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TITLE:  新しい学力観と観点別評価についての一考察 − 観点一「関心・意欲・態度」を中心に − 
AUTHOR: 原田 琢也
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第167号(1996年7月)
WORDS:  全40字×233行

 

新しい学力観と観点別評価についての一考察

―観点1「関心・意欲・態度」を中心に―

原 田 琢 也

 

1.はじめに

  新学習指導要領が全面実施されて、3年がたつ。新学習指導要領が示す学力観は、「新しい学力観」と称され、話題を呼んだ。この学力観は、学校の日々の実践にどのような影響を与えたのであろうか。また、時を同じくして導入された観点別評価について、個々の学校はどのように対応しているのだろうか。

  新学習指導要領に対しての各学校の対応は、まちまちである。それを、おしなべて論ずることはできない。本稿においては、ある中学校の英語科教諭(以下、A教諭と表す)の実践をとりあげ、その事例を通して、「新しい学力観」の素顔の一端に迫ってみたいと考えている。

 

2.「新しい学力観」とは

  新学習指導要領は、「第1章 総則」の「第1 教育課程編成の一般方針」において次のように述べている。「学校の教育活動を進めるに当たっては、自ら学ぶ意欲と社会の変化に主体的に対応できる能力の育成を図るとともに、普遍的・基本的な内容の指導を徹底し、個性を生かす教育の充実に努めなければならない」。要するに、新しい学力観の特徴は、以下の3点にしぼられる。第一に、自ら、学ぶ意欲と社会の変化に対応できる能力を育成すること。第二に、基礎的・基本的内容の徹底を図ること。第三に、個性を生かす教育を行うことである。

 

3.「観点別評価」とは

  学習指導要領は、教育課程審議会の答申を受けて作成される。新学習指導要領公表に先だって、昭和62年に出された同答申は、次のように言及している。「日常の学習指導の過程における評価については、知識理解面の評価に偏ることなく、児童生徒の興味・関心等の側面を一層重視し、学習意欲の向上に役立つようにするとともに、これを指導方法の改善に生かすようにする必要がある」。そして、さらに、指導要録の各教科の評価については、「教育課程の基準の改善のねらいを達成することや各教科のねらいがより一層生かされるようにする観点から、教科の特性に応じた評価方法等を取り入れるなどの改善を行う必要がある」。学習指導要領の改訂に伴って、指導要録も改められねばならないということになる。

  この答申の考え方に基き、文部省によって提示された指導要録には、各教科ごとに4つの観点が定められ、その観点ごとに、絶対評価により、「A」、「B」、「C」の3段階の評価がなされることになっている。これが「観点別評価」である。

  具体的な観点は、校種や教科により異なる。ここでは、これから紹介するA教諭が中学校の英語科の教諭であることから、中学校の英語科の観点を紹介しておくことにする。観点1は、「コミュニケーションへの関心・意欲・態度」、観点2は、「表現の能力」、観点3は、「理解の能力」、観点4は、「言語や文化についての知識・理解」である。

  指導要録に観点別評価が導入された結果、報告書(内申書)にも観点別評価が導入された。

 

4.A教諭の実践

 4−1 A教諭の学校の対応

  1992年、A教諭の勤める中学校の通知表にも、観点別評価が導入された。A教諭の学校では、観点別評価について様々な議論がなされた。その結果、以下の取り決めがなされた。

  @絶対評価では、評価の客観性を保ち得ず、親や生徒に不信感を与える嫌いがある。だから、「相対評価を加味した絶対評価」(=弾力的な相対評価)とすること。

  A各観点の評価は、観点内部の各項目の点数を合計して出されるのだが、その合計の際、素点の価値やばらつきを整えるために、偏差値が必ず用いられること。

  B教科担任は、評価・評定をどのような項目によって出したのか、また、個々の生徒の各項目の偏差値がいくらであるかが一目でわかる一覧表(「副表」と呼ばれている)を作成し、学級担任に渡すこと。学級担任は、それを見て、保護者や生徒の質問に答えること。

 

 4−2 A教諭の評価の出し方

  では、具体的にA教諭は、上述のようなシステムの中で、どのようにして評価を出しているのか。

  A教諭は、たとえば、観点1を評価するために、さらにその下に8つの項目を設定している。項目1は「中間テストでの自由英作文」、項目2は「期末テストでの自由英作文」、項目3は「ノート」、項目4は「授業中の発言回数」、項目5は「レポート」、項目6は「スピーチ」、項目7は「忘れ物の回数」、項目8は「宿題忘れの回数」である。1学期間にわたって、それぞれの項目のデータを記録しておき、その素点をコンピューターに入力する。そして偏差値に換算してからすべてを合算し、あらかじめ英語科で定められている割合に従って、3段階に振り分ける。これで、観点1の評価が出たことになる。

  観点2から4についても、同様のことが行われる。評定は、さらに観点1から観点4までの偏差値の合計点をさらに合算し、相対評価によって出される。

 

5.改善された点 

  これらの取り組みによって、改善がみられたことがいくつかある。ここには、以下の二点を紹介する。

 

 5−1 授業が変わった

  A教諭は授業中の発言回数を評価に入れることにしている。その結果、A教諭の授業では、クラスの大半の生徒が、自ら挙手して、積極的に発言している。クラスによっては、1時間の授業で、全員の生徒が各々4回ぐらい発言することもある。授業は、生徒の発言で進んでいく。とても活気のある授業になっている。

  もちろん、この活気は、生徒の純粋な英語学習への意欲からだとはいえまい。生徒の一戦略にすぎない。たとえそうだとしても、自ら手を挙げて発表しているうちに、英語に対する苦手意識を払拭することができ、間違いを恐れず英語を用いることができるようになるかもしれない。このことは、「話せる」、「使える」英語教育を目指す上では、とても重要なことだと思われる。

 

 5−2 平常点が明確になった

  従来より、「平常点」については、教師の恣意にかかる割合が多いということで、しばしば批判が出されていた。副表の作成により、平常点が明確になったことは、改善された点だといえよう。また、この中学校では、将来的に、副表を個人別にカードに転記して、生徒や保護者に手渡すことも、考慮しているということであった。

 

6.問題点

  A教諭は、学習の過程にみられる「関心・意欲・態度」を評価する際、できる限り自分の主観を排除しようと思い、授業中の発言回数を数えるという方法を導入した。ところが、この方法にも、ある問題が潜んでいる。

  授業中、挙手して発言しようとしないのは、「関心・意欲・態度」が低い生徒だけなのだろうか。たとえば、人前で話すことが苦手な生徒、あるいはA教諭との関係がうまくいっていない生徒も、その中に含まれてしまうのではないだろうか。生徒の個性はまちまちである。この方法では、教師や学校とはあわない個性の持ち主は、「関心」や「意欲」が乏しく、「態度」の悪い生徒だと評価されてしまい、さらに、評定も下げられてしまいかねない。評価・評定は調査書(内申書)にも掲載される。即ち、選別のためにも用いられるのだ。

  従来より、内申書は、生徒を管理・統制するための抑止力として作用しているということで、批判にさらされてきている。それらの批判は、内申書開示への一連の運動へとつながり、社会は開示の方向へと動きはじめていた。ここで紹介したA教諭の実践は、「副表」の開示にみられるように、一見、時代を先取りしているかのようにも見えるが、実は、さらに巧妙に、生徒を管理・統制するための権力を、数字の中に隠し込んでいる可能性がある。一旦、数字に転化され、なお偏差値に換算された権力は、そう簡単にはあばき出されまい。もう、開示に耐えうるということなのである。

 

7.問題の本質は

 私の手元に、『絶対評価の考え方』 [奥田ら 1992]という一冊の本がある。新学力観や観点別評価に対して、肯定的な態度をとる論者による対談が中心になっている本である。ここでは、この本に出てくる言説を批判的に検証することを通して、「新しい学力観」と観点別評価に隠された問題を描き出してみたいと考えている。

  次は対談の中での、島津忍(前東京教育庁初等教育指導課長)と奥田丈二(東京都立研究所長)のやりとりである。

  島津:「個性」というのは、良い面だけを言っているのだろうか。「個性を生かす」と言う場合、もし悪い面も言うとすれば、ちょっと困るなあと思う。

 奥田:一般的に「あいつは個性のあるやつだ」とか、「個性的」とか言うけれども、そういう場合には大方は悪い意味が多い。しかし、学校教育で、教育のために「個性を生かす」という場合には、やはりいいものを生かす、伸ばすという意味ではないか。 [:64]

  新学習指導要領は、総則で、「個性を生かす教育の充実に努めなければならない」と謳っていた。しかし、ここでの「個性」とは、「良い個性」に限られるというのだ。では、誰が、どういう規準で、人の個性を、「良い個性」と「悪い個性」に分かつというのか。 結局、教師の「感覚」に頼るしかない。教師の目には、教師の「感覚」から遠い距離にある「感覚」の持ち主は、「悪い個性」の持ち主、「関心・意欲・態度」の低い生徒と映ってしまうのではないだろうか。「関心・意欲・態度」を測っているつもりで、実は、無意識裡に、自分や学校にとって不都合な生徒をおとしめているということはないだろうか。私は、「感覚」を内なる「文化」であると考えてきたのだが(1)、もしそうならば、このことは異文化の排除(=差別)を意味していることになるのである。

  また、同じ対談で、高岡浩二(文部省教育課程企画官)は次のように言っている。

 高岡:今までテストなどがいろいろ開発されているが、知識の量とか技能とかをはかるためのものが中心となっている。これからは関心・意欲・態度や思考・判断に関わる面や、子供の内面を見ていくようなものが開発されて、両方セットにして子供を見ていくことが出来ればいい。[:135]

生徒の内面を推し量るテストができればいいというのである。テストなら教師の恣意も入りにくくなり、私が危惧しているような問題もおこらないというつもりなのだろう。しかし、私は、なお、懐疑的にならざるをえない。恣意は、科学的、客観的という衣に身をまとい、数字の中に巧妙に隠されてしまうだけなのだ(2)。

  何が問題なのか。たとえば、次の島津の発言を見ていただきたい。

 島津:しかし、本当の人間を見るならば、知識以外のフィルターもかけなければいけない。個性もその一つになるし、まだまだ多面的なフィルターがあるのだからそれで丸ごと見てあげたい。マルチ人間をとらえるという発想が出てこないで、あくまでも知識という古ぼけた尺度でしか見ないで人間評価までされてしまうのはいかにも寂しい。[:42]

生徒を一個の人格の持ち主として尊重し、多面的に見ることを通して、長所を伸ばしていこうというのは私にもよく理解できる。これも評価に違いないだろう。しかし、生徒を多面的に見ることによって、生徒をさらに細かく差異化し、それによって選別していこうということならば、私はそのような発想に伍するわけにはいかない。

  ここに登場してもらった論者は皆、「評価」に後者の側面があることを忘れている。実際には、彼らの思いがどうであれ、実践は、後者の方向へ向かってしまう。実践者が悪いのだろうか。

 長尾彰夫は、学校の評価について次のように説明している。学校における評価は、あい反する二つの側面を合わせ持っている。ひとつは、教育活動の点検と修正のための評価であり(教育的評価)、もうひとつは、社会的な選抜やふるい分けのための評価である(選抜的な評価) [長尾 1985:30]。

  教師なら誰しも、自ら率先して「選抜的な評価」を行おうなどとは思ってはいまい。しかし、学校がこの社会において、人材を選別し配分していく機関であることは間違いのない事実であり、その学校で行われる評価は、教師の意思とは無関係に、客観的には、「選抜的な評価」という側面を背負い込まざるを得ない。

  皮肉なことではあるが、「新しい学力観」は、学校の評価に「選抜的な評価」という側面があることに対してあまりにも無批判であるがゆえに、短絡的に指導要録や内申書における観点別評価と結びついてしまい、学校での具体的な個々の実践を、新しい学力観の目指す方向とは全く逆の方向へと向かわせてしまう危険性をはらんでいるのである。

 

8.おわりに

  私が批判しているのは、A教諭でもなければ、A教諭の属している学校でもない。また、「新しい学力観」そのものでもない。私が、批判しているのは、この社会に横たわる、学校を中心にした大がかりな選別と排除の構造である(3)。

  この構造から目をそらした教育理論や教育実践は、一見、スマートで、ヒューマニズムに満ち、あたかもこの構造をクリアできているかのように見受けられるのだが、ことの実、全く逆に、この事実を隠蔽しながら、なおいっそうこの構造を強固なものにしていることが多い(4)。私は、「新しい学力観」と「観点別評価」の結びつきの中に、このことを感じたのだ。

  私の「新しい学力観」と「観点別評価」についての考察は、まだ始まったばかりである。今後、多くの方々のご批判、ご教示をたまわり、さらに深めていくことができればと考えている。

 

《 註 》

(1)ここでの「感覚」は、P.ブルデューの「ハビトゥス」の概念に近い。『新社会学辞典(有斐閣)によれば、ハビトゥスとは、「…経験に基づき諸個人の内に定着している、知覚・思考・実践行動を持続的に生みだす性向」だということである。ブルデュー理論については、『文化的再生産の社会学』 [宮島 1994]、『文化の社会学』 [宮島 1995]がわかりやすい。

(2)私は、本文中引用の高岡の言葉から、M.フーコーの「ディシプリン権力」を思い出した。フーコーは『監獄の誕生』[Foucault1975=1977]の中で、次のように述べている。「それは活動の結果によりも活動の過程に留意する、絶えまのない恒常的な強制権を含むのであり、最大限に詳細に時間・空間・運動を碁盤目状に区分する記号体系化にもとづいて行われる。身体の運用への綿密な取締りを可能にし、体力の恒常的な束縛をゆるぎないものとし、体力に従順=効用の関係を強制するこうした方法こそが、《規律・訓練 discipline》と名づけうるものである」[:142-143]。フーコーは、同著で、ディシプリン権力は、「階層序列的な監視」、「規格化」、「試験」という手段により、さらに「知」と結びつき主体をつくりかえる、そういった「権力の技術」だと説明している。

(3)私は、かつて、服装や頭髪に関する校則とその指導についての研究を通して、この構造を描いてみたことがある。拙稿「学校文化:その差別の構造」 [原田 1995a]を参照されたい。

(4)教育法学においても、このパラドクスから、完全に抜け出ることができているとはいいがたい。拙稿、「<権力>をとらえ切れず、<権力者>を作り出す理論」 [原田 1994a]、「『校則論』の考え方はこれでいいのか?」[原田 1994b]、「教育法学の理論は『心理的武器』をとらえられるか?」 [原田 1995b]、「子どもの権利論の死角」 [原田 1995c]などにおいて、私はこの点につき、警鐘を鳴らし続けてきた。

 

《参考文献》

・Bourdieu, Pierre/Passeron, Jean-Claude 1970, La Reproduction (=宮島喬訳『再生産』藤原書店)

・Foucault, Michel 1975, Surveiller Et Punior−Naissance De La Prison(==田村俶訳『監獄の誕生―監視と処罰―』新潮社)

・福井憲彦・山本哲士 1980,「ハビツゥス、プラチック、そして構造」,福井憲彦・山本哲士編『actes No.1 1986』日本エディタースクール

・原田琢也 1994a,「<権力>をとらえ切れず、<権力者>を作り出す理論」,『大阪高法研ニュース』149号,または『大阪高法研年報』1994

・原田琢也 1994b,「『校則論』の考え方はこれでいいのか?」,『月刊生徒指導』学事出版

・原田琢也 1995a,「学校文化:その差別の構造」,『解放社会学研究』9,日本解放社会学会

・原田琢也 1995b,「教育法学の理論は『心理的武器』をとらえられるか?」,『全国高法研会報』39

・原田琢也 1995c,「子どもの権利論の死角」,『大阪高法研ニュース』151号

・宮島喬 1994,『文化的再生産の社会学―ブルデュー理論からの展開―』藤原書店

・宮島喬編 1995,『文化の社会学―実践と再生産のメカニズム―』有信堂

・長尾彰夫 1985,『通信簿と教育評価』有斐閣

・奥田真丈・高岡浩二・島津忍・中西朗 1992,『絶対評価の考え方』小学館

・辰野裕一 1989,『新訂 中学校学習指導要領の解説と展開 総則編』教育出版

(はらだ たくや/京都市中学校教員)



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