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TITLE:  教職員会議の性格・再考 − 職会決定の教職員への拘束力についての歴史的考察 − 
AUTHOR: 中野 五海
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第132号(1993年7月)
WORDS:  全40字×123行

 

教職員会議の性格・再考

− 職会決定の教職員への拘束力についての歴史的考察 −

中 野 五 海 

 

  学校における教職員会議(以下、「職会」と略記)の法的性格や、その教育行政上及び学校運営組織上の位置付けについては、これまでに既に多くの論考がなされている。ここでは、教育条理法や学校慣習法の積極的定立に基づく特殊教育法の成果を一定限参照しつつも、職会における決定事項、教職員の意思形成内容を、対行政・対国家の視点においてよりもむしろ当の職会を構成する個々の教職員(就中教員)の権利・義務乃至権限・責務の関係において考えてみたい。ことの性質上、法律論や法学的議論よりも寧ろ(法)社会学的観点からの分析が中心になるように思われる。

 I.職会の歴史的位置付け

  現在の職会の位置付けを考える上で、校長の職務権限(特に「校務掌理権」)との関係が常に争点となってきた処からして、取り合えずは学校運営における職制の歴史的形成過程を概観しておきたい。

 1)戦前・・・教育の国家管理と学校管理職制の形成

 1872「学制」

  ・小学校では、学区住民の代表者が「学校世話掛」等の名称の学校役員として、一般に「本校一般ノ事務ヲ幹理」(和歌山県「学規」)。

 1879「教育令」(自由教育令)

  ・米国式教育行政理念の模倣。教師や地域住民の自発性や創意に基づく小学校運営を教育法制の基本原理とする。

 1880「改正教育令」

  ・自由教育令による教育行政の混乱とその反動から、国家による一元的管理体制を指向した。学校の管理責任体制の制度化。

  ・小学校教員の資格制の採用により教職員の専門化を進める契機となる(無資格者は「授業生」「助手」と称される)。同時に教職の階層化も進展した(無資格教師の指導、監督)。

  <社会的要因>

  ・小学校の普及発展・学校規模の拡大に伴い、学校管理と部下教職員の指導を主要任務とする職制の制定。「小学幹事」「教頭」等の職制化。

 ・自由民権運動の拡大と反体制化に対する対抗措置としての教員の服務監督強化。→

  「小学校教員心得」「小学校教員品行検定規則」(1881)、教員身分の官吏待遇化。1881「府県立町村立学校教員名称並ニ准官等」(太政官達第五二号)

  ・文部省による職制の法制化。小学校長職が法制上はじめて成立。校長と訓導等の職務を明確化(校長は任用資格不要)。

  ・同年の「長崎県町村立学校職制」は、校長の職務を「県令ノ命ヲ受ケ郡区長若クハ学務委員ト商議シテ本校ノ事務ヲ幹理シ其職員ヲ監督ス」と規定。また訓導の職務については「生徒ノ訓導ヲ掌ル」とし、その他准訓導や授業生の資格・職務を規定。

    これは1887の改正により、「学校長ハ知事ノ命ヲ承ケ郡区長ノ監督ニ属シ校務ヲ整理シ職員ヲ統督ス」、「訓導ハ学校長ノ指揮ヲ受ケ生徒ノ教授ヲ掌ル」と定めた。

    このような職制規定は各地で設けられ、1945までの、官僚的承命系統の中に位置付けられた学校管理体制の原型を示すものと考えられる。

 1890「小学校令」改正(その直後に「教育勅語」発布)

  ・日本の基本的教育法としては、はじめて小学校長を職制として明確に規定し、訓導の併任を常例とした。

  ・3学級以上の小学校には校長を必置とし、その職務につき「校務ヲ整理シ所属教員ヲ監督スヘシ」と規定した。

  ・以降、「教育勅語」体制の確立にともない、学校管理体制が校長を中心として制度的に補強されていくことになる。

 1941「国民学校令」

  ・校長職の補佐として、教頭を職制化。

  ・校長の職務を「地方長官ノ命ヲ承ケ校務ヲ掌理シ所属職員ヲ監督ス」と規定。

  ・皇国主義教育の徹底のため学校管理の命令主義的支配関係が強化される。

 

 2)戦後改革期・・・「教育民主化」と「学校自治」の中での職会の形成

 @上からの「民主化」=占領政策への順応

 ・敗戦と同時に文部省は「終戦の詔書」に関して訓令した(1945.8.15 )。その後「新日本建設の教育基本方針」を発表し(9月15日)、その中央講習会(10月15日)等により「方針」の周知徹底をはかった。しかし内容的には国体護持を維持しつつ、極端な国家主義・国粋主義及び軍国主義の排除のみによって「国体」とポツダム宣言とを調和させようとするものであり、そもそも国家権力の中枢が教育方針を作成し、指令的に全国に波及させようとする権力行政の形態それ自体への反省は見られない。

 ・連合国・占領軍・GHQによる占領教育政策により、天皇制教学体制が崩壊。GHQの四大指令(10.22 、10.30 、12.5、12.31 )。

  ・1946「アメリカ教育使節団報告書」が事実上のGHQの教育施策となる。教育活動の自由を基盤とする学校の自治的・民主的運営の理念が提示される。

  ・「日本国憲法」公布(1946.11.3)、「教育基本法」「学校教育法」公布(1947.3.31)法制的な教育権概念の転換:子ども・国民の学習権を宣言し(憲法26条)、それを保障する教育運営の原理を教育活動の自由に立つ学校自治に求め(教基法10条1項)、同時に教育行政の役割を条件整備活動と指導助言活動のなかにみた(同条2項)。

 ・文部省もこの経緯の中で、民主的な学校運営を育て、教職員の意思が反映される学校運営を指導していた。例えば1946「教職員の教育研究議会新設に関する件」(文部省学校局長名で地方長官宛に通知)の中で、教育活動に係る事項については教職員の協議による運営を推進し、職員会議とは別に校長司会によらざる教育研究協議会設置を奨励した。(ただし、48年には校長権限の弱体化を憂慮してか、当の協議会を校長指導の下に行うよう次官通知を出している)。その後も、文部省は「小学校経営の手引」(1949) 、「新しい中学校の手引」(同)、「新制中学校・新制高等学校望ましい運営の指針」(同)、「中学校・高等学校管理の手引」(1950)等の解説書において民主的学校運営を強調している。更に文部省は「日本における教育改革の進展」(19 50、文部時報880 号)をまとめた際、戦後教育改革の方針を再検討しているが、その結語において、次のように強調していたのである。「新教育はカリキュラムを、文部省からの一方的指示によらず、教師自らの創意くふうと、教育対象に対する実際的必要から構成することを原則とする。そしてこの学習指導上の原則は、カリキュラム構成だけにとどまらず、教育のあらゆる場面において、貫かれなければならない。」

 A下からの学校民主化=学校自治の実践と構想

  <現場からの自然発生的実践>

  ・松江中学校の例(藤原治「ある高校教師の戦後史」岩波新書1974)。

   職員全員を代表する「職員委員会」、校内人事民主化のための「人事委員会」を設置し、これらが学校運営の中心となった。更に、「松江中学校委員会(学校委員会)」を構想し、職員委員会、建設委員会(保護者、同窓会・・学校建設に協力)、生徒委員会(生徒の自治機関であり代表3人が職員委員会に参加)の三部四者で構成するものとさせたが、これは実現に至らなかった。

  ・東京・四谷第6小学校の例。

   教職員・父母・子どもの三者からなる学校運営委員会で、月1回の定例会を開き、教育活動、教育内容・方法などを含む教育問題の全般を話し合っていた。

  <教職員組合の案>

 ・「全日本教員組合行動綱領(案)」(「日本教育新聞」第1号、1945.12.1)

    「学園の自治権確立」「校長の公選」「職場の民主化」「研究並びに教育活動の自由」などとともに、「学校委員会の確立」を挙げていた。

 ・山形県教組・村山俊太郎の「教育復興案」(1946)

    「父兄」による「父兄委員会」、学校職員の「運営委員会」、児童生徒の「全校委員会」の三者代表からなる「学校運営委員会」が学校の運営に当たる。校長は公選。

 ・「東京都教育労働組合『教育管理』案」(1946.6.20 )

    「父兄教師による学校の自主的運営」を掲げていた。

  以上のような教職員組合の等の学校委員会構想は、「教育の人民管理」の思想に基づくものであり、学校自治は今日いわれる職員会議の最高意思決定機関化の中でイメージされるより、職員会議を越えた教職員・生徒・父母(住民)の三者による運営組織によって実現するものと観念されていた。

 3)小括と現状の問題点の原初形態

  先述のように、戦前においては、そもそも教育行政それ自体が一般内務行政の一部と観念されていたこととも相まって、学校運営は、天皇の教育大権を淵源とする官僚制的な命令支配関係(特別権力関係)によって一元的に管理・統制されていた。その端的な象徴的表現が、学校長の職務についての「知事ノ命ヲ承ケ郡区長ノ監督ニ属シ」もしくは「地方長官ノ命ヲ承ケ」という規定であり、教師の教育についての「学校長ノ指揮ヲ受ケ」て行うべしとの規定であったといえる。そこでは当然ながら職会における現場教員の民主的討議を通じた総意に基づいて学校を運営していくという発想は生まれるべくもない。

  しかし職会にあたるものが全くなかった訳ではない。学校規模の拡大や教育事務乃至校務の量的拡大・繁雑化に伴って校内分掌組織が分化・発達してくるにつれて、「職員朝会」「打ち合わせ会」等と称して校務運営の連絡調整機能を果たすものとして職会が存在していたものと考えられる。それは文字通り、校長の補助機関乃至諮問機関でしかなく、教育の基本方針に関して全教職員が論議に参加することもあり得なかったであろう。



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