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◆200110KHK198A1L0255E TITLE: 人種差別撤廃条約(ICERD)の日本政府報告書への最終見解について AUTHOR: 伊藤 靖幸 SOURCE: 大阪高法研ニュース 第198号(2001年10月) WORDS: 全40字×255行
伊 藤 靖 幸
2001年の3月上旬、人種差別撤廃条約の日本政府報告書が人種差別撤廃委員会(CERD)によって審査され、3月20日にはCERDの最終見解が発表された。ここでは2000年の政府報告書についての発表の続編として、この最終見解を検討してみたい。
まず、ごく簡単に本条約の成立経過と概要をふりかえっておこう。本条約はヨーロッパでネオ・ナチによる暴動事件が続発したことを直接の契機として、1965年の12月に国連総会で採択された。主要な国際人権条約の中ではもっとも早く成立したものであり、締約国も157ヵ国の多数に昇っている。日本政府は後に述べるような理由もあって長い間本条約 の締結を避けてきていたが、ようやく1995年に一部を留保した上で146番目の締約国とな った。本条約に言う「人種差別」はたいへん広範なものであり、人種や皮膚の色の他に世系(discent)や民族的・種族的出自等を含んでいる。したがってわが国の人権の状況や 政策にも大きな影響をもたらすべきものである。
締約国は本条約の効力発生後1年以内に、またその後は2年ごとに条約の実施状況をCERDに報告する義務があるが、日本政府は最初の提出期限から3年、2回目の提出期限からでも1年おくれた2000年の1月にようやく第1・2回の合併報告書を提出した。本年の3月8日〜9日、人種差別撤廃委員会(CERD)がこの日本政府報告書を審査した。日本政府は17名の大代表団を派遣し、NGOからも20名が参加した。まず政府が追加報告を行い、CERD側から質問とコメントがあった。その後政府が口頭で回答し、時間の都合で残りは13日に書面で回答を提出した。このやりとりを受けて3月20日にCERDは日本政府報告書への最終見解を採択したのである。
1)肯定的な側面など
Aはじめにの部分と、B肯定的な側面の部分(2〜6パラグラフ)は日本政府に対し、好意的な評価をしている。まず、CERDは日本政府が大代表団(17名)を派遣し、NGOが政府報告書の作成に関与した事を評価している。こと形式的な側面においては、日本政府のCERD等の国際人権機関への対応は、報告の期日に遅れるようなことはあるが、全般的に誠実な方であると言えよう。NGOとの関係も従来は概して冷淡であったが、1996年の子どもの権利条約の第1回報告書作成の際に非公式にヒアリングを行なって以来改善したと言えるだろう。次にCERDは1997年の「人権擁護施策推進法」「アイヌ新法」等の立法上や行政上の努力を歓迎するとしている。CERDはまた、アイヌの人々を独自の文化を享受する権利を持つ少数民族であるとした判決に注目すると述べている。ここで言及されている判決は政府報告書には触れられていないのであるが、二風谷ダム事件1997年札幌地裁3月27日判決である。これはB規約27条を積極的に援用してアイヌに少数民族としての権利を認めたものであり、その内容からも国際人権条約の援用という方法からも確かに注目に値するものである。最後に、CERDは日本の外務省のウェブサイトが本条約を含む基本的な国際人権条約の全文や政府報告書等を公表していることを評価している。
2)懸念と勧告
C懸念と勧告の部分には7〜27パラグラフが充てられており、量的にも内容的にもこの最終見解の中心をなしている。以下逐条的に若干の解説を加えていきたい。
7パラグラフでは、報告書に民族別人口構成に関する情報が欠如していることをCERDが批判している。報告書で政府は日本社会の民族構成は必ずしも明らかでないとしていた。しかしながら実は日本政府の立場はこれでも以前より改善しているのである。というのは1980年の国際人権B規約の第1回報告書においては、日本政府は「B規約のマイノリティはわが国には存在しない」と明言していたのである。1986年に中曽根首相は日本は「単一民族国家」と発言して国内外の批判を浴びたが、実は彼の発言はマイノリティが存在しないというこの報告書の立場そのものであったのである。ようやく1991年のB規約第3回報告書において、政府はアイヌをマイノリティとして差し支えないという立場をとるようになる。民族構成が不明あるということは異なった民族集団の存在を前提としているので、いちおうは80年代の立場よりは前進しているのである。しかし一方で政府は、在日朝鮮人については外国籍であるからB規約のマイノリティにはあたらないと主張しつづけている。今回の審査においてもCERD側から「マイノリティの権利と国籍の有無は関係がない」と指摘されていた。日本政府の立場からしても、在日朝鮮人うち日本籍となった部分はB規約等に言う民族的マイノリティとして認められなければならないはずなのであるが、政府は民族別の人口統計すらとっていないということなのである。「帰化」や日本人との婚姻から生まれた子など日本国籍を持った朝鮮人は数十万に及ぶといわれるが、こうした日本籍朝鮮人(朝鮮系日本人)については基本的な人口統計すらないのである。またCERDはこうした在日朝鮮人の他、被差別部落や沖縄の人々を含むすべてのマイノリティについての情報の提供を政府にもとめている。独自の民族集団としての承認を要求する沖縄の人々の主張を反映した点は目新しい。
8パラグラフでは、本条約1条の人種差別の定義のひとつである世系(dicent)(金東勲は「門地」と訳している。)についてコメントされている。日本政府は部落差別は本条約の対象ではないと解して、報告書でも部落差別については触れていない。これに対しCERDは明確に日本政府の解釈とは異なり、部落差別は本条約の世系にあたると勧告しているのである。もともとこの語句は、本条約の審議過程でインド代表の提案により取り入れられたものであり、カースト制度を念頭に置いたものである。したがってもちろん部落差別は通常の意味の人種差別ではないが、本条約に言う人種差別に含まれると解するのが正当である。小森龍邦によれば、本条約の批准に際してこの世系の解釈で当事者団体である解放同盟が政府側の部落差別を含まないという提案を了解してしまったという。衆参両院で部落問題等も含むという付帯決議が付けられているが、日本政府は当然のようにこの付帯決議を無視してこのような解釈をとり続けているのである。
9パラグラフでは国際人権条約が国内でほとんど援用されないことが懸念されており、これと関連して21パラグラフでCERDは次回報告の際には本条約違反の判例についての情報の提供を日本政府に求めている。この点は、B規約や子どもの権利条約の審査の際に以前から指摘されてきたことである。本最終見解も触れているように、憲法98条2項により、批准された条約はそのまま国内法としての効力を持ち(いわゆる「受容」の体制)、またその効力順位は法律よりも上であることはほぼ異論がない。にも関わらず、上述の二風谷ダム事件判決や静岡地浜松支判1999.10.12「外国人入店拒否訴訟」のような少数の判例はあるものの、依然として日本の裁判所は国際人権条約の援用に慎重な傾向が強い。これには10で触れる自動執行力の問題等様々な理由が考えられるが、ひとつには裁判官自体が国際人権条約に不慣れであり適用をためらっているという事情もある。この点B規約の第4回日本政府報告書への最終見解(1998.11.5)では裁判官や検察官等にB規約等の研修を行なう事を勧告している事が注目される。
10パラグラフでは、人種差別に関わる法律が憲法14条しかないことが懸念されている。またCERDは本条約が自動執行力を持たないことを考慮し、条約4・5条に合致した人種差別を非合法化する特別立法が必要であると勧告している。ここで「本条約が自動執行力を持たない」とCERDが指摘している点は問題がある。条約について日本のように受容の憲法体制を持つ国にあっても、批准された条約の規定のすべてが裁判所で直接適用できるわけではない。条約の規定が適用されるためには自動執行力を持つ(self-executing)事が必要であるとされる。これではCERDは一方で本条約に自動執行力がないと言いながら、日本では裁判所が直接適用しないのは問題だとないものねだりをしていることになってしまう。この点は村上正直の言うように、CERDが一般に本条約の自動執行力を否定したのではなく、日本政府のその趣旨の回答を受けたものと考えられる。つまりこの部分は日本政府が本条約に自動執行力がないと言うのであれば、人種差別禁止のための特別立法が必要であるというように解釈するべきであろう。しかしこの自動執行力についての政府の立場は妥当ではない。ある条約の規定が自動執行力を持つか否かはなかなか難しい問題であるが、ここで指摘されているように本条約の全体が自動執行力を持たないとするのはかなり乱暴な議論である。従来は規定の形式(受範者が国か個人か)等によって、ある条約の全体が自動執行力があるかどうかをいわば所与として判断する例が見られたが、岩澤雄司はそのような所与理論を排して、国内効力があることを前提に個別の条文・規定ごとに裁判の個別のケースに応じて判断すべきであると主張している。政府も報告書の5パラグラフでは直接適用可能性について具体的場合に応じて判断するとしているが、私としてはこちらの立場の方が妥当であると考える。
11パラグラフではCERDは本条約4条に関する日本政府の留保の問題を扱っている。日本政府は4条の(a)(b)について「日本国憲法の集会・結社及び表現の自由等の権利の保障と抵触しない限度において、これらの規定に基づく義務を履行する」との留保を付している。前稿でも触れたがこれはなかなか難しい問題をはらんでいる。CERD側は本条約4条と表現の自由の両立は可能であるとしている。しかし、いわゆる「闘う民主制」(自由の否定者には自由を与えないとする立場)をとるドイツなどとは違って、わが国の憲法体制の下では、本条約4条が求めているよう差別表現や差別的団体への加入等をただちに犯罪として処罰することは問題があると考える。したがって、私としては日本政府の留保は必ずしも誤っているとは考えない。しかし、留保しているから能事足れりとするのではなく、表現の自由とのぎりぎりの両立をはかった差別禁止立法を追求していくことが必要であろう。外務省の岩撫明氏はこの点に関し「法律を作るほど日本で人種差別が蔓延しているとは思えない」「本来、私人間の問題はお互いの話し合いで解決していくべき」(週刊金曜日383号)等の消極的な発言を行なっている。アメリカの要請には、憲法9条のぎ りぎりの領域を追求するのにやぶさかではない日本政府が、まぎれもない国連機関であるCERDの勧告は無視するのではバランスを欠いているのではないか。
13パラグラフでは「高位の公務員の差別的な発言」の問題がとりあげられている。これは石原東京都知事の「三国人」発言のことである。この問題については項を改めて後で述べてみたい。
14パラグラフでは朝鮮学校の児童・生徒に対する暴力事件について、政府の対応が不適切であると指摘し、政府に対し防止のためのより確固とした措置をとることを勧告している。こうした事件を防止するためには、外務省側が主張する啓発等の地道な活動も当然必要だが、やはり上述のような新たな差別禁止立法を検討せねばならないのではないだろうか。
15パラグラフでは小中学校での外国籍生徒のあつかいの問題を取り上げている。CERDは外国籍の子どもが義務教育の対象になっていない点に注目している。日本政府は「初等教育の目的は日本人をそのコミュニテイの一員とすることなので、外国籍の子どもにそうした教育を強制するのは不適切」という見解をとっている。政府は外国籍の子どもは民族学校等の外国人学校へ行くか、日本の正規の学校で日本人と同じように教育を受けるかの選択肢があるとする。政府が皇民化教育のような押しつけの同化教育を反省している点はわかるが、この立場は両方の方向で不十分である。民族学校は正規の学校でないという理由で16パラグラフで指摘されているような不平等な処遇を受けているし、日本の正規の学校では外国人は主たる対象でないということで、民族教育や多文化教育は必要ないとされてしまうことになる。思うに、政府はここでも日本籍を持つアイヌや朝鮮人のことは念頭にないようである。外国籍の子どもにとっても、日本籍を持つアイヌや朝鮮人等にとってもそして日本籍の日本人の子どもにとっても、他の民族の言葉や文化を学習することは必要で望ましいことと考える。
16パラグラフでは在日朝鮮人の教育における差別が指摘されている。CERDはこの問題についての若干の改善点に触れながら、朝鮮語による学習が認可されていないことや民族学校出身の生徒の進学面での不平等を指摘してその改善を求めている。この間子どもの権利委員会や規約人権委員会の勧告を受けて、政府は全くささいな一歩ではあるが大検受験資格の弾力化を実施した。この問題について基本的に民族学校を各種学校としてしか認めない政府のスタンスは現在に至るも変化しておらず、その点が様々な不平等の原因となっている。朝鮮学校側が主張するように各種学校のままで学校教育法一条校に準ずる処遇を求めるというのは法外な要求に思えるもしれないが、決してそうではなくB規約や子どもの権利条約のマイノリティの権利や本条約7条(教育等の分野での差別撤廃精神の普及)に沿った要求である。上で確認したように条約の効力は法律に優位するので、国際人権条約上の要請で学校教育法の規定が部分的に無効になることは起こりうることである。まして、条約が学習指導要領(その法規としての性格には諸説あるが)に優位するのは明らかであり、一条校である民族学校(大阪に2校ある)では民族教育を充実させるために学習指導要領を弾力的に運用することも条約上の要請であれば可能であろう。またCERDが公立学校でマイノリティの言語による教育へのアクセスを確保するよう提言している点は注目に値する。政府は公立学校での民族教育は課外にかぎって「差支えかない」とする消極的な立場であるが(いわゆる民族学級)、CERDはそれでは不十分だとしているわけである。また、センター試験の外国語試験の中に韓国・朝鮮語が入った事は一歩前進であるが、大学側が英語を指定する例がみられるという。この問題も本条約に抵触するおそれがあると考える。
17パラグラフではCERDは先住民族としてのアイヌの権利を一層促進するように勧告を行なっている。上記のように、政府は1990年代になってようやくアイヌがB規約等のマイノリティにあたることを認めたが、先住民であるか否かは明確にしていない。本条約は直接に先住民の権利を規定しているわけではないが、ここでCERDが政府に注意を喚起している一般的意見23(1997)は土地や資源への権利を含む先住民の権利が本条約の対象であると明記しているのである。
18パラグラフでは在日朝鮮人の名前の問題がとりあげられている。CERDは在日朝鮮人が日本国籍を取得しようとする場合、日本人名に変えさせる法的な要請が今はもうないにもかかわらず、今だに当局は名前の変更を促しており、在日朝鮮人が差別を恐れてそうせざるを得ないと感じていることに懸念を表明し、このような慣行をなくすために必要な措置をとることを勧告している。ここではまずCERDが在日朝鮮人のこうした名前をめぐる問題をきっちりとりあげたことを評価しておきたい。周知のようにかつてわが国は植民地支配下の朝鮮人等に対し「創氏改名」を含む皇民化政策という名の同化政策を遂行した。その影響は戦後も残り、1980年代までは国籍取得の際には日本的氏名にすることが条件づけられており、日本社会にはいわば見えない創氏改名政策が残存していた。現在ではいちおう制度的な強制はなくなっているが、ここで指摘されているように陰に日に日本的氏名を強制する圧力は残存している。何よりも、現在にいたっても在日朝鮮人の間での本名使用率が10%前後であるとみられること(例えば1994年の大阪府立外教調査等)、また数十万に及ぶ日本籍の在日朝鮮人の大多数が民族名ではないことは名前をめぐる日本社会の同化圧力の強さを物語っている。我々としては在日朝鮮人が、外国籍であっても日本籍を取得する場合でも、民族名のままで何も差別されることなく暮らしていける社会をめざす必要があるだろう。この点で大阪府が「在日韓国・朝鮮人問題に関する指導の指針」(1998)や「人権教育推進プラン」(1999)の中で「本名を使用することはアイデンティティの確立に関することがら」と明記していることは、今回のCERDの見解の方向に沿ったものであると評価できる。最近、民団の幹部を歴任した人が「民族名で日本国籍取得を」と主張している本が出版された。(河炳旭かわへいぎょく「韓国系日本人」2001) 国籍よりも名前が民族のアイデンティテイの中心であるという主張を、このような立場の人が行なっている点は注目される。この本で、河氏が民族名の読み方について「漢字文化圏ではその国の読み方で」として、日本語読みでよいのではないかとされている点も議論に値するだろう。氏がいわれるように「河尚恵」を「ハサンエ」と読んでは普通の日本人には通じにくいというのも一理はある。しかし一方で民族名の問題のリーディングケースである崔昌華(チォエチャンホア)牧師のように、日本語読みは人格権の侵害であるとの主張も当然ある。とりあえずは、どちらの読み方にせよ本名(民族名)が当たり前である社会にすることが先決問題なのではあるが。
19パラグラフでは日本が受け入れている難民についてコメントされている。CERDは日本が受け入れている難民の数が最近増えていると好意的な評価をした上で、インドシナ難民とそれ以外の難民に異なる取り扱いがされていることを懸念している。しかし、全体に日本の受け入れている難民はケタ違いに少なく、また政府報告書ではインドシナ難民しか触れられてていないのである。
20パラグラフは国家賠償法の相互主義の規定に懸念が表明されている。国賠法6条は外国人の救済について相互主義の立場をとる。つまり国賠法はすべての外国人ではなく、出身国が日本人に国家賠償請求権を認めている場合にのみ、賠償請求権を認めているのである。これは本条約6条が締約国の管轄権内にあるすべての者に、人種差別の結果被った損害に対する救済を求める権利を保障していることに違反している。この問題は典型的な条約の効力問題であり、条約と法律の規定が抵触する場合は条約の方が優位であることに学説上異論はなく、当然国賠法6条がこの部分に関して無効にとされるべきものである。
24パラグラフでは、日本政府が本条約14条の個人通報権宣言を行なっていない事を指摘し、宣言を行なう可能性を検討することと勧告している。本条約14条は、被害者である個人や集団が直接CERDに通報し救済を求める個人通報制度を定めている。しかしこの個人通報制度が行なわれるためには締約国による宣言が必要とされているが、日本政府はこの宣言を行なっていないのである。同様の制度はB規約の第1選択議定書にもあるが、政府はこちらも批准していない。B規約の個人通報制度ではすでに多くの個人通報が受理され、見解の採択にいたったものも多数ある。日本政府は本条約とB規約の両方の個人通報制度に道を開くべきであろう。
石原東京都知事は昨年の4月9日の陸上自衛隊の記念式典で「不法入国した多くの『三国人』、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している」「もし大きな災害が起こった時には大きな騒擾事件さえ想定される」等の発言を行なった。本条約4条(c)は公権力が人種差別を助長し又は扇動することを認めないことを定めている。日本政府は4条の一部を留保しているが、その留保はこの部分には及んでいない。したがって、東京都知事である石原氏が公的な場で行なった人種差別を含むとみられる発言に対し政府がどう対応したかは当然本条約上の問題である。石原氏自身は、「三国人」という言葉の使用については「誤解」を認め遺憾の意を表明した(2000年4月19日都議会民主党への文書)が、発言全体については全く反省していない。
政府は2000年10月3日の参院竹村泰子議員の質問に対する政府答弁書において、石原発言は本条約に違反しないと明言している。その理由としては「公の当局等の言動が人種差別を助長・扇動するものであると受けとめられることがあっても、その意図がない場合は4条(c)にあたらない」とする。これはかなり甘い解釈であろう。表現の自由とのギリ ギリの両立がはかられる一般人への規制の場合は格別であるが、公務員の立場であれば単に人種差別を助長する「意図」ばかりでなく、その発言が現実に人種差別を助長する効果があったかどうかまで検討されるべきであろう。
石原発言はCERDへの政府報告書提出後の事件であるので、報告書には当然記載されていない。また政府は上記のような立場から石原発言について特に追加報告も行なっていない。しかしNGOが石原発言と政府の対応のレポートを作成し委員に働きかけた事により、審議の中で5人の委員が石原発言に言及しており、最終報告にも盛り込まれることになった。13パラグラフで、CERDは「高位の公務員が行なった差別的な発言」と「当局がとるべき措置をとっていないこと」また「そうした行為は人種差別を助長・扇動する意図があった場合にのみ処罰されるという解釈」に懸念をもって注目するとしている。CERDは明確に、石原発言と日本政府の対応及び4条(c)の解釈を批判しているのである。これに対し石原氏は「国連のその機関が前後の事情をどう承知しているか知らないが、物事を正確に承知せずそういう発言を軽々にしないほうがよい」と逆に批判している。私としてはロドリゲス委員が述べているように「このような発言が、政府による処罰を受けることがなく行なわれていることに不安を隠しきれない」と感じ、13パラグラフ後半が指摘するとおり、公務員、法執行官および行政官に対し、条約7条にしたがって、人種差別につながる偏見と闘う目的で適切な訓練が行なわれることを期待したい。
【資料】人種差別の撤廃に関する委員会の最終見解(外務省仮訳)
(http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinshu/index.html)
CERD/C/58/CRP.
CERD/C/58/Misc.17/Rev.3
2001年3月20日
原文:英語
未編集版
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