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TITLE:  「子どもの権利論」の死角(上)
AUTHOR: 原田 琢也
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第151号(1995年2月)
WORDS:  全40字×190行

 

「子どもの権利」論の死角

 

原 田 琢 也 

 

  北川邦一氏の「子どもの権利条約と学校教育の改革」[注1]を読んだ。「子どもの権利」の理念を大切に思い,学校教育の改善を切望するがゆえに,反論する。

  氏は,第13条から第15条(市民的権利)の説明において,概ね次のような批判を展開されている。学校において,生徒の「市民的権利」が十分に保障されていない状況は,もっぱら「校則」によるものであり,そのような「校則」が様々な人権規定の存在にもかかわらず安穏としていられるのは,「憲法の人権規定の私人間不適用」説,「部分社会」論,「法人の人権」論などといった,判例が積み重ねてきた論理構成によるものである。

  しかし,最近の校則裁判にみられる主要な論旨は,もはや特別権力関係論によるのでなければ,部分社会論によるのでもない。「指導」の概念によるのである[注2]。「校則」を盾に,たとえば服装や頭髪を指導しても,その際に,直接の実力行使(たとえば教師が無理やり頭髪を刈る)や学校教育法11条の懲戒処分の適用がない限り,そこにはなんら「強制」はなく,あくまでも「指導」が存在するにすぎないのだという考え方である。この考え方に基づけば,学校は,生徒の「市民的権利」を何ら侵害していないことになる。氏は,このような判例の論旨に対しては,どのように応えられるのか。「憲法の人権規定の私人間不適用」説,「部分社会」論,「法人の人権」論などを批判し得たからといって,判例のこの論理構成をも論破できると考えるのは,あまりにも早計だと言わねばなるまい。

  私は,この判例の論旨は,法理論としては正しい,と認めざるを得ないと考えている。つまり,服装や頭髪についての「校則」をめぐる諸問題は,「市民的権利」の問題ではないと考えるべきだと思うのだ。理由は次の三点である。

 一つ目は,数は少ないが,丸刈り・制服を拒否し,登校を続けている生徒は現に存在しており,しかもあらゆる生徒は,彼らと同様の行動をとる機会を与えられているという事実である。JHC(Junior High-school Community「学校に不満を持つ中学生の会」)主宰,良井竜君もその一人であるが,彼の次のような主張は傾聴に値する。

 僕が,私服を着ていく理由は単にわがままとかそんなものではなく,自分が着る服ぐらい自分で決めるのが当たり前だと思ったからだ。でも「校則で『制服着用』ということになっているのだから着なくてはいけない!」,「みんなが制服を着ているのに,なんでお前だけが私服なんだ。おかしいじゃないか。みんなと同じように着ろ」,とみんなは言った。(中略)それに,「みんなが着ているんだから,おまえも着ろ」なんて言うなんておかしいと思うし,それは私服を着ている僕に対して,単にやきもちをやいているようにしか見えない。そんなことを言うのなら,自分達も私服を着てくればすむことではないのか。(後略)[注3]

彼は,学校内において「市民的権利」を自ら主張し,実際にそれを行使しているのである。そして,私服を着てきたい者があるなら,自分と同じように,「私服を着てくればすむ」と言ってのけているのである。良井君自らの実践が,学校が「市民的権利」を侵害していないことの証しとなるのである。

  二つ目は,一つ目の指摘と裏表の関係にあるのだが,他の多くの生徒が,制服に袖を通し,決められた髪形にしていくのは,ほかでもない,その生徒の「意思」によっているという点である。もちろん,この「意思」は,教師の「指導」と,周囲の「まなざし」によって構成されたものであるとは言える。しかし,それでも自分の「意思」によって,判断がなされていることには違いがないのである。

  三つ目は,なお,「市民的権利の侵害」を主張しようとする時,学校が服装や頭髪の「指導」を行うことそのものを,「市民的権利の侵害」だと主張する道しか残されていないという点である。確かに,子どもの権利論が目ざす「あるべき」社会は,服装や頭髪などの趣向によって人の中身が判断されるようなことがない社会であろう。私も,そのような社会になることを切に望む。しかし,「今ある」社会が,そのようになっていない限り,親や教師が,目の前にいる子どもたちに,「今ある」社会において「よし」とされる一定の服装や頭髪のスタイルをさせようと願い,「指導」を行うことは,決して間違ったこととは言えまい。氏は,そのような「指導」そのものをも,「市民的権利の侵害」と批判されるのか。

  服装や頭髪の「校則」にまつわる諸問題は,現時点においては,「市民的権利」の問題ではないことは明らかである。この誤認から解放されない限り,真の「学校教育の改革」など,とうてい不可能であろう。大阪の子どもの権利を守るための教師のグループに所属するある教師は,丸刈りに反対しながらも次のように述べている。

 だけど私たちが現場にいて,あるいは親の立場で,自分の子どもたちの学校の様子などを考える時に,丸刈りから長髪に変わっても,学校の発想が変わらない限りは,同じことじゃないかなあということを感じるんです。[注4]

JHC主宰の良井君,HTM(HIGH TEEN'S Map)[注5]主宰の中島君,彼らは,双方とも,「市民的権利」を武器に学校と闘かった。そして,丸刈り強制廃止へ向けて,大きな成果を勝ち取ってきた。これはまぎれもない事実である。しかし,そういう彼らがそろって,「学校は変わっていない」ともらすのである[注6]。丸刈りは確かになくなった。かといって,それは学校の深層に横たわる「構造」に変革を生ぜしめ,その結果,勝ち取られた結果ではないのだ[注7]。本当に「学校教育の改革」を目指すのであるならば,一度は,「人権」という言葉から離れ,「現実」を直視すべきではないか。

  私は,JHCの集会に参加した際に,「一度この問題を,『人権』という言葉を用いずに語ってみてはどうですか?」という旨の発言をしたことがある。その時に,ある中学生の母親が,次のように述べてくれたことが印象的であった。

  さっき「人権」という言葉を使わないでという意見が出ましたけど,私ね「人権」という言葉でなかったら,「心」というか,「感じること」というかねそういう言葉でこのことを表したいと思いますね。自分の「心」は自分だけのものだから,それを人に,「いいと思いなさい」とか「いややと思いなさい」とかいうことをね,人に決められてはいけないということを,子どもたちが知らないということが,やっぱり多いし,それが問題だと思いますね。

つまり,「校則」にまつわる問題の本質は,生徒の「心の深層」あるいは「感覚」を,集団内の圧力を巧みに利用し,排除をちらつかせながら,無理やり作り替えていくという点にあるのである。坂本秀夫氏は,この機能を「心理的武器」という言葉でうまく表しておられる[注8]。「法」は「意思」に基づく行為を前提にするわけだが,「心理的武器」は,「意思」以前の「無意識」にすでに働きかけているのである。生徒の「心の深層」あるいは「感覚」には,その生徒の歴史はもちろんのこと,その生徒が属する家庭や地域の歴史もが,反映されている。つまり,それは「内なる文化」でもあるのだ。学校は,「心理的武器」を用いて,それぞれの「内なる文化」を,あたかもブルドーザーで地ならしするかのように,踏みつぶしているのである。ここにこそ,問題の核心がある!

  しかし,ここまでくると,目の前に立ちはだかる大きな壁が視界に入ってこよう。学校は,「常識化している文化」(=支配的文化)を伝える機関でもあるのだ。そしてその支配的文化の中には,「中学生らしい服装」といった規則(コード)が,すでに介在しているのである。「文化」を伝えるということは,人の「心の深層」あるいは「感覚」の構造を作り替えることを意味する。その営みを私たちは,「指導」と呼んでいるのである。「指導」することが,私たち教師の仕事ではなかったのか?「内なる文化」の作り替えそのものを,否定するということは,学校教育だけではなく,教育全般を否定することになってしまうのである。だから,河原巧氏は,著書『学校はなぜ変わらないか』で,次のように言うのである。

 文部省,教育委員会などの指導によっても,新聞,テレビなど,強力なマスメディアの力をもってしても,学校も教師も変わろうとしないのはなぜでしょうか?もちろん,教師にはそうしなければならない,理由も,力もありません。では,なぜ,変わらないのでしょう?その,キーワードは,「サイレント・マジョリティー」です。(中略)結局,日本の学校教育の行く末を決めるのは,「もの言わぬ多数者」,サイレント・マジョリティーなのです。[注9]

河原氏の主張は,大部分,的を得ている。氏の言う「サイレント・マジョリティー」の意向とは,即ち,「支配的文化」のことなのである。確かに,学校という場には,「文化」を伝えるというその使命の故に,特殊な「構造」が作られているのだ。「サイレント・マジョリティー」の意向は,地域の人々,教師,そして生徒といった社会の多くの成員の,「心の深層」あるいは「感覚」を突き抜けて,学校に持ち込まれているのであり,その「構造」は非常に見えにくくなっている。そのために,私たちは,得てして,この「構造」から逃げられないかのような錯覚に陥り,「心理的武器」の盲目的な,そして無制限な使用に身を委ね,挙げ句の果てに,「人権侵害だ!」[注10]と批判されるような出来事を生み出してしまっているのだ。

  河原氏の論の問題点は,ただ一つ,ここが最も重要な箇所ではあるが,「教師にはそうしなければならない,理由も,力もありません」,この箇所だけにあるのである。私は,そうは思わない。「構造」をさらに詳細に観察することによって,私たち一人ひとりが「構造」に,少しずつではあるが変化をもたらすことができるような契機を,みつけられるに違いないと思っている。そしてその契機を模索することによってのみ,はじめて,「人権侵害だ!」と批判されるような出来事の発生を,回避できるのではあるまいか。

そのためには,学校という「部分社会」の「構造」を,もう一度現実に立ち返って,詳細に研究しなおさねばならないのである。「部分社会」は,今,現に「ある」のであり,その「部分社会」内部の圧力を巧みに利用した「戦略」が,問題を生成させているのである。「部分社会」の存在を否定するということは,問題の核心を隠蔽させること以外の何ものでもない。真に「学校教育の改革」を目指す議論は,「構造」を踏まえた上で,それをいかにして乗り越えていくかという方向でなされるべきなのである。北川氏自身も,この「構造」の存在には気づいておられるはずだが…[注11]。

  イメージをつかんでいただくために,比喩を用いよう。私たちは,今,学校という「車」に乗っているのだと仮定する。そして,その「車」に故障がみつかったとする。「車」を修理するには,一度「車」を止めて,分解してみないといけない。しかし,学校という「車」は,教師という運転手の命令では,決して止まってはくれない。私たちにできることは,「車」を走らせながら,その「車」を修理することしかないのだ。この作業がどれほど危険で苦しい作業となるか,おわかりいただけるであろうか?学校という「部分社会」の存在を否定し,「市民的権利」を主張する学校論は,即ち,「車」を止めて分解してみたらいいではないか,と言っているのと同じなのである。そんなことは,初めからできはしない。だから,そのような理論では,「学校は変わらない」のである[注12]。

  この小論において,私は,服装や頭髪をめぐる「校則」の問題を,「市民的権利の侵害」として立論することが,全く問題の核心に触れられていないばかりか,むしろ問題の核心を隠蔽させることになることを述べた。紙幅の都合もあり,言い足りない部分はたくさんある。さらに批判を頂き,議論を継続したい。

 

《注》

1 北川邦一「子どもの権利条約と学校の改革」大阪高法研ニュース第150号

2 「制服」をめぐる以下の判例を参照されたい。

  @京都神川中学校事件の「第二事件」判決(京都地裁1986,7,10)

  A千葉大原中学校事件の二審判決(東京高裁1989,7,19)

   両判決ともに,坂本秀夫『校則裁判』三一書房に詳しい。

3 良井君が中学1年生の時に書いた,「服装・頭髪に関する僕の考え」という作文から抜粋。

4 テレビ番組「先生ひどいやんか〜大阪丸刈り狂騒曲〜」より。1994年2月10日フジテレビで放映。株式会社オンザロード制作。

5 京都の高校生の会。月に一度集会を行い。学校問題だけではなく,恋愛から,差別問題にいたるまで,幅広い議論を行っている。JHCが,外に働きかける活動を主としているのとは対称的に,自らの「内」をみつめる活動を主に行っている。

6 良井君には1994年7月9日に,中島君には1994年6月4日に,直接面会して話を聞かせていただき,多くのことを学ばせていただいた。感謝している。

7 丸刈り強制が急速に廃止へ向かった決定的な要因は,赤松文相の発言があったからでも,彼らの運動が,丸刈り賛成派を反対派へと寝返らせたからでもない。すでに,社会のマジョリティーが,丸刈り反対であったからである。彼らは,マジョリティーの意向を代弁したにすぎない。同じ「市民的権利」の問題として,「制服」についても同じ速度で廃止へ運ぶことができるかといえば,決してそうとは言えまい。

8 坂本秀夫『校則裁判』三一書房,76頁

9 河原巧『学校はなぜ変わらないか』JICC出版,222頁

10 「人権」という言葉の使われ方は,非常に曖昧である。一般的には,「共生」という語が持つイメージに近い意味で用いられているようだ。そういう意味においては,「校則」にまつわる諸問題は,「人権」に関する問題だといえよう。しかし,法議論における,「第○条の,○○権」といった使われ方をすると,「そうではない」と言わざるをえない。この不一致は,どこから招来されるのか。今後,継続して考えていきたい。

11 北川氏自身,学校の基底に横たわる特殊な「構造」の存在を前提としておられる。「学校教育の偏重・肥大化,(中略),管理主義的教育など,個々の教師の教育の仕方を越えて日本の学校に根づき構造化してしまっていると思われる日本の歪んだ学校教育の質・構造・の是正」[前掲論文,3頁]。そしてこの「構造」がマジョリティーの「意向」を反映して構造化されてきたことを,暗に認めておられるのではあるまいか。たとえば,氏の次のような言葉はその現れだと思われる。「条約が規定する子どもの権利の法的通用力を確立するためには,条約の批准を契機として世論を高め,その力で,例えば学校教育法を改正して適切な条項を設けるなど,過去の最高裁判例等に関わらず学校において子どもの人権・権利が保障されるべきことをあらためて国民統合の意思として法律の明文で確定し徹底する必要がある」[前掲論文,5頁]。

12 私の論と,河原氏の論の違いがおわかりいただけるだろうか。私は,「学校は変わらない」とは言っていない。むしろ,積極的に,変えていかねばならないと言っているのだ。ただ,「市民的権利」論では,「学校は変わらない」というだけだ。



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