◆199406KHK142A2L0178EM
TITLE:  兵庫県小野市丸刈り校則裁判の研究 − 中学校の服装指導等に対する訴えにつき学区児童の原告適格が認められなかった事例 −
AUTHOR: 松岡 義之
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第142号(1994年6月)
WORDS:  全40字×178行

 

兵庫県小野市丸刈り校則裁判の研究

− 中学校の服装指導等に対する訴えにつき学区児童の原告適格が認められなかった事例 −

松 岡 義 之 

 

1 事件の概要

  本件は、被告小野市立小野中学校長及び被告兵庫県小野市教育委員会(以下、「被告市教委」という。)らが小野市立小野中学校(以下、「小野中学」という。)の学校規則[注1]において、男子生徒の髪型を丸刈りとし、生徒に校外での私服の着用を禁止している行為が、違憲であるとして、小野中学の学区内に居住する小学校5年生の原告と原告の両親及び小学校4年生の弟である参加原告らが、男子生徒の髪型を丸刈りとし、校外での服装を制服又は体操服と定め、私服を認めていない規則を定めた行為の無効確認及び取り消しを求めた事案である[注2]。

 

2 争点

  本件の争点は、次の4点であった。

(1) 校則制定行為が行政庁の処分に該当するか

(2) 原告適格ないし法律上の利益の有無

(3) 被告市教委の被告適格

(4) 本件校則制定行為は、違憲・違法であるか

 

3 判旨

  裁判所は、次の理由により原告の訴え及び参加原告らの申立ては不適法として、いずれも却下した。

(1) 校則制定行為が行政庁の処分に該当するか

  学校が法規範として、法令上制定できるのは学則のみであるが、校則等は、学校という公の施設の利用関係を規律するための行政立法であり、一般的、抽象的な性格を有し、校則等の制定によって、他の具体的行為をまたずに、生徒に直接具体的法的効果を生じさせるものではないので行政庁の処分とは言い難い。

  また、法令に規定がなくても校則等で規定し、実施できる自律的、包括的権能を有し、校則等は、学校という特殊な部分社会における自律的な法規範としての性格を有しているのでそれが内部規律に止まる限りは、当該部分社会に任せるのが適切であり、裁判所が法を適用して紛争を解決するのは適当ではない。

(2) 原告適格ないし法律上の利益の有無

  原告は、現在、小野中学に在学中ではないし、小野中学の学区内に居住しているが、原告の転居、進学区の変更、本件校則の改定、小野中学以外の中学校への原告の進学等の可能性を考慮すると、原告が、現在本件校則制定行為によって自己の権利若しくは法律上の利益を必然的に侵害されるおそれがあるとまではいえないので訴えの利益がない。

  なお争点3.被告市教委の被告適格及び争点4.本件校則制定行為が違憲・違法であるかについて裁判所は、そもそも原告及び参加原告の訴え及び請求自体が不適法なのであるから、その判断をするまでもないとした。

 

4 研究

(1) 法令上、学校が「法規範」として制定できるのは、「学則」のみであると裁判所は認定している[注3]。

  しかし同時に裁判所は、校則とは「公の施設の管理規則」としてその成立を認めている。これについて私は法令上、「公の施設の管理」については、権利義務等の確定になるという意味から条例又は教育委員会規則での規定が義務付けられている点について、抵触するように考える[注4]。また本件において、施設利用を拒否する「正当性」を主張できるほどに「丸刈り」と「施設管理」との間に規律しなければならないほどの関係があったのか、また校外での「丸刈り」と「施設管理」とは、いったいどのような関係があるというのか、この点につき疑問なしとしない[注5]。

  加えて、丸刈りは男子に対してのみ規定されるという種類のものであり、女子に丸刈りの規定はないという点について、私は施設利用に関する「不当差別の禁止」規定に抵触すると思われる[注6]。

  一方、裁判所は「校則は、具体的行為がなければ、法的効果を生じさせる性質のものではないので『行政庁の処分』ではない」と判示している。「制定即ち強制ではない」ということであろうか。もし、ここでいう「具体的行為」が「教員による指導」を指しているとするのなら、いきあたりばったり、教員の気分次第といった恣意的な公正さを欠いた生徒指導を認めることになりはしないか。裁判所の判断に疑問を持たざるを得ない[注7]。 また他方では「校則は、『施設管理規則』として、生徒を規律する」といっている。ここに矛盾はないだろうか。

  本件において裁判所は、いわゆる部分社会論を採用し、その行政処分性を否定することによって校則裁判を行政訴訟から排除しているが、これには重大な問題点がある。

  まず部分社会論は、特定の場合を除き、公立中学校はその居住する市町村教育委員会の指定した中学校に入学しなければならないとされている[注8]ので、生徒は学校を自主退学することによって、その部分社会から離脱し、一般社会に復するなどといった選択肢がない。特定の年齢、特定の地域に居住しているということだけであるにも拘らず、それだけで基本的人権を放棄させられることになるのではないか。こういった形で、生徒の基本的人権を制約することは、元来「法令」ですらない「校則」が、本来「上位の法」であるはずの日本国憲法の法的効力をも否定する重大な法秩序への挑戦であると思う[注9]。このような無法は絶対に許してはならぬことである[注10]。

  本件では部分社会という特殊な法秩序のため裁判になじまないことを理由に退けている[注11]が、裁判所が法律上の争訟に関する司法権を有している点[注12]から見ても裁判所の任務放棄ではないだろうか。現在、法令上、学校による違法行為からの救済には、設置者たる地方公共団体の長、議会か教育委員会に「請願する」という実効性の乏しい方法か[注13]、「校則裁判を提起する」以外に途はないのである。

  米内山事件上告審での真野毅判事の少数意見にも指摘されているように、所属団体の処理が違法であっても部分社会の特殊法秩序を理由に終局的にも裁判所に出訴することも許されず、いわゆる泣き寝入りを強いられたならば、やがて随所に法秩序の破綻を招来し、法秩序への不平、不信と不満を惹起することになるように思う[注14]。そもそも「教育」とは、生徒らの学校不信の目のもとでは、行い得ないものではないか[注15]。

  また、学校が自律的規範を定め得るとしても、部分社会が自己のために自主規範を定立できるということが、すなわち紛争の自主的解決が不可能となった場合にあっても、全く裁判所が介入することができないという理論は成立しないと考える[注16]。

  もっとも校則の性質が、裁判所のいうとおり行政立法であるとするなら、それは即ち行政処分でないのか[注17]。そうである場合、憲法の行政終局裁判禁止条項に抵触するのではないか[注18]。

さらに裁判所は、校則が内部規律に止まるものであるとしているが、丸刈り校則に限ってみれば、生徒の頭髪は、校門を一歩出たからといって急激に伸びるわけではない。学外での生活にも当然影響を及ぼす性質のものである。また学外の私服着用禁止が内部規律であるといえるのか。裁判所の認定は謬りなのではないだろうか[注19]。

(2) 本件は、中学校入学後に裁判を提起したのでは、一般に長すぎる裁判手続により卒業までに判決が出ず、また卒業後には「訴えの利益がない」とされ訴訟自体が却下される、いわゆる校則裁判での「行政の引伸し必勝」という事態を未然に防止するため入学以前に提訴したものであった[注20]。

  しかしこの争点については、原告側の主張にも訴訟術的に問題があったと指摘されている。それは原告が訴状中に、「国立大学の附属中学校を受験しようと考えているが、国立中学の入試に落ちたときに小野中学に通わなければならないからその予備的に本件訴えを提起した」というように記した点である[注21]。小野中学以外の進学の可能性などを挙げて、原告の訴えの利益を否定するという裁判所の判断に影響を及ぼしたのではないかと思われる。

 

5 むすび

  本件の研究の上で誤解を防ぐためにあえて述べるが、裁判所は、「訴えの利益のない者が、処分でないものの無効と取消を求めたので不適法であるからという理由で却下している」という点は是非明らかにしておかなければならない。また「丸刈り校則や校外での私服着用の禁止が人権侵害でない」とか、「丸刈りは、有効な生活指導方法である」と、判段していないということも明確にしておく必要がある。かつて、熊本丸刈り訴訟で裁判所が示した丸刈り校則自体の教育的合理性に対する疑いは、いまだ払拭されてはいない。

  校則裁判での共通の問題であるが、坂本秀夫氏の言を借りれば、判決は、基本的に法律学的判断であって教育学的判断ではないから、学校は裁判に勝訴したといっても教育上の正当性が認められたと解することはできない。逆に生徒に学校不信の念を抱かれ、法廷に持ち込まれたときに教育学的には、すでに学校は敗北していたというべきなのではないだろうか[注22]。

  下村哲夫氏は「部分社会の自律性が認められるのは、それが社会全般の良識を守っていることが前提である。丸刈り反対論がひろまりつつある現状に照らせば、社会の良識と比較しての校則の再検討が要求されよう」と自律性の限界についてコメントしている[注23]。学校現場では、この指摘についていま一度考え直す必要があるのでないか。本件判決をもって、丸刈り等管理教育の教育的、法的正当性が認められたとして、より管理を強化することがあってはならない。

 

 < 注 >

[1]小野中学校生徒心得2章10項1号附属別図及び3章5項。

[2]神戸地判1994年4月27日・判例集未登載。平成5年(行ウ)第27号及び平成6年(行ウ)第7号・学校規則無効確認等請求事件、同参加事件

[3]学校教育法施行規則3条、4条。もっとも、この認定については中学校や市立高等学校などには、学則にしても市の教育委員会が定め、学校長には学則制定権も与えられていない事例も見られるので一慨には規定できないように思われる。

[4]地方自治法244条の2第1項、地方教育行政法33条1項。松岡義之『施設管理権論の法的問題について』1993年大阪高法研年報93頁

[5]地方自治法244条2項

[6]地方自治法244条3項。なお、この差別禁止条項違反であるとの議論は、憲法上の問題として熊本丸刈り訴訟(1985年11月13日熊本地判・判例時報1174号48頁)でも指摘されている。このときの裁判所は、「丸刈りは男子のみにある習慣であり、合理的差別である」として退けている。この点は問題であると思う。第1に私は丸刈り自身が慣習というまで浸透していないのではないかと思う。第2に女子に対するオカッパも髪形規制の一形態であるが、丸刈り規制とを比べれば、髪の毛があるのとないのとでは、心理的な厳然とした違いがあると考える。もっとも私は、女子のオカッパであっても法的に問題があると考えていることを付言しておく必要があろう。

[7]坂本秀夫『校則裁判』74頁以下には、校則の規制概念について詳述しているが、教員による制裁より生徒による私刑の問題を重視し、それも強制の一形態であるとしている点は評価できよう。当然、私は校則の内容に関する当否の議論を無視した「公正な校則の執行は、厳正な摘発、処罰から」というような考えには賛成しかねる。

[8]学校教育法施行令5条2項。なお登校拒否のように「役務享受権の辞退」という形での児童生徒本人の「不就学の権利」を否定するという意味ではない。

[9]校則といえども上位法優先の法理が適用されなければならないと考える。

[10]もし裁判所のいうように校則が、行政立法であるなら「法規法定主義」という諸法の規定に反しえないのではないか。また私は校則が「社会規範」であったとしても裁判上では、やはり憲法の法体系に組み入れてその当、不当を考えるべきであり、法律、政令、命令といった一般法制上の法形式的順位を無視するのは、「法の支配」の概念上許しえないと考える。内閣法11条、国家行政組織法12条4項、地方自治法14条2項

[11]この論法は、富山大学事件(最三判1977年3月15日・民集31巻2号 234頁)を援用していると思われる。

[12]日本国憲法76条1項、3項、82条及び裁判所法3条1項

[13]請願法及び地方自治法 124条

[14]最大判1953年1月16日・民集7巻1号13頁

[15]そのためにも、私はそれら学校の裁量行為についても、現在、行政不服審査法4条1項8号及び行政手続法6条7号で断たれてはいるが、最低限、公務員の不利益処分なみの不服申立てや交通違反時の聴聞、自衛隊員の苦情処理手続などのような裁判以前のしかるべき救済方法を保障すべきであると考える。

[16]例えば、天台宗宗議会事件控訴審(大阪高判1961年6月7日・下級民集12巻1310頁)は、被告のいう「宗教法人は部分社会であるから司法審査から除外される」という主張を否定している。

[17]行政不服審査法は、学校の行為も行政処分であるとの前提に立っている。4条1項8号

[18]日本国憲法76条2項後段及び82条。

[19]学校外での影響については、神戸・こどもの人権と健康を考える会の中島絢子代表も指摘されている。1994年4月28日朝日新聞朝刊神戸版

[20]実際、熊本丸刈り訴訟では、原告の校則の無効確認の訴えを卒業によって訴えの利益なく不適法として退けている。もっとも本件と同様の事情にあった入学以前であった原告の弟の訴えも退けられている。

[21]神戸地裁平成5年(行ウ)第27号・学校規則違法確認等請求事件訴状中、「請求の原因」の章第3節.

[22]坂本秀夫『校則裁判』20頁。もっとも本件原告は、入学前である点は考慮に値するであろう。

[23]1994年4月28日読売新聞朝刊神戸版

 



Copyright© 執筆者,大阪教育法研究会