◆199112KHK113A1L0145KFH
TITLE:  私立学校における教育の自由
AUTHOR: 大西 幸次
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第113号(1991年12月)
WORDS:  全40字×145行

 

私立学校における教育の自由

 

大 西 幸 次 

 

1.はじめに

 今年9月3日、オートバイの「免許をとらない・買わない・乗らない」の「三ない運動」の校則違反を理由に自主退学処分になった私立高校の元生徒が「校則は幸福追及の権利などを定めた憲法に違反し、それに基づく処分は違法」と学校側と争った裁判で、最高裁は「私立学校の校則は直接、憲法判断の対象にならない」とし、そのうえで校則と処分を「不合理とはいえない」として元生徒の請求を退けた一、二審の判断を支持した(1)。 この判決で最高裁は「私学の校則は憲法判断の対象にならない」とし、私学の自主性を尊重しているように思われる(1)。 この判例は残念ながらまだ手元にないのでいままでの判例を参考にして考えて行きたい。

 

2.私立学校の法的地位について

  私立学校は独自の学風や建学の精神に基づいて自由な教育をする学校である。戦前は私立学校令(明治32年)に及び改正私立学校令(明治44年)によって国家の私学に対する強力な支配規定を設け、私学は官公立学校の補助的機関として位置づけられてきた。これは学校教育が国家の独占事業であり、私学が学校教育に関するかぎり国家による特許事業の対象であったことを示す。

  戦後の民主改革のなかで、現行憲法、教育基本法が生まれ国家主義的な教育法制は転換され、そのなかで私立学校を規律する私立学校法が制定される(昭和24年12月15日)。

私立学校法1条は「この法律は、私立学校の特性にかんがみ、その自主性を重んじ、公共性を高めることによって、私立学校の健全な発達を図ることを目的とする。」と定め、私立学校の自主性の尊重と公共性の確保を確認する。さらに監督庁の設備・授業等の変更命令は認めていない(私立学校法5条)など、私立学校の自主性を保障するために監督庁の権限を制限し(第2章)、公共性を高めるための学校法人組織を定めた(第3章)。すなわち私立学校は独自の学風や建学の精神にもとづいて自主的な判断で教育をするが、私立学校が学校制度の中の学校であり公の性質を有するものであるからそのその公共性を確保する必要がある。では、この私立学校の自主性と公共性はどう統一すればよいか。まず、教育行政との関係で言えば私立学校が公権力から相対的に自立していることが要求される。私立学校法はまさにその点を目的として定められた。基本的には私立学校は公教育機関であるが(教育基本法6条、学校教育法1条、私立学校法1条・2条)、戦前の国家主義的な統制の反省のうえに教育基本法ができ、それをもとに私立学校法が作られたと考えられるからである。

  次に私立学校内部の法的問題を考えると、学校と教師、学校と生徒の問題が浮かび上がる。まず、私立学校、教師ともに教育の自由をもっているが、それらが矛盾衝突する場合どう考えればよいだろうか。教育の対象となる子どもとの関係ではどうか。本来的には学校と生徒の権利が対立する場面をこの法律が制定された当時予想していなかった。しかし、今日この問題は教育現場で非常に大きな問題になっていることは周知の事実である。このような問題について考えてゆく。

 

3.私立学校対教師の場合

まず、教師は国公私立を問わず自主労働者性、職務の専門性、全体的奉仕者性によって特徴づけられる。すなわち教育内容を自ら決定し、教育についての専門家であり、国民の教育を受ける権利を保障する一端を担うことを通じて国民全体に奉仕するという意味で「全体の奉仕者」である(教育基本法6条2項)。そして教師の労働条件は直接生徒の側からすれば教育条件に結び付く。たとえば教師の授業時間数が多くなればそれだけ生徒ひとりひとりを教育する密度がうすくなる。したがって生徒の教育条件を整備するひとつとして教師の労働条件の向上が考えられる。このように教師の地位は一般企業の労働者や一般公務員とは異なり特殊であり、そこから身分保障の必要性が生まれる。ところで私立学校の自主性はそのなかに国民の教育の自由を含み憲法的自由として保障されている(4.私立学校対生徒の欄参照)。そこから建学の精神に基づく独自の学風を形成する自由が導かれる。そこで私立学校教師と私立学校の学校運営とが衝突する場合が考えられる。もともと私立学校は一般企業的側面をもち、一般労働法上企業の合理的維持運営のため整理解雇は解雇権の濫用にはならず(濫用説)認められる。しかし教師の特殊性から私学経営者は教育基本法6条2項の教員の身分尊重義務を負い、生徒数の減少により教師が余剰になったという理由での教師の整理解雇したを否定した(2)。 判例は教育基本法6条2項より私立学校教師の勤務関係が労働契約であっても、私学経営者は当然に教師の身分尊重義務を負うと解すべく、その具体化は解雇権の制限として現れるとしている(3)。

また私立学校の独自の学風と教師の教育権との関係では、私立学校の使用者としての優越的地位に鑑み場合によっては教育基本法10条1項の「不当な支配」の主体になり得るとする(4)。 これは私立学校が前述のように公教育機関であることから当然に教育基本法、学校教育法の規制を受け、教師の教育権が相対的に経営から自立していることを示している。そして独自の校風を教育活動面で実現しようとすれば、現行公教育法制の枠組みのもとでは、校長等による指導助言によるべき事となる(4)。

 

4.私立学校対生徒の場合

 この両者の関係は、原則的には憲法および教育基本法から導かれる私学の自由(憲法19条、20条、21条、22条など・教育基本法2条)によって説明される。私立学校の自主性は私学教育の自由と私学設置の自由を含む(5)。 そして学校設置の自由は子どもの学習する権利およびそれを保障する親を中心とした国民の教育の自由(6) に基づくものと考えられる。そうだとすれば、私立学校の自主性はそのなかに子どもの学習する権利を保障する義務を内在させていることになる。すなわち私学教育の自由はその根拠を憲法に保障されているが、逆に私立学校の設置の自由が認められるのは国民主権の下、多様な個性を持つ国民の要求に応えるという側面も持つと考える。結局、私学教育の自由と子どもの学習する権利の比較衡量になると考える。以上の考えに基づいて具体的事例を考えてみたい。

 「三ない運動」で校則違反となり法的効果を伴う処分を受けたを例として考える。まず、学校法人と生徒との間の法律関係は学則・校則で定形化された契約関係である。生徒は卒業を終局目標として学校の指導で教育を受け、その対価として所定の授業料・学費を納付する等の義務を負い、学校は生徒にたいしてその施設等の利用や教員を通して、学校教育を行う義務を負うものとされている(7)。 判例は「・・・・(生徒は)入学することで、包括的に自己の教育を高校に託し、その生徒としての地位を取得したのであり、高校は法律的に格別の規定がない場合でも、その設置目的を達成するために必要な事項を学則等により一方的に制定し、これによって在学する生徒を規律する包括的権能を有するものと解され、右包括的権能は、在学関係設定の目的と関連し、かつ、その内容が社会通念に照らして合理的といえる範囲において認められる。」とする(8)。 すなわち学校は生徒に対し包括的に規律する権能をもっているが、無制限なものではなく学校の教育観にもとづいて生徒を教育するという目的と関連し、同時にその内容が社会一般の考え方からみて納得できないものでないことが必要とし、事例ごとに校則等の内容を検討する必要があるとする。校則といってもその内容は多種多様で建学の精神そのものに直接かかわるものもあれば、単なる生活指導の覚書にすぎないものもあるから判例の態度は妥当と考える。そしてバイク規制の合理性について、この規定は「バイク事故から生徒の生命、身体を守り、併せて生徒がいわゆる暴走族に加入する等して非行化するのを防止し、生徒を勉学に専念させことを目的として、生徒によるバイクの免許の取得及び乗車の禁止を規定しているものと認められる。」とする。さらにこの校則によって事故がなくなったこと、全国高P連の決議、全国的に広く行われていること、多くの父母の支持を得ていることをあげこの規制は合理的であるとする。これに対し坂本秀夫氏はこの程度の論理では多くの高校生を納得させることはできないこと、現在「三ない運動」が見直されつつある事実からその合理性に疑問を投げかけている(8)。 しかしながら私立学校が建学の精神に基づく独自の伝統ないし校風と教育方針のもとで自由な教育をする学校である以上、校則がその目的を達成ための必要事項であるならば原則的に尊重すべきものであると考える。なぜなら私立学校が公共性を有するからといって直ちに公立学校と同視することはできない。すなわち、公立学校はいかなる意味においても「人権」の主体ではありえないが、私立学校はそれ自体人権の享有主体であるからである。私立学校と生徒はともに私人でありその利害が対立する場合は原則とし私的自治にまかされているのであり、しかも校則が符合契約的性格をもつものである以上その内容が社会的に許容される範囲のものであるならば生徒の権利を制限することは合理的と考える。ただし、校則の妥当性と処罰の軽重は別途考える必要がある。処罰は生徒の身分にかかわることであり、そこには比例原則が働くと考える。

 

5.まとめにかえて

  現在の日本では殆どの子どもが高校に上がり、高校はほぼ義務教育機関といっていい。文部省も中学校を前期中等教育、高校を後期中等教育と位置付け、その認識のもとに教育課程を編成している。そして、人権擁護の高まりの中で子どもの人権が大きくクローズアップされ直接学校現場でいろんなトラブルが起こっている。その問題の原因は学校、教師達がそれらの変化に対応するのが遅れたためと考える。しかし、大学教育と中等教育との統一的な考えのなさ、また本当に高校を義務教育化していいのかの議論がなく現状追認の形でそうなってしまったことの問題等を教育現場で考えなければならない。そのときに必要なのは「我々は子どもをどのような理念に基づいてどのように育てたいか」を明確に認識する必要がある。ここに私立学校がその独自性・有利性を発揮するチヤンスがあると考える。学校が大切にするものは何かを高く掲げ、その中で子どもに集中して自らの考えに基づいて教育することができるからである。もちろん文部省、地方公共団体からの制約を受けることもあるが、公立学校程ではない。また教育課程編成においてもかなり柔軟に組むことができる。中には首をかしげる私立学校もあるが、社会の批判、教師の教育権の確立等で防ぐことができる。公立学校とは違う場面で公教育を発展させることができる可能性があることを考えると、今後私立学校の重要性が増すのではないだろうか。

子どもの人権と私立学校の教育の自由が衝突した場合、私立学校の教育の自由が子どもの学習権に基づく以上子どもの人権を当然に優先すべきであるが、独自の教育理念を立てて多くの子どもを教育する私立学校の教育の自由も充分尊重すべきと考える。その意味で今回の最高裁判決の結論は妥当と考える(判決を読んでないので断言はできないが・・・・)。

 

【資料】

(1) 1991年9月4日 朝日新聞朝刊
(2) 横浜地裁昭和46年12月14日
(3) 同上、教育判例百選(第2版)P.52
(4) 東京地裁昭和47年3月31日 目黒高校事件
(5) 教育判例百選P.67
(6) 杉本判決
(7) 修得高校パーマ退学訴訟第一審判決 判例時報1388号
(8) 月間生徒指導'91年9月号 P.51

 



Copyright© 執筆者,大阪教育法研究会