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TITLE:  私と教育法
AUTHOR: 原田 琢也
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第111号(1991年10月)
WORDS:  全40字×67行

 

私と教育法

 

原 田 琢 也 

 

  私は京都市の中学校で英語の教師をしている者です。この度、坂本秀夫先生のご紹介で大阪高法研について知り、入会させていただく運びとなりました。常々、疑問に感じ、一人で頭を痛めてきた学校教育上の諸問題について、思いを打ち明け、共に考えることができる仲間を得ることができたことは私にとっては非常に大きな喜びです。何分、遠隔地に勤務しておりますので、ご迷惑をおかけすることも多いかとは思いますが、どうぞ宜しくお願い致します。

  さて、私が教育法に関心を持ちましたきっかけからお話させていただきたいと思います。私が勤務しております学校は、様々な困難な条件を持ちながらも、いわゆる「落ち着いた」状況を保ち、部活動も盛んで優秀な成績をおさめ、研究も熱心で一定の成果を修めてきた、本市でも指折りの学校です。手前味噌になりますが、これを支えてきたのもひとえに、私生活を犠牲にすることをもいとわない、本校教師の涙ぐましい努力以外の何ものでもなかったでしょう。しかし、その熱心さからか、生徒指導は管理主義が先行しており、頭髪や服装についての校則を守らせる指導は徹底して行われています。これが本当に教育なのだろうかと首をかしげる場面も数多くありました。このような本校でも、ここ数年、体罰は明らかに減少傾向にありますし、校則についても今年に入ってわずかではありますが改変が試みられています。この校則の改変に際して、そのきっかけになればと思い、私見を文章にまとめ学校長以下学校の要職に就いておられる先生方に読んでいただいたことがあります。その時、教育法の視点は、私にとって唯一の道標の役割を演じてくれました。なんとなく頭のなかで疑問に感じていたことが、なぜ疑問に思えたのか、人権に関わる問題であるからこそ疑問に思えたのだ、と示唆してくれたのが教育法でした。本校では人権尊重の精神の育成を学校目標に掲げ、人権教育には随分力が注がれてまいりました。それだけに生徒指導のあり方も、生徒の権利に充分配慮したものでなくては、服装や頭髪などの躾の指導が入りにくくなるだけではなく、我々が蓄積してきた人権教育そのものも崩壊させてしまう結果に終わるのではないか、というのが私の主張の主軸をなすものでした。この理念は真実であり、どの先生にも容易に受け入れられるものなのですが、実際に校則をどのように改変するのか、という具体的なレベルの話になると私自身も行き詰まってしまいます。結局、明らかに時代にマッチしていないと思われる四項目を掲げ、その改変を要求するに止めました。後は、社会の推移を見守りながら随時必要があれば考察していこうということに落ち着いてしまいました。

  私は服装や頭髪などの校則の問題も体罰の問題も、根元の部分ではつながっていると考えています。しかし、体罰の方はその違法性が比較的明確であるのに対し、服装や頭髪などの校則のあり方には曖昧な面がまだ多く残されているように思われます。私は、「子どもの人権」を考える上で、服装や頭髪などの校則に潜む問題点をより明確に浮き彫りにしていくことは、非常に意義あることだと常々考えてまいりました。私はこの問題を考える時、いつも学校と社会の位置関係について考えさせられてしまいます。そして、これは、「教師の人権意識」を考える上でも重要な視点であると思われます。はたして教師の人権意識は遅れているのか、稀薄であるのか。人権意識をどう定義するかにもよりますが、少なくとも教師が人権に対して抱いている関心の度合いは、一般の人の平均的なレベルと比較すればかなり高いものであると思われます。しかし、最も根元の部分で、「子どもの人権」に対する捉え方に意見の相違があるのです。つまり、子どもは保護されるべきものであり、大人が間違いを予め予測し、子どもに警告を発し、そして間違いを回避するように指導する、その点にこそ「子どもの人権」の真価が見い出されるべき、という考え方は一般社会でもなお力を持っています。そしてこの考え方は服装や頭髪の指導についてもそのまま当てはめられ、校則を強化する立場が生まれてくるわけです。これは間違った考え方であり、その間違いを論理的に指摘することは、教育法の研究成果を持ってすれば容易なことなのですが、残念なことに論理では回らないのが社会です。学校はこの矛盾だらけの社会にどっぷりつかって、日々の営みを行っているわけです。

 確かに、学校は社会のリーダーとして社会の先頭に立って真理を追及すべき所であると思います。しかし、逆に学校は、それが多少真理から外れていようが、社会通念に照らし合わせて妥当とされる範囲なら、地域社会の様々な要求に答えていかねば運営を続けることがままならない立場におかれているのです。従って、本校の場合も、地域社会に少しずつ働きかけながら、地域社会の実情をよくにらみ、地域社会が許すと思われる範囲でしだいに生徒に自由を与えていこうという妥協点に落ち着いてしまったわけです。社会は時に巨大な化け物のように感じられます。これを変えようというのですから、粘り強く対処していく以外に方法はないでしょう。おそらく、今の多くの学校は同じような立場にあるのではないでしょうか。だから、もし、今のこのような変化の遅い学校の姿から、「教師の人権意識は遅れている」あるいは「稀薄である」と言う人があるとすれば、それは表面的で浅い考え方だと言わざるをえません。確かに「歪められている」ことは事実です。教育熱心な教師がよく体罰などの問題を起こすことなどにも、そのことがはっきり出ています。「歪められている」なら、原因をつきとめ、それを除去することができれば、正常に機能するはずなのです。私がこの会に入会しましたのも、まさにこの点について自分なりの答が見つけ出したかったからなのです。「教師の人権意識」についての研究は数少ないと聞きました。是非、今後も継続してこの点について扱っていただき、考察を深めていくことができれば幸いです。 



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