◆199603KHK163A1L0037EN
TITLE:  子どもの権利と学校 − アメリカ合衆国での議論を中心として − 
AUTHOR: 田中規久雄
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第163号(1996年3月)
WORDS:  全40字×37行

 

子どもの権利と学校

− アメリカ合衆国での議論を中心として −

田 中 規 久 雄 

 

 今回は、平原先生の退官記念論文集に寄稿した標記の論文の作成過程における裏話を含めて「子どもの権利」思想の類型について報告した。草稿を様々な方に見て頂いたので、そのご意見を含め、どういう変化を経てこういう論文になったかも述べた。わが伊藤委員長はこれを評して、「Making of The Article」と言われたが、すでに活字になったものだけに、報告に新味が出せたとすれば幸いである。

  本稿では「子どもの権利」の思想的系譜から一定の類型化を試みた。まず第一は、道徳的権利としての「子どもの権利」論である。今日では哲学的な権利論においてのみならず実定法的な立場からも、「権利」という言葉は、単に制定法・判例法上の権利というだけでなく、様々な位相においてその性質が議論されている。たとえば佐藤幸治は「背景的権利」(ここではとりあえず道徳的権利と同義にとらえておく)が、議論や批判を通して、開かれた日本国憲法の体系のなかで「法的権利」としての地位を取得することを述べているが、かつて「学習権」の観念がいわば道徳的権利論として出発し、活発な社会的議論を生みだし、最終的には司法・行政においてもある程度の法的権利として認知されていったことをみても、こうした「道徳的権利論」の重要性は理解されうるであろう。

  次に市民的権利としての「子どもの権利」論として、まず原則的に子どもの権利を人一般の権利の子どもへの適用として考え、ついでその制約について子ども固有の根拠を説く「市民的権利としての子どもの権利論」(市民的権利論)のアプローチを述べた。従来のわが国憲法学が説く「未成年の人権」論ではこれがとられてきたとされる。ここでは「問題は結局、いかなる権利をどのような理由でどの程度制限することが許されるか、ということ」になる。

  最後に、教育的権利(これは造語した)としての「子どもの権利」論の主張を紹介した。これは子どもの権利や自由そのものに教育的価値をみいだし、可能な限りその権利や自由を行使させることによって子どもの成長・発達をはかろうとする立場がある。これには「自由の手段的価値論」と「自由の目的的価値論」があり、前者が「子どもの権利運動の終局目的は健康で自律した責任のある大人の育成であり、成功したり失敗したりすることが青年の判断力を養う。被害から子どもを守るための一定の制限はあるが、それは大人の意思の押しつけであってはならない」[Wald]として、子どもの成長・発達における自由の手段的意義を説くのに対し、後者は、自由はそれ自体が目的であり、選択できることはその結果が賢明かどうかにはかかわらない善であるとする立場から子どもの権利を位置づける。以上のように、「子どもの権利」論といっても実はその内部には対立的な根拠もあることを、さらに精緻な「子どもの権利論」構築の契機とできれば良いのではないかと考えている。詳しい事は、平原春好編『教育と教育基本法』をご覧頂ければ幸いである。



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