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TITLE:  「指導」と「強制」 − 制服をめぐって − 
AUTHOR: 原田 琢也
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第124号(1992年11月)
WORDS:  全40字×295行

 

「指導」と「強制」

−− 制服をめぐって −−

大阪高法研会員  原 田 琢 也 

 

1.はじめに − 教育法との出会い −

  私は京都市内のある中学校に勤めている。私の学校は、様々な困難な背景を持つ生徒が多いにもかかわらず、近年まれな、比較的落ち着いた学校である。落ち着いた環境は、私たちが教育活動を営んでいく上で前提条件になるものであり、それが維持できているということは、教師としてまず大きな喜びであるといえる。それはとりもなおさず、教師一人ひとりの並々ならぬ努力と、その団結によって支えられているものには違いないのだが、秩序の維持という面が強調されすぎると、この教師の団結は、「指導」と「強制」という本来相い対するものの境界線を不鮮明なものにしてしまい、指導の名のもとに強制や服従を強いてしまう大きな力と化す。教育ができる状態を作ろうと「教育熱心」になるが故に、教育そのものを否定してしまう。なんとばかげたことか。しかし、学校が「荒れた」状態になれば、これまた教育ができない。学校現場は今、このようなジレンマの中で必死にもがいている。砂を噛むような思いで毎日を過ごしている現場の教師もたくさんいるのではなかろうか。今こそ問題の所在を明らかにさせ、指導と強制の違いを峻別しなければならないのではなかろうか。

  ところで、私の学校では毎年、人権学活をかなりの時間をさいて行う。私は、毎年、その指導資料を準備するチームの一員である。事前の会議で私が「渋染一揆」(1856年)の説明をし終わった時、ある教師から次のような質問が出た。「無紋の藍染か渋染の着物しか着るなというのと、生徒に、たとえば灰色のスカ−トしか履くな、しかも丈は床から35〜40pだ、というのとどこが違うのか。」といった質問である。かなり乱暴な考え方ではあるが、私は一瞬ドキッとした。実際に歴史の中では、「渋染め一揆」以外にも、時の権力者が民衆を支配し服従させるために、服装を制限しそれを取り締まった例はたくさんある。服装は単に寒さをしのぐためのものではなく、人間の心の深い部分と直接つながっているものなのである。だからこそ、権力者はその服装という表面に表れている部分をコントロ−ルすることにより、心の中までを支配できると考えたのであろう。また、長年に渡ってつらい差別に耐えてきた当時最も低い身分とされた人々が、この「渋染め一揆」で死を覚悟で権力に対して立ち向かった事実を顧みれば、いわれもなく服装を強制されることが、いかに人の心を傷付けることかということをも伺い知ることができよう。このことは人間の根幹を揺がすものなのである。これを人権侵害といわず、何と言えばよいのか。では私たち教師が生徒に対して指導の名のもとに行っている服装の規制は何なのか。私が「何かが間違っている」と心の中で反芻していたことは、つまるところ生徒の人権を侵害しているということに他ならないのではないか。生徒に「人権は大切」、「人権を守れ。」と言っている教師自らが生徒の人権を侵害していて、教育の力でどうしていじめがなくなろう。どうして差別がなくなろう。私は激しい怒りを感ぜずにはおれなかった。これをきっかけとして、私は人権という視点から教育そのものを問うてみたくなった。これが私の教育法学との出会いである。

  私は校則に関する私見をまとめ、学校に提出した。その翌年から、私の提案した部分については見直しがなされたが、抜本的に学校の姿勢が変わったものではない。私には、服装や頭髪に関する校則の存在そのものが不合理に思えてならない。この機会に、その根幹をなす制服を取り上げ、検討してみたいと思う。

 

2.判例の態度

  服装や頭髪に係る校則に関して判例は概して肯定的である。制服そのものを問う裁判は数少ないのであるが、私の知るところによると3つの判例が出ているように思う。その中で、京都市のある中学校を舞台に争われた2つの判例について概観してみる。

 

@京都市立中学校入学案内無効確認請求事件(昭和60年6月5日京都地裁判決)

  京都市の公立中学校に通う女子生徒の父親が原告であり、自分の子供に標準服の着用義務がないことを確認するために提訴したものである。本判決は父親には本件の原告適格がないとし、訴えを却下しており、直接標準服のあり方そのものについては言及していない。しかし、制服について考えていく上で注意すべき点がいくつかあるので、それを拾ってみる。

  まず判旨は、「公立中学校における、中学生の在学関係は、いわゆる公法上の特別支配関係(特別従属関係又は特別権力関係)に属するから、中学校長は、教育目的に必要な限り、その目的を達するに必要な合理的範囲内で、法律の規定に基づかないで、生徒に対し、その服従を強制したり、自由を制限したりすることができる」という。教育を教育基本法2条の言うように、教育の目的を人格の完成に求め、学校教育を子どもの発達権を保障する子どもの人権の具現化されたものと解する限り、この特別権力関係説を容易に受け入れることはできまい。また、附合契約説や在学契約説を採ったとしても、校長が包括的な権能を有し、何が教育的で、何が教育的でないのかまでをも判断し、校長が教育的で合理的と判断する限り無制限に生徒の人権を制限しうるとするのはあまりにも、暴挙であると言わねばなるまい。保護者である原告に訴えの利益なしとされるのも、いわゆる教育の内的事項は一切校長の権能の内にあり、保護者の親権や教育権も容易に退けられるとする論理構成に裏打ちされている。人権としての教育の内実は、上意下達で決せられるものではなく、そこには保護者、生徒自身、教職員、時には住民の声も当然反映されるべきなのであり、それをどのように法的に位置付けるのか、また私たち現場のものはそれをどのように具現化していくのか、まだまだ検討が必要である。

  この点に関して、もう一つ別の次元の問題がある。判旨は「教育目的に必要な限り」と校長の権能を制限している。では何が教育的で、何が教育的でないのか。標準服という名の制服を着用することという校則は、本当に教育的なのか。つまり、本当の意味での指導たりえるのか否か。この判決は要件審理の段階で立ち止まってしまい、そこまで踏み込んで議論をしようとはしていないのであるが、論調から言えば議論するまでもなく、当然教育的配慮である、と言っているように受け取れる。この点に関しては、校長だけではなく、教師、保護者、生徒自身のうちでも多くの人が肯定的にとらえているところであろう。しかし、校則にまつわる問題点の一つがここにある。内容が教育的であるならばそれは指導たりえる、問題はない、教育的でなければ単なる強制となるだろう。それに反対する人がたとえ少数でも存在する限り、強制することにより自由を制限するのであるから不当である。これは非教育であるばかりか反教育である。この違いは非常に曖昧であり、確かに日常生活の上では区別しずらいのであるが、それだけに、じっくり考えてみることがとても大切なのである。

 

A京都市立中学校標準服着用義務不存在等確認事件(昭和61年7月10日京都地裁判決)

  これは@の訴訟の原告の娘が当事者として起こした訴訟である。だから、原告は中学生である。しかし、判決は「(標準服の着用を義務付けた)生徒心得が抗告訴訟の対象となる処分と解することはできないから、その無効確認を求める部分の本件訴えは不適法である。」と、またもや門前払いである。その理由として次のように言っている。注目すべき点がいくつかあるので、少々長くなるが引用する。「同校の標準服の定めは厳格にそのまま実施しているわけではなく、事案ごとに弾力的に運用されていること、原告もその好みによって標準服を一部変更して、スカ−ト丈をやや短くし、スカ−トのギャザーを長くし、上衣のボタンの位置をやや変え、スカートの腰に小さいハートの印を付を付けたものを着用しているが、被告はこの程度の変更には問題ないと考え、原告に対して何の処置も採っていないこと、被告は標準服を着用せずに私服で登校する生徒に対しては指導をして、それを改めるように説得することにしていること、しかし、被告の同校を始め、京都市立の中学校において標準服を着用しないことを理由に、生徒に対して懲戒処分(学校教育法11条)を行った例はないし、進級や卒業を拒否した例もないことが認められる。原告の主張する標準服着用義務は、その義務自体が直接に強制されるような義務ではない。つまり、学校が実力をもって、原告を標準服に着換えさせることが認められるものではない。そうすると、原告の本件標準服着用義務不存在確認の訴えの趣旨は、原告が任意にこれを着用しないときに、何らかの不利益が生ずるのを防止するために、右義務の存在を事前に確認しておくところにあると解せられる。…(被告が)標準服を着用しないことによる不利益処分の確実性は極めて低いというべきである。」 私は、この判決は学校という狭い社会の中の特殊性や、子どもの社会の特殊性といったものを全く無視した、無責任な判決であると評価する。現場の教師として憤りさえ感じる。

  この判決には大きく2つの問題点がある。まず一つ目は、生徒が定めを違反して標準服を改造して着用し、それが例外ではなく広く公認されているところを是とし、それを判決の前提としているところである。確かに「弾力的に」と言われれば聞こえはよい。しかし、私の経験から言えば、そういう状況は教師の足並みの乱れから、十分な指導ができていない状況、あるいは指導が入らない状況になっているだけと考えるべきだと思われる。確かに生徒手帳には、標準服の着用についてしか触れられず、細かいことについてはそれ以上何も書かれていないこともありうる。しかし、これだけの規則ではとても、秩序は保たれず、内規として、スカート丈から靴下のラインの本数まで事細かに定められていることが多くある。内規とは、教師間の申し合わせ事項であり、直接生徒の目に触れることはないし、外部に持ち出されることもないであろう。内規に定められている内容は、指導として、教師の口から生徒に伝えられ、生徒を間接的に拘束する。実際は、生徒心得と内規を混同し、どちらも校則として同レベルで扱っている教師がほとんどである。本件事案の学校が、そのような内規を持っているかどうかは確認できていないが、少なくとも制服の改造を全教職員の合意のもと認めているとは、とうてい考えられない。「(校則が)弾力的に運用されている」というが、これは教職員にそのような合意があり、そのような意図で足並みを揃えて、校則を弾力的に運用できているのではなく、制服の改造などは、本当は許すべからざることであると教師間では確認しておきながら、個々の教師がその指導に費やす労力を惜しみ、またその申し合わせに意味を見いだせず、それをないがしろにしている、という状況と推測する。私は、頭髪や服装についての細かい校則については、反対の立場を貫いてきた。しかし、どんなに些細なことでも、規則としていったん生徒に伝えられた限り、どの教師もそれを守らせようと努力すべきであると考える。ある規則に対してある教師は守らせようとし、ある教師は何も言わない、また、ある生徒には厳しく守らせ、ある生徒が違反していても黙認する、というような状況が続けば、生徒は誰を、何を、信じたらいいのかわからず、他の規則に対しても同様に、いい加減な態度をとろうとする。そして、教師に対する不公平感、不信感をつのらせるだけである。弾力的に運用するということは、たとえば、健康上の理由や経済的な理由など、やむにやまれぬ事情がある時に配慮が必要であるということである。本判決は、「弾力的」という言葉の意味を履き違えるという大きなミスをおかしている。

  もう一つの問題は、何をもって「強制」とするかという問題である。判例は生徒心得に定めても、その違反行為に対して、学校教育法11条の懲戒処分が行使されたことがないこと、また、無理やり服をぬがし標準服に着替えさせるなどの、実力行使がないことなどの理由で、強制ではない、としている。この考えは、熊本の丸刈り訴訟(熊本地判昭60・11・13)と非常によく似ている。確かに、公立の中学校では退学・停学などの法的効果を有するような懲戒はまずありえない。しかし、実際は、体育館で学年の生徒全体が整列している中で検査があり、違反者だけを立たしたり、前に引っ張り出したりして、全体の見守る中で、叱責する。また、スカート丈を直すまで校門をくぐらせない。何回注意しても、改まらない子どもに対しては、家庭訪問をしたり、保護者を学校呼んだりして、保護者の協力を得る。このようなことは、現場ではありがちなことである。時には体罰が行われていることもある。このように、あの手この手で、規則を担保するための方策が、講じられているのである。判例はかつて「学校教育法11条の懲戒には、退学・停学及び訓告などの処分を行うこと、すなわち法律上の懲戒をすることのほか、当該学校に在学する生徒に対し教育目的を達成するための教育作用として、一定の範囲において法的効果を伴わない事実行為としての懲戒を講ずること、すなわち事実行為としての懲戒を加えることも含まれていると解されている。」(東京高判昭56・4・1水戸五中事件)と判示している。今、私が例示したような行為を、学校教育法11条の懲戒の中に入れる、入れない、ということについては、少々議論を要するところであろうが、法的効果がないことだけをもって、これを強制ではないと即断することは、あまりにも乱暴であると言わざるを得ない。このような制裁を担保として規則を守らせているのに、どうしてこれが強制にならないのか。自分の好みの服を着たい、これは大人であろうが、子どもであろうが、ごく自然で、当たり前の欲求である。しかし、それを主張するためには、子どもは、ほんの数百人という、小さな閉鎖的な社会の中で、一人違反者のレッテルを背負い、多くの生徒と教師までをも、敵にして闘うことを覚悟しなければならないのである。判例は子どもの社会のこと、子どもの心のことまで考えに入れて判示しているのであろうか、私にはとうていそのようには思われない。教育は教育基本法2条を引き合いに出すまでもなく、人格の完成を目的とし、子どもの発達を保障するためになされるものである。しかし、これらの2つの判決には、子どもの発達という視点が全く抜け落ちているように思えてならない。

 

3.制服は指導か強制か

  2つの判例を概観してみた。判決の中で、指導や強制という言葉がどれだけ多く出てきたことか。そして、判決ははっきりと制服は、指導であり、強制ではないと言い切っている。本当に制服が指導としての意味を持つのか、『中学生になぜ制服か』(久世礼子編著 三一書房)と『心に制服を着るな』(家本芳郎 高文研)の二つの著書を参考に、現場の声も交え、制服賛成論を検討してみる。

 

@ 制服は非行防止になるか?

  「服装の乱れは、心の乱れ」という言葉は、現場では合い言葉のように使われている言葉である。確かに「服装の乱れは、心の乱れ」であることもある。しかし、そうでない場合もある。単におしゃれ心から発したものであることも多いはずである。中学生という発達段階を考慮すれば、そう考える方がかえって自然かもしれない。もし、自分の服装やヘアースタイルに全く関心がない中学生がいたとすれば、そちらの方がよほど心配である。にもかかわらず、「服装の乱れは、心の乱れ」と信じてやまない教師は、その行為に校則違反というレッテルを張ってしまい、非行の初期という位置付けで指導に入る。そのような指導(?)が裏目に出ると、かえって生徒は反抗的になり、本当に非行の道へと進んでいくことになりかねない。また、「服装の乱れは、心の乱れ」であっても、その逆は通用しない。つまり服装さえちゃんとしていればその子の内面も問題なし、という誤解である。知らぬまにこの落とし穴にはまっている教師が結構多いのではなかろうか。本当に服装の乱れをきっかけに、心が乱れている生徒を早期発見するということに力を注ぐのであるならば、かえって制服などないほうが、心の状態が表面に反映されやすいのではなかろうか。また、たとえ制服により非行が阻止された生徒がいたとしても、それだけをもって全員の服装を統一するということは暴挙であり、正当な理由とはなりえない。

 

Aおしゃれ競争になるか?

  私の学校でもそうであるが、校則に関して議論する時決まって言われることが、華美にならぬこと、である。しかし、よく考えてみれば、おしゃれに気を使うことのどこが悪いというのか、限られた中で自分をより良く見せようとするのは、人間として当然のことであるし、それが中学生ぐらいから出てくるのは、発達の結果であり、むしろ喜ばねばならぬことである。それを、封じ込めねばならぬ理由がどこに存在しよう。ファッションは一つの文化である。文化は、思考錯誤の中からしか生まれてこない。制服という型にはめられてどうして、自分を自然に表現できる着こなしができるようになろう。制服は子どもたちから、そのような服装の文化を学ぶ機会を奪い去っているのである。

 

B制服は経済的か?

  制服の方が安くつくと考えている人が多いかもしれない。しかし、それもよく考えてみれば、かならずしもそうとは言い切れないことに気付く。学校には制服しか着ていけない、逆に家に帰ってまでも制服を着ている気にはなれない、結局、学校用と家庭用の二重の服装が必要になるのである。それに加え、制服そのものの値段が随分高い。冬用の制服を一式そろえれば、2万5千円ぐらいにはなる。しかも、卒業すれば使い道はなくなるし、途中で転校すればそれでおしまいである。また、家で洗濯できないものも多く、ブレザーなら一回のクリ−ニング代は500円ぐらいになる。もちろん、そう頻繁にクリ−ニングには出せないのであるから、不衛生であることこのうえない。

  私は、どちらかといえば自己決定の自由との兼ね合いで制服のことを論じてきたが、経済的な視点から考えれば、別の問題が浮かび上がってくる。一つは、義務教育の無償の問題、もうひとつは消費者の権利の問題である。これらについても議論の必要性を感じるのであるが、紙幅の都合でまたの機会にゆずらせていただく。

 

C服装に気を取られ、勉強に邪魔

 家本氏は言う。「音楽の趣味を持つ、パソコンにこる、切手を集める、ジョギングをする、テレビをみる、マンガをみる、習字をならう、と同じように、服装に気を使う、けっこうではないかと思います。」 私も同感である。青年期は多感な年頃であり、色々なことに好奇心を持つ時期である。人間の発達にとってこれは当たり前のことであるし、またとても重要なことである。それを様々なことに好奇心を持つと気が散るので、勉学やクラブ活動など学校の営み以外のことからは遮断し、それらには触れさせないというのであるならば、人間としての自然な成長をかえって阻害してしまうのではなかろうか。ルソーは、子どもの時代に子どもの時代を成熟させることが、将来の準備になると述べている。

 

D制服にすると精神が引き締まる?

  確かに、服装が精神に与える影響を与えることはある。しかし、皆が同じ精神のあり様でなくてはならないとすることは、おかしいし、また危険でもある。そこからすぐに戦前戦中の日本を想起する人も多いことだろう。これもまた、皆が同じ服装をすることの理由とはならない。

 

E制服の方が親にとって便利だ

  これが正当な理由たりえないことは明白であるが、実生活では、親も仕事に追われ、少しでも家庭の重荷を軽減したい、子どもの服装のことまでかまっていられない、というのが本音ではなかろうか。ここにこそ、問題の本質の一つがある。

  本来、子どもの服装といったものは、家庭の教育の領域であり、家庭の教育権の内にあるものである。

 

F皆が同じ恰好をしている方が安心する

  教育は個を認めることから発するのであり、差別からの解放も個を認識することをさけては成し得ないのである。確かに、集団の輪は大切であるが、それは互いの個を認め会えるような仲間意識に裏打ちされた輪でなくてはならず、ただ表面的に波風をたてることだけを遠慮するような輪であってはならない。

  またここで制服があれば一番安心するのは誰かということも考えておかねばならない。それは、教師と親、つまり大人である。先にも述べたが、服装は人格や精神と密接につながっている。服装を統制することで、一つの集団を表面的にだけではなく、その集団を構成しているひとりひとりの心の中から根こそぎ管理統制することが可能となるのである。だからこそ大人は安心できるのだ。少々極端な表現であるが、この様相は、教師と親が大人であるという立場を利用し結託して、本来自分たちがしなくてはならない指導や教育といったものをないがしろにし、自分たちの都合だけ考えて、同じ人間ではありながらも弱者である子どもを支配するために、その権利を侵害している、つまり大人の子どもに対する差別なのである。

 

  賛成論の主なものを拾って検討してきた。その中で制服のもつ不合理さはわかっていただけたことと思う。この項は、「制服は指導か強制か」と題して話を進めてきた、その結論を述べれば、制服は明らかに指導ではない、強制である。私にはとうてい判例の態度を支持することができない。

 

4.制服が消えない背景

  たとえ、それが本来の教育の趣旨に反していようとも、それに対して大多数の親が賛成しているのなら、それを即刻廃止することは困難を極める。もちろん、制服反対の親もいるのだが、残念ながら、厳しい指導を望む声こそ聞かれるが、その反対の声は現場には届きにくい。学校が地域と足並みを合わせることを抜きにして、前進することは難しい。確かに、子どもの服装は親の領域である。学校がそれにとって代わろううとするから、様々な弊害が露出する。しかし、家庭を取り巻く状況も変化している。親と子の対話がスムーズにいかない家庭もまだ数こそ少ないが、増加傾向にあるように伺える。子どもに対して指導やしつけがうまくできる親ばかりではない。最近は中学生ぐらいになれば、親の言うことに全く耳を傾けない子どもも多くなってきている。服装を自由にしてしまえば、いわゆる、“つっぱりスタイル”というようなものも出現する。建て前論では、これも人権なのだから、なんら問題ないわけだが、学校にも世間体のようなものがある。学校の外の社会では服装は自由であるが、実際に身なりで人を判断する風潮はまだまだ残っている。何を着ようが、それに対する評価は個人に帰ってくるのだから自業自得なのだが、学校ではそうはいかない。たとえば、“つっぱりスタイル”の生徒が多くいる学校は、どうしても地域で評判が悪かったりする。地域の評判が悪くなれば、小学生のうち学力のある児童の多くが私学の中学校を希望する。それも、もちろん自由なのだが、実際には様々な問題を生じさせている。また、高校での評判も私たちには無視できない。ほとんどの私学は入試で面接を行い、服装や頭髪についても厳しくチェックをしている。では、中学校でちゃんと指導すればよいということになるが、自由な服装であれば、指導の基準がなく、結局何をどう指導したらよいのかわからなくなるし、また教師によって基準が違うため指導が入らなくなってしまうのである。

  制服の背景には、@外見で人を判断する風潮、A個という見方ができず、わずかな例で全体を推し量ろうとすることからおこる偏見、など社会の矛盾が横たわり、身動きがとれない状況を作っているのである。

 

5.おわりに・・現場の教師として・・

  いくら、背景に社会の矛盾があろうとも、学校が制服や不合理な校則を放置しておいてもよい理由とはならない。また、学校が家庭の肩代わりができるものでもない。学校は自分たちの本来の責任を確認し、それを全うすべく精一杯の努力をすべきである。そのために時には、勇気をもって社会の矛盾に対して立ち向かうことも必要である。被差別の子どもたちは、もっと大きな社会の矛盾と闘っているのだ。それを助け励ますべき教師が、社会に矛盾があるから、生徒の人権を侵害してもよいというのでは、本末転倒である。社会に矛盾があるのなら、それに対してたとえ微力であろうとも、子どもと同じ視座に立ち、立ち向かおうとするのが本当の教師の姿ではなかろうか。確かに私一人にできることはたいしたことではない。しかし、何年かかろうとも、地道な実践の中で、学校の中に少しでも多く人権の息吹が導き入れられるよう努力していきたい。「指導」の名を借りた「強制」は他にも山ほどある。現場の教師として、そのうちの一つでも排除することに寄与できれば幸せである。



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