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◆199505KHK154A1L0062AI TITLE: 公教育と親の教育権 − オウム教信者の子どもの教育に関連して − AUTHOR: 朝倉 達夫 SOURCE: 大阪高法研ニュース 第154号(1995年5月) WORDS: 全40字×62行
朝 倉 達 夫
はじめに
新聞、テレビで話題になっているオウム教事件は、現在の最大の関心事であるが、特に上九一色村で保護された子どもたちの状況、さらには彼らにとられた措置について考えてみた。
オウムの子どもの問題の第一は教団内で育てられ、公教育を受けていない、あるいは教団の言い分によれば、受けさせられない、または受けさせてもらえない問題である。公教育とは「国または地方公共団体により、組織化され、または管理される教育をいう。狭義には国または地方公共団体の設置された学校で行われる教育をいうが、広義には公的性格をもつ教育をいい、私立学校で行われる教育や専修学校などでの教育も時にはこれに包含される。」(「教育小事典」平原春好)といわれている。しかも、義務教育すらも保障されていないのである。
子どもたちの立場からは、義務教育は憲法上の権利である。一般に「義務教育」とは「国民が一定の教育を受けることを国家的に義務づけられている教育とその制度をいう。わが国では、9年の普通教育を子どもに受けさせる義務をその保護者(父母または後見人)に課し、そのための学校の設置を市町村と都道府県に義務づけている。」(「同上」金子照基)ともいわれているが、オウムの保護者は種々の理由をあげてはいるが、その子に対する義務を履行していない。
オウム側は親の教育権や、教育の私事性、教団内の教育の中身をもって、あるいはいじめの予見をもって公教育不就学を正当化を主張する。
親の教育権は、民法の親権の一部として規定されているが(民法820条)憲法上教育の自由に含まれ、学校教育についても選択の余地のある場合の教育選択権(世界人権宣言26条3項)や教師への教育要求権と解される。したがって親に教育権があるからといって、子どもに義務教育を、親の信条によって保障しないということは子どもの人権上も許されないであろう。
かつてドイツワイマール憲法は「子どもを教育して、肉体的精神的及び社会的に能力を完成させることは親の最高の義務であり、かつ自然の権利である。その実行については、国家共同体がこれを監督する。」としたが、現在ドイツ連邦共和国基本法でも「子どもの教育は親の自然の権利、義務である。」と規定するとともに「国家共同社会がこれらの親の教育権を監督し、子どもが放置されるおそれがある場合は子どもを家族から引き離すことができる(第6条)」と定めている。オウム事件を想起すれば、子どもを教団施設から収容したことはやむおえない措置といえるかもしれない。しかし、親の監護・義務とその背後にある親の権利を無視して国家権力が介入する是非は慎重に吟味する必要があろう。
今回の事態を親の教育権と公教育の関係にかぎって見れば、憲法26条2項や学校教育法22.29条「親権者・後見人などの保護者に対し、その子女を小学校と中学校に就学させる義務」を課していること等をみれば、違法は明かであり、子どもの発達、学習の権利は「社会」として保障していく方向がとられるべきであろう。ただし、一般論としては、以下の二説があり、今後とも「公教育論」を追求していくうえで吟味していく必要がある。
A説「子どもの教育の担い手は親を中軸にした国民全体であり、公教育は子どもの学習権を中心に、それを実現する教育であって、親は子どもを教育する権利を教師に委託し、教師はその委託に基づいて教育をする」とする見解で、公教育をもって親義務の共同化ないし親権者集団と教師集団による社会的組織化とみる。 B説「近代国家では、教育は私事性を脱して公教育に変化し、国民的要望にこたえ国家的規模で組織化され、国民の総意を集約する法律に従い、国が責任をもって行うものである」とみる。
オウム事件のような極端な事例から「公教育」や「親の教育権」を論じるべきではないという叱責もあろうが、このような事態の中からことの本質が見えてくる場合もあろうかと思い問題提起してみた。
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