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TITLE:  登校拒否と卒業認定を考える
AUTHOR: 東村 元嗣
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第164号(1996年4月)
WORDS:  全40字×114行

 

T 登校拒否と卒業認定を考える

 

東 村 元 嗣 

 

1.愛は勝つ

  家庭で子どもを育てるには、愛情がなければならない。勿論、学校で教育をするには、教師も愛情なくして、教育はできない。誰も否定はしないが、本当の「愛情」とは何かと問われると、かなりの差があることに気がつく。その勘違いの結果が社会問題となっている「登校拒否」または、「不登校」と呼ばれている現象である。この言葉の定義は、若干、説明を要するがここで論じる「不登校」は、何らかの理由、心身症気味で、「学校には行きたいが、出席できない」状態をいう。

 

2.「創造性」(自発性)

  子どもがものごとに凝ることである。自発性が順調に育っている子どもは直ぐに、あるいは、ゆっくりと考えた上で必ず、自分で課題を考え出して、それにとりかかる。子どもの「自発性」の発達を援助する(「いたずら」を許す)子育てが必要である。

 

3.「自由」

  自由は、人間の基本的要求である。子どもに「自由」を与えることである。「自由」にものを考え、「自由」に行動させるように、子どもを見守っていることが父母・教師の姿勢として大切である。それが、子どもの中に秘められている可能性を現わせるのに役立つのである。

 

4.「(任)まかせる」(無言の行)、「待つ」

  口を出したり、手を貸すことが、教育だと思い込んでいる父母・教師には、なかなか理解しがたいだろうが、子どもの動作を見て、「口を出さない」、「手を貸さない」ようにする、という姿勢をとり続ける「無関心の関心」が「最高の教育」である。

 

5.「意欲的」

  子どもが、「いきいきして」いるかどうか、「目に輝き」があるかどうか、「言葉に張り」があるか、幼い子どもは遊びを見つけ出し、他人に頼らずに行動していることである。子どもが自分の力で行動したり、学習するには「信頼されている」ことである。父母・教師が子どもを信頼するようになると、子どもは必ず、その信頼に答えるようになる。

 

6.「思いやり」(責任感を育てる)

  「思いやり」の欠ける父母・教師は子どもの立場に立って考えようとしない。従って、子どもの気持を汲まずに、自分の考えたことを、一方的に子どもに押しつける。それに従わない子どもを叱ったり、叩いたりする。それゆえ、子どもの心に傷ができたり、しこりが残る。子どもは、その年齢が低ければ低い程、心の痛みを口で表現できないから、いろいろな問題行動や身体症状でそれを訴えてくる。「思いやり」があれば、子どもの立場に立って考え、子どもの気持を汲んで対応出来るので、おおらかな態度で接するようになる。

 

7.「耐える」

  すなおでおとなしい子は要注意(耐えている)のです。親たちの無理解な扱いが続くと、子どもの問題行動が著しくなってくる。「問題のない子ども」のように見えることがあるが、思春期以降になって苦しさが爆発し、大きな問題や社会を騒がせる出来事を引き起こすことがある。「第一反抗期」「中間反抗期」「第二反抗期」を迎えて喜ぶ親になろう。

 

U 登校拒否生徒の卒業

 

1.卒業の時期を迎えて考える

  従来、中学校では、「卒業認定」が大きな問題になることはまずなかった。学年度末の職員会議でも、判定会議でも卒業認定は一応議題の筆頭にはのぼるものの格別の論議はなく、教頭が「それでは、平成○年度卒業生・秋葉太郎、以下178名卒業ということでよろしいですね」と念を押し、三年生担任が頭を下げて終わるといった、ごく儀礼的な手順ですまされてきた。

  ところが、この卒業認定がこのところ、中学校でも重大な問題になっている。いうまでもなく登校拒否による長期欠席生徒の増加によるものである。三年生になったから急に欠席が増えたというケースもないではないが、多くは一年生に入学したころから休みがちで、二年、三年と学年が進むにつれて、学校に顔を見せる回数が減り、ついにまったく登校しなくなる。その間、二年生になったら、三年生になったらと淡い期待をかけて進級を認めてきたものが、いよいよ卒業の時期を迎えて決着を迫られるわけである。生徒はむろん、父母、担任教師ともどもさえない顔をしている。

 

2.校長の裁量いかんによるが、「学校自治」が生きてこそ

  学校教育法施行規則第27条は、「小学校において、各学年の課程の修了又は卒業を認めるに当っては、児童の平素の成績を評価して、これを定めなければならない」(第55条で中学校に準用)と規定している。「課程の修了又は卒業を認めるに当っては」とあるところからして、平素の成績を評価してふさわしくない場合には、課程の修了や卒業を認めないことも当然あり得るわけである。

  もっとも、ここで「平素の成績」というのは、生徒の心身の状況によって履修困難な各教科は、その生徒の心身の状況に適合するように課さなければならない(学校教育法施行規則26条)、という趣旨からして、単なる学業不振は不認定の理由にならず、欠席があまりに多くて、とうていその学年の課程を履修したとは認められないような場合、と限定してとらえる必要があろう。したがって、このままでは卒業させられないという学年会の意見は其の意味では正論ということになる。

  ただし、それでは年間授業日数のどの程度まで欠席したら、進級や卒業を認められないか(昭28.3.12.初中局長・回答)となると明確な規定はない。

  進級や卒業を認定するのは最終的には校長の権限であるから、つまりは校長の裁量いかんということになる。もっとも、校長が判断を下す場合には、担任教師をはじめ学年会の意向、職員会議の方針、さらに生徒本人や父母の希望も充分に勘案する必要があろう。

  教育委員会で一応の基準を示す例もあるが、進級や卒業の認定は、法令で直接校長に委ねられているので、教育委員会の基準も一つの目処という程度のもので、校長の判断を一律に規制するものではない。

 

3.生徒の将来を大所高所からみて

  卒業を認定しなかった場合、生徒は当然原級留置になるが、登校拒否生徒の場合、学校に復帰することはまず期待できない。転校も一つの便法であるが、受け入れ校の問題もあり、この場合も復帰の可能性は薄いとみなければならないだろう。原級に残ったとしても、すでに就学義務年齢は過ぎているから、法律的には就学の義務はない(学校教育法39@)、就学を強制する根拠がない。実際問題としては、このまま学校に籍だけ残しておき、いずれ時期をみて学籍削除の措置をとることになろう。要するに、学齢超過による中学校中退である。救済措置として、中学校卒業程度認定制度がないではないが、これは就学義務猶予・免除者を対象にしたものなので、その手続きをとる必要がある。また学力に問題がある場合には試験に合格するには相当の苦労がともなう。なお、試験科目は、国語、社会、数学、理科、外国語の五教科で、筆記試験による。

  そうなると、学校としては、この生徒の将来をどうみるかという広い見地から判断するよりない。

  現在わが国では、中学校を卒業しただけで社会に出るのはかなり勇気が必要である。まして中学校中退となるとそのハンディキャップの波をもろに受けることになる。

  この時点で、あえてハンディキャップに挑戦させるべきかどうか、教育的配慮から判断が求められる。

  やはり、ここのところは、これからの本人の努力と父母の協力に期待して一応、卒業の形をとるのが適当である。学校として生徒の将来をここで摘みとるのは何とも耐えがたい。

  中学校を卒業したという自覚がプラスに働くことを期待するのである。ただし、卒業式の扱いなどは、他の生徒に対する影響を懸念するのも当然なので、学年度内で、少し時間、または日をずらすなど、適宜工夫の余地はある。

 最後に、参考迄に申し添えると、小生の勤務する堺市の中学校では、子どもの自己決定と親の願いを重んじ、担任と教職員集団と校長の努力に依り、3年間、出席日数0で卒業させているケースもある。(「たんぽぽ」No.53号8頁堺市教育文化センター機関誌)



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