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◆199605KHK165A1L0164A TITLE: 「合校」は学校をどう変えるか AUTHOR: 朝倉 達夫 SOURCE: 大阪高法研ニュース 第165号(1996年5月) WORDS: 全40字×164行
朝 倉 達 夫
はじめに
教育政策に関する提言が、文部省や財界から矢継ぎ早に出されている。昨年4月には中央教育審議会が発足、年内に中間答申が出されるといわれている。また、教職員組合(日教組)も「二一世紀ビジョン委員会最終報告」を出した。昨年4月経済同友会は「学校から『合校』へ」という提言を行った。これらの報告、提言がどのような背景のもとに、どのような意図をもって提起されたかを日本のこれまでの教育政策の流れを概観する中でまず分析してみたい。つぎにこの中身が現実のものになった時、日本の学校がどのように変化し、それは子どもにとってはどうなのかについても考察してみたい。
「教育政策」とは何か。かつて宗像氏は「権力によって支持された教育理念である」とされ、さらに「権力はなぜある教育理念を支持し、そのような教育を実施しようとするのか」という問を自ら発せられ、「その教育理念が実現されていけば、それによって権力・・およびその権力の基盤にある社会体制・・の、維持・存続・強化が維持されるからである」「権力は常に自己の維持に役立つ教育を欲し、そのような教育によって自己を安泰にしようとする」「だから一つの権力がどのような教育理念を支持するかは、もちろん偶然などできまるものではない」と述べられている。喧々服膺したいことばである。
日本の教育政策の流れを戦後に限って追う中で、時の権力やその手足としての行政がどのような教育政策によって、どのような教育理念の実現をはかり、どのような成果を上げ得たか、あるいは上げ得なかったか、資料「戦後教育政策の動向」を見ながら分析していきたい。(月例会報告では年次を追って資料をもとに具体的に考察していったがここでは割愛する。)
要約すれば敗戦直後(1945〜48)の「民主教育の高揚期」を除き、(1948〜54)の「反共・反動政策の胎動期」、(1955〜59)の「教育の右傾化と管理統制の強化期」、(1960〜67)の「新安保体制下の『人づくり』政策推進期」、(1968〜71)の「高度経済成長政策下の民主教育指向と反動との拮抗期」、そして「高度成長経済の歪が露呈、破綻した現在」まで、一貫して財界の教育理念の貫徹に向けての取り組みが、日本の教育政策策定の根幹になっている。
ただ,現在の教育政策推進の動向は、「五五年体制の崩壊」のことばに象徴されるように、あからさまな反動教育理念は表面に表われない状況や、民主教育を標傍していた教職員組合の一部との連携(取り込み)による理念遂行を模索する状況から、一般には日本の教育政策の動向や教育理念が見えにくくなっている。最近出された経済同友会の提言とこれに対する教職員組合を含めた各界の評価はそのことをあらわしている。
「学校から『合校』へ」は1995年4月社団法人経済同友会が提言というかたちで出したものである。同友会が提言で最も主張したいのは「学校というコンセプトを考え直そう」ということだという。そのため@学校をスリム化し、A教育に多様な人々が参加し、B子どもが多様な集団の中で成長出来るような教育環境を作り出すべきだと主張する。そのため「合校」という新しい学校のコンセプトを提起する。
「学校から『合校』へ」の提言(以下提言と表記)では「今の学校は学力形成だけでなく人格形成も期待され、教師が課外活動、生活指導、進路指導を抱え込んでいるため、「個性を生かす教育」「創意・工夫の教育」「国民共通の基礎・基本の教育」が果たされていない」と分析する。そこで教育を学校任せにせず、家庭、地域が出来ること、本来なすべきことを引き受けることであるという。
さらに学校をスリム化するだけでなく、「学校」教育も教員だけが担当するのでなく、教員外の専門家や民間教育機関(塾等であろうか)が係わるようにし、地域の教育資源を生かすべきであると主張する。
学年制や学級担任制が子どもに重圧をかけ、「いじめ」を深刻化させている。そこで学校のコンセプトを考え直し、具体的な「新しい学校のコンセプト」構想を明らかにしたいというのである。
提言のいうように教師が課外活動や進路、生活指導に忙殺されていることは事実である。しかし、学校教育の目的を達成するためにはたしてこれらの教育活動や指導を切り離し、別の機関や地域に依存することで達成出来るだろうか。子どもの全面的な発達は個々の子どもの進路を見通し、生徒にあった、生活に根ざしたカリキュラムが用意され、それが可能な条件整備をしていくことによって可能となる。提言のような「学校のスリム化」=「学校の安上がり化」、発達理論を無視した、受け皿の不明確な役割分担拡散論には賛同できない。人間発達の役割を担う学校、教師がその任務を全うできる条件整備をこそ行うべきである。
経済同友会の提唱する「学校」は子どもの教育のうち、基礎・基本、即ち国民共通の基礎的・基本的能力をつける場と位置づけられる。その周辺には芸術教科や、自然科学、社会科学を発展させた多彩な自由教室が配置される。自由教室の指導はその道の専門家があたる。さらにそのまわりを地域社会を中心にそこの居住する教員、専門家、職業人等が関わる「体験教室」が存在する。
従って「合校」における「学校」は従来とちがって基礎基本の能力、「読み・書き・計算」といった社会生活に最低限必要な力をつけることのみを使命とした場所となり、スリム化が図られる。
要するに「合校」構想における「学校」は生徒の発達(知・徳・体)のうち、「知」に重点を置き、徳育、体育、情操教育はおもに自由教室、体験教室においてまかせるというのである。教員は排除しないまでも、その道の「専門家」「企業人」に任すというものである。人間の発達が相互に関連するものであるとしながら、結果においてその役割を分割、分担することとなる。
「合校」構想は今日の「子ども」がかかえる問題の多くが「学校」にありとし、これを作り変え、「人間の発達」=「教育」=「学校」といった従来の発想を転換し、「学校」の役割、「家庭」の役割、「地域社会」の役割を明確にし、相互の協力によって全体として子どもを育てる機能を「合校」に求めようとする。
「構想」では文部省の新学習指導要領を全面的に認めたうえで、学校5日制の実施とともに生涯学習時代の到来を前提として、「学校、地域、家庭が『それぞれの教育機能を充実していく』とともにそれらがもつ『様々な教育機能を有機的に関連づける』」としている。現状では「家庭や地域社会が子どもの教育を学校に依存しすぎている」と分析し「学校をスリム化するには家庭や地域ができること、本来なすべきことを引受けなければならない」という。具体的には遠足や運動会などの行事や部活を引き受けること、地域興しやボランティア活動への参加を上げる。ただ家庭については「核家族化は『帰らざる河』で、地域や学校が多様な集団づくりをすすめ、家族のあり方を改めて論議する必要がある」としてあまり多くを語らない。しかも「地域」が具体的にどのような範囲をいうのか、行政がどのような役割を担うのか、財政保障はどう考えるのか明かでない。いわく「ボランティア活動などに子どもたちを参加させる」、「祭りや伝統芸能などに子どもを呼び込んで伝承する」、「子どもたちに腕白遊びを取り戻す」、「地域の教育施設を整えて活用する」等々。どれ一つとっても子どもの主体性といった発想はない。
「構想」では「合校」の中に「学校」を位置づければ、「学校」で国民として必要な「基礎・基本」を十分に習得できる、と根拠もなく楽観する。このように断定するのであれば国民として必要な「基礎・基本」とはどのようなものか、まず明らかにしなければならない。「自由教室」や「体験教室」の実施が「学校」というコアと関わってネットワークの形で緩やかに統合して全体としての目標を追求できる」と断言する。この切り離された「自由教室」と「体験学習」の総和がどのように子どもを発達させうるのか。教育を論ずるからにはこの点こそ重要である。
「構想」はさらに「合校」こそ「子どもの『選択』、『参加』、『交流』がはかれるという。体験教室に親が講師等で参加することによって親子の交流、親同士の交流ができるともいう。「合校」が実現すればいとも簡単に「参加」、「交流」が出来るような幻想を与える内容である。現実の高校教育の中で教科の選択すら真に生徒の要望を満たしてやれない状況を「構想」提案者は知っているのか。
結局のところ「構想」発案者の意図は「いじめ」を深刻化させている元凶である「学年制」や「学級担任制」解体し、「学校」、「学級」という堅固な「城」に閉じ篭り、為政者の教育理念実現の妨げとなっている日本の教師の、教育への影響力を弱めようというもくろみではないのか。
日教組は '95年度運動方針でその路線を大きく転換した。新聞各紙はこれを文部省との「歴史的和解」と報道している。ただ日教組自身は「和解」ではなく、「教育界の対立を解き、あらゆる団体と話合い、教育改革について社会的な合意を形成していくのだ」としている(日教組制度調査部長三浦孝啓)。
路線転換の理由を同氏は「一言でいえば『教育を社会の中心目標とする』という二一世紀戦略を重視して行われた」と説明する。こうした選択をした背景について、「少子化」と「生涯学習社会の建設」をあげる。運動方針で同教祖は「人々の個性と創造性が重視され、学習が権利として保障される生涯学習社会の建設をすすめる。(中略)このため、95年度を新たに教育改革の出発点と位置づけ、二一世紀の教育制度と内容を作り上げていく」と宣言する。さらに「社会全体で子育てと高齢者を支援するなど、教育と福祉を重視し、男女平等と多様な価値や違いを認め合う、共生と連帯の民主的社会をめざす」ともいう。
日教組委員長の横山英一氏が「季刊教育法103号」で「『合校』の現実化すすめたい、刺激的な経済同友会の提唱」と激賞するのも故なしとしない。氏は日教組運動方針を引用して日経連や経済同友会の提言を評価し、「生涯社会構築の方向や、二一世紀の学校像などに関する社会的合意を形成するために、各界で構成す『21世紀教育委員会』の設置をめざし、財界や関係団体との協議をすすめる」ことが肝要であると述べる。さらに氏の論文では、「『学校から合校へ』に対し、教育専門家の中には冷やかな見方もあると聞く。その実現可能性を論じてのことであろうが、多くは明治以来の画一的・一斉授業方式の学校像が拭いきれないからではないか。」と述べ、さらに「日教組は、現場教職員の夢も加えつつ、『合校』を現実化していきたい」とも述べている。
私や一部教育学者が「合校」に疑問を呈するのは、横山氏がいうような「実現可能性がないから」でも、「画一的・一斉授業方式が払拭できないから」でもない。むしろこの「合校」構想が現実になることを憂慮するのである。「合校」構想の実現は「自由社会」=競争原理の徹底の中で、社会的弱者にとってうれうべき教育環境が予想されるからである。戦後民主教育実現に向けてのかつての日教組に結集した教師がなによりも大切にしたものは、常に社会的弱者の視点から、すべての国民、子どもが「その能力に応じた普通教育を」真に保障される教育制度や内容実現のために努力してきたのではなかったか。そのために「学校」を民主化し、教育行政を民主化、社会を民主化しょうとしてきたのではなかったか。同友会が提唱し、日教組が激賞する「合校」構想の根拠に、現在の教育や子どものおかれている様々な困難を学校、教職員に責任を転化し、「学年制や担任制」などの教育制度にわいしょう化しようとしているからである。それどころか新保守主義特有のソフトな手法を駆使して一層の権力支配と、学校、教職員の変質を迫っているからである。さらにこの構想は父母、地域の実態を無視し、その役割と責任をおこがましくも指図しているからである。
構想の奥には教育に金をかけない、受益者負担思想が隠されている見るのはわたしだけだろうか。過去の教育関係予算に対する財界、政府の態度を事実としてつぶさに点検すれば明白である。差別、選別を生み出す社会環境を容認する中での「合校」構想を礼賛する教職員組合の責任は重大といわざるをえない。
「合校」はけっして社会的弱者のものではない。
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