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TITLE:  子どもの権利条約と学校教育の改革
AUTHOR: 北川 邦一
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第150号(1995年1月)
WORDS:  全40字×189行

 

子どもの権利条約と学校教育の改革

 

北 川 邦 一 

 

  「子どもの権利条約と学校教育の改革」に関する私の視角は「学校づくり」である。

  子どもの権利条約を学校教育の改革に活かしてゆく最も有力な道筋は、各学校において、@子どもの意見表明権を保障すること(第12条)、A市民的自由を保障すること(第13〜16条)、B子どもが権利を行使するに当たっての親の指示・指導の責任・権利・義務を尊重すること(第5条)、及び、C学校の管理運営に対する生徒参加・親参加の制度を創設を目指すこと、すなわち、条約の精神と条項を取り入れて「民主的学校づくり」を強化・発展させてゆくことであると考える。このうち@、A、Bは条約の条項をそのまま学校に適用することであり、Cは@とBを条約の原理によって発展適に学校に適用することである。

  主題について、以上の点を中心として、次ぎに述べてゆきたい。

(1) 「子どもの権利条約と民主的学校づくり」については、次のように考える。

  多くの教師は、憲法と教育基本法の教育理念に沿って日々、生徒のために努力してきた。それにもかかわらず、学校教育において受験競争の激化や管理主義の弊害がいっそう顕著になってきており、「公立中学校はこれでよいのか」などという声さえ聞かれる。学校の教育力の回復、改善が求められている。

  臨教審以来、「教育改革」が言われ、新様式の高校発足や「観点別学習評価」の重視など教育の変化がめまぐるしいが、むしろ新しい困難や混乱が引き起こされており、本当の教育改革のためにはどうやっていったら良いか、その展望が求められている。

  おりから89年に国連で採択された「子どもの権利に関する条約」への世論の関心が高まっており、教育に関してもこの条約の批准・施行に期待する声が強い。教職員の間でもこの条約の理念に賛同する声は強く、全日本教職員組合(全教)をはじめ多くの教職員組織も条約の批准促進のため活動してきた。

  ところが、条約の批准、発効(94年5月22日)後、条約の精神と条項を学校教育に活かしてゆこうという動きが急速に高まってきており状況は若干好転してはいるが、この条約に沿って「校則」の見直しや「体罰」・管理主義教育一掃への直接的積極的な動きが見られる学校は残念ながらまだ少ない。そして、教師の一部からは次のような声さえ聞かれる。

  「子どもの権利を全面的に認めると生徒を放任に導いて一層非行の方に走らせる」「子どもの権利の保障と言うけれど、今の子どもには権利を行使する能力が育っていない」「生徒達は受験競争に追われており市民的権利の行使どころではない」「今でも教師は多忙で四苦八苦している。子どもの権利を拡大してこれ以上に新たな問題を抱えるのはかなわない」、等々。

  このような状況の中で次のように考える。

  従来、多くの教師が憲法・教育基本法の理念に沿って、一人ひとりの生徒を大切にし、学力を回復・保障し、生徒の自主活動と自治を育てることを追求してきた。今、その努力を引き継ぎ発展させるためにこそ、学校において子どもの権利条約の定める子どもの権利を実現してゆくことが必要なのである。子どもの権利条約の精神と条項を学校教育に適用するということは、外圧に屈するとか外圧を利用するとかいうような従来とは何か異質なことを急に始めることではなくて、従来言われていた「子どもは学校の主人公である」という考え方・それに沿って追及してきたことをさらに一歩より具体的に前進させることである。それが、子ども自身の意見表明や権利の行使・決定、これに関する親の指示・指導と参加を学校に取り入れることなのである。

  このことは、学校における子どもの生活を伸びやかなものにし、子どもの観点を汲み入れて教師の教育実践をさらに豊かなものにすることになる。このことによって、学校において子ども(生徒)・親と教職員の信頼関係を回復・発展させることができる。今日の学校が抱えている諸困難、すなわち、生徒の問題行動や発達の歪み、選別的受験競争、管理主義、教師の多忙化とその基礎にある教育条件・労働条件の劣悪さなどは、教師だけの問題ではなく、誰よりも生徒と親の問題である。これらの問題は、生徒集団・親集団と教師集団相互の信頼に基づく協力と共同によって解決してゆかなければならない性質の事柄なのである。逆に言うと、生徒・親と学校・教師の間に信頼関係が充分でなく精神的な溝があることが、今日の日本の学校における問題の解決を困難にしている。いじめが教師に見えにくいのも、本当の意味の学習の効果があまりあがっていないのも、「体罰」・管理主義が横行するのも生徒集団とと教師集団の間に溝があって精神の交流が充分でなくお互いが思っていることを理解し合っていないことに起因しているところが大きいのである。

  今、必要なことは、このような考えに立って、子どもの権利を実現する学校づくりへの大きな流れを学校の内部、学校教師集団の内部からつくり出すことである。その原動力は、全国各地において取り組まれてきた学校づくりの諸実践の中に現存する。例えば、94年4月、大阪教育文化センター学校づくり部会で大阪府下の公立中学校の教師を主とするメンバーと一緒に『いま中学校で自由と自治を育てる』を著した(北川邦一編・かもがわ出版刊行・2200円)。これらの学校では、教師の号令に指示されるのでなく生徒が自治的に運営する体育祭や臨海学舎、修学旅行、学校生活を改善し生徒の要求を実現してゆく生徒会活動、生徒が自分たちで高校や職業を調べ交流し合う進路学習、生徒が学級で自主的に取り組みだした集団学習などの実践をしてきた。このような学校づくりから、「子どもの権利に基づく学校づくり」、すなわち、学校における子どもの市民的自由、管理運営への生徒参加・親参加が保障され、権利や参加と結びついた学習の保障される学校づくりへと進んで行きたい。めざす学校の姿は、真理・民主主義・平和・勤労・健康を価値とする学校、学ぶ喜びと文化にあふれた学校、人権と自治と自立と協同をめざす学校、地域社会や産業社会と結びついた発展性を備えた学校……等々と、実践の進展とともに豊かにしてゆきたい。その際、学校における生徒のためを思っての教師の働きかけが生徒によって生徒のものとして実を結ぶために、学校における子どもの権利の保障が不可欠なのである。

(2) 条約の原理と条項は、民主的学校づくりに関する上記の事項以外にも、次のように制度・法を含む学校教育の改善・改革すべきことを方向づけている。

 D障害児の教育を受ける権利の差別の撤廃・是正(条約2条、23条)

 Eアイヌ、在日外国人などの民族的少数者に対する教育の権利保障の欠如・不平等・差別等の是正・克服(2条、29条1項(b)、(c)、(d)、29条2項、30条)

 F退学、停学、除籍、出席停止、原級留め置き等、子どもの不利益処分に対する聴聞制度の確立(12条2項、28条2項)

 G一般教育情報の公開(28条1項(d)、13条)

 H個人教育情報の本人開示(16条、28条1項(d)、13条)

 I教育の無償化、財政的援助の拡大、教育条件の改善(28条1項(a) 、(b) 、(c))

 J不登校・登校拒否・高校中退への取り組み(28条1項(e))

 K・学校教育の偏重・肥大化、・選別的競争主義、・過密な学習内容の詰め込み、・勝利至上主義的な部活動、・管理主義教育など、個々の教師の教育の仕方を越えて日本の学校に根づき構造化してしまっていると思われる日本の歪んだ学校教育の質・構造・の是正(例えば、31条など)

  憲法・教育基本法の理念を現在において発展的に実現してゆくD〜Kの学校教育の改善・改革は、各学校に基礎をおいて、@〜Cを中心とする互いの権利を認め合った子ども・青年、親、教職員その他の人々の協力・共同の取り組みをすすめ、それを全国的地域的に連合させてゆくことによって可能になってゆくと考えられる。

 (3) これらの改善・改革を進める上で、「大前提」とも言うべき程に基本となると考えられることは、a)条約の普及・学習(条約第42条)と、b)教員自身が特に「体罰」やいじめから子どもの権利・人権を守ることであると思われる。

  特に後者に関して述べておきたい。まずこの実行から始めるのでなければいくら「子どもの権利」を言っても画餅に帰してしまうと思われる。中でも「体罰」という教員の暴力は、強者による弱者の実力支配として生徒の教育不信・教師不信を決定的なものにしていると思われる。教員が他教員の「体罰」を制止しないことは、結局、生徒たちが、学校教員集団全体を「体罰」教員と同類とみなすことを助長し、生徒集団と教員集団の溝を深めている。学校には、生徒の権利・人権を守る立場にある成人は、通常、学校教職員しか居らず特に教員の責任は大きい。学校において子どもの権利を保障することは、一人ひとりの教員が学校から「体罰」を一掃するために「体罰」教員に対して同僚としての忠告、組合やその支部・分会としての勧告、職員会議での批判その他、あらゆる可能性を追及することから始まるようにさえ思われる。

(4) 子どもの権利条約の第13条から第15条では、法律の明文の定めに基づかない限り子どもの市民的自由の権利は学校において制限し得ないと定めている。それにもかかわらず、94年5月20日の文部省次官通知や『時の動き』平成6年6月15日号・外務省「Q&A」に見られるように、日本の政府・文部省・外務省等は、学校における子どもの権利保障に関して極めて消極的でむしろ否定的といってよいほどである。その基本には、次の例にみられるような、学校はある種の特殊な部分社会であって、そこでは憲法や条約、法律で認められた人権や権利でさえ法律の規定に基づくことなく制限できるという考え方ある。

 「校則の法的根拠でございますが、…人格の完成をめざす教育を施す、そういう組織体としての学校で一定のルールを校長が定めて子供たちを規律するということは、これは累次の最高裁の判決、それから地方裁の判決でも認められているところでございます。…昔はいわゆる特別権力関係、一般権力関係などという言葉で学者が説明したりなんかしておりましたが、判例ではそういう言葉を使ってはおりませんけれども、そういう特別な関係にある学校と子供との間は、法律上の具体的な根拠がなくても、一定のルールを定めて、それを合理的な範囲内である限りは子供に強制することが可能である、そういう判決、判例に基づいて、私ども、校則は『校務をつかさどり、所属職員を監督する。』ということが規定されておる学校教育法28条の校長の職務として決め得るものだというふうに考えております。」(坂本弘直文部省初中局長。92年2月27日第123国会衆院文教委員会議録第2号20頁。下線は北川)

  条約の上述の規定に正反対と言うべきこのような考えが、1992年、93年の子どもの権利条約の批准案国会審議の場において政府委員によって繰り返し述べられており、かつ、上記坂本発言が言及しているような判例が実際、最高裁判所等によって積み重ねられてきたところに今日の日本における子どもの権利保障ひいては人権一般の保障の後進性、さらには法治主義の後進性という重大問題がある。

  それらの判例の基本を成しているのは、次の例に見られるような最高裁判例である。

  一つは「憲法の人権規定の私人間不適用」説である。1974年7月19日の昭和女子大事件最高裁判決の例がある。「憲法19条、21条、23条等のいわゆる自由権的基本権の保障規定は、国又は公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障することを目的とした規定であって、専ら国又は公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互間の関係について当然に適用ないし類推適用されるものでない」とした。具体的には、「政治的暴力行為防止法案」(1961年)に反対するのは思想の自由、反対署名は表現の自由であるとしても、昭和女子大という私立大学が学生にそのような人権を認めず、そういう運動をする政治団体に加盟している学生を退学にするのは私立大学の自由であり、憲法の人権規定はそういう私人と私人の争いには適用されるものではない、としたものである。

  もう一つは「部分社会」論である。1977年3月15日の富山大学経済学部事件最高裁判例がある。この判決は、「一般市民社会の中にあってこれとは別個に自律的な法規範を有する特殊な部分社会における法律上の係争のごときは、それが一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、その自主的、自律的な解決に委ねるのを適当とし、裁判所の司法審査の対象とはならない」と述べた。具体的には、富山大学経済学部のある講座を履修した(つもりの)学生の単位取得の成否を求める請求に同学部が応じないので応じさせよとの裁判所への学生の訴えに対して、大学のような「特殊な部分社会」には内部規律権が認められ、そこでの争いは一般市民法秩序と直接に関係を有しない限り裁判所に訴え出ても裁判所は取り扱わない、としたものである。

  両判決は、直接には大学の学生に関する判決であるが、これらは高校以下の生徒にかかわるいわゆる「校則」裁判等において判例とされて、最高裁やこれに追随する高裁、地裁の判決において踏襲されてきている。私学の自由や大学の自治は重要であるが、それは本来、学生や生徒の教育を受ける権利を含む基本的人権を守るものとしてなければならないはずである。細部の議論はさらに必要としても上記両判決等が学生の人権や教育を受ける権利擁護とは反対にそれを制限することに資するものであることは明かであろう。

  なお、さらに、憲法の人権保障の意義を貶めている判決として、「法人の人権」論と言うべき、1970年6月24日の八幡製鉄政治献金事件最高裁大法廷判決例がある。これは、できる限り法人である会社にも自然人である個々の人と同じように憲法上の人権を認めるべきであるというもので、具体的には株式会社である八幡製鉄も自然人たる国民と同様、国や政党の特定の政策を支持、推進しまたは反対するなどの政治的行為をなすのは自由であり、その政治資金の寄付も一般国民と同様に扱うべきだ、としたものである。このような論理によれば、個人と個人の集団である法人とを同列に扱うこととなり、本来、一人ひとりの「人」の権利として守られるべき人権の意義はほとんど喪失されてしまう。

  以上のようであるので、子どもの権利条約が批准されさえすればそれでいいというものでは毛頭ない。条約が規定する子どもの権利の法的通用力を確立するためには、条約の批准を契機として世論を高め、その力で、例えば学校教育法を改正して適切な条項を設けるなど、過去の最高裁判例等に関わらず学校において子どもの人権・権利が保障されるべきことをあらためて国民統合の意思として法律の明文で確定し徹底する必要がある。

 同時に、わが国における子どもの権利の保障不足や侵害の克服のためには、それを、人一般の人権やさらには法治主義そのものの軽視・蹂躙の克服と結合させて取り組んでゆくことも重要となっている。(本項の詳細は、北川邦一「子どもの権利と学校の規律権能・『学校=法外特殊部分社会』論批判・」大手前女子短期大学「研究集録」第13号・1993年。)

(5) 紙幅の制限で詳述はできないが、子どもの意見表明及び権利行使主体生を学校の授業のあり方・内容に押し及ぼすことも日本の学校教育の改革にとって重要と思われる。

  授業の内容について「むずかしく、多すぎると思う」高校生26.0%、「少しそう思う」46.1%、先生に要望したいこととして「もっとゆっくり、わかるように教えてほしい」55.7%(大阪教育文化センター1992年子ども調査アンケート)、「勉強する気がない」生徒が大阪の高校生の56%(大阪府教育センター91年アンケート)などは、学校・教師と生徒との間に授業内容に関して考えていることにも大きな食い違いがあることを示している。 学校において、子ども・青年の発達と科学・技術・文化の体系とに応じた系統的教授が必要なことは当然であるが、現在の日本の学校は、選別主義・競争主義、教育内容の国家統制、劣悪な教育条件と管理主義の下で、一方的な一斉授業中心に肥大化した教育内容を詰め込むことにあまりにも偏っており、多くの生徒にとって学校の学習が本来あるべき自主性と学ぶ喜びの乏しいものになってしまっている。学校の授業に生徒の興味・関心・意欲に応じた学習、実験的体験的学習・問題解決的学習、思考の過程や表現活動を重視する教育、社会活動への参加・学校の管理運営への参加・自治等との結合を取り入れて、学校の基調を子どもの主体的な学習の場へと大きく変換することが求められている。

 



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