにもできない場合のみ発動するというのなら、学校として最も無力であることを告白する活動が「教育的」ということになる。

  どうしても指導できない生徒に学校を離れてもらう場合は、むしろ在学契約解除、あるいは指導辞退の申入れと言うべきであろう。これを教育と呼ぶなら、それは「学校は教育の場である」という思い込みのみに基づいて、その「教育の場である」学校がする処分だから「教育的」なのだという逆立ちした論理に基づくに過ぎない。つまりここで「教育的」というのは「学校を維持するために役立つ」という意味にすぎず、教育の主体たる生徒の立場に立つものでは全くない。従って生徒としての地位を奪うような措置であっても「学校の維持に必要な措置」なら「教育的」ということになる。「教育的」というのはあくまで「教育する」側の判断である。学校教育法が規定する「教育的」懲戒とはそういうものではないだろうか。原告は「教育的」という形容詞を冠して学則に定める懲戒処分を認めたときに、原則的には被告と同じ土俵に立ってしまった。そこで問題は量の差に収斂され、結局原告は懲戒処分の基準を明確に示しえず、被告に「『教育的』『非教育的』の語がマジックワードの如く多用されていて…」と批判される結果となった。被告が「本来なら、何を以て教育的とし非教育的とするのかが論じられなければならない筈であるのに、懸案をすべて非教育的と片づけるのでは問を以て問に答えるにすぎないであろう」と批判するのもあながち的外れではない。問題は「教育的」懲戒処分とは何かであり、学校教育法を問うところへ遡らざるを得ないのである。

  そこまでの議論を原告は望まなかったのなら、一層、土俵は事実関係に限定すべきではなかったか。そうでなければ、もっと長い射程を持った別の枠組みを用意しなければならなかったのである。

 

4.喫煙は懲戒処分の対象となるか

  原告側は、「本来現認されにくい行為で、摘発されたものとされなかったものとの間の不公平感が大きい」「自傷行為であって他に迷惑を及ぼさない」から、処罰の対象とはせず、指導によって解決すべきだとする。被告側は「喫煙は発育途上の生徒の心身を害するもので、放置すべきではない」「禁煙教育を強力に行っていたにも拘わらず、原告らは指導を公然と無視し、授業前の教室で喫煙した事態を見逃すことはできない」と言う。

  原告の言う「他に迷惑を及ぼさない」というのは、事実ではない。しかし法が未成年者に禁じているとはいえ、罰則を用意していないことも事実であって、これは基本的には個人の良識に任されていると言うべきであろう。

  法が成人に禁じていないのは、喫煙の本人への影響という点で心身の成長に大きく関わるからであり、喫煙のもたらす害悪、例えば@火事の危険A吸殻などによる汚染B他人への不快感C他人の健康への害などに成人・未成年の別があるわけではない。もし喫煙の害を言うなら、生徒にだけ説くのは、教師たちの勝手な説教と受け取られ兼ねない。もし生徒の健康を真に心配し、単に校則に記載があるからという理由だけで処分の対象としているのではないのなら、喫煙が何ら禁じられているわけではない先生たちが、まず自ら禁煙してみてはどうだろうか。その上で生徒たちに喫煙の害を説けば、生徒たちも受入れ易かったのではないかと思われる。このような方法を試みたあとでなら、懲戒処分は「例外的・補充的」という論議も現実性を帯びたのではなかろうか。



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