大阪教育法研究会 | | Top page | Back | |
◆199408KHK145A1L0189P TITLE: 高校生の物理離れ・理科離れに関連して AUTHOR: 山崎 京子 SOURCE: 大阪高法研ニュース 第145号(1994年8月) WORDS: 全40字×189行
山 崎 京 子
高校生の物理離れが問題にされ出して何年になるであろうか。私がその問題の存在を知ったのは数年前であったろうか。それ以前の歴史的変遷については具体的統計を持たないが、高校生の物理離れ、更には理科離れの原因を探る為に、日本の政治経済政策と教育制度の変遷について振り返ることから始めてみたい。
第二次世界大戦後最初の学習指導要領(試案)は昭和22年3月20日に発行され、憲法、教育基本法、学校教育法等により戦後教育が出発、社会科、自由研究創設、6.3.3.4 制発足、試案は小・中は昭和22年4月から、高校は23年から実施された 1).2)。その内容に於いては徹底した体験学習が採られていた。算数で言えば、それ以前は小学校2年でやっていた掛け算の九九が小学校5年でやると言った具合で、系統学習という立場から言えば極端なレベル低下と見られたであろうと思う。その当時最も力を入れて教えられていたのは民主主義では無かったろうか。その後昭和26年7月10日に改訂があり、小・中・高とも26年実施。「社会科編」改訂(小30年、中31年)昭和30年12月5日高校「一般編」改訂で「試案」の文字は消える。自由研究が無くなり、特別教育活動実現 1).2)。
その生徒達が中学2年の昭和32年、大学3回生の私は京都市の公立中学で3週間理科の教育実習を行った。現在はコンクリートと家で固められたその中学校周辺も、当時は水田が拡がり農家の子供が多かった。高校進学率は徐々に上がってきてはいたが、未だそれ程高くはなく、公立高校へ合格出来るのは上位1/4 位と言われていた。生徒達は日本の学習指導要領の変遷の歴史の上ではある意味では最もレベルの低い教育を受けていたのかも知れないが、今の荒んだ中学からは想像も出来ない程、平和で明るかった。これが高度成長前夜の日本の学校風景であった。
この後池田内閣の所得倍増政策が始まり、日本は高度工業化路線をひた走る事となり、食糧自給率の低下に繋がる農政の変化もこの頃に出発したのではなかったろうか。産業界の要請を受けて昭和35年頃から国立大学の理工系学部の学生定員増が計られ、工学部の拡張が特に顕著であった。その一方で小学校から高校に至る学習指導要領の改訂が行われ、体験学習は捨てられて系統学習が採用された。即ち、昭和33年10月1日小・中学校学習指導要領改訂、小は36年、中は37年実施 1).3).4)、昭和35年10月15日高校改訂、38年実施 1).5) 「道徳」の特設(小・中33年実施)道徳、学校行事、特別教育活動、教科で教育課程を編成。基礎学力充実、科学技術教育、能力適性に応じた教育重視。昭和43年7月11日小学校学習指導要領改訂、46年実施1).6) 昭和44年4月14日中学校学習指導要領改訂、47年実施 1).7)昭和45年10月15日高校学習指導要領改訂、48年実施1).8) 小学校から集合、関数が導入されるなど、小学校から高校に至る迄「現代化」され、レベルアップがはかられるようになった。物理の教科書等もどんどん新しい内容が盛り込まれて程度が上げられていった。高校進学率はどんどん上がり、90%以上となった。大学進学率も徐々に上がり、私立大学の新設も相次いで、人文、社会の学部の教育の大半は私学で行われるようになった。多くの日本人が雇用労働者として都会へ移り住むようになった。この頃から七五三教育とか落ちこぼれとか言う言葉が使われ出し、昭和52年の学習指導要領改訂1).9).10) では小学校での集合論は無くなり、中学校に上げられた。
この頃大学入試競争は激しくなり、大学間隔差も顕著になってきた。大学入試問題も難しく成っていった。昭和53年には共通一次試験が導入され、国立大一期校、二期校の区別が廃止された。国立大学では共通一次試験と各大学独自の二次試験の二種類の試験の成績で入学者を選抜した。共通一次試験は入試問題を易しくして、受験地獄の解消を計ろうと意図されたものであったが、共通一次試験のウェイトが高く成るに連れ、超一流国立大学では、入学してくる学生の質の低下が顕著に成り始めた。そこでこうした超一流国立大学では二次試験に重きを置き始めるようになり、共通一次試験は足切りに使われるに過ぎないといった大学さえ出て来るようになった。こうして受験競争の激化に歯止めを掛ける試みは失敗に帰し、中高一貫の私立進学校への入学志願者は益々増えていった。そして高校にも序列化の波が及んでいった。
こうした経緯の間に学習指導要領は昭和52年小、中(実施は小55年、中56年)1).9).10)昭和53年高校(57年実施) 1). 11) と改訂されたが、更に平成元年三月、幼稚園教育要領、小中高の学習指導要領改訂が繰り返された1).12).13).14)。幼稚園教育要領改訂は平成二年実施、小学平成四年、中学平成五年、高校平成六年実施。小学校、中学校、高等学校では生徒の心は荒み、暴力がはびこるようになって行った。昭和56年には小中高の一貫教育、授業時間の削減、内容の精選が唱われ、「ゆとり」が叫ばれ、公立中学の英語の時間数が減らされた。昭和57年には高校の必修科目が縮小され、国語は9単位から4単位に、社会は10単位から4単位に、数学は6単位から4単位に、理科は6単位から4単位に減らされた。(保健体育、芸術、家庭は縮小せず)高校習熟度別学級編成「ホテル科」など多様化徹底。普通科では高校一年で理科T4単位と現代社会4単位が必修となり、高校二年から理数系と文科系に分かれる等の改訂が成された。そして物理学UBは理数系の生徒の一部のみが選択しうる科目となった。それ以前は、昭和30年12月改訂、31年実施の高校学習指導要領理科編15) では、理科は物理、化学、生物、地学の四科目在り、夫々3単位と5単位の二種類が在る。各科目について3単位及び5単位のいずれによるかは、生徒の個性、進路によって決める。各科目の履修学年は規定していない。履修学年は「二科目の履修」の趣旨により学校で決める。とし、二科目の履修(1) で四科目のうち、二科目は全ての生徒に履修させる。としている。これは普通科のみでなく職業科その他を含めた全高校課程を通しての必修であるが、普通科では5単位の科目について一年で生物又は地学、二年で化学、三年で物理を履修するのが普通であったように思う。
当時国立大学一期校の入試科目は理系学部も文系学部も全部同じで語学(英独仏から一科目選択)、国語(現代国語必修で古典と漢文はどちらかを選択)、数学(昭和34年以前は解析T、解析U、幾何の中から二科目選択、昭和34年以後は数学T、UB、Vの中から二科目選択)、理科二科目(物理、化学、生物、地学から二科目選択の学部が多かったが、工学部は物理と化学の二科目に指定していたところがあったりした)、社会二科目(世界史、日本史、地理、倫理・社会、政治・経済から二科目選択)で語学、国語、数学、理科、社会各二百点づつ配点で合計千点満点で入学試験が行われていた。
昭和35年10月改訂38年実施の高校学習指導要領5)の付録3・全日制の課程の普通科に於ける基本的類型( 5)の388頁)として教育課程審議会から答申された全日制の課程の普通科における基本的類型としてA類型(どの教科にも比較的偏らないもの)とB類型(国・社・数・理・外の5教科に重点を置くもの)の二類型が表示されている。A類型では国語は現代国語を一年で3単位、二年で2単位、三年で2単位、古典乙Tを一年で2単位、二年で3単位の合計12単位履修することになっており、これは普通科国語の必修単位である。これに加えてB類型では三年で古典乙U3単位履修して合計15単位履修することに成っている。社会はA類型では一年で地理A3単位、二年で倫理・社会2単位、世界史A3単位、三年で政治・経済2単位、日本史3単位の合計13単位履修することになっており、これは普通科社会の必修単位である。B類型では一年で地理B4単位、二年で倫理・社会2単位、世界史B2単位、三年で政治・経済2単位、日本史3単位、世界史B2単位の合計15単位履修することになっている。数学はA類型では一年で数学T5単位、数学UA4単位を二年と三年で2単位づつ合計9単位履修することになっており、これは普通科の最低必修単位でもある。B類型では一年で数学T5単位、二年で数学UB5単位、三年で数学VB5単位の合計15単位履修することになっている。理科はA類型では一年で生物4単位と地学2単位、二年で化学A3単位、三年で物理A3単位の合計12単位履修で、これは普通科の最低必修単位でもある。B類型では一年で生物4単位と地学2単位、二年で物理B3単位と化学B2単位、三年で物理B2単位と化学B2単位の合計15単位履修することになっている。芸術は一科目2単位必修であるが、A類型で毎年2単位づつ三年間で6単位、B類型で一年と二年で2単位づつ4単位履修。外国語はいずれか一科目につき9単位が普通科必修単位であるが、A類型では英語Aを毎年3単位づつ三年間で9単位履修、B類型では毎年5単位づつ三年間で15単位履修。保健体育はAB共に一年で体育を男4単位女2単位、二年で男女共体育3単位保健1単位、三年で男女共体育2単位保健1単位履修。体育の男女差別はこの年(昭和38年入学高校生)初めて家庭一般4単位が女子のみに必修とされた差別的取扱いの影響である。卒業最低単位は85単位であるがA類型では家庭・農業・工業・商業・水産・音楽・美術の中から男は15単位、女は13単位履修で特別教育活動3単位を含めて合計90単位、B類型では男は計93単位、女は計95単位となっている。
この指導要領5)の特徴は、第2節全日制の課程及び定時制の課程に於ける教育課程第一款各教科・科目の履修1全ての生徒に修得させる教科・科目 (1)国語のうち「現代国語」及び「古典甲」又は「古典乙T」 (2)社会のうち「倫理・社会」及び「政治・経済」を含めて4科目 (3)数学の内「数学T」 (4)理科の内2科目 (5)保健体育の「体育」及び「保健」 (6)外国語の内一科目、2普通科の生徒に履修させる教科・科目及びその単位数、普通科に於ては原則として下記の教科・科目と夫々下記に示す単位数以上の単位数を含めて教育課程を編成し、全ての生徒に履修させるものとする。として既述の基本的類型A・Bに示されたような普通科の必修単位、更に職業科、音楽科、美術科の必修単位が決められていたことである。昭和45年10月改訂48年実施の高校学習指導要領8)では各教科・科目の履修1、次の各教科・科目を全ての生徒に履修させるものとする、として外国語を必修から外し国・社・数・理・保健体育・芸術の最低必修単位を規定しているだけで、普通科については2普通科に於ける各教科・科目の履修については上記1の外次の通りとする (1)「体育」について全日制の課程の全ての男子に履修させる単位数は11単位を下らないようにすること (2)芸術については全ての生徒に履修させる単位数は3単位を下らないようにすること (3)「家庭一般」は、全ての女子に履修させるものとし、その単位数は4単位を下らないようにするものとすること。として女性差別を明記しているのみで、指導要領5)できめられていた普通科の必修単位は全て削除されてしまった。一方職業教育を主とする学科としてそれ以前からあったものに加えて (6)看護に関するおもな学科として衛生看護科が新設された。更に3専門教育を主とする学科に於ける各教科・科目の履修については、上記1のほか次の通りとする (1)職業教育を主とする学科(理数に関する学科、音楽に関する学科、美術に関する学科、体育に関する学科など)に於いては専門教育に関する各教科・科目について全ての生徒に履修させる単位数は35単位をくだらないようにすること等として理数に関する学科・体育に関する学科を新設している。これは高校普通科卒業後、三年制の短大衛生看護学科を経て看護婦(士)資格をとる正規の看護職以外に准看護婦を養成して手っ取り早く安直に看護婦不足に対応しようとするものであり、理数科専門学科についても、高校普通科を出て四年制大学理工系学部に進学する課程ではなく、産業界に於ける初級コンピューター技術者不足に安直に対応しようとしたものと考えられる。
昭和53年8月改訂57年実施の(新)高校学習指導要領11) は昭和48年11月文部大臣が@高校の普及に伴う教育内容の在り方A小・中・高を通じた調和と統一ある教育内容の在り方B児童生徒の学習負担の適正化を図り、基本的事項の指導を徹底するための教育内容の在り方の三点を示して教育過程審議会に諮問した結果、昭和50年10月「中間まとめ」昭和51年10月「審議のまとめ」を経て昭和51年12月に教育過程審議会の答申が出され、この答申に基づいて公示されたものである。この指導要領では必修科目のうち保健体育、芸術、家庭一般(女子のみ)は据え置きで国語、社会、数学、理科は全て必修4単位に縮小した。選択可能な各教科・科目の改訂によって国語、社会は総単位数の増加が行われたが、数学、理科は逆に総単位数の減少が行われた。
平成元年三月改訂の学習指導要領12)13)14) では小学一、二年の理科、社会を廃止し生活科を新設し、国語の授業時間数をふやした。中学では二年の音楽、美術、特別活動の1/2時間数が選択教科となり、三年では社会、理科、技術・家庭、特別活動の内35時間と保健体育は増加単位としての35時間が選択教科となった。外国語は全て選択教科である。中学、高校の数学からも集合論は完全に姿を消し、高校数学の標準単位数は必修の数学T4単位の他は15単位から12単位に縮小された。社会だけは4単位から8〜12単位にふえ、世界史が必修科目になった。家庭科は女子のみ必修であったのが男女共必修になった。
このようにみてくると、高校生の物理離れ乃至は理科離れの最も大きな原因は文部省の学習指導要領の変遷であり、それにもとずいた学校教育の変遷であると考えられる。これに関しては8月22日、日本物理学会から文相あてに現行の学習指導要領を厳しく批判し、理科的授業の復活を強く求めた要望書が提出された。現行学習指導要領に至った文部省の考え方としては、大学生の中で理工系学部学生の占める割合は小さいのであるから、理科や数学は理工系に進学する小数者のみが学ぶべき基礎科目であって、他の大多数の国民には無用のものであるという考えが根底に在るように思われる。しかしこの考え方は極めて危険である。現代の我々は科学技術の成果を日常の生活に於て大いに享受しているのであるが、科学技術が一歩その適用を誤ると、極めて危険なものとなり得る事は、原子爆弾の投下以後歴史上幾多の実例が存在している。近いところでは、この暑い夏に続々と明るみに出てきた薬禍事件の@ソリブジン事件、A米国からの輸入血液製剤による日本型エイズの問題、B愛知癌センターの抗癌剤治験問題がある。これらは皆、極く一部の専門家のみが知識と情報と判断力を持ち、被害者の患者達は何等の情報も知識も判断力も持たされない儘に死んでいった悲劇である。
将来理系の専門科学技術を職業としない大多数の国民にとっても、生命を守り、基本的人権を保証されるためには、少なくとも高校卒業程度の理系の知識教養を身に付けておく事が最低限度必要不可欠であると考える。その為には小学、中学の義務教育課程の理系教育が基礎に成る。その出発点となる小学校の教育を担う小学校教諭の半数以上は女性である。しかもその出身学部の大半が文系学部である。昭和45年から平成元年に至る迄19年間の高校学習指導要領に於て女子のみに家庭科を必修とし、大半の既婚女性にとっては、高度経済成長期にもパート労働者としてしか社会進出の機会が与えられず、女性に理系教育を施すことの必要性に気付くことの無かった行政関係者等の失策が、教諭の大半が文系出身者である小学校での理数系教育の困難を招き、若者の理科離れの遠因を作ったのかもしれない。
参考文献
1) 伊ケ崎暁生 学習指導要領の変遷 教育六法p777トップページ | 研究会のプロフィール | 全文検索 | 戻る | このページの先頭 |