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TITLE:  親の教育権の検討−教師の教育権との関わりから−
AUTHOR: 羽山 健一
SOURCE: 全国高法研会報 第20号(1990年6月15日)
WORDS:  全40字×186行

親の教育権の検討
−教師の教育権との関わりから−

羽 山 健 一

 

はじめに

 

  親がその子どもの教育について、家庭教育の自由や、私立学校を選ぶ等の学校選択の自由をもつことは疑いがないとしても、親の教育権が学校教育との関係で、学校の教育課程・授業内容・教育活動等に対し、どのような効力をもつかについては、検討すべき点も残されているように思われる。さらに学校教育において、教師がその教育権に基づいて行う教育活動が、親の教育権と対立する場合、この両者の関係はどのように調整されるのであろうか。ここでは、とりあえず教育権を教育する権利に限定し、教育する権利を、「教育を行うに際し、国家権力から不当な介入・干渉を受けない自由」と捉えた上で、親の教育権・教師の教育権の特質を整理し、親の教育権が学校教育においてどのような効力をもつか、またそれが教師の教育権とどのような関係にあるかについて、これまでの学説を鳥瞰してみたい。

 

一 親の教育権(教育の自由)

 

  親は子どもを扶養する義務を負うのと同様に、精神的文化的な意味で、子どもを教育する義務を負い権利を有する。この親の教育権は「人間性の中に深く根ざしているところの人類普遍の原理である自然法上の権利」であるとされる(註1)。日本法においては、親の教育権の自然法的性格についての直接の規定を欠いているが、理論上これを承認せざるを得ないと考えられる。最高裁学テ判決(最大判昭五一年五月二一日)も、「教育は、親が子の自然法的関係に基づいて子に対して行う養育・監護の一環としてあらわれる」として、その自然法的性格を述べているといえよう。

  民法八二〇条は、「親権を行う者は、子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う」として、親が子を心身ともに健全な社会人として育成する義務と権利を定めている。これを自然法的権利というかは別にしても、ともかく、親の教育権はこの条項によって承認される。親の教育権の「権利」としての意義は、他人を排して第一次的に子を教育する優先権と理解することができよう。この点について、世界人権宣言二六条三項が「親はその子どもに施されるべき教育の種類を選択するについて、優先的権利を有する」としているのも同趣旨である。

  親の教育権が自然法上の権利であることからすれば、憲法にこれを保護する明文の規定がないといっても、この権利は憲法上保障されるものとみなければならない。憲法上の権利であることを主張する際には、憲法上の根拠を次のような点に求める。@憲法的自由(註2)、Aプライバシー権・自己決定権(一三条)、B学問の自由・学習の自由(二三条)(註3)、C憲法上の市民的自由(一四条・一九条・二〇条・二一条など)(註4)。

  親が子どもを教育することは、権利であるとともに義務でもあるが、義務たる要素の方がより本質的内容を成していると解される。たとえば西ドイツ基本法六条二項は、「子の養育および教育は両親の自然の権利であって、何よりも先に両親に課せられた義務である」とする。このことは、現行憲法によって家父長制的家族制度が否定され、親権概念が変容したことによるものであり、親権は「親の子に対する身分上の支配権」から、「子の保護のための権利」であると考えられるようになったのである(註5)。つまり親権とは、「子を監護教育する義務を第一次的に履行する権利」と捉えられる(註6)。したがって、親の教育権は子どもの学習権を実現する責務を第一次的に履行する権利であるといえよう。

  ただし、親の教育権のすべてが子どもの権利からの派生物であるとはいえない。いいかえれば、「親の教育権の存在根拠のすべてが、子どもの福祉の保護にあるわけではない」(註7)。親が自己の信念や価値観を子どもに伝え、子どもの可能性を実現させることは、親が子どもの教育を通じて自己実現することであり、これは、憲法一三条に基づく親自身の権利である。

 

二 教師の教育権(教育の自由)

 

  教師の教育権が憲法上の基本的人権であるか、あるいは、実定法上の権限であるかについては学説の分かれるところである。教師の教育権が憲法の保護する基本的人権に含まれるとする説は、その憲法上の根拠を次のような点に求める。@憲法的自由(註2)、A学問の自由(二三条)(註8)、B教育を受ける権利(二六条)(註9)、C表現の自由(二一条)(註10)。

  右の説に対し、憲法学の立場から批判が提出されている。まず奥平教授は、「教育する権利」について、憲法上保護されているのは「教育を受ける権利」であって、憲法のもとで「ある国民が、他の国民に対して教育する権利がある、とは容易に肯定できない」とし、これを前提としながら、教師は通常の意味での国民ではなく、「学校設置者の agent(機関)として子供達と接する」のであるから、教師の教育権は憲法上の権利ではなく、実定法上の権限であるとする(註11)。次に、浦部教授は、教師は「教育を受ける子供やその親との関係では、まさに公権力そのもの」であり、「決して自由権の担い手たりえない存在なのである」として、教師の教育権は「権利であれ権限であれ、憲法上存在しうる余地のないもの」であり、「国民の教育を受ける権利に対応する憲法上の義務」の問題として考える性質のものであるとしている(註12)。

  杉本判決(東京地裁昭四五年七月一七日)においても、教師の教育の自由・教授の自由が「教師という職業に付随した自由」であって、「自然的な自由とはその性質を異にする」と述べ、憲法二三条の学問の自由の適用には何かある種の調整がありうることを示唆している。私は、教師が不当な権力的干渉を受けずに教育を行えるという自由は極めて重要で、この自由は憲法上の保護を受けるべきものと考える。しかし、教師の教育権の中には、生徒に対する懲戒のように権力的な性格をもつものも含まれているため、職務権限たる性格を否定できないと考える。

  教師の教育権と関わる公教育概念として、「教育の信託」論がある。これによれば、公教育は、教育上の親義務の共同化(私事の組織化)として構想され、学校は家庭教育の延長として、その補完・代替的機能をもつと考えられている。公教育は依然として私事性を失わないということから、国家は教育問題に介入する場合には一定の限界をもつことになる。そして親義務は現実には教師に委託され、教師は親の委託を受けて教育にあたる。その際、教師には教育ということがらの本質上、教授の自由・教育の自由が要請されることになる(註13)。ところが、義務教育については、親は信託の相手方である学校(教師集団)を選択することができず、さらに就学義務を課されており、その不履行には罰金が課される。そのため「刑罰による強制は、信託という表現に似つかわしくない」ともいえる(註14)。また親が教師集団に対し、教育責任を追求するという途が法的に確保されているともいえない。このように「教育の信託」論が、「法律的には一種の擬制」(註15)であることは否定できない。しかしながら、この理論は原理上あるいは教育法理念として十分承認されるべきものであって、教師が親の教育権の受託者であるとする、親と教師の関係の捉え方は、ある程度まで現実関係にも妥当するものである。

 

三 学校教育に関する親の権利

 

  親の教育権が学校教育の場でどのような権利として認められるかは、兼子教授が具体的に明らかにしている(註16)。それによれば、第一に、親の教育の自由を憲法二三条の保護をうける憲法上の人権として確認し、これが親の学校教育選択の自由にあらわれるとする。この自由には、私立学校を選ぶ自由をはじめとして、選択教科・課外活動などについての学校教育内容選択の自由、さらに、髪型規制・給食・君が代斉唱についての拒否権も一定範囲においてここに含まれると解する。第二に、親は教育条理上、学校に対して教育要求権をもつとする。これは授業内容などの教育専門的事項について教師に教育専門的判断・説明を求める権利である。したがって教師は親から教育要求が出されたら、話し合いに応じ、その採否を判断し、その理由を説明する義務を負う。この判断・応答義務は、教師の専門的教育権(学校教育法二八条六項)と直接的教育責任(教育基本法一〇条一項)に由来するものと解されている。さらに教育要求権には、違法な教育権行使の是正を求めるという限りで、請求権が含まれるとされる。以上の理論は概して、違憲・違法の教育活動については、拒否権あるいは請求権というかたちで、親に強い権利を認めているが、そうでない教育活動については教師に最終的教育決定権を与え、親には、ひかえめな権利しか認めていないといえよう。その意味で、学校教育では、子どもの教育の種類を選択する親の優先的権利(世界人権宣言二六条三項)は、一定の範囲で制限されると考えられていることになる。

  ところで、兼子教授は教育要求権の主体として父母集団を念頭においているが、もともと親の教育権は自分の子どものみを対象とするものであるから、権利行使の主体は基本的に個人としての親であろう。とりわけ、違法な教育活動に関する請求権の主体は、親個人であると考えられる。集団としての親の教育権行使には、何か別の法的根拠が必要であるように思われる。

 

四 教師の教育権と親の教育権

 

  教師および親の教育権が共に子どもの学習権を保障するためにあるといっても、この両者は「予定調和的に両立するものではない」(註17)。そこで、この両者がどのようにして調整され得るのかが検討されなければならない。この点について田中耕太郎博士は、親の教育権が自然法に基づく本源的教育権であり、包括的無制限なものであるのに対し、その他の者の教育権は、法律・契約等によって発生する伝来的教育権であり、これは事項的・時間的に限定された補充的性格のものであるとする。その上で、親が広範囲に教育を他人にゆだねるにしても、その本源的教育権を他人に譲渡するものではなく、伝来的教育権者が存在する場合でも、親が教育の権利義務を有することには変わりはないとしている(註18)。また、「教育の信託」論の観点から両者の関係を考察してみると、親の教育権は教師の教育権を導き出すための単なる媒介物ではないのであるから、親は信託によって、「監護教育義務を喪失したり、免除されたりすることはない」(註19)のであり、信託に反する教育が行われている場合には、親は何らかの介入ができると考えるべきである。以上の説を敷衍すれば、教師の教育権に対する親の教育権の優越性を、一定範囲で認めることができると考えられる。

  これに対し、兼子教授は、こと教育専門的事項については教師が決定権をもつとして(ILO・ユネスコ「教員の地位」勧告六七項参照)、教育専門的事項に「親・父母が決定的な介入をすることは越権」であるとする(註16)。思うに、教師の教育活動を教育専門的事項と、それ以外の事項に峻別するのは容易ではない。また、親が教育専門的事項に対しても有するとされる、違法な教育活動についての請求権は、親の「決定的な介入」であるといえないだろうか。

  むしろ、親の教育権・義務は濃度の差はあるとしても、領域を問わず、子どもの教育全般に及ぶと考えられ、「教師の権限は、教育専門家としての専門的識見にもとづく指導・助言にとどまらざるをえない」のではないか。とりわけ、内面的価値、人格形成など「子どもの将来を決定するような事項について、親と子どもの側に最終的な判断が留保される」(註20)と考えるべきである。

  親の教育権と教師の教育権の法的根拠ならびに基本的人権としての属性を検討してみると、「比較教育法的には、教育の自由の人権主体としてストレートに想定されるのは、教師よりはむしろ親である」(註21)ことが分かる。したがって、この親の立場を重視するべきであろう。ここから両者の関係を考えると、教師の「教育の自由は、国家権力からの介入を排除するという意味では親権者の教育の自由と同じ性質をもつが、児童および親権者に対する関係においては一定の制限を受ける」(註22)。すなわち、教師の教育権は、国家に対抗する場合とまったく同じかたちでは、親に対抗することはできず、親の教育権は、教師の教育権の限界を画する原理になり得ると考えられる。

 

[ 註 ]

田中耕太郎『教育基本法の理論』一五四頁
高柳信一「学問の自由と大学の自治」『法律時報増刊、教科書裁判』一四五〜一四六頁
兼子仁『教育法(新版)』二〇六頁
奥平康弘「教育を受ける権利」芦部信喜編『憲法III人権(2)』四〇〇、四〇九〜四一〇頁
平原春好「公教育と親の発言権」鈴木・星野編『学問の自由と教育権』、永井編『教育権』二〇九頁以下
堀尾輝久『現代教育の思想と構造』一九九頁
米沢広一「子ども、親、政府(1)」『神戸学院法学』一五巻二号一一七頁
宗像誠也「教育行政」同編『教育基本法(新装版)』二九二頁、高柳前掲論文一四七頁
永井憲一『憲法と教育基本法(新版)』六二頁、兼子前掲書二七三頁
10森田明「教育を受ける権利と教育の自由」『法律時報』四九巻七号八八頁
11奥平前掲論文四一四、四一六〜四一七頁
12浦部法穂「学問と教育の自由」『法学セミナー』三八七号六四頁
13堀尾前掲書一九二、二〇〇、三二一頁
14下村哲夫「学校教育をめぐる親と教師」『ジュリスト』六〇三号一〇三頁
15小林直樹『現代基本権の展開』三二三頁
16兼子前掲書二〇八頁以下、三〇〇頁以下
17中村睦夫「教育権の現代的課題」『法律時報』六〇巻六号三〇頁
18田中前掲書一四六、一六〇〜一六五頁
19有地亨「教育を受ける権利と親の責任」『季刊教育法』五〇号三二頁
20下村前掲論文一〇六、一〇七頁
21市川須美子「教育人権を否定した教育裁判」『法学教室』六九号一三〜一四頁
22渡辺洋三「公教育と国家」『法律時報増刊、教科書裁判』一三八頁

 

 


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