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TITLE:  市民主権のさまざまな潮流
AUTHOR: 辻  公雄
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第193号(2000年12月)
WORDS:  全40字×291行

 

市民主権のさまざまな潮流

 

弁護士  辻   公 雄

 

1.日本の歴史と市民

  これまでずっと市民主権の問題に関わりあってきたので、市民主権という観点から、その歴史や今後の展開の具体的なことがらをを話していきたいと思います。市民というのはどういう捉え方をすべきなのか、どういうものかを整理する必要があります。僕は市民的な権利を伸ばしていくためにはどうすればよいかという発想をいつも持って、環境問題や消費者問題に携わってきました。西淀川の公害裁判や藤井寺のナイター訴訟では、市民という観点から社会の分析や批判ができると思いました。最初は個別の事象だけで右往左往していましたが、それらの問題について歴史的な流れがないかと考えていたら、市民という言葉が想い浮かんだのです。日本の社会の中に、市民という言葉はありませんでした。世界的には、産業革命で市民が登場してきたと言われています。早くから市民が発言力を増してきて、既成の権力ではない一つの力を持つようにり、そこに市民的な発想が生まれました。日本では市民という言葉は、住民という言葉に遅れて使われだしたようです。「住民」は公害闘争とか地域運動の中で使われてきたのです。その場合の「住民」と「市民」とはほとんど差がなかったように思います。身近かな出来事から住民が行政や大企業に対して注文をつけていく運動というのは、かなり起こってきたのではないでしょうか。市民が声をあげる時代になったといえます。僕達もそれと同じようなことをやってきたのですが、その中でもっと行政を念頭において、何か具体的な被害を受けてから文句を言うだけではなく、現状を改善しようという目的でやったらどうか、という意識で市民運動をやってきました。それが市民オンブズマンということになったのです。

 

2.市民オンブズマンの登場

  市民オンブズマンも具体的なことを契機にできたのです。田中角栄裁判のときに僕達も何か発言したい、発言するべきだと思い、一人で発言しても力がないので、団体を作ってはどうかということになり、市民オンブズマンというのを作りました。その時には「住民」というより「市民」、もっと一般性があり、地域だけに限定されない市民層という認識があったと思います。そこで武器として用いたのが、情報公開訴訟と住民訴訟です。それを武器にして行政に文句を言い、批判をしてきました。それらが割合うまくいき、裁判所も勝たしてくれたのです。企業と喧嘩するよりも行政と喧嘩するほうが裁判所もききやすいようで、また、行政には明らかに悪いところもあるし、我々は主権者であるという主張でかなりいけたのではないかと思います。その途中から、日本ほど従来の「お上」思想がはびこっている国はない、という感じがかなりしました。そうであるから逆にいろんな運動が先鋭化してくるのではないかと思います。運動が先鋭化する割には広がらなかったというのが、僕達が市民運動云々と言う前の形態であったと思っています。市民オンブズマンは昭和55年頃に大阪で初めてできました。今は名前が有名になりましたが、その当時は全然有名ではありませんでした。その後、全国の都道府県の全部に市民オンブズマンができ、京都では市民オンブズパーソンという名前をつけています。全国のすべてにできたというのは非常に画期的だと思います。さらに大阪では行政ウォッチ団体として「見張り番」ができています。

 

3.情報公開と住民訴訟

  市民オンブズマンでは、5〜6年前から年1回の全国大会を開いています。それが案外当たりまして、最初に全国的な運動をやったのが、官官接待を告発しようということでした。情報公開で交際費を請求していったら、官が官を接待しているというのが非常に多く出てきました。それを新聞が支援してくれて、「官官接待」という言葉が流行語大賞にもなりました。大賞の一番ではありませんでしたが。そうやって、全国化したという運動の良さもあって、項目を限っての全国的な展開をしています。そして、情報公開度の全国ランキングをつけていきました。すると、単なる任意団体がやっているだけなのに、ランキングの下の方になった自治体は慌てて、次はだいぶましになってきます。今、焦点は警察情報に移っています。これも知事部局が金の管理をしていますが、都道府県によっては、警察は公開の対象になっていないからダメというところと、金は知事部局から出ているから出せと言えるところとがあります。

  マスコミに注目を浴びてきたこともあり、情報公開は非常に進んできたと思います。行政側はこういうことをされるのに困っているようですが、宮城県の浅野知事などは「オンブズマンは行政にとって敵だ、しかし必要な敵だ」などと言って一定の理解を示しています。大阪市は批判のしようもないほど全く公開しません。ここを何とか突破しなければならないと思っていて、大阪市に対して談合とか無駄遣いで住民訴訟をして追求しています。大阪市に対する情報公開で画期的なもので勝っています。食糧費に関して、全部の氏名を公開するよう求めた裁判で一審二審とも勝訴し、最高裁に係属しています。現在、情報公開は裁判としては最高裁に10件ぐらいたまっています。こちらが勝ったものが多いのですが、負けたものもあります。きっと最高裁はこれを統一してくると思います。なかなか統一ができていないので、状況を見ているのだろうと思います。情報公開の裁判というと記録は薄っぺらいものです。それなのに判断できないでいるのです。どちらを向くかということを僕達も注目しています。それによって今後の裁判も決まってくるでしょう。ただ、自治体によっては裁判をしなくてもほとんど全部公開しているところもあります。それとの兼ね合いで、僕達は「最高裁は今度は市民から審判されるぞ」と言っています。自治体によっては公開していて、それによって支障がないのに、どうして最高裁が「公開すれば支障がある」と言えるのか、ということを上申書に書いて牽制をしているのですが、しかし、予断は許しません。

  国の公開法では氏名の公開は課長クラスまでになってしまったので、かなり難しい。警察情報については来年4月からなのですが、国の公開法には警察情報が入っています。ただ、捜査情報などで警察がダメと判断した場合には見せないという規定になっていて、なかなか警察情報は出てきにくいのではないかと思っております。市民オンブズマンでは、情報公開の全国的な運動をするために情報公開市民センターというのを作りました。全国に支部をおいて、全国の情報公開の支援をしようということで会員を募っています。

  政党と市民運動の関係というのは微妙な問題です。市民運動の側では政党を拒否する傾向がかなり強くあります。だけど、政党に入っている人も市民運動をやっています。共産党や社会党の人が中心となってやっている市民運動、純粋に市民、政党に入っていない人が中心の市民運動といろいろあります。市民運動自身、いろんなグループが生まれてきて、喧嘩することなくやっているという要素が強いようです。

 

4.司法改革と市民

  市民運動が司法改革にも及んできました。僕達が及ぼそうとしているだけなのかもしれませんが。現在、司法改革審議会で13人の委員が議論しています。これの出発点は、規制緩和の流れです。規制緩和の社会が良いというのは世界的な潮流で日本にも流れてきました。司法も閉ざされた社会だから、もっと開かなければならないと言い出したのが自民党と財界です。弁護士会はもっと前から市民のための司法改革をやれと言っていたのですが、弁護士会だけが言っているようでは全然前に進まない。やはり、政府とか財界が乗ってこなければいけない。乗ってくると言うよりも、彼らには彼らの思惑があって言い出してきて、弁護士会がそれに乗っているという状況だと思います。行き先は別ですから難しいのです。それぞれ思っていることが別だけれども、改革しようと一緒になっているのです。その中で、法律扶助といって、お金のない人にはお金を貸し付けたりする制度とか、刑事事件についても扶助制度、支援制度を作ることについて、これは市民のためという要素が強いので、全体の合意の中で進みつつあります。

(1)行政事件訴訟法の改正

  僕達はそれ以外に、行政事件訴訟法の改正を主張しています。たとえば、僕達がやった近鉄の鉄道料金値上げ反対の裁判ですが、裁判所では、利用者は値上げを争うことができないという決定になっています。つまり、運賃が高いとか低いとかは裁判所では判断できるものではく、また、利用者はその裁判を請求できない、裁判自体ができないと言うのです。反対に、近鉄が値上げ申請をしてそれが却下されたときには裁判ができる。値上げをする側は裁判できるが、乗せてもらう側は法的には関係ないと言っているのです。行政は市民のためにあるのだから、利害関係にある市民は何でも裁判できるように法改正しろと言っているのですが、まだそれは審議会でも土俵に乗っていません。法務省がものすごく反対していますから。しかしそれはやらなければ話になりません。外国ではものすごく行政裁判が行われて、司法が行政にも介入する。たとえば病院が虐待事件を起こした場合、日本では損害賠償を請求するか、病院の免許取消を求めるかしかできません。ところがアメリカでは裁判所がこうしろという具体的な行動を命じることができるようです。看護婦を増やせとか、秘書を何人にせよという作為命令です。日本では到底そういうことはできないということなので、そういうことのできる法律に変えろという運動をしているのです。これはまだ先行き不透明のままです。

(2)法曹人口の不足

  次に法曹人口が少ない、特に弁護士の人口が少ないという問題があります。人数が少ないか否かということは誰にでも分かることなので、一度みなさんの意見を聞いてみたいのですが、非常に少ないのか少し少ないだけなのか、増やせばどういう効果があるのかということについてです。弁護士会は、年間3000人増やすことに賛成しました。しかし、反対した人が賛成の半分ぐらいいます。つまり2:1ぐらいの比率です。反対している人の理由は、自由競争が激しくなってしまうと、経済競争だけに走ってしまって、人権活動をできなくなってしまうというものです。人権活動は、経済的にギリギリな中で、あるいは余裕があるからこそやっているという発想です。これについては、人数を増やしてもそういう活動は下がらないという意見と、下がるという意見が対立しています。財界などは下がっても構わないという考えです。しかし、弁護士が少なくて特権的なところでギルドをつくり、財をむさぼっているというのがマスコミの見方なのです。審議会ではマスコミの見方を世間の見方と捉え、そこに対する攻撃として議論されています。人権活動関係のことは審議会ではあまり取り上げられていません。というのは、弁護士が人権活動を一生懸命やっているとは映っていないからです。もちろん、全員がやっているわけではないし、やっているのは一割ぐらいかと思います。しかし一面においては、少数派の言うことに一理も二理もあります。自由業の団体で、弁護士会以外に、政府や権力に文句を言う団体があるかというと、医者も司法書士も税理士も何も言わない。政党は言うけれども、政党はそういうことを職業としている団体です。筋論としては、弁護士会で九割の人があまり発言もせずにいるとしても、精神的支援とかいろいろあって、全体の流れとしては、弁護士会は市民的な発想を持って活動している団体だといえます。

(3)法曹一元

  もう一つ、僕達が市民との関係で最も重要視しているのが、法曹一元と陪審ということです。日本では司法試験に合格して研修所を出るとすぐ判事補を十年して、それから裁判官になるのです。僕達は、弁護士や学者などの他の実務について十年たってから裁判官になるようにしろという要求をしているのです。これが法曹一元というものです。そのほうがいろんな経験を経て良いだろうと言っているのですが、なかなか難しい。判事補制度を廃止すれば、法曹一元しかなくなってくる。つまり、判事補についての一条を改正すれば、もうそれで法曹一元が成立するのです。最高裁は命がけで反対しています。アメリカでは弁護士の中の優秀な者が裁判官になるという前提のようです。最高裁は、ひとたび弁護士になると、裁判所によい人材が来なくなる。弁護士になっていろいろな利害関係がつくよりも、清潔・潔癖な者が必要なのだとか言っています。それから、僻地に弁護士出身の者が任官するかという問題があります。官僚制であって、中央で人事を牛耳ることにより、多少強制的でも、命令して行かせるのだ。希望を聞いておれば誰も僻地には行かないという厳しい批判がなされています。

  今は、弁護士任官で、裁判官になりたい人は誰でもなれるが、みんなならないのです。それは窮屈だし、経済的にもパッとしないという要素があるのだろうと思います。したがって、職域拡大の観点から法曹一元が言われているのではありません。弁護士出身でないと良い判断をしないからということで議論されているのです。その典型的な例がこの間の議院定数是正訴訟です。弁護士出身は全員あれを違憲だと言いました。それと外交官出身が。ところが、それ以外の裁判官出身は全員あれを合憲だと言ったのです。だから、大きな政治的判断、憲法判断になるとキャリア裁判官はどうしても現状維持をしてしまう傾向があるということで、弁護士出身でなければならないと思います。それから、離婚などの慰謝料の問題でも、その額が非常に低い。キャリア裁判官の発想では、名誉とかの慰謝料では大きな額にできないわけです。そういう観点から法曹一元を主張しているのです。

  今、司法改革審議会で、人事の採用とか給与とか任地とかに透明性を持たせろということまでは言ってくれています。しかし、裁判官が人事統制されているというのが僕達の立場ですから、具体的には、それを改めるために公平委員会のような不服申し立て制度を作れと主張しています。そうすれば、作っただけで事務総局は人事統制をしにくくなります。

(4)陪審・参審制度

  もう一つ言っているのは陪審です。これには人によって好き嫌いがあって、弁護士の中でも反対する人がいます。全体としては陪審は良いということで、陪審の市民運動もかなり行われています。陪審の見通しとしては、最高裁は評決権のない参審というのを認めています。市民を入れるけれども意見だけを言いなさい、それで評決権はありませんよと、それだったらOKだというところまで、多少譲歩させられました。ところが、評決権のない参審というのは世界に例がありません。だから、どこまで市民を入れるかということが問題です。陪審の嫌いな人というのは、案外、学者とかエリートの中に多いのです。その基本には市民に任せたら何をするか分からないという市民不信があります。そこで、市民をどう捉えるかということが再び問題になってきます。弁護士の中にも、強烈に陪審拒否の人がいます。世間でも、カレー事件などであれば、その場で有罪で死刑にしてしまえという意見も出てくるといわれています。ところが、アメリカの陪審はかなり健全にやられているのではないかと言われています。この間、フットボールの選手が無罪になった事例がありましたが、僕はあの事件以来、陪審派に加担しはじめました。あれはやっていると思います。あれで、陪審がものすごく良いことを言っていました。「私はこの人がやっていると思うけれども、その証拠が無茶苦茶になっている。私達は証拠に基づいて判断しなければならないのに、こんな証拠でどうして有罪にできるのか。」と言ったらしいです。それは、警察が事件を甘くみて、初動捜査を誤って証拠が散逸していたからです。

  僕達が言っている陪審は、刑事の重罪事件で、被告が望んだときだけに限定して実施するものです。これにも厳しい批判があります。刑事裁判は被告人のためだけにやるのでない、というもの。被告人の有利なようにやるのはどういう発想か、被害者の有利なようにやるというのも一つの方法だと。それから、判断が誤っていた場合には控訴できるような方法をとれば、誤判の問題も議論がずっと軽くなります。

  ハワイの例では、陪審の結論とキャリアの結論がほとんど一致していました。陪審はやはり金と労力がかかります。それなのになぜ陪審をやるのか。アメリカでは裁判官に対する信頼よりも、大勢の素人がするほうが市民から信頼感があるそうです。日本では、それがあるかどうかの問題があります。ただ、日本で陪審にすると刑事裁判に対する関心がぐっと高まり、それによってキャリア裁判官が緊張し、良い刺激になると思います。

(5)弁護士費用敗訴者負担の原則

  この原則は、裁判に負けた側の者が相手側の弁護士費用も負担するということです。裁判に勝った者が正義であり、正義を実現するのにどうして金まで払わなければならないか、それは相手方に負担させるのが当然ではないかということです。それ自体は抵抗なく入ってくるでしょう。ところが現実にはそれではまったく具合が悪い。一つは、普通の事件でも勝つか負けるか分からない。証拠も揃わないし。そんな段階で、もし負ければ、相手の費用も負担するということになれば、なかなか裁判を利用しなくなるだろうということです。もう一つは、僕達がやっている消費者訴訟、株主代表訴訟や国相手の裁判とかでは、ほとんど負けるのです。負け覚悟でやっていて、どこかに突破口を切り開こうと思っているのに、負ければ金を払えと。たとえば、いま住民訴訟でオリンピックのための地下鉄の差し止め請求をしていますが、あの訴額は何千億で、負けたらその3%を払えと言われたら、みんな首を吊らなければなりません。そういうように萎縮するのです。今は、敗訴者が負担しなくても、双方それぞれが負担するということで、誰も文句を言っていません。今でも交通事故などの不法行為による被害者は、勝てば、相手方から弁護士費用を取れます。それは裁判所がそこまでは認めているからです。これを弁護士費用の片面的敗訴者負担と言います。会社などの加害者側が勝ったときには、相手方に弁護士費用を請求しない。アメリカでもそれが多く、それが実質的公平と考えられているからです。僕達は、原則として双方負担で、内容によっては片面的に、弱い者が強い者に勝ったときには相手方から取るということで、ほんとうの平等があるということを言っています。

 

5.落選運動

  韓国でやっていた落選運動を日本でもできないかと思っていました。結果としては、日本では到底できなかったようです。やり方は、けしからんと思う人間の名前をあげて、マスコミにも載せて、それを落としてやろうということでした。刑事事件を起こした人間とか、客観的な事実に基づいてやったのですが、市民派的な発想をまったく否定した人間もあげました。N議員は、ダムの住民投票を「民主主義の誤作動」と言ったし、選挙違反にもかかわり、秘書が悪いことをしている。某党の書記長も、ほとんど委員会に出席せず、国会議員活動を真面目にやっていないということで欠陥議員にあげました。初めは、ほとんど自民党ばかりになってしまいました。それでは具合が悪いので、できるだけ各党からあげようということになりました。それでも、客観的な基準がなければなりません。そして、公明党のK議員は選挙違反をしているし、共産党宮本委員長宅の盗聴事件をもみ消そうとしました。結果的には僕達があげた人は案外落ちたのです。落ちなかった人間は比例代表に回った人間だけで、小選挙区制であげた人間は全員落ちました。ただまあ、この運動の影響で落ちたのではありませんが。そういう運命にあったのでしょう。

  それから、マスコミの対応が面白かった。当初は欠陥議員の名前を載せてくれたのですが、途中から恐がって載せなくなりました。韓国では、それをどんどん載せました。そのマスコミの差というのが大きいです。もう一つ、圧力がかかったのは、ホームページに欠陥議員の名前を載せようとしたところ、自治省がそれをやると選挙違反になると言い出したことです。韓国の人に来てもらって二度ほど講演をしてもらいましたが、韓国と日本の差は、韓国では二大政党とも与党・保守派なのです。革新政党がなく、革新運動の行きどころのないエネルギーがこの運動に集まったそうです。一人の候補者の事務所に直接行って抗議するだけでなく、違反覚悟で2万回ぐらい電話をして、事務所の機能がつぶれるような、完全に刑事事件になることをやったのです。ところが、金大中がこの運動に理解を示しました。森と金大中の差は大きい。雲泥の差があります。

  東京では投票制にして、「誰がけしからんか言って下さい」とホームページで募集しました。そうなると有名人しか出てきません。そして一人も落ちません。それでもマスコミには取り上げられて話題にはなったけれども、事実的な効果はありませんでした。

  この経験から、議員オンブズマンを作ろうということにはなっています。ふだんから、変なことをやった人間をチェックしておいて、それを発表していく。常時やっていれば、選挙運動とみなしにくいから、喧嘩もしやすいというわけです。それから、この活動に良いことをした人間も含めたらどうかという意見も出ています。

 

おわりに

  企業と行政の二つが日本社会の大きな柱であると思います。それに対してどのように市民の風を吹かせていくか、ということが大きな課題だといえます。これまで、市民オンブズマン運動は十分な組織がない中でやってきたので、今後はもう少し力強いものにできたらいいかなと思っています。それから、もう一つは議会です。議員監視オンブズマンと言う名前にして議員を監視すればどうか、国会議員や都道府県議会議員ぐらいまで監視するということでやっていけばどうかと思っています。

  株主代表訴訟を制限する商法改正の動きがあります。たとえば、賠償金額の上限を役員の2年間の報酬金額にするとか、株をたくさん持ってないと裁判をできないようにするというものです。これで、株主代表訴訟はまったくできなくなります。それから、いくら判決が出ても、株主総会の決議で免責できるようにする。そういうことを狙っているのです。

  住民訴訟にも改革が企てられています。住民訴訟で改正すべきなのは、違法行為があってから一年間経過すると裁判できないという規定。僕達はそれを変えてくれと言っています。発覚してから一年に変えろという運動をしていますが、それには手をつけず、自由裁量制の範囲内のような違法異議は裁判できないとするとか、つまり違法事由を狭くするということです。それから、裁判になったときは、こういう役職の者だけを被告にできるというように、それをしぼっていく案が検討されています。それを何とか阻止しなければなりません。住民訴訟でも株主代表訴訟でも、何か改正するというと悪いほうにいきます。そういう中で、司法改革とか、こちらに有利な法律が果たしてできるのかどうか、非常に疑問があります。このごろは弁護士会でも、反対するばかりではなく、中に入って少しでも良いほうに向けるべきだという意見が台頭してきています。

  もとに戻って、市民というのは何か、どう位置づけたらよいかということについて、皆さんの意見を聞きたいと思います。市民について美化している場合もあるし、しない場合もあります。美化しない人は、市民というのは利己的で無茶苦茶なことを言うだけだという発想があります。逆に美化し過ぎるのも、ちょっと変な感じです。市民を抽象的なものとして位置づけて、それに近づけるようにするのか、具体的な生きた市民に軸足をおくのか。そのあたりの兼ね合いをどう考えたら良いか意見を教えていただきたい。

2000年11月12日

(この文章は、辻先生の講演内容を編集部で要約したものです。)


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