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TITLE:  私立学校に於ける「教育の自由」と生徒の学習権 − 特に教育内的事項に係わる在学関係についての考察 − 
AUTHOR: 大西 幸次
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第142号(1994年5月)
WORDS:  全40字×167行

 

私立学校に於ける「教育の自由」と生徒の学習権

−特に教育内的事項に係わる在学関係についての考察−

 

 神戸海星女子学院高校教諭  大 西 幸 次 

 

はじめに

  かながね国公立高校に入学した生徒と私立高校に入学した生徒の法的取扱が異なることに疑問を抱いてきた。生徒の側からみればそれほど違いがないと思われる。それはほとんどの人の実感であろう。今回は生徒の在学関係に関係する事案をとおして、私立高校の法的取扱を公立高校のそれと比較して検討しようと思う。

 

1.私立高校の公共性と教育の自由について

  生徒の学習権との関わりを考えるまえに私立高校の教育の自由について考えてみたい。

  まず、公立高校も私立高校も共に学校教育法1条校であり、教育基本法6条1項の「法律に定める学校」であるから公教育を担う学校である。言葉をかえていうならば両方とも「公共性」をもつということができるであろう。

  では、この2種類の高校の「公共性」は同じ意味をもつのであろうか。この言葉は多義的であり、また対象とするべき生徒が同じでもこれらの高校の成り立ちが異なることを考えると、担うべき役割も違うのではないだろうか。公立高校では、その管理主体は国・地方公共団体であり、その施設(物的・人的を含めて)の維持・運営は住民の税(公費)である。そこから導かれる公立高校の教育は租税者のための教育であるといえる。祖税者とは国民一般を指すと考えると公立高校の「公共性」とは国民や住民全体のためといいかえられるのではないか。ここから平等・公平が公立高校には要求される。それに対して、私立高校は管理主体が学校法人という私的団体であり、教育施設の維持・運営は原則として授業料などの財源である。ここから私立学校の教育はまさに入学してくる生徒のためのものである。したがって入学した生徒自身のための教育といえる。生徒(父母)が高校を選ぶので、各私立高校の多様性が要求される。この「多様性」が私立高校の「公共性」の根拠であると考える。国や地方公共団体などからの公的助成もあるがそれも私立学校の「公共性」を前提としたものである。では、私立学校の「公共性」とは何か。

そもそも国民といえども画一的なものではない。様々な主義主張があり、現行憲法はそれらの多様性を保障している。憲法13条で幸福追求権、19条で思想信条の自由、20条で信教の自由、21条で集会・結社・表現の自由を保障している。これらの国民の多様性の保障に基づいて私立高校設置・教育の自由が認められると考える。これが私立高校の「公共性」の根拠といえる。ただ、これらの自由を無限定に認めると私立学校の「独善」に堕ちいり、かえって国民の教育の自由が失われる「危険性」があるので憲法に基づく教育基本法・学校教育法・私立学校法の制約を受けると考える。

そして私立高校の教育の自由とはこの私立高校の公共性の前提となる国民の多様性を保障するものとして存在すると考える。

 

2.生徒の学習権

人間が人間としてふさわしく生きために教育は必要不可欠のものである。それを受けて憲法25・26条がある。そこにおいてすべての国民がひとしく教育を受ける権利を有するが、とりわけ成長過程にあるこどもにその権利の中心があると考える。また憲法13条や19条および23条の学問の自由から、こどもの成長の多様性が受けるべき教育の中で保障されるべきと考える。そこから教育を受ける機会の均等と教育の保障および教育の自由が導かれる。生徒の学習権はそれらを前提とする権利である。

 

3.高校と生徒との在学関係

学校と生徒の間の在学関係は、周知のように、公立高校と私立高校の場合で異なると言われる。前者はいわゆる特別権力関係であり、後者は私法上の契約関係の性質を有すると言われる。特別権力関係の特徴は包括的な支配服従の関係に対し、私法上の契約関係では具体的な契約の内容によって決まることになるという。

しかしながら、公立高校も私立高校も教育基本法6条1項の「法律で定める学校」を受けた学校教育法1条校である。これらの学校は憲法26条や教育基本法の目指す教育を目的とする学校で、よって立つ「公共性」の内容は異なるも、ともに国民とくにこどもの学習権を保障するためにあるのは同じである。しかもそれらの学校で働く教師は全体の奉仕者(教育基本法6条1項)であり、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならないことも公立・私立同様である。また、生徒の学習権を保障する学校教育は「教育を施す者の支配権能ではない」ことから、教育の非権力性が妥当する。そして、公立・私立高校の区別なく全ての高校に教育基本法・学校教育法が適用されることから生徒との在学関係は統一した在学契約説が妥当と考える。

在学契約の法的性質はその設置者の違いにより公立高校と私立高校と取扱いが違う場合があるが、原則は同じであり生徒との関係において生徒の学習権の保障という観点から今後違いをなくす方向がよいと考える。

  以上の1.2.3.を前提として学校と生徒の関係を考えてみたい。

 

4.入学において

一般に入学とは、学校教育を受けるため、児童・生徒と学校の設置者との間に学校という教育施設の利用関係を設定する行為をいう。この入学によって学校の児童・生徒という身分を取得し、在学関係が生ずる。この入学は入学者選抜を経てなされる。

高校では公立私立ともに、「入学の許可は、調査書その他必要な書類、選抜のための学力検査の成績等を資料として行う入学者の選抜に基づいて校長が行う。」とされる。さらに公立高校では「各高等学校、学科等の特色に配慮しつつ、その教育を受けるに足る能力・適正等を判定して行うものとする。」とされている(昭和59年7月20日文部省初等中等教育局長通知)。これは学校のカリキュラムの特色に応じて入学者選抜をするという趣旨であるが、言葉を代えていうならば、94%以上のこどもが高校進学する今日、生徒の多様化にこたえるための方針の変換といえる。その意味で公立高校に公平・平等のから多様化の要素を重視する方向に転換したといえのではないか。

  生徒の側から見た場合、公立と私立の入学を見て大きく異なるのは学区制である。入学そのものはともに「入学の許可は、調査書その他必要な書類、選抜のための学力検査の成績等を資料として行う入学者の選抜に基づいて、校長が行う。」(学校教育法施行規則第59条1項)とあり異なることはない。しかしながら、公立高校では学力検査は当該高等学校を設置する都道府県または市町村の教育委員会が行うが、私立学校では当該学校が行う。そして公立高校では「都道府県教育委員会は当該都道府県内の区域に応じて就学希望者が就学すべき都道府県委員会または市町村委員会の書簡に属する高等学校を指定した通学区域を定める。」こととされている。学区制は高等学校の教育の普及およびその機会の均等を図るためであり、「高等学校の通学地域を全県一学区とすることは、一般的には、許されない。」(昭和31年1月18日初等中等教育局長回答)とされている。ただし、「特色ある高等学校の学科等については、可能な限り広い範囲から受験できるようにすることが望ましい。」としている(昭和59年7月20日初等中等教育局長通知)。それに対して私立高校では当然のことながら学区制は適用されない。生徒の学習権の保障という観点からみた場合、どちらが生徒にとって有利かは一概にはいえない。すなわち公立高校は地域の教育全体を対象するのであり、私立高校は建学の精神を世に問うという性格があるからである。ただ受験競争の激しい今日、現在の中学区制でなく小学区制をという声もあり、また逆に一部の私立高校に対抗して受験競争力をつけるため大学区制をという声もある。公立高校では生徒の多様化の要請から学校の独自性を強調しているが、それが学校間格差がより顕在化する危険はないか。私立学校ではそもそもが多様性をもった存在であり生徒が自分の希望にそって受験できる点、私立学校のほうが生徒にとっていいのかも知れない。ただ、一部の私立学校の受験競争体制が高校教育を混乱させているという批判もある。たしかに、行き過ぎた受験教育は生徒の健全な発達に悪影響を与える危険はあるがその規制は公的手段ではなく、国民の選択によるべきものと考える。

 

5.教育指導に関して 

 教育の履行に当たって設置主体に広い裁量権がある。なぜなら、高等学校における教育はその目的(学校教育法41条)達成のために高度の専門性と自立性を要するからである。そして教師は生徒に対して教育を行う権利(というより権能)があり、その教育指導の具体的な内容・方法などは各教科担当教師の広範な教育裁量権に委ねられている。(昭和58年11月16日札幌地裁判)

  しかしながら、学校設置者(公立:教育委員会,私立:学校法人)は入学を許可した生徒にその施設(人的・物的)を利用させる義務を負い、この義務の不履行は債務不履行責任を構成する。とすれば、たとえば成績不良で進級ができなかったり、または卒業できず、学校にその責任があったとき、生徒は学校の責任を追及できることになる。具体的には在学契約の債務不履行責任を理由として教育委員会または学校法人、学校長、教科担任に損害倍償を請求できる。そして進級や卒業の認定は職員会議を経て学校長が認定するが(学校教育法施行規則63の2条)、その認定を違法な行為と考えるとその取り消しを求める事ができる。この場合、公立高校ではその行為を行政庁(学校長)としての処分と考え抗告訴訟の対象となるが、私立学校ではその行為を違法行為として取り消しと損害賠償及び身分保全等の仮処分申請を求める一般の民事訴訟になる。生徒の側からこれをみた場合、公立でも私立でも変わらないのに法的取り扱いが異なるのは納得できない所であろう。特に公立高校の場合、その処分に公定力を認め、私立学校のそれとは異なるとすれば生徒にとって大きな不利益となる。また進級・卒業の不認定を公定力などを認めない「形式的行政処分」として取り消し訴訟の対象とすべき考えもあるが、行政不服審査法4条1項8号の学校教育目的の学生生徒処分を不服申し立てできない「処分」と規定しており形式的行政処分としても不服申し立ての余地がないのではないか。また、もし不服申し立てができるとしても、公立・私立高校において不統一というのは問題があると考える。

ところで、この4月から高校では新教育課程が学年進行で実施されている。今回の教育課程の改訂の中でよくいわれたことの一つに私立学校の中によくある中高一貫の学校の場合、教育課程を編成・実施するにあたって連続性・弾力性に富んだものにすることができるとある。中高一貫教育は高校を中等教育の完成とし中高教育を連続したものと考えるものである。そのねらいは「一貫した生徒指導によって人間性を育てる・一貫した宗教教育によって人格を陶治する・学習効果を高める」などである。近年の大学進学の加熱ぶりから中高一貫校に人気があるが、それがゆきすぎている部分があることも事実である(たとえば、中学校受験塾の小学校教育の軽視など)。

 

6.宗教教育について

公立・私立高校の教育内容で特に異なるのはこの宗教教育の取扱いである。(法律に定める学校=学校教育法1条校は)政治的中立に関して共に政治教育その他政治活動をしてはならない(教育基本法第8条2項)と違い、私立高校では宗教教育が許されている(教育基本法第9条2項)。生徒側から見れば、私立学校で宗教教育がなされるのは、その学校が宗教学校であるなら事前に分かることであり何等不利益はない。したがって、生徒は宗教の授業や特別活動を受けないで不利益をうけない権利をもたない。ただ私立学校も公の性質を持ち、私立学校法59条で国または地方公共団体の助成をうけている。憲法89条で宗教活動団体への公の財産を利用してはならないとあることから、私立学校が教育基本法・学校教育法・私立学校法などの適用を受け、公の支配に属するといえるとしても憲法89条の趣旨から無制限の宗教活動を学校教育に持ち込むことができるであろうか。たとえば、特定宗教の信者または入信を入学条件とする場合、公教育を担う学校とはいえず、認められないと考える。すなわち私立高校は寺院・教会の学校ではなく、公教育を担う学校である。

 

7.まとめにかえて

今回の発表の準備を通して考えたことは、国・公立高校と私立高校の生徒に対する法的な取扱いの差をなくすることが生徒の学習権を保障するために必要ではないだろうか。その際、公立高校はもちろん私立学校も、生徒との間の在学関係は単なる私人間の関係とするのでなく、生徒の学習権を保障する存在としての学校制度という視点が基本になると考える。

     以上

 

<参考文献>

(1) 平原春好『教育行政学』

(2) 兼子仁『教育法(第2版)』

(3) 菱村幸彦『教務ハンドブック』

(4) 日本私学教育研究所紀要24号・中高一貫教育に関する調査研究U-1984

(5) 兼子仁編『教育判例百選(第3版)』

(6) 原田尚彦『行政法要論(第2版)』



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