◆200208KHK203A1L0268ANO
TITLE:  学校参加論の検討
AUTHOR: 磯村 篤範
SOURCE: 大阪教法研ニュース 第203号(2002年8月)
WORDS:  全40字×268行

 

学校参加論の検討

大阪教育大学  磯 村 篤 範

 

I はじめに−−なぜ、保護者・地域住民の教育への参加を、今、考えようとするのか

 

I−1 90年代の変化

I−1−(1) 90年代の行政改革

  1990年代に行われた行政改革に関わる法改正として、行政手続法(1993年)、地方分権法、中央省庁改革法、情報公開法(1999年)などをあげることができる。これらの法制度改革をどのように評価するかということは、簡単ではない。情報公開法制度一つをとってみても、この法制度によって、行政の透明性を確保し、住民の主体性が保障されている側面は、否定できない。他方、アカウンタビリティーという情報公開制度の根拠からは、民営化も射程に入れた行政責任から住民責任への移行が生じてくるということが、指摘されてもいる。「住民責任」を伴うところに住民参加とは異なる特徴が指摘される「行政参画」は、これまでの「市民」とは異なる主体性を、住民に求めるものである。これまで、様々な形で求められてきた制度や考え方は、今に始まったことではない。様々な改革が、国民・住民の要請に応えるものかいなか、何を評価基準にするか、考えていかなければならないであろう。

近時、提唱されているスローガンとして、「協働と住民参画」がある。協働という概念の意味は、多義的になってきているが、本来の意味として、理念の共通性のもとでの協力を意味し、また、住民参画とは、住民責任を射程に入れた住民の関与形態を考えているものである。90年代から押し進められている行政改革は、既存の制度の再編も射程に入れた議論であって、私人の公共性が問われてくるようになった。

I−1−(2) 様々な変化や変革の背景にある考え方

  住民の参画、住民責任論の考え方は、実は、様々な考え方と結びついて、議論されてきている。例えば、市民参画や住民責任論は、これまで公を担う者=国家や行政=公共性の国家独占という考え方に対するアンチテーゼという意味を有している。したがって、公と私の任務の再編、私による公共性の担保、PPP、民営化という議論等に結びついている。行政の在り方や存在意義が問われるようになると、当然、そこには新たな合理性が求められるようになる。それは、競争原理・市場原理の導入や、行政に対する評価や満足度が、求められるようになる。評価を行うためには情報が不可欠である。行動に対する責任とそれを可能にするための情報提供=アカウンタビリティーは、重要な意味をもっている。この様な考え方を表す表現として、New Public Management(NPM)がある。

 

I−2 教育に現れてきている変化

I−2−(1) 教育に現れた変化の概観

  このような大きな変化、すなわち、情報公開と住民参画、競争原理や市場原理を導入する中での評価制度の確立、民営化や私企業的合理性の導入等、近時の動向は、教育の世界でも、きわめて明白に現れてきている。例えば、学校の自主性・自律性や様々な人々の参加、さらには評価が、保護者との関係では、学校選択制という形で導入されてきているし、学校評議員制度は、地域住民のレベルで組み込まれてきている。さらに、教員適格性や教員評価制度が、教育の世界にこれまでとは大きな変化をもたらせてきている。

  問題は、こうした変化を、どの様に受け止めるのかという問題に回答が出されていないことにあると思う。確かに、一方で、こうした変化を「新自由主義」的改革であって、あるべき教育制度に真っ向から対立するものと考えることもできるであろう。しかし、他方で、教育内容や教育行政に対する本来の「評価」は、否定されてはならないであろうし、学校選択制度は、本来の教育制度の中で普遍的に否定されるものではないであろう。

  今日の教育改革は、改革によって求められる内容、改革の成果を見つめていかなければならないといわざるを得ない。

I−1−(2) 学校参加の問題性

  その中で、ここでは、特に、保護者の学校行政への関与について検討したい。教育への生徒・児童・保護者そして地域住民の参加は、これまで、きわめて不十分なものであったことは、明白であろう。文部省−都道府県教育委員会−市町村教育委員会という構造が、教科書検定から教育内容、教育行政にまで、想像以上に、貫徹していたといえる。1998年の中央教育審議会答申「今後の地方教育行政の在り方」は、前述のように、保護者や地域住民への情報の提供を背景とする学校評価というかたちの参加を求め、学校の自主性自律性を、今後の制度として提案している。

  教育行政や教育への様々な参加形態は、教育改革に対しても、また、行政改革全般に対しても、新たな問題を提起してくれるであろう。

 

 

II 学校・教育への参加をめぐる議論

 

II−1−(1) 住民参加論の諸類系

住民参加の形態には様々な分類の仕方があるが、法的な制度(権利利益の保護・適法性の確保)からすると、以下の3類型に分けることは、有意味であろう。第1段階 権利利益保護者参加型手続。権利利益に関わる者が、行政の決定に関与する。例えば、告知・聴聞(Notice and Hearing)である。第二段階 民主的正当性付与型手続 これは、特定の団体の構成員が、その団体の意思決定に関与する。典型的なものが、公聴会などのような特定地域住民一般が関与する手続である。第三が、公衆参加と言われているものである。大阪府のダイオキシン処理に沖縄の人が批判すると、その批判に対し、大阪府が回答をしなければならない(パブリック・コメント)は、そのひとつである。

II−1−(2) 3類型の違い

第1類型の住民参加は、まさに、権利利益を法的に保護することを目的とするので、この手続にのれる人は、力強く参加できるが、法的に保護される権利利益を持つ人のみが参加できる。第二の類型は、間接民主制によって成立されている制度に対し、直接関わる人々が直接民主制の機能を有する手続に参加することを意味する。

 

II−2−(1) 子ども・保護者・地域住民の参加類型

  これまで教育への参加を論ずる場合、上記のような参加形態の類型化をしてきたであろうか? 実は、様々な形で現れてきている。PTAに、地域住民は加入することはないし、学校の統廃合に対して訴訟を提起する場合、保護者には原告適格が認められるが、地域住民には、原告適格が認められなかった。端的に言えば、権利利益に関係する者には、法的に保護する手段が用意されるのであるが、保護者や子どもと地域住民との間には、その点で、相違がある。

しかし、逆に、地域住民と子ども・保護者との相違点は、法的な保護に関わる問題にそくして論じられていてよいのかという問題がある。その他では、地域住民と子ども・保護者とは、差異が見いだされないのであろうか? やはり、学校・教育に関する生徒・保護者あるいは地域住民の参加は、きわめて多様であり、検討しなければならないことも多い。たとえば、あるクラスでいじめ事件があった場合、担任教師と保護者達は、外に漏れてはならないような情報も含めて、入手し、対応していかなければならない。入手する情報もあるべき行動も、関与の仕方によって異なってきている。

II−2−(2) 学校・教育への参加類型から導き出される検討課題

  また、文科省からの援助を受けてすすめられてきている「新しいタイプの学校運営」は、注意に値する。子どもや保護者、地域住民の様々な参加形態は、機能や目的に応じて相違が生じてくるのであるが、保護者の学校参加、児童生徒の学校参加、地域住民の学校参加さらに教職員の参加と考えていくと、逆に、学校参加を根拠づけるものは何か、根拠によって、機能や役割に変化が生じるのではないか、さらに、様々な変革との関係も明らかになろう。

 

 

III ドイツの学校協議会制度

 

III−1−(1) 学校協議制度の概観

  ここで簡単に見ていくドイツの学校協議制度(Schulkonferenz)は、70年代に学校の「民主化」をスローガンにして導入された、参加制度である。これは、教師と保護者と生徒の各集団から代表が選ばれて、委員会を形成する。これをSchulkonferenzと呼ぶ場合が多いが、実際に、州ごとに様々な形態がある。州の中でも、教師側にイニシアティブを認めようとするところがあるが、そこでは、被選出者数が、学生から6名、保護者からも6名に対し教師から12名の代用によって、Schulkonferenzを構成する。この他、州ごとに相当の相違があるが、例えば、手続上の関与権については、意見を聞く聴聞手続としているところが、ラインラント・プファルツ州、拘束的な決定権限や提案権、意見提出権さらに共同決定権(通学路の安全性、夏期休暇などをめぐる規則について)を認めるバイエルン州、そして、もっと強力な共同決定を認めているバーデン・ビュルテンベルク州、あるいはヘッセン州があげられる。

  この他、実務上の問題として、校長と学校協議会が、異なる見解を持つようになった場合がある。この場合に、校長に対して、拒否権が与えられるとする州や校長に学校協議会の決定の執行停止の権限を認める州、あるいは、監督官庁への申請に与えているところがある。

III−1−(2) 学校協議会制度の問題点と制度改革

  1990年代にはいると、学校評議員制度改革の動きが現れてくる。たとえば、1996年のハンブルク学校法の改正は、共同(Mitwirkung)の範囲を拡張し、生徒の共同・参加の範囲の拡張と生徒の自己責任(Eigenverantwortung)をしていく。そして、たとえば、これまで、教師協議会のみが唯一権限を有していた「すべての教育上重要な決定(alle padagogisch relevanten Entscheidungen)」、特に教育計画(Schulprogramm)についての決定には、保護者と生徒は共同決定できる等の、3領域対等の構成された学校協議会の決定権の拡張がある。

  この他、立法者の意思をみると、「学校には、自らの教育上並びに開発上の任務の達成にあたっては、自己責任を課する」ことを目的とするという改正(・・・自主性・自律性の学校=日本と同じ)が行われている。

III−1−(3) 学校協議制度の根拠 − 民主的制度要求か権利利益保護か

  学校協議制の根拠付けの一つは、民主主義である。地方自治体の参加・共同の性格付けとしての直接民主制という議論はあるがあるが、共通の理由で、学校協議を開催している件もある。学校参加・共同の根拠付けとしての民主主義論への批判的検討をしなければならない。基本法の枠組での民主主義=国民全体の下での民主主義と例外としての地方自治制が認められる。

 国法学のレベルでの正当性の機能を持った民主主義の二つの構成要素(民主主義論の内容と組織的人的正当性/事物に即した(ザッハリッヒ)内容の正当性)が認められているが、いずれにせよ、民主主義的要請として学校協議会制度を根拠づけることはできないとする考え方が登場した。だとすると、何によって、学校評議員制度を正当化するのであろうか?

  回答の一つに、自治(Selbstverwaltung)があげられる。すなわち、専門的な指示(fachliche Weisungen)から自由な公法人による地域的(nicht gebietsbezogene Verwalung)に関わる行政ではなく任務(aufgabebezogene )に関わる行政であり、利害関係人、その決定機関である。

  III−1関係では、きわめて文献資料が多いが、柳沢良明『ドイツ学校経営の研究−合議制学校経営と校長の役割変容−』(1996年)、『OECD教育研究革新センター 親の学校参加 良きパートナーとして』(1998年)、勝野尚行/酒井博世編著『現代日本の教育と学校参加』(1999年)、論文では無数。

 

III−2−(1) 90年代のドイツにおける学校の自律性

  ここから議論する「自律性」の定義は一義的ではないが、大枠の定義は、「個々の組織レベルに有利なように、限定された範囲において、国家の決定権限を有する機関から権力を奪うことである、」とする。

  学校の自律性に関わって、特に強調されることは、「市場」によって、勝者と敗者がうみだされることと、その副作用である。たとえば、評判の良い学校では徹底的な自律化が可能であるかもしれないが、都市部での入学希望生の少ない学校では、果たして学校の自律性が機能するのか、特定の学校に、結果的に問題の凝縮をもたらすことになるのではないか、受け容れ数を越えて入学希望生のある学校と学生定員を満たせない学校が生まれるだろう、という問題が指摘されている。

III−2−(2)

  現在の「自律的学校」構想においては、学校観や考え方など、70年代改革時との共通点も多く見受けられる。しかし当時、結局は、文部大臣会議が学校制度に対する各州大臣の政治的責任を強く主張し、それによって、教育審議会の意図は十全に果たされなかった。それゆえその後は、参加の制度化に論が焦点化されていったといえる。では、今の改革は70年代の焼き直しなのか? 答えは「否」である。

  70年代と今日では、議論の主体が根本的に異なっている。つまり70年代の推進派が、今日の反対派となっているのである。当時、教員の大部分が学校の自律性を要求し、73年勧告が好意的に受けとられたのに対し、学校政策立案者や学校監督庁は、これに反対する立場に立った。しかし今日では、その逆の構図になっている。さらに、効率性・経済性の観点が注目されている。しかし、多様な方面からの要請によって身動きがとれなくなっている参加に基づく学校管理運営にこうした観点を導入し、打開策をさぐろうとしていると筆者自身は把握しており、一定の評価ができるのではないかと考えている。つまり、社会全体の多様化への対応という点と効率性・経済性問題への手がかりを見つけたという点である。

  また、特に注目すべき点は、学校の自律性が、学校プログラムへと焦点化されてきたことである。

  III−2では、ドイツの「学校の自律性」の概観について、@南部初世氏「90年代ドイツにおける『学校の自律性』論の特質」関西教育行政学会『教育行財政研究第26号』(1999年)1頁〜10頁・A同「ドイツにおける『学校の自律化』構想の展開」日本教育経営学会編『日本教育経営学会紀要第43号教員の専門性と教育経営』(2001年)119頁〜131頁に、依拠している。

 

 

IV おわりに

 

IV−1 まとめてみると

  保護者・生徒および教師、さらには、地域住民の学校の運営への様々な関与は、重大な問題の一つの現れと言える。最後に、その点を改めて確認して、今後の課題を考えてみたい。

  既に議論してきたように、学校の運営に対する保護者・生徒や教師さらには地域住民の関与は、学校の自主性から導き出されるものであり、今日的な意味での自主性からは、さらに、市場原理と結びついた学校「評価」が、導き出される。地域住民による「評価」を保障する「学校評議員」制度や保護者による「評価」としての学校選択制は、まさに、市場原理の導入の中での、教育改革であることは、否定できないであろう。

 (これまでの参加論に関する概観は、例えば、植田健男「学校自治の法的課題−学校づくりの法的戦略」日本教育法学会『講座現代教育法学3自治・分権と教育法』2001年233頁、窪田眞二「教育の主体と参加」日本教育法学会『講座現代教育法学1教育法学の展開と21世紀の展望』2001年144頁等を参照されたい。)

 

IV−2 やらなければならないこと

  学校評議員や学校選択制について、いかなる位置づけをしていくかということについては、難しい問題がある。学校評議員制度が、「新自由主義に基づくNPM的な行政改革」の現れとして、教育への「満足度」を担う者とし、また、学校選択制が、学校間に市場原理・競争原理を導入し、学校の統廃合・教官のリストラと位置づけて、批判することは、否定できないとしても、しかし、逆に、かかる位置づけしか成り立たないのか、さらに、この様な批判が、教育に対する、国民住民からの今日的な要請に応える議論なのか、検討を要する。

 

IV−3 公共性

  ある人は、この様な選択をしている。「小論で考えて来た<教育の公共牲>の新しいあり方は、『1』『2』で述べたように、右のI(基本性格=国家性 基本ロジック=官僚的統制 父母の位置づけ=被統治主体)・II(基本性格=市場性 基本ロジック=規制緩和・市場化・学校間競争 父母の位置づけ=消費主体)・III(基本性格=地域性 基本ロジック=参加・自治 父母の位置づけ=自治主体)のどの方向にもその[教育の公共性の]要素は関連している面がある。しかしそこに『3』で検討した学校関係構図転換と学校民主主義基盤拡大の課題を重ねると、やはりIIIの地域性文脈に依拠した『参加・自治』という改革指向に希望と期待とをもつのである。」としている(久冨善之「学校の民主主義改革と『公共性』論議に寄せて」『教育』2002年5月号20頁以下(26頁))。今日、IIとIIIの区別は、典型的な類型化として成り立つのであろうか? 例えば、理念型的近代市民社会の中で成り立った「契約自由の原則」は、対等平等な市民の間で、自由な契約内容が形成されていくこととなるが(=参加・自治)、様々な選択をすることができる(=消費者・競争の原理)。

 同様に、教育改革を「一つは、ナショナリズムの潮流に根ざした戦後民主主義総決算をねらう角度から、二つは、市場主義の潮流に根ざした教育の市場化・民営化を図る角度から、そして三つは、日本の戦後改革あるいはその後の世界的な国際人権現約、子どもの権利条約を生み出している民主主義の潮流に根ざした人権としての教育を実現しようとする角度からである。」(小島喜孝「教育改革と学校の公共性」日本教育法学会『講座現代教育法2子ども・学校と教育法』229頁以下(237頁))とする見解は、今日の教育における公共性問題を提起し、国は、公共性の放棄・解体を意図しようとしているとみるのは誤りであるとしている。この人は、「私は人権としての学校教育の公共性を、ある事柄の、人間として生まれたすべての人びとの尊厳ある生に共通に必要な社会的条件としての性質」(243)としながら、教育への市場原理の導入や学校選択を論じている。むしろ、あるべき学校選択制を論じ、以下のように論じている。「学校の公共性の根拠をどこに求めるかの選択が、むしろ学校選択=再生の論点である。すなわち子どもに身につけさせた市場競争力(中教審の言う「生きる力」)とその公認という自らの市場競争力に根拠をおくのか、それとも差異ある唯一の人間という多数性としての人間の条件(アーレント)を現実化する活動と言論の能力・固有性の豊かさを子どもの中に育むことに根拠をおくのかの選択が、今日の大人の責任として問われている。」


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