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◆200102KHK194A1L0206BH TITLE: 教員人事行政と学校現場 AUTHOR: 尾崎 俊雄 SOURCE: 大阪高法研ニュース 第194号(2001年2月) WORDS: 全40字×206行
尾 崎 俊 雄
「教育は人である」「教師に人を得なければ、よい教育は期待できない」とはだれもが反論できない正論であろう。そしてその裏返しとして教育現場で問題が発生したとき、教師個人の能力や勤務態度・人間性がその原因であるとされることもまた多いのである。確かに個々の事例を詳細に検討すると、その指摘が妥当と思われることも少なくない。しかし、学校に教師を充当するのは都道府県の教育委員会である。この教育行政はこれまでどのような教育人事のシステムを機能させてきたのだろうか。
文部省、都道府県の教育委員会は、教師の養成、採用、転任、昇任、懲戒、分限という教員人事について、そのかかわりに濃淡はあるものの大きな権限を有している。その責任もまた問われなければならない。
ここでは、1980年代以降の教員人事行政が学校現場に何をもたらしてきたか、その問題点も含めて紹介したい。
佐藤学氏は、この15年間に教師たちが失ってきたものとして次の8項目をあげている。
1)教師としての自分を生きる個人的時間、2)教育の専門家として成長できる機会と条件、3)親や子どもたちからの信頼、4)教育実践を創造し、育ちあう同僚関係、5)社会や文化に対する批判意識と自らの教育実践を支え裏付ける教養、6)学校を蘇生する契機を準備する若い教師、7)自らの仕事を背後で支える公共的使命、8)日々の働きがいと創造性をもたらす教師としてのアイデンティティ。
これらの指摘は教育現場での実感と重なる部分も多く、教師の沈黙を考える上で多くの示唆を与えてくれるものである。また指摘された内容の多くは、教員人事行政のシステムやその政策と深くかかわっており、その分析が不可欠である。
次に教員の養成・採用・転任・昇任の現状について紹介してその問題点について考える。なお採用・転任・昇任については、都道府県の教育委員会が権限を有しているという性質上、ローカルな話題になることを容赦願いたい。
教員の養成段階では、文部省とそれによって設置される教育職員養成審議会をはじめとする各種の審議会が関与する。
戦後日本では、「免許制度における開放制」と「大学におけ養成」という2大原則の下、教員養成が行われてきた。戦前の教員免許制度が全体として複雑であり、教員養成に国家権力の恣意が入り込む余地が大きかったことの反省から、教育職員の資格と免許に関する基準を法律で定め、免許取得に必要な単位を習得すれば、課程認定を受けたすべての大学・短大で免許取得が可能であること、真理を探究する学問の自由と自治を保障された大学で養成するということは単に学問のレベルを確保するということにとどまらない意義を有する。したがって実際の教員需要とはあまり関係なく、大学で免許取得のため単位を習得する学生も多い。いらい教員養成系の大学では、子どもの減少による採用者数の激減は大きな影響を及ぼしている。文部省は1997年4月、2000年までの3年間に教員養成系大学学部の定員を5000人削減して9700人とする計画を発表した。この定員削減は教員養成系大学の教員のリストラを迫るものでもある。しかし教員需要統計によると、この削減計画が完成すると同時に、退職者の増加等によって教員需要は本格的に回復に向かうのである。
1980年以降の教員採用者数の推移を見ると、若干の波はあるものの全体としては減少傾向をたどっている。1995年から2000年の教員採用者数はこの30年間で最悪の状況にある。大阪府においても、2000年4月採用者数(1999年7月から10月に採用選考を実施)は、きわめて少数である。さらに養護教育諸学校の教員の専門性を確保するという名目でその枠内でのみ募集され、中学校・高校においては選考が実施されなかった科目も生じている。
このような激しい採用選考審査を経て採用された教員の意識はかつて「でもしか教師」と揶揄された時代とは大きく変化している。それは、「諸君は激烈な競争率の採用試験を突破してきたエリートであり、将来は管理的立場にたつ方々である」という辞令交付式における教育委員会担当者の挨拶に象徴されている。このような意識は初任者研修によってさらに強化されることになる。
中曽根内閣によって設置された臨時教育審議会の答申を受けて、新規採用の正規教員は職務命令によって初任者研修を受けることを義務付けられる初任者研修制度が創設された。初任者としての1年間は条件付採用期間とされ、現任校を離れて教育行政の準備する研修を受け、その間の成績によって正式採用となる。そして、彼らが学校を離れている間、臨時教員が配当されることになる。本来は、学校現場にあって、初めて出会う子どもたちと触れ合う時間をできるだけ多く持ち、先輩や同僚と助け合いまた刺激しあいながら実践を積むという教員生活の最初の経験こそ大切であると思われるが、現行の初任者研修は現場から隔離され、いわゆる官制研修の場となっている。その結果、彼らは一定の子ども観や教育観・教員観を与えられた後に(それがどのように意識されたかは別にして)大きく変化を遂げつつある子どもや学校に直面する。ある教員は管理的傾向を強め。ある教員は与えられた役割をこなせばそれでよしとする風潮に流れ、またある教員は私的な空間に逃れるようになるかもしれない。
採用者数の激減の結果、教員の年齢構成は大きくゆがみ、急速な高齢化が進行している。多くの学校では、20歳代の教員は存在せず、30歳代半ばになってもその学校では最年少という教員も少なくない。学校現場から若い教員がいなくなるということは、体育系のクラブ活動が存続困難になるという目に見える問題だけでなく、より深いところで学校教育により深刻な事態をもたらしている。学校での優れた教育実践は、学者や行政による与えられる研修によっていきなり可能となるようなものではなく、教員自らの批判的理解力、それによってもたらされる教育に対する洞察にもとづいて学校や地域の教師集団が営々と築いてきた実践を土台にして積み重ねられていくものである。若い教員のいなくなった学校や地域では、教育実践を理論的に支え、学習活動を共有して彼らを励ましてきた学習サークルが衰退している。サークル自体は存続していても若い教員の参加は少なく、教育実践の共有、継承というサークルの機能は著しく弱体化している。
極めて少数の若い教員は多くの場合、同年代の教員のいない現場に配属される。そこでは他の教員ははるかに年長であり、教育に携わることの夢や挫折を共有する関係は作りにくいかもしれない。校務分掌やクラス運営など与えられた仕事をこなそうという風潮が生じている。その中にあって若い教員は、創造的な教育実践を共に作り出す同僚的関係(管理職を含む)を体験することが困難になっている。セクショナリズムや官僚主義は体験しても同僚的関係を結び得なかった教員でも、近い将来、管理職等の指導的立場に立つことになる。現状の採用者数から考えると、きわめて若い管理職の登場も考えられる。彼らはどのような教育観や子ども観をもって教育にあたるのだろうか。もちろん個人の資質は大切であるが、体験によってもたらされるものも大きいのである。
高等学校については、総合制高校や単位制高校の設置など高校改革と合わせて考える必要がある。そのような高校では、全教員に対して正規教員の占める割合はきわめて小さく、非常勤の教員が幅広い教科・科目を担当することになる。したがって正規教員の採用は今後も厳しい状況が続くことが予想される。学校現場では、正規教員の事務量が激増し、生徒との日常的な接触を含む生徒指導にあてる時間は削減せざるをえなくなるだろう。かつての高校生活のイメージとはまったくかけ離れた生活を送る生徒・教員が出現することになる。
教員の養成・採用の段階を教育の専門性という観点から見ると、教育行政の迷走ぶりはいっそう明らかになる。多くの審議会で教員の資質の向上や高度の専門性が必要なことが指摘されているが、実態は教員養成系大学の教職員のリストラが進められていて、教員に必要な専門性を身に付ける場である大学での教育・研究の質を維持・向上させることは困難となっている。また初任者研修で資質の向上をはかるといいながら、教諭免許を有しない正規採用を進めるなど一貫性に欠けること甚だしい。
教員の養成・採用、教職員の需給関係をめぐってはいくつかの研究がなされているが、それらの研究であまり語られていないがとても重要なことがある。1980年ころから将来の子どもの減少を見越して大量に採用されてきた臨時教員の問題である。明らかに教員数の調整弁として任用され、「UNESCO,ILO教員の地位に関する勧告」や教育基本法第6条の趣旨に反する人事行政の運用がなされてきたにもかかわらず、それに対する問題意識が希薄なことこそ教育に当たる者にとって真に深刻な問題と言えるが、今後総合制高校や単位制高校が増加すると、他の専門分野から数多くの臨時的任用の教員が導入されることが不可避となる。そのとき、彼らは教育の公共性についてどのように考え、教師としてどのようなアイデンティティを持ちうるのだろうか。80年代、若かった臨時教員の多くは、90年代以降教員の過員状況が強まるなかで学校現場を去っていった。
転任(人事異動)は、一般に増員・欠員の充足、適正配置、能力の発見、育成(視野の拡大、知識・技能の習得、経験の豊富化)、意欲の促進とマンネリの打破と協力関係の向上等の目的で実施されている。そのために任命権者である教育委員会は人事行政の基本方針を作成して、それにもとづいて年度替りに学校間で人事異動をおこなう人事異動をおこなう。この転任の意義については、それぞれの立場からさまざまな見解が示されている。しかし学校現場でこの人事異動が日々の教育実践に大きな影響をおよぼしているという事実の方が重要である。ここでは大阪府立学校人事基本方針および府立学校教員人事取り扱い要領とそれにもとづいて実施されたとされる人事異動について考察する。
それを要約すると、「明るい秩序ある学校運営の推進と教育意欲の高揚、適切な人事管理の下、教職員組織の充実をはかる。中長期的な教職員の需要見通しを考慮し、学校間、課程間の交流を推進する。教職員構成については、年齢別・性別・担当教科別等の観点から府立学校全体の平均的構成に近づける。現任校における勤務年数を考慮し、それぞれの学校の実情に応じて計画的に異動を行う。具体的には、新規採用以来4年以上現任校で勤務する教諭、それ以外は7年以上現任校で勤務する教諭を異動対象者とする。設立の古い学校と新しい学校との間の異動を進める。校種間の交流異動を積極的に進める。これらを校長の具申のもとに進める」というものである。
1991年以降、この方針を受けて府立学校の教員人事は大きく転換した。それ以前は、「校長間の人事」であり、「本人の希望と納得」という労使慣行にもとづく人事異動であったが、実質的には府教育委員会による強制的な直轄人事へと一方的に転換した。それ以来、人事異動に対して人事委員会への不服申し立てが増加した。人事委員会での審理を紹介して問題点について考える。まず問題になったのは、人事委員会の委員長がこの年の人事異動の最高責任者であった前教育長であったことである。このようなやり方は行政によく見られる手法であるが、教育委員会、人事委員会双方の信頼を著しく傷つけるものであった。審理の中でこの人事異動は学校現場に混乱をもたらした例、異動対象者に選ばれた理由に合理性がなく、組合活動を理由にした不利益取り扱い(不当労働行為)の疑いが濃い例、異動によって教育に意欲がもてなくなった例など多くの問題が具体的に報告された。もとより異動によってプラスの効果が見られている例もあり、すべてを否定するものではないが、人事基本方針に記されている目的にも反する結果を招いていることは指摘されなければならない。どのような人事異動でもすべての問題を解決することは不可能かもしれないが、問題が指摘されたとき、その経緯について当事者に説明する責任がある。しかし管理職は直轄人事であることを理由に、人事委員会での説明を拒否した。
地方教育行政法第36条・39条は、校長が職員の任免について意見を具申できると規定している。これは教員の身分、待遇の適正が一般の公務員以上に保障されなければならないとする教育基本法第6条2項の要請をうけ、教員人事もまた教育条件の一環であるという視点から設けられたものである。当然任命権者としての教育委員会の裁量権は一定の制約を受ける。したがって、完全に一方的な直轄人事は違法性を否定しきれない。基本方針の中に「校長の具申のもとに行う」との一文が添えられたのもそのためである。実質的な直轄人事のもとで校長の具申権をどのように扱うかが問題となった。教育行政が求めるような人事を実現するためには、教員個々の情報が必要であり、そのための手段として校長の具申権を利用しようとしたのである。それは校長がヒアリングを経て作成する人事計画書の様式を見ても明らかである。教員の身分保障、学校の教育条件の向上という本来の目的から離れて、教員個々の情報収集の手段へと校長の意見具申権は大きく変質させられてしまった。これは学校における教員のリーダーとしての役割を放棄させるものであり、校長の教育者としての職務とその個人的人格を貶めることでしかない。また管理職と一般教員との信頼関係を破壊する要因ともなろう。またこのような変質は、具体的な問題にはなりにくいかもしれないが、さまざまな問題の背景としてより広範に、より深く、教員社会を荒廃させることになろう。
一般教員から教頭・校長・指導主事になることを昇任という。昇任は任命権者である教育委員会の教育長による選考によって行われる。その選考課程は都道府県によって若干の違いはあるが、大阪府立学校を例に、選考システムとその内容が学校現場に及ぼしている影響について考える。
校長・教頭への昇任選考は、現学校長が有資格者のなかからヒアリングを行うことから始まる。校長からその報告を受けて教育委員会が選考対象者を選定する。数多い資格者の中から校長の判断で選択してヒアリングを行うのであり、実質的には校長の推薦を受けたものだけが選考対象者となることができるのである。
第一次選考といわれる論文テストでは、三つのテーマについて120分で論述し、字数制限はない。テーマの内容は文部省通知や学校教育審議会の報告、教育委員会による学校への指示事項などを前提にした教育課題についてのものがもっとも多く、次に教員管理、一般的な教育時事、教育についての識見を問うものなどが続いている。第二次選考は面接であるが、特に決まった質問事項はないという。この結果選考対象者の約4分の1が合格者として校長や教頭に昇任する。
校長が選考対象者を選定する基準は明確になっているわけではなく、個人的判断であるため恣意的な運用の余地を残しており、情実選考のうわさの背景となっている。論文テストの内容についても、行政の文書や教育法規の行政解釈についていかに精通しているかを問うものであり、教師として真の専門性・識見や教育実践の豊かさを問う内容にはなっていない。教員管理については主任制や職務専念義務。校長の職務権限など教育法学、教育行政学上判断の微妙な内容が出題され、思想調査としての側面がうかがえる。一連の選考課程・内容を見ると教育行政が望む管理職像が浮かび上がってくる。
この選考の当然の結果として管理職の教師としての質は低下し、教育課程や教育実践という教育の本質的部分について深い論議ができにくくなっている。彼らはもはや行政の末端としてしか機能せず、変動期の学校にあって最も必要とされる教育者としての真のリーダーシップを発揮することは望むべくもない。また校長会などの組織もその位置付けが不明確なだけではなく、校長たちが同僚性を回復して学校の真のリーダーとして活動することの阻害要因になっているように思える。
教育行政が1980年以降、教員人事にどう関与してきたかを概観した。佐藤氏が述べている「教師がこの15年間に失ったもの」の多くに人事行政は関与している。学校教育にとって欠くことのできないものを失った教師たちは、自覚的であればあるほど、疲弊し閉塞感に苛まれている。かれらの沈黙は深い。
しかし、このような悲観すべき状況にあっても教育内容を構想し実践する能力と共に、教育が展開されるフィールドをも批判的に検討し変革していく教師の専門性を持ち、豊かな同僚関係のなかでいきいきと成長を続ける教師もまた存在していると思いたい。
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