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TITLE:  デュルケームの道徳教育論とその実践
AUTHOR: 清原 忠弘
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第116号(1992年3月)
WORDS:  全40字×412行

 

デュルケ−ムの道徳教育論とその実践

 

清 原 忠 弘 

 

はじめに

  エミ−ル,デュルケ−ムに関心を持ったのは、学生時代からで、道徳の再建には、今までの観念的な教育でなく、自分で納得した道徳教育論を研究したかったからである。

朝日新聞の1991,11,19の「女たちの太平洋戦争−語り合うペ−ジ」で「誤った歴史教えてすまない」の題のもと「皆さん、神風が吹くなどと、いろいろ誤った歴史を教えて済みませんでした。」との当時の先生の反省がのっていたが、このような道徳教育を再びやりたくなかった。

  エミ−ル,デュルケ−ムは1858年にフランスのアルザス地方の小市エピナルに、父はユダヤ教の教師、母の商家の出の4人兄弟の末っ子として生まれ、1887年に、ボルド−大学で、1902年にパリ−大学で教育学を講義したが、後者の講義録が後に「道徳教育論」として発刊された。

  冒頭の「世俗的道徳」に続いて、第一部「道徳の諸原理」では、道徳の三つの原理を社会学的見地より述べ、第二部「道徳性の諸原理を子供の内部に確立する方法」をあげているが、このうちの歴史教育について、本年高校の三年性の世界史で実践した結果を報告して道徳教育の一助としたい。

 

1.デュルケムの道徳諸原理

 (1) 規律の精神

  この規律の精神は恣意的な行為に規律をおよぼし、社会のなかに連帯的秩序をもたらすことができるが、のみならずそれは個人の人格にも有益な自己規律をもたらしてくれる。

 (2) 社会集団への愛着

  近代社会における共通価値は個人的人格の尊厳であり、また、個人は社会的連帯に参加することによってはじめて個としての自律性をたもちうる。したがって、この前提に立脚する限り、社会集団への愛着という道徳性の要素は、けっして個人の利益や自由の犠牲を意味するものではない。

  愛着すべき社会集団として、それは、家族、国家、人類である。近代社会にあっては家族は永続性をうしない、機能を縮少し、個人の生活環境としての比重を低めつつあり、もはや道徳生活の中心たりえない。デュルケムは残る国家と人類の内、祖国愛をもっとも道徳的価値のたかいものとしてえらんだ。しかし、共和制を支持するデュルケムは伝統的な狂信的なナショナリズムをもっとも嫌悪していたし、個人の自由や権利と相容れない国家主義の論理にはきわめて警戒的であった。それゆえ、世界主義の道徳を現実性のないものとして斥けながら、けっきょくかれの愛国主義は「人類的な理想」を体した平和的、普遍的なものでしめされる。

 (3) 自律の精神

  私達が、道徳的規則に対してとる態度は能動的よりも受動的である。というのは、規則のなかに、私達に有無を言わせぬ命令がこめられているから。私達の理性は、自ら自発的に真実として認めるだけを真実として受け取り道徳の原理としている。

意志の自律性は自由意志が外界(物理的環境)から脱することで自然界の法則の解明し、それに適合する行動の在り方で事物の秩序に従い、事物の秩序とはかくあるべきものという確信に基づく事物の自然的性質に適合した行為をなそうと欲することである。

  道徳的秩序においても、物理的世界にみられるものとまったく同様な自律性が存在する。道徳は、社会の本性を表すものであり、社会の本性は私達が直接にこの目で捕えることができない。個人の理性は、自然界の立法者たりえないと同様に、道徳界の立法者になることは不可能。 道徳の科学は道徳世界がとれほど深く事物、すなわち社会の本性の内に基づくかを、確信し、いかにあるべきかを確信する。

  自由意志によつて求められた行為、自由意志によって受け入れられる行為、それは知性によって理解される必要がある。

 

2.歴史教育

  デュルケ−ムによれば、社会とは何か、社会と個人はどんな関係にあるか、といった問題を生徒に理解させることができる教科は、社会事象に関する科学がまだ不完全な状況は、歴史をおいてほかにはない。「子供が社会に愛着しうるためには、個人を支配すると同時に、個人が自己のもっとも良きものをそれに負うているところの、強力な生きた実在を社会の内に感じとらねばならない」。そして、正しく理解された歴史教育こそは、この実在を子供に深く印象づけることができるのである。

  歴史は国民によってつくり出されたもの、社会全体から生まれたものとみなすべきである。こうした非個人的な生命をもつ実在を子供に感じとらせるのにふさわしい歴史的事実は、幾らでもある。たとえば、封建制度、十字軍、ルネサンスなどは、集団的な無名の力の作用を子供に示すことができる。さらに、いかなる時代においても、個人は同時代人だけでなく、先行する諸世代に負うているということ、各世紀は前の諸世紀が生み出した所産をうけつぎ、先達とは相反する方向へ進んでいると信じられるときでさえ、実は先達が示してくれた道をたどっているのだということ、つまり歴史には一貫した連続性があって急激な断絶はないということを教師は子供にしらせなければならない。

  社会とはデュルケ−ムによれば一定のものの見方や感じ方の総体、つまり集合意識にほかならない。個人意識とは異なった独自の性格をもち、個人意識に外在してこれを拘束するところの集合意識こそ、社会の本質をなすものである。子供は日常の生活のなかで、この集合意識をおのずと自己の内部に取り入れている。だか、学校は、これを自然のなすがままに委ねておくのではなく、そのなかから基本的で不可欠なものを選び出さねばならない。教師がこの作業を行うのに必要な手段を提供してくれるのはここてはやはり歴史教育である。祖国の歴史を追体験することによって、生徒たちは自国の集合精神に親しく接触することが必要である。歴史上の種々の出来事の背景には、その国に固有のものの見方や感じ方、つまり国民性の諸特徴が潜んでいる。教師は、とくに取り上げるにふさわしいものをそこから取り出して、子供に理解させねばならない。そのためには、教師自身が、自国の集合精神、すなわち国民精神をしっかりと認識し、それを歴史上の諸事実のなかから引き出してくることのできる授業を行うことが大切である。

 こうしてデュルケ−ムは、人類の理念を実現すべき祖国についての観念を子供のなかに形成するうえで、国民性の特質の認識という歴史教育にあたえられた役割をきわめて重視するのである。(デュルケ−ム道徳教育論入門 麻生,原田,宮島著 参照)

 

3.歴史学習の中での実践の分析

  デュルケ−ムの道徳の第二原理である集団への愛着について、歴史教育との関係で実践してみる。人間集団といっても、家族から祖国(国民社会)人類という幾つかの段階があるが、彼においては国民社会への愛着を目標とした。しかし、デュルケ−ムが国民社会を価値ある存在であるためにも、それが人類の普遍的価値の実現に反しないということが必要条件であるという。

 デュルケ−ムの道徳教育の実践の中心点は、

 @ 世俗的道徳の問題−であり、宗教の基本原理に基づいた過去の教育に代わって理性によって正当とみとめられる観念、感情および実践によって世俗的道徳の確立にあっ た。

 A 自己以外に存在する社会、一定のものの見方や感じ方の総体をこどもの意識に浸透させることであり、

  そのために、歴史教育を活用させることであった。

  社会の個人にたいする優越性は、社会のもつ普遍的同一性であり、この普遍的同一性は、時間的にも、空間的にも制限されず、全人類にとっても正しい見方であり、そのヒュ−マニズムの上にたった民主性こそ、社会のしめす道徳性である。

  このヒュ−マニズムの概念は歴史の所産ではなく、原始から与えられたもので、人間の示す歴史の多様性は、人類のあがきの姿であるといってよいだろう。

  この意味で歴史に現れたヒュ−マニズムの政治的な型としての民主性と現在の生きる日本の社会の問題点を知ることによって、より良い社会、即ち自己より優越した集合意識に、自己を献身さすことこそ、正に道徳的であるといえるのである。

  この見地に立って、私は歴史上、ヒュマニズムの展開としてのアテネの民主性とそこで活躍したソクラテス、及び、ロ−マ帝国末期の帝国の混乱の原因、と現在の民主制度にある日本の姿を比較させ、日本の社会が、デュルケ−ムの言う道徳的性質を帯びているか、それとも、現時点では道徳的目標になり得ないかを生徒に検討させた。

  一回目は、一学期末の定期考査で、この時の進度の関係から「ソクラテスの言辞」を、二回目は、二学期の中間の定期考査を活用した。

  在籍数は135名であるが、欠席者もあり、130名程度のうち、無作為に、前者の場合、12名を摘出し、後者の場合も、12名を摘出して、その意見を検討した。

 

     生徒の現実の日本社会への訴えている主旨

1991年,7月−−「アテネの民主主義との比較において」−−

No 性別  主旨                             評価
日本はお金持ちや権力者がのさばっている。市民はそれに耐えている。  ◆
日本の企業のあまりの利益集中には落胆、お金にあどらされている。   ◆
大企業の不祥事、大学入試の替玉、暴力団と警察とのいかがわしい関係  ◆
素質をもっている日本人は努力しようとしない。自分の才能を磨くこと
大手証券会社、官僚が腐っている。善が悪にうちのめされた感じ     ◆
国民性として誰かがやるという日本人、政治家はどこか狂っている
歴史を習った大人は将来どんな危機がおとずれるか分かっているはず
外側は立派、しかし内側の汚れている日本人、裏切らないでほしい
地位、名誉、金持ちが社会の中枢にいるので、社会は変えられない
10 今の日本の政界の汚さは「裏切り」ではなく、「案の定」国民に答えよ  ◆
11 日本人は多数決に従う前に一人一人の意見をもつ必要がある。     ◇ 
12 衣食足りても真心はまずしい。経済汚染は止められない。        ◆

 

1991年

10月−−「ロ−マ帝国の末期と現在日本」−−

No 性別     主旨 評価
日本人の庶民は頑張っているのに、会社の重役や政治家の悪党ども活躍  ◆
ロ−マ帝国末期に似ている。財テクは勝手ほうだい           ◆
“自分さえよければ”という日本人 不祥事を機会に再出発する必要。  ◆
敗戦時の日本人の方が暖かさがあった。今の日本人の将来が心配である  ◆
日本はロ−マと同じで少しも進歩していない。             ◆
高い税金を奪っている政治家。私は進学せず人の為に働きたい。     ◆
補填や横領の事件が多い。有名人が事件を引き起こす。         ◆
今の日本の現状をもっと正すべきではと考える。            ◆
日本の繁栄は錯覚でないか。政治家の不正が目につく          ◆
ロ−マ帝国の失敗を日本も繰り返さないように、政治家の反省を求める  ◆
自分だけが幸せであればという考えを止めて、一人一人を尊重しよう 
回りの意見に振り回される。自分の意見を確実にもって自主的に。  

 

  資料集の24名の中から、日本の社会への尊敬へ念は、11番を除いて、現在あると言えない。時期と資料の選択が良くなかったと言えば、それまでだが、現在の青年の問題意識を啓発するには、一案ではないだろうか。

  青年が、自己のエゴを取り去り、献身の気持ちを起こさせるのには、余りにもお粗末な社会を大人が作ってしまっているのではないか。

  政界,財界,教育界等など、生徒の前で、立派な社会にすんで、君達は幸福だと豪語できる教育者がわたしを含め、言える時期ではない。まして、デュルケ−ムの言う「社会」を道徳目標に設定することは、国民社会では無理なのではないかと私は思う。

 しかし、この問題提起によって、「 歴 史 に 学 ぶ」という副産物はえられたと私は思っている。そのことによって、道徳教育の一部は達成できたのではないか。  

  デュルケ−ムの言うヒュ−マニズムの発展としての歴史教育にしたがって、次にルネッサンス期のエラスムス、とトマス=モアについての紹介をして、ヒュ−マニストになった気持ちで自由提出によるレポ−トを提出させた。標題は「日本社会とは何か」で、135名中の103名が提出した。これも資料につけておいたが、在籍者の男女比率に応じて、男子7名、女子13名を無作為に摘出して検討した。

  その結果、日本社会に積極的,消極的に拘わらず肯定したのは4名であとは、否定的であった。もしも、私が意図的にこの20名を摘出したとしても、103名の16名は否定的だから15%は否定的である。

  まして、前の歴史上からの分析から見て、この数字に止まることはなかろう。デュルケ−ムの歴史教育はフランスの歴史を土台にして、その普遍的価値を追及したのだろうが、ヒュ−マニズムの立場から、これを日本の歴史教育で、世界歴史の中から他国との比較することによって、日本社会の普遍的価値の存在の有無の検討する方法しかのこされず、しかも、現在の日本社会の姿は、道徳目標とはなりえないのではないか。

 

1991年

11月−−「ヒュ−マニストとして『日本社会とは何か』」−−

No 性別     主旨   評価
労働しなくて財力を得てそれりよる権力はよくない。日本は良い国  
今の世の中は、貧しい人だけが苦労し、金持ちだけが良い思いをする ◇ 
現在の日本は庶民は良くない。金持ちは一部の矛盾した社会です    ◆
入試不祥事のようにまじめに勉強した者が怒り、政治家は勉強せよ   ◆
脱税ごとや政治家のお金事件が多い。企業家や政治家は地位を手段と。  ◆
政府や官僚は日本のために政治をしているのか。リクル−トや脱税は  ◆
お金や地位をもっている人には日本は素晴らしい国である        ◆
日本はお金持ちな国である。そのお金を指導者は有意義に使ってくれ  ◆
政治はなっていない。自分の財産を殖やすことに努め心は冷たい    ◆
日本人全体は金、金、金と騒いでいる                 ◆
日本は本当は弱く、小さな国。経済大国と調子に乗り過ぎている    ◇ 
世の中は脱税や不正融資の問題の話題が絶えない。学歴偏重の社会  ◆
リクル−トなどで賄賂をもらった総理や大臣などとんでもないこと    ◆
経済大国と言われながら兎小屋にすみ、長時間労働をしている     ◆
政治家は私達の為でなく、自分の利益のために働いている        ◆
お金では解決できないのに、日本人はその立場に立つ         ◇ 
日本は地位、権力、金、欲望の汚染を受けている            ◆
自分達の地位や富を求めるだけの政治家に不信感をもつ         ◆
私は社会へ出て働く、不正融資や学歴社会だけれども頑張って働く。
表は良いが裏面はズタズタの社会。強い人、力のある人の支配する国  ◆

 

おわりに

  エミ−ル,デュルケ−ムが、1870年に普仏戦争でのフランスの敗戦を12才で経験し、教育によって子供の社会化と集団による相互の補完の経験で、その経験の場としての学校環境を重視し、規律の保持と集団への愛着を知性を磨きながら、会得させようとした。この実践を歴史教育で行おうとした私の試みは、一面では大人の社会の歪みによって実現できなかつた。しかし、私は他面でこの試みを成功させることができたと思う。というのは、三学期も終わりに近付いた時、進度もフランスの普仏戦争のパリ−,コミユ−ンでの12才の少年の活躍を挙げ、それについての現代の日本の代表する若者としての意見を書かせた。この中で「自分達の自由のために、仲間達のためにと、子供でさえ必死になっている。この努力が大切だと思う。,,もう二度と戦争を起こさないようにするには、過去の歴史を振り返り、一人一人が世界のために、大切な命のために力を合わせて、この平和とそしてこの12才の少年の心をもちつづけるのが大切だと思う。 歴史の本は未来の人達の心と平和のためにあるのだと思う。」真の愛国心、反戦の気持ちを学習した高校三年生は、今の自分達の考えは間違っていないかを反省しながら、卒業していった事実を知った私は、デュルケ−ムに改めて敬意を表したい。

 



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