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◆199507KHK156A1L0173E TITLE: 「子どもの権利論」の死角(下) − 子どもの権利を守るために − AUTHOR: 原田 琢也 SOURCE: 大阪高法研ニュース 第156号(1995年7月) WORDS: 全40字×173行
原 田 琢 也
学校が「標準服」を定め、それを着用するよう指導することが生徒の権利侵害にあたるのか、否か。いくつかの判例が出ているが、いずれも結論は「法的には問題なし」である。ただ、その論理構成には違いがある。たとえば京都地裁から60年に出された判例では特別権力関係論が用いられているが、同地裁から翌年の61年に出された判例では、「指導であり強制ではない」といった論理構成が用いられているのである(注1)。後者においては、「標準服」にまつわる権力性は、「指導」という言葉の内に入りこんでしまい、まったく見えなくなってしまうのである。
坂本秀夫は次のようにコメントしている。「とりわけ最近生徒たちは閉鎖的な小さなグループを作り、服装、外形を似せようとする。そして外形の違う者を排除し、自分は排除、仲間外れにされないようにおびえる。このような傾向が強くなった時、学校が制服指導を強化し、『服装の乱れは心の乱れ』、『非行は芽のうちにつみとれ』というスローガンで立ち上がり、それが生徒の中に浸透していった時、制服違反者は単なる変わり者でなく、『心の乱れ』た者、反道徳者として教師からも、生徒仲間からも『つみとられる』運命におちいるだろう。もはや学校は何ら校則違反者に制裁を加えることはない。制裁以上に強力な心理的武器を手にするのである。現実の制服制度は多くの学校でこのような姿で実施されているケースが少なくない。その意味で規制は強制であり、規制服は制服と変わりない、といえよう」(注2)。
<心理的武器>は、従わない者を排除し、その者を見せしめに祭り上げることを通して、他の人々の心の深層部を、その<場>において力を有する人々に共有されている<感覚>(注3)へと作りかえるのである。人の体内に、その<場>において支配的な<感覚>を形成なさせしむることによって、表面的にはその人があたかも主体的な行動をとっているかのように見せかけながら、<場>の論理に適合した行動を強いることが可能になるのである。この<力>は、人に対して外部からある行動をとるように圧力を加えていくから権力にほかならないわけだが、人の内部に入り込んでしまいその人と同化してしまう点において、外部からは決して権力とは認識され得ない、そういう力なのである。心理的武器によって、心の深層部を形づけられているのである。
いじめなどの学校の諸問題を考えていく上でも、社会の差別問題を考えていくことは、この<目に見えない権力>について考えていくことは、もはや欠くことのできないことなのではないだろうか。坂本の言う<心理的武器>、これこそが「標準服」をはじめとする、「校則」問題の核心なのである。
教育法学では、服装や頭髪に関する校則は、自己決定権や表現の自由などの市民的権利を侵害しているのではないか、という方向で議論が進められてきた。そして「部分社会論」をいかにして乗り越えるかに焦点が絞られてきた。
これらの論が、真っ先に「校則」にまつわる問題と取組み、実際にマスコミや世論を動かしてきたことは、それなりに評価されなければなるまい。しかし、これらの論が、真実を歪曲して伝えるために、様々な弊害を生み出してきたこともまた真なのである。高法研の理論が今後さらに進展していくためには、従来の理論がもつ負の側面を一旦は明るみにさせ、それをどうクリアするかを会員どうしが議論しあうという過程が、不可欠であるように思えるのである。そこで私は、これから従来の「校則論」がもつ問題点を一つずつ列挙していこうと思う。
2−1 「校則」は市民的権利の侵害ではない
まず一つ目。指導に際して体罰や頭髪を無理やり切るなどの実力行使が用いられる場合、あるいは学校教育法11条にいう懲戒処分が行使される場合を除いては、「校則」とその指導そのものには、なんら違法性はないということである。その論拠は以下のとおりである。第一に、学校においては実際に、「標準服」の規定があるにもかかわらず私服で登校している生徒や、「逸脱した」頭髪で登校している生徒がいるという事実がある。それらの「逸脱」行為は当然に「指導」の対象となるが、何らかの法的措置の対象となるわけではない。第二に、これは第一の点と裏腹の関係にあるのだが、多くの生徒が制服に袖を通し決められた髪形にしていくのは、ほかでもない、その生徒の「意思」によっているという点である。もちろん、この「意思」は、教師の「指導」と周囲の「まなざし」によって構成されたものであるとはいえる。しかし、それでも自分の「意思」によって、判断がなされていることには違いがないのである。第三は、それでもなお「市民的権利の侵害」を主張しようとする時、学校が服装や頭髪の「指導」を行うことそのものを、「市民的権利の侵害」だと主張する道しか残されていないという点である。確かに、子どもの権利論が目ざす「あるべき」社会は、服装や頭髪などの趣向によって人の中身が判断されるようなことがない社会であろう。私も、そのような社会になることを切に望む。しかし、「今ある」社会がそのようになっていない限り、親や教師が、目の前にいる子どもたちに、「今ある」社会において「よし」とされる一定の服装や頭髪のスタイルをさせようと願い、「指導」を行うことは、決して間違ったこととは言えまい。そのような「指導」そのものを、「市民的権利の侵害」と批判することはできまい。
2−2 「自治」によっても問題は解消されない
「じゃあ、生徒どうしに議論させ、校則を見直させればいいじゃないか」という声はよく耳にする。
「自治」はそれなりに大切なことである。しかし、自治によって問題のすべてが解消されると考えるのは、あまりにも楽観的すぎよう。そもそも、市民的権利論者は、ある一定の服装や頭髪のスタイルが個人に強いられることそのものを、「問題だ!」と言ってきたのではなかったか。その「強制」が、教師からなされようが、生徒集団からなされようが、問題はまったく変わらないではないか。少々うがった見方をすれば、違反者は今度は民主主義に対する造反者として、生徒集団からも排除される可能性すらあるのである。無批判な自治幻想は、下手をすれば合法的でより巧妙な心理的武器を生み出していくのである。
2−3 その権力性
「教師は人権意識が低い!」。私は高法研の議論で、どれだけこのような批判を耳にしてきたかわからない。
批判者は、実際には自らも心理的武器に突き動かされて、たとえば服装や頭髪の指導を行っていたとしても、自分の心の状態を相対化できていることだけをもってして、自分だけは心理的武器から解放されているかのような錯覚に陥り、他人を批判しているのである。客観的に見れば、その批判者自身も批判されるべき行為を自ら実践していることには違いなく、「人権意識が低い人」と映ってしまうのである。つまり、「人権意識が低い」といって他人を批判する人も、自らの意識の内では「自分は人権意識が高い」のであるが、客観的には「人権意識が低い」ことには変わりないのである。にもかかわらず、この批判は勝手に行為者の心の内を推しはかり、そして「意識が低い」というレッテルを張ってしまうのである。ここには、教師が服装指導の際に決まって口にする、そして高法研の理論が批判してきたところの、「服装の乱れは心の乱れ」という言説と同じからくりが潜んでいるのである。
次のような会話はどうか。
教師A 最近規律が緩んでいます。このあたりで一度頭髪検査をしましょう。
教師B 頭髪は個人の自由でしょう。それを検査するなど人権侵害にあたるのではないですか。
教師A 何を言っているのですか、乱れた頭髪をしていてもそれを指導もせず放っておくことは教育の放棄です。それこそ人権侵害ではないですか。
双方「人権」という言葉で相手を批判するのである。そして論議は平行線をたどるだろう。なぜならば教師Aの「感覚」をもとに考えれば教師Bの主張は人権侵害と映り、教師Bの「感覚」をもとに考えれば教師Aの主張こそが人権侵害と映るからである。
問題はどんな「感覚」にせよ、それを「場」の力を利用し、自明なものと見せかけて他人に押しつけていくことにあったのである。市民的権利論を主張する者は、そのことを批判していたにもかかわらず、自らの「感覚」を「人権」という言葉を用いることによって、いかにも普遍的なものであるかのように見せかけ、それを他人に押しつけようとしているのである。この態度は、権力者の姿勢である。普遍的な「感覚」などあろうはずがない。
2−4 問題の核心は隠れていく
多くの市民的権利論者は、「部分社会論」を批判してきた。「法」の枠内での議論において、「校則」に潜む問題性を明確にしていくためには、まずもって「校則」擁護の論拠となる「部分社会論」を打破せねばなるまい。だれもがそう考えるのであり、それも無理もない話である。しかし、そのことが結果として、「部分社会」の存在そのものを否定する発想につながっていくのである。皮肉なことではあるが、「法」という閉ざされた「場」における「校則」をめぐる両陣営の攻防が、双方呼応しながら問題の核心を見えにくくさせていくのである。
「部分社会」は今、現実にあるのであり、その内部の圧力を巧みに利用した「戦略」が、問題を生成させているのである。「部分社会」の存在を否定するということは、問題の核心を隠蔽させること以外の何ものでもない。今必要なのは、「部分社会」の存在を踏まえた上で、その「構造」をいかにして乗り越えていくかという議論なのである。
心理的武器は、もはや学校だけではなく、この社会全体を覆いつくそうとしている。その大きな「からくり」がなかなか見えてこないために、私たちはえてして目の前の「人」を批判してこと足れりとしてしまう。そしてその批判もまた心理的武器の一種と化してしまうのである。従来の理論ではこのパラドクスから抜け出ることはできない。
教師も、親も、生徒もさらには校長も、教育長も、文部大臣も、皆が心理的武器に突き動かされるビリヤードの球のようである。今求められるのは、その「からくり」を明確にし、各人がその「からくり」から勇気をもって抜け出ることができるよう励ませる理論ではないか。人より一段と高いところに立ち、自分こそが「正義」だという顔をして、「意識の低い輩」を啓蒙する。そのような理論が、現実を変える力を持ち得ないことは言うまでもない。私たちは、「法」の枠組みに固執する前に、まずもって現実に立ち返らねばならないのではないか。
注
1 ここで紹介する判例については、坂本秀夫『校則裁判』三一書房に詳しい。
2 坂本、前掲書。引用部中のゴシック強調は筆者。
3 意識作用をベクトルで表すとすれば、「感覚」はベクトルの向かう方向を決定する。ユングは、無意識を「個人的無意識」と「普遍的無意識」に大別するが、私が用いる「感覚」は、その中間に位置するもので、ある集団の「文化」が個人に身体化されたものである。「感覚」は「正しいこと」と「正しくないこと」を分かつ無数の規則(=コード)からなっている。だから「感覚」(=文化)の違いは、必然的にせめぎあいを生み出していく。その際、当事者が「感覚」(=文化)の違いに無自覚であれば、「場」の大多数の成員にとっては、「場」の内部で力を有している者の「感覚」こそが普遍的な「感覚」(=常識)であるかのように感じられ、そこから隔たりのある「感覚」の持ち主は、人々の「まなざし」によって、同化を迫られつつ「場」の周辺部に位置せしめられていくのである。このような過程を経て、「場」の構造は生きながらえていくのである。
追記
本稿は、『全国高法研会報NO.39 』所収、拙稿「教育法の理論は『心理的武器』をとらえられるか?」を加筆、修正したものである。
また、日本解放社会学会編『解放社会学研究9』所収、拙稿「学校文化:その差別の構造」においては、被差別の立場にある子どもたちの「感覚」から、学校文化を相対化しようと試みた。また参照されたい。
<心理的武器>とは排除をちらつかせながら、人の身体に入り込み、その人の心の構造を形成し、表面的にはその人があたかも<主体的>な行動をとっているかのように見せかけながら意に沿う行動を強いる、そういう<力>である。この<力>は、人に対して外部からある行動をとるように圧力を加えていくから<権力>に他ならないわけだが、人の内部に入り込んでしまいその人と同化してしまう点において、外部からは決して<権力>とは認識され得ない、そういう<権力>なのである。学校の諸問題を考えていく上でも、社会の差別問題を考えていく上でも、この<目には見えない権力>を問題対象化していくことは、もはや欠くことができないことなのではないか。坂本の言う<心理的武器>、これこそが、「標準服」をはじめとする、服装や頭髪に関する校則とその指導の問題の核心なのである。
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