◆199708KHK173A1L0131O
TITLE:  教育法の基本を考える
AUTHOR: 田中規久雄
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第173号(1997年8月)
WORDS:  全40字×131行

 

「教育法の基本を考える」

 

田 中 規 久 雄 

 

はじめに

  わが国において「教育法」なる分野に市民権を与えたのは、なんといっても兼子仁氏の功績であろう。その端緒となったのが有斐閣法律学全集「教育法」(旧版、1963[昭和38]年)であった。当初この企画では「教育法」は田中二郎氏が執筆することとなっていたそうであるが、事情により当時まだ20代半ばであった兼子氏が執筆したそうである(しおりによる)。

 このことはまさに時代の慧眼というか、巡り合わせというか、ともかく「教育法」を一定程度独立した法研究領域足らしめた事件であった。もしも田中二郎氏が執筆していたらあのような書物となったかどうか、また、教育法領域独立のインパクトを与えられたかどうかは大変疑問である。(ただし、田中二郎著「教育法」を読んでみたいのと思うのは私だけではないだろう。それはそれで田中行政法学の一角を堅固に支えるものになったとも思われる。)

  すでに戦前にも「教育行政法」などのタイトルを関した書物が何冊か出ているが、それらは「行政法の教育に及べるもの」(?)の域を越えなかったし、単なる実務書のようなものもあったようである(平原春好「日本教育行政研究序説」)。

  今日の典型的な行政法各論の教科書をみると、教育法を独立したものとみなしその体系からはずしているもの(例、小高剛著「行政法各論」)が見られる一方、とらえかたに修正を加えつつも各論体系に残すもの(例、村上武則編著「応用行政法」)もあり、そうした点にも従来からの行政法への依存と分離がないまぜになっているのを見て取れるのである。もとより結論的にいえば兼子教育法学の内にそもそもそうした相克が内在しているとするのが私見ではあるがここでの作業はその確認のための前提作業となる。

 

1 教育法序論

(1)教育とは何か

  私見では教育の核心は、「教授=学習」過程(以下教育関係)である。およそ教育諸科学はすべて最終的にはこれ抜きには語り得ないことからも、その固有性は認識されうるであろう。

 ただし、近代法としての教育法が対象とするのは原則的に「学校教育」であり、われわれがまずその固有性を認識すべきはこの学校教育を対象とする「学校法(school law)」である(以下、「教育」とは「学校教育」のこと)。ことに近代の学校教育はまさに一種の技術革新として成立した、歴史的には極めて特殊な教育形態である。そのゆえ、普遍的な教育思想・教育哲学は学校教育に対し逆機能も含めた形でなんらかの影響を与えたことは間違いないが、それのみをもってして学校教育分析をすることはとうていできないものと思われる。極端なことをいえば、今日の教育法においては教師自身が直接に教育理念や教育目的をもつことは考えられていない。それは教育法体系が指し示しており、教師はそれらの法の解釈・執行という形で、法を具現化する。これが(学校)教育である。

 

(2)教育法とは何か

 逆説的に言えば、教師が「真理の代弁者」(宗像誠也)たりえるかどうかは、教育法が真理たりえる解釈を許すかどうかとという問題と等価である。つまり、学校教育とは法実践そのものなのである。この点、(固有の)教育法は「教育関係」そのものは規律しないといわれるのには疑問を感じる。たとえ教育法を「教育制度に特有な法論理の体系」(兼子仁)ととらえたとしても、たとえば「国語」の時間に「数学」を教えていた場合、子どもの側(親を含む)からは当該教師に対し「手続き的な『要求権』」(これは一種の請願権に過ぎないものと思われる)しか行使し得ず、その強制的な変更は、行政などの学校管理者による懲戒などの「制度」的な手段によってしか為し得ないのであろうか? その際、子どもがもつといわれる学習権は、法的権利ではなくて単なる道徳的権利(moral right)にしか過ぎないものなのであろうか? 逆に教育法が固有に規律するのは、まさにこの教える者と学ぶ者の「教授=学習」関係なのではないのだろうか? といった疑問が噴出する。

 

(3)教育法の基本原理

  こうした教育法の基本原理として、従来、制度的な原理として「義務・無償・世俗」であるとか、「機会均等」であるとかが指摘されていたが、思想的な原理面として「教育の私事性(堀尾輝久)」、「教育の非権力性(兼子仁)」が明らかにされたのは、戦後教育法学の大きな成果であると感じている。しかし、思想面での原理はむしろ「指導原理」とよぶべきものであって、現実の教育がすでにそうであるというのではなく、教師の行為規範・裁判規範としてこそ意味がある。その意味で「あるべき教育」を「理想の教育」と理解すると、「教育行政の条件整備義務の懈怠のせいで、あるべき教育ができない」という言説は、すなわち「いまおこなっている現にある教育はあるべき教育に反した(つまり違法な)ものだが、教師に責任はない」という意味内容をもつことになる(その点は「あるべき教育」と「ありうべき教育」を分ける議論もあるが、ややこしい)。端的に学校法に反していない以上、当・不当はともかく、一応はあるべき教育を実現していると考えるほうが自然ではないだろうか。この点は、憲法にもある「教育の平等」によって基準以上の「あるべき教育」のばらつきを調整するというアプローチもあるのではないかと思う。

  ともあれ、現にある教育は全くの「私事」でもなければ、「非権力的」に運営されているわけでもない。学校法はそれらを指導原理としながらも、現実的な修正を行っていることをまず直視したい。そうしてこそ、懲戒や教育評価などの教育行為を正当に評価できるし、奥平康弘氏がかつて指摘したような教育法の解釈学としてのバイアスを修正しうるのではないかとかんがえられる。

 

(4)教育法の法源と効力

  憲法以下条理までならびに条約などの国際法であるが、従来からの議論はここでは触れずに、ひとつ疑問を呈しておきたい。それは、外国で教育を受けたものの国内での扱いである。実務上は、たとえば高校の入学資格として「外国で9年間の教育を受けた者」といった趣旨があげられることがあるが、この教育はどんな教育でも良いのだろうか? これでは、国内で就学しなかったものとの間に教育の不平等は生じないのであろうか? また、そうした定めがないと入学資格がないというのは、教育を受ける権利に反しないのであろうか? ここはあっさりと年齢主義にし、たとえば高校の入学資格は15歳以上のものとかにするほうが、いろいろな面での法的問題が解決する様にも思えるのであるが。

 

(5)教育上の法律関係

 先に延べたように、教育法関係は全くの私事ではない、というより私の利益と公の利益が両立するバランスの上において成立している。たとえば合衆国では学校と子ども・親の法的紛争解決基準の一つとして、学校が子どもの利益を侵害したことに「やむにやまれぬ政府の利益(compelling state interest)」があげられていることや、わが国の教育基本法や学校教育法のいかにも教育する側からみた教育目的規定など(ただしこれは行政の見解によれば、議会制民主主義の原理から、国の望むことは国民の望むことなので問題はない。ドイツでは議会で決めることこそが民主的であり[cf. 本質性理論]、70年代以降ラント学校法が膨れ上がり、法化現象をおこした。)を見てもわかるだろう。わが国においては、古典的行政法理論にいう警察行政的な見方で教育をとらえておいて(今村武俊など)、一方で給付行政だからとして、警察官職務執行法にあたるものすらない教師に広範な裁量権をあたえてきたという矛盾がある。しかし、教育においては必ずしも子ども(国民)と学校(国家)との関係が公法関係でなければならない必然性はない。経済活動をはじめとして(M31・5・27)戦前からも公的機関との私法関係は認められている。しかし、いくら受益者負担路線になってきているとはいえ、教育を実費で供給することは機会均等に反するであろうから、公機関でありながら心は民営化路線というのが望ましいのではないかと思われる(他の役所も同様だが)。

 

  以下は、今後の報告予定である。話題提供ということでご了承いただければ幸いである。

 

2 教育活動

(1)教育行為

(2)教育立法

(3)教育強制

(4)教育罰

 

3 学校総論

(1)学校設置者

(2)教育課程

(3)授業

(4)教育評価

(5)物的管理

(6)教員

 

4 学校各論

(1)就学前教育

(2)中等教育

(3)高等教育

 

5 学校外教育

(1)生涯教育

(2)社会教育

(3)家庭教育

 



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