◆199312KHK137A4L0416GHM
TITLE:  遅刻指導のため校門を閉鎖した際登校中の生徒を門扉と門壁に挟んで死亡させた事案につき門扉閉鎖を担当した教員を業務上過失致死罪とした事例−神戸高塚高校校門圧死事件−
AUTHOR: 吉田 卓司
SOURCE: 甲南法学 第34巻第2号(1993年12月)
WORDS:  全40字×416行

<判例研究>

遅刻指導のため校門を閉鎖した際登校中の生徒を門扉と門壁に挟んで死亡させた事案につき門扉閉鎖を担当した教員を業務上過失致死罪とした事例
― 神戸高塚高校校門圧死事件 ―

(神戸地裁平成五年二月一〇判決〔確定〕、判例時報一四六〇号四六頁)


刑事判例研究会



 事案の概要

  兵庫県立神戸高塚高校では、遅刻した生徒を他の者と区分するために、予鈴チャイムの鳴り始めで門扉を閉鎖し、遅刻した生徒にはグランドを走らせる等のペナルティーを科すなどの校門指導を行なっていたところ、遅刻指導の当番の三名の教員のうちHが校門を閉鎖した際、生徒を門扉と門壁の間に挟み、脳挫滅により死亡させた。門扉閉鎖を担当したHのみが業務上過失致死罪で起訴され、公判では、業務性の認否、予見可能性の有無、「信頼の原則」適用の可否等が争われた。判決は、以下の理由により、被告人Hを禁錮一年執行猶予三年に処した。

 判決要旨

(1) 門扉閉鎖行為の業務性
  Hは、「校長の教育方針に基づく校務運営委員会の決議により、生徒指導の一環をなす遅刻防止等のため、校門指導、遅刻指導を実施し、校門指導の当番の際には門扉を閉鎖していたもので」、「門扉を閉鎖する行為は、被告人の社会生活上の地位に基づき反復継続して行なう行為である」。また本件の門扉は、「普通の閉鎖速度である時速四ないし五キロメートル程度でも、人の側頭骨に骨折を起こす値の一・五ないし三倍のエネルギーを持ち、人を死傷させる可能性が認められる上、本件での門扉閉鎖行為は、生徒が通用門へ駆け込む登校時刻に行なうのであるから、閉鎖速度など門扉の閉鎖方法と生徒の動静によっては、門扉を生徒の身体に当て、あるいは、門壁との間に生徒を挟むなどして、生徒の生命身体に対し危害を及ぼす虞を有する」。

 (2) 過失の有無を判断すべき基準の時点と過失の内容
  「門扉を西端から押す場合、押し始めからほとんど閉め切った状態になる時点まで、門外の東方から登校のため門に近づく生徒の姿は死角のために全く見えないのであるから、被告人が門扉を押す間、仮に前方を注視し続けていたとしても」、「事故を防止することはできない」。したがって「押す方法で門扉を閉めるについては、押し始める時点までに生徒の動静を十分確認して結果回避措置をとる必要があることになり、本件の過失は、この時点において判定すべき」である。
  登校時刻に門扉を閉める教師は、「門扉と生徒の接触等を避けるため、閉め始め前に門外をある程度遠くまで見るなどの動静を確認し、門扉が動いている間に門扉を通過しようとする者がいないことを見極める必要がある」。

 (3) 事故発生の予見可能性
  「門扉と門壁に人が挟まれた場合は、頭部でなくても、身体の部分によっては、挟まれることにより死亡の結果を生じ得ることが推認でき、被告人が過去に二〇数回門扉閉鎖行為をした経験があって、門扉の大きさ、構造、重量や門壁の構造は十分知っていたと考えられることからすると、右の結果を生じ得ることは被告人においても認識できたと認めるのが相当である」。
  「そして、校門指導で門扉を閉めるに際しては、遅刻者とそうでない者を区別する目的があり、閉める時点で登校中の生徒があることは当然予想されるから、何の配慮もせずに門扉を閉鎖すれば、生徒を門扉で挟む可能性があることも、通常人として認識できるばかりでなく、被告人は、実際に登校中の生徒に門扉を押し戻されるなどの経験もあり、具体的に門扉で生徒を挟む可能性のあることを認識し得たものと認められ、事故発生の予見可能性があることは明らかである」。
  また、被害者が閉まりかけた門扉に頭部から走りこむことの予見可能性につき、「高塚高校では、遅刻に対しグランドを走るペナルティがあり、ことに当日は学期末試験が行なわれることから、制裁等を受けることを日常以上に避けたいため、生徒が危険を冒しても門内に走り込もうとしやすく、その際、頭を低くした前傾姿勢となり得ることは、通常予測し得ることと考えられ、被告人自身、前記のように、以前に門を押し戻してまで門内に入ろうとした生徒があったことなどを具体的に知っているのであるから、生徒が閉まりかけの門に向かって走り込むような危険を冒してでも通用門を通過しようとすることを予見し得た」。

 (4) 信頼の原則の適用
  「信頼の原則の適用によってその過失責任がないというためには、少なくとも、行為者と、その他人との間に一定の共通の基準があって、互いに相手がその基準に基づいて行動することを信頼する関係があり、これを信頼した行為者の過失責任を問わないことが社会的に相当と評価される実情にあることが必要であると考えられる」が、本件校門指導に際する門扉の閉鎖については、「校門指導にあたる教師の作業分担の規定、申合せや慣行はなく、従来のやり方では、普通は、三人であればそのうち一人か二人が閉鎖する役となり、他の教師は生徒を追い込んだり遅刻簿に記入するだけの役になったというのに過ぎず、校門指導にあたる教師相互間に、事前に門扉閉鎖の作業について、生徒の危険防止のために分担すべき役割につき共通の行為基準があったとはいえない」。


 研究

 一 本評釈の検討課題

  本件は(1)、被告人の過失の有無をめぐる争訟であったが、その議論の本質は、この事件を「無謀な」一教諭の事故ととらえるか、今日の学校教育の構造的問題が反映した事件ととらえるかを争点とするものであった。
  刑事裁判に先立って兵庫県教育委員会は、前者の見地から、本件を「教育者としての配慮を著しく欠いた」一教諭による事故と位置付け、刑事事件の捜査の結果を待たずに「異例」の速さで、被告人H教諭を懲戒免職処分とした(2)。そして、検察もまた同様に、論告等において「被告人の無謀さ」を強調してきたといえよう。これに対して、本件刑事裁判がどのような事実を明らかにしたかがまず問題とされねばならない。
  また本事案は、刑事判例上、門扉閉鎖による過失致死事件として、また生徒指導下の事故として、希有の事実であり、その先例的意義は少なくない。本稿では、本件事故の背景にも留意しながら、本判例の過失認定上の諸問題を中心に考察を加え、とりわけ判示の諸事実とその帰結との論理的整合性を批判的に検討したい。


 二 門扉閉鎖行為の業務性

  業務性に関し、判例は、「刑法二一一条前段にいう業務とは、人が社会生活上の地位に基づき反復継続して行なう行為であって、かつ、その行為は他人の生命・身体に危害を加える虞のあることを要する」(3)とする。また、従来の学校事故に関する判例も、授業及び学校行事における事故は無論のこと、勤務時間外の部活動指導中の事故に対しても「業務性」を認めている(4)。本判例も旧来の立場を踏襲したものといえよう。
  学説の多くも、基本的には判例の立場を承認するが(5)、判例のような業務概念の拡大に対する批判にも留意せねばならない(6)。本件について、渡辺修教授が、「校門閉鎖は、水泳、冬山登山のように、生徒の生命などに対する危険がいつも伴うとはいえず、校長らが事故防止用のマニュアルをつくって注意を促さなければならないほど危険性は高くない。刑法上の『業務』には当たらない」とし、「事件は、ささいな不注意で重大な結果を招いた偶然の事故の色彩が濃く本来は重過失致死罪で処罰すべきだった」とされているが(7)、業務性を限定的に解する理論的努力の一つといえよう。
  現実に、教育活動に関わる事故に広く「業務性」を認め、教師個人に刑事責任を科すことが、潜在的危険のある教育活動(例えば、実技・実験・実習などの教科指導、野外活動などの学校行事、交通安全・ボランティアなどの生徒指導等々の体験的学習)を躇躊させるおそれは否定できない。刑事責任追及が日常化すれば、それ自体が、警察による教育統制の問題を生じるし、さらには教師個人への事故責任の矮小化が本質的な事故要因、すなわち、欧米に比して教師一人当たりの児童・生徒数が多いなどの教育条件の問題、行政による施設管理の不備の責任を隠蔽することにつながる。それは、基本的な事故防止策である教育条件改善に支障をきたすであろう。その意味でも、「業務性」概念だけでなく、刑事過失責任の客観的かつ謙抑的な規準の定立が必要とされよう。
  門扉閉鎖行為の「業務性」についてみると、部外者の無断立入防止等を目的に、通行者の希有な時間に行なわれる通常の閉鎖行為であれば、そのような門扉閉鎖行為について「他人の生命・身体に危害を加える虞」があるとは、一般的に認めがたい。けれども本件の門扉閉鎖は、学校による組織的教育活動の一環であり、「社会生活上の地位に基づき反復継続して行なう行為」というほかはない。さらにはその閉鎖は、生徒の登校時刻に実施することが内規により定められ、それに基づいてHの行為がなされたのであるから、生命・身体に危害を加えうる客観的状況が存在したことは否定できない。むしろ、本件閉鎖行為が学校の組織的な『業務』として行なわれたことこそが問題であるといえよう。


 三 本判決における過失認定

 (1) 過失の有無を判断すべき時点と注意義務の内容
  本件の中心的争点は過失の有無である。検察の論告は過失の内実を「校門に入ってくる登校生徒の動静を確めず、その安全を図らないまま、同門扉を勢いよく押して一気に閉鎖した過失」とし、@安全確認の不備とA門扉閉鎖の無謀さを過失の内容とし、被告人の門扉閉鎖の「無謀性」を強調していた。これに対して、判決は過失の基準となる時点を「押し始める時点」とし、それまでに「門外をある程度遠くまで見るなどして、生徒がどの位置まで来ているか、その生徒が走ってきているか、歩いているかなどの動静を確認し、門扉が動いている間に門扉を通過しようとする者がいないことを見極める必要がある」と判示し、安全確認の不備のみを認定をしている。
  すなわち、裁判所は、Hが他の教師に比して危険な閉鎖方法をとったとか、無謀な速度・態様等の閉鎖であったとの検察の主張を採用していないのである。それは、事件の生じた時点(被害者が門扉と門塀に挟まれた時点)におけるHの過失が認定され得なかったことを意味する。その背景には、主として次のような諸事実が存在したといえよう。
  第一は、重さ二三〇キログラムの門扉は、被害者B子が門扉に頭部を差し入れた時にはすでに制止不能であったという点である。判決は、門扉の閉鎖時の状況として、R、N、Oの三名の生徒が立ち止まったため、「生徒の列は途切れたが、B子は走り続けて、この停止した一団の生徒の前へ回り込み、前屈みで、身体を縮めるようにした姿勢のまま、約五〇センチメートルの幅になった門壁と門扉の間隙へ頭を突っ込むようになった瞬間、これと同時に閉め切られた門壁と門扉の間に頭を挟まれ」、負傷し死亡したと判示している。また量刑事情でも「被害者も遅刻になるのを免れようとして、懸命に通用門に駆け込み、却って災いを招いた」と、これに触れている。本件は、自動車事故と同列に論じることのできない面はあるが、八歳と一一歳の小学生について「既に交通機関による危険については、或程度の判断力を有する筈であり、従って同人らが自動車の接近するのを知って道路の右側に避譲したとすれば、自動車が直ぐそばまで接近してきた時になんら予備動作もなく突然道路の中央に飛び出してくるようなことは通常予測できない」(8)とした判例等もあり、本件は、少なくとも閉鎖時の被告人の行為には結果の回避可能性がない事案であったといえよう。
  第二に、門扉閉鎖担当者から見て登校する生徒が死角になる門扉構造に関する問題である。この点について、交通事故の事案では、「被害者乗用自動車を本件事故発生直前迄全然望見し得なかったことが客観的に認められる本件においては、被告人が当該三論車に追尾するものの有無やその方向の転換につき細心注意するが如きことは、通常自動車運転者の遵守し得る注意義務の範囲を逸脱し、極めて高度の注意義務を要求するものというべきである」(9)としたものや、「肉眼又は後写鏡による視界の限界を越えて(中略)異常な状態をも考慮に入れて右側の窓より頭部又は身体を乗り出して衝突の危険がないことを確認しなければならないというような厳格な法律上の注意義務は負わないものと解するのが相当である」(10)とした判例があり、いずれも無罪判決を下しているように、事故発生地点が死角であることから、本判例は事故発生時に被告人の「過失」を認めることができなかったのである。
  そして、ここで判示されている事柄の最大の問題は、判決が示した過失の内容である。本判決は、事故回避の手段として、閉鎖前に門外を見て生徒の動静を確認すべきであったとするが、門扉外の状況を最後に確認した地点から門扉を押す位置(すなわち死角)までの六メートルを移動する間にも登校する生徒の状況は刻々と変化しており、被告人が死角となる位置から門扉を閉鎖する以上は、校門を通過する生徒の有無を正確に知ることはできない。そもそも「死角」とは、そのような安全確認等の視認不可能な場所を意味するのであって、特段の事情のないかぎり事故の予見可能性ないし結果回避可能性は認められるべきではないように思われる。仮に本判決が示したように「閉め始め前に門外をある程度遠くまで見るなどし」すれば、「門扉が動いている間に門扉を通過しようとする者がいないこと見極める」ことができ、結果を回避し得たかという点が特に問題である。次の「予見可能性」等の諸点について検証の上、この点について、さらに検討したい。

 (2) 結果の予見可能性
  本判決は、予見可能性判断に際して、通常人を基準としながら、行為者の主観的事情や経験にも一定程度言及しつつ、その可能性判断をしたものといえる(11)。判決が依拠した「予見可能性」判断に対するこのような論理自体、恣意的判断を許す可能性があるとの批判があることに(12)留意しつつ、ここでは学校の指導体制及び事件直前の生徒の動向等の裁判所自身が認定した具体的事実関係に鑑みて、「致死」の具体的予見可能性を認めたことの妥当性を検討したい(13)。
  本件の場合、判決は、遅刻者へのペナルティがあったこと、学期末試験時には生徒が危険を顧みず門内に走り込む可能性が高いこと等の事情から、事故の予見可能性を認めている。確かに、本件事故が学校教育の場において生じたことを重視し、自動車事故よりも格段に厳しい判断を示し、学校教育に十分な安全配慮を求めていることは首肯できる。それでもなお、閉鎖前に門外の状況を確認し、間もなく閉鎖する旨をマイクによって再三注意した後に閉鎖を担当した一個人 対して、門扉構造等の施設条件からその時々の流動的な生徒の動態までを総合的かつ的確に考察して、万一の事故を予見し、かつ被告人一人の能力によって結果回避行為をなし得たとするのが妥当か否かは、なお検討の余地が残されているであろう。
  すなわち、判例が本件門扉について「普通の閉鎖速度である時速四ないし五キロメートル程度でも、人の側頭骨の骨折を起こす値の一・五ないし三倍のエネルギーを持ち、人を死傷させる可能性が認められる」と判示するように、一九七〇年代以降に創設された県立高校には、このような教育を目的とする学校の施設として必要性のない堅牢な門扉が設けられてきたが(14)、そのような門扉自体の危険性を予見し、これを改善すべきは、本来設置者たる兵庫県ならびに県教育委員会にほかならない。また、高塚高校の内規に示された遅刻指導方法自体が生徒の安全に配慮したものでないことの法的責任は、後に詳述するように法令上、校長に帰されるべきである。また、そのような施設上及び指導体制上の二重の意味での安全性の不備にもかかわらず、本件のような事故が起き得ることを想定せずに、本件遅刻指導が行なわれ続けていたことが予見可能性の判断に際して、考慮されるべきであったようにおもわれる。
  また、判決は、被告人に「実際に登校中の生徒に門扉を押し戻されるなど」の経験があることを、予見可能性の判断に際して重視しているように思われるが、この点にも疑問がある。「校門は八時三〇分の予鈴の鳴り始めで閉じて指導する」と明記した高塚高校の指導内規の存在を考慮すれば、むしろその経験は、事故防止よりも内規遵守へと高塚高校の教員を追い込む性質のものというべきであろう。また、「生徒に門扉を押し戻される」ような緩やかな門扉閉鎖を被告人がしてきたこと自体、本件のような圧死事故の予見可能性をむしろ低減するものと評価することも可能であろう。登校中の生徒に門扉を押し戻された経験を「致死」の具体的予見可能性の根拠とすることは、少なくとも本件に関しては妥当でないように思われる。
  これらの諸点を考慮すれば、本件について致死結果の具体的予見可能性が認められ、本件被告人に刑事過失を認め得るかは、極めて微妙な事案であったといえよう。

 (3) 信頼の原則
  判決は、前述のように、遅刻者へのペナルティ、学期末試験の実施あるいは門扉の構造や重量などの認識から、事故は予見できたと判示する。したがって、それは同時に本件被告人のみならず、事故当時の他の二名の遅刻指導担当者、遅刻指導の計画立案責任者及び学校設置者にも相応の事故防止行為を法的に期待できることを意味するはずである。しかしながら、判決は、危険防止のための役割分担として共通の行為基準はなかったと判示して、教員相互の「信頼の原則」の適用を否定した。それは予見可能性の認定との間に齟齬を生じないのであろうか。
  本件に限らず、学校が多数の教員によって組織的に運営されている以上、遅刻指導を含む生徒指導が慣習あるいは内規により役割分担に基づいて実施されていることは、本来は自明の前提といわねばならない。とりわけ本件高塚高校では、内規によって「チャイムの鳴り始め」に門扉を閉鎖することが明記され、しかも門扉の構造上、それを西端から押して閉めようとすれば物理的に死角となる位置からこれを閉鎖せざるをえなかったのであるから、判決もいうように「何の配慮もせずに門扉を閉鎖すれば、生徒を門扉で挟む可能性があることも、通常人として認識できる」とするなら、他の教師の適正な安全確保措置を前提としなければ門扉閉鎖はなし得ない。言い換えれば、そのような相互補完的な職務遂行を「信頼」しなければ内規の定める門扉閉鎖及び遅刻指導の実施は不可能である。
  逆に、判示のように他の教師との間に遅刻生徒の安全確保について「信頼の原則」の適用ができないような状況が現実に存在したとすれば、そのような杜撰で危険な指導体制を立案・決定した生徒指導部長及び校長の責任が問われるべきである。判決も、量刑理由で事故の背景に触れて「学校として、生徒の登校の安全等に関する配慮が足りなかった」と判示しているが、この点は単に情状の問題ではなく、学校事故における過失責任の所在の問題であり、被告人の刑事過失責任の成否に関わる問題というべきである。
  従来の学校事故刑事判例は、授業・部活動中の事故については、その立案・実施の両面において担当教員個人の責任を問い、学校が組織的に実施する教育活動の場合には、校長等の統括責任者により大きな責任を科す姿勢を示してきた。本件のように学校全体の関わる組織的活動の場合、その一端を担った教諭一人に過失責任を問うた学校事故判例は、これまで公刊された判例の中に前例がない(15)。この点で本事実は特別な事例といえよう。


 四 量刑理由 ― 本件事故の刑事責任の所在の検討と関連させて

  本裁判とそこに提示された関係証拠を通じて明らかになったことの一つは、被告人Hが生徒指導内規を遵守しようとして予鈴と同時に門扉を閉鎖し、また死亡した女子高校生も制裁等を避けるために危険を冒して門内に走り込もうとし、その結果として本件事故が生じたということである。いわば、加害者も被害者も管理教育のシステムにからめとられていたといえよう。だからこそ、本件の本質を単に「無謀な」一教諭による事故と理解することはできないのである。
  このような遅刻指導は、高塚高校では一九八七年四月に、「職員会議に報告の上、校長の決裁により」決定されたと判示されている。兵庫県教育委員会は「職員会議に関する規程の整備について」と題した通知(一九八三年)により、職員会議を校長の職務遂行上の「補助機関」と位置付け、校長が学校管理の全権限を有することを確認した。いわば、校長が教育委員会の意向に添って上命下服的に校務分掌を定め、校則を制定し、生徒指導の具体的実施方法を決定できる体制を確立した。高塚高校においてもこのような手順で指導内容が決定・実施されたのである。しかも事故当時、高塚高校は学校安全に関する「研究指定校」(全国で五校)であり、校長が事故前年度の兵庫県高等学校生徒指導協議会神戸支部長であったほか、同校生徒指導部長は同協議会常任委員でもあった。同協議会は同年度の活動目標の第一に「基本的生活習慣の確立」を掲げ、遅刻生徒の問題などについての具体的報告を行っている(16)。これをうけた事故直前の平成二年五月の県立高校生徒指導部長会では「最も効果のある」指導として「全教師による校門や通学路での立ち番指導」が高く評価された。高塚高校はそのような意味での「モデル校」であり、「門扉閉鎖はチャイムの鳴り始め」(17)等を明記する詳細な指導要領に従った遅刻指導が行なわれていたのである。
  本件において検察官及び警察官により作成された調書には、門扉閉鎖に危惧をおぼえた教師や生徒の経験が記載されている。けれども、これらの生徒指導上の重大な問題は職員会議等で討議されず、事故が生じた平成二年度から遅刻指導担当者を五人制から三人制へと移行させる際にも、安全上の問題が考慮された形跡はない。生徒指導計画の立案について、生徒の声を広映するどころか、職員の指導経験を集約し、それを生かして制度を改善するという最低限度の民主的手続き及び集団的指導に不可欠な意思疎通さえも欠落していたのである。そのような状況の下において、前述のような意味における「生徒指導モデル校」としての遅刻指導が断行され、圧死事故の予兆ともいうべき数々の軽微な事故は無視され続けたのである。その意味では、圧死事件の構造的要因は、高塚高校の管理的生徒指導体制であるといっても過言ではない。本判決における「学校として、生徒の登校の安全等に関する配慮が足りなかった」との判示は、今日の教員管理や生徒指導の問題点を指摘したものとして、教育にかかわる者に厳粛に受け止められねばならない。
  本件は、事故発生直後から判決にいたるまでマスメディアに注視されてきた。しかも、県教委、校長、警察などによる意図的な情報操作によって、被告人個人の「過失」が強調され、被告人に対する不当な中傷や事実誤認による個人攻撃も熾烈を極めた。しかし、判決が述べるように「閉め始め前に門外をある程度遠くまで見るなどし」たとしても、「門扉が動いている間に門扉を通過しようとする者がいないこと見極める」ことは判示の事実から見ても極めて困難である。事故を確実に防止する唯一の方法は、門扉閉鎖担当者が内規に反して、生徒の登校時に門扉を閉鎖しないことであったが、当時の指導体制下では被告人は、職務として内規にしたがった門扉閉鎖を校長より命じられていたのであり、そのような事故回避行為を期待しうる可能性もまた著しく低かったといえよう。
  このようにみてくると、被告人Hの本件閉鎖に関わる過失行為に対して、執行猶予付きとはいえ、禁固刑とした量刑にも問題があるように思われる。判決の示した過失内容から見ても、本件高塚高校の遅刻指導において被告人が特に危険な方法をとったとされてはいない。それにもかかわらず、本判決は、被告人が教職の法的欠格者であることを意味する禁固刑を選択したのである。それは、前述のような過失内容と事実認定を示しながら、結論として、本件事故の根本的責任が被告人に存すると宣言したことに等しいのであり、その意味で、量刑と判示の事実との間には論理的矛盾があるのではなかろうか。


 五 結論

  本件の過失認定及び量刑は、本質的な事故要因を等閑視しているばかりでなく、判示の事実関係との整合性に問題が存するように思われる。本件の場合、施設上及び指導体制上の問題が大きいことは、判例も指摘するとおりである。本判決が、極めて限定的にせよ、本件高校における生徒指導上の安全配慮の不十分さを判示した点は、今日の学校教育への警鐘をならしたものとして評価できる。しかし、基本的に、本件のような生徒指導下における安全管理は、たまたま遅刻指導を任じられて門扉を閉鎖した教員の個人的注意義務の範囲に期待すべき性格のものではなく、執行猶予付きではあっても、禁固刑を選択した量刑にも疑問が残る。
  また、弁護側が最終弁論の冒頭で「本件は十分な討議も共通認識もないまま校門指導をさせていた学校管理責任者と県教委の怠慢から生じたものであるのに、校長、教頭、県教委に責任が及ぶことを恐れ、一人被告人だけの責任とした捜査、起訴に問題がある」旨の主張を行なったことに対して、本判決が起訴の当否に全く言及していないことは残念である。
  従来の学校事故判例において、学校全体の組織的活動で生じた事故につき現場担当の一教員に刑事責任を科した例はない。それは、授業やクラブ指導に比して、多くの教員が関わる指導の場合には、個々の教員の裁量の幅が著しく狭いためである。その点でも、本件は今後に大きな課題を残したといえよう。


(1)本判例の評釈として星野安三郎「『校門圧死事件』判決に思う」季刊教育法九三号(一九九三年)四四頁がある。また、細井敏彦『校門の時計だけが知っている』 (一九九三年草思社)は被告人自身の裁判をめぐる体験と思いが語られている他、裁判における証人喚問及び資料が掲載されている。
(2)朝日新聞一九九〇年七月二六日、二七日版。なお、本件につき、校長(戒告)、教頭及び県教育長(訓告)、県教育次長(厳重注意)も処分を受けたが、処分理由は教員に対する監督責任の懈怠に過ぎず、事故の惹起自体について主体的な責任を問われたものではない。
(3)最判昭和三三年四月一八日刑集一二巻六号一〇九〇頁
(4)従来の学校事故を概観すると、@授業中の事故、A学校行事における事故、Bクラブ活動中の事故の三つに分類できる。@授業中の事故として、古式銃暴発事故(担当教諭有罪)越谷簡判昭和四三年一月一八日学校事故学生処分判例集一巻一五〇一頁、体育授業中の溺死事件(担当教諭有罪)秋田地大曲支判昭和四三年三月一二日学校事故学生処分判例集一巻四二九頁、理科実験中の火傷による死亡事件(担当教諭有罪)越谷簡判昭和四四年九月一七日学校事故学生処分判例集一巻二五頁、必殺ブラリン事件(担当教諭有罪)東京高判昭和五四年二月一五日判時九六七号一三三頁、判タ四一三号一五八頁。A学校行事中(校外活動)の事故として、小学生水泳訓練溺死事件(校長・体育主任教諭〔いずれも不起訴〕に計画・立案上の過失があったとし、担当教諭無罪)岡山地津山支判昭和三四年一〇月一三日下刑一巻一〇号二一七四頁、臨海水泳訓練溺死事件(校長、教頭、体育主任無罪)原審津地判昭和三三年三月二八日判時一五六号一一頁、控訴審名古屋高判昭和三六年一月二四日判時二六三号七頁、社会見学船舶転覆事件(船長、校長、担当教諭有罪)熊本地判昭和四三年一月一七日学校事故学生処分判例集一巻一四二一頁、生徒会キャンプの豪雨増水溺死事件(引率教諭無罪)原審宮崎地判昭和四三年四月三〇日判時五二二号一三頁、控訴審福岡高裁宮崎支判昭和四四年三月四日学校事故学生処分判例集一巻四七八頁、中学教育キャンプ川下り溺死事件(校長有罪)青森地判昭和五五年六月四日学校事故学生処分判例集一巻五一五頁。B部活動中の事故として、芦別岳墜落死事件(担当教諭有罪)札幌地判昭和三〇年七月四日裁時一八八号一二八頁、判時五五号三頁、朝日岳遭難事件(担当教諭無罪)山形地判昭和四九年四月二四日下刑六巻四号四三九頁、判時七五五号三九頁、判タ三〇八号一五一頁、ラグビー部合宿中の日射病死事件(担当教諭有罪)東京高判昭和五一年三月二五日判タ三三五号三四四頁。
(5)山火正則教授は朝日岳遭難事件の判例評釈において、業務性認定につき「クラブ活動における引率が超過勤務か公務出張かは本質的差異ではなく、「教師として」引率したか否かが問題であるとされ、「本件引率行為に『業務性』を認めたことは正しかった」とされる。「顧問教師の引率登山の業務性と遭難事故の責任」学校事故研究会編『学校事故全書@学校事故の事例と裁判』(一九七七年総合労働研究所)二〇九頁。
(6)内田文昭教授は、(1)近時の交通事故などの悲惨さは軽視できないがだからといってその場合の過失が常に加重されるべきだとはいえないこと、(2)業務上過失を定型的な重過失犯の一種と理解するならば、『「軽過失」でも「業務上」の過失は「業務上過失」』とする判例の態度は問題であること、(3)重過失犯・業務上過失犯の加重処罰そのものが比較法的にみて一般的ではないことなどを根拠として、業務性概念の解釈は限定的であるべきとされる(同「業務上過失致死罪における業務」『別冊ジュリスト・刑法判例百選I総論』一五〇頁一九七八年)。
(7)読売新聞一九九三年二月一〇日夕刊。なお、山火正則教授は、これとは別個観点から、学校事故について「教師に業務上過失致死傷罪が成立すると思われる場合でも、その観点を広げ、全体的な刑事司法という観点から、刑事訴訟法二四八条によって、起訴猶予処分に付せられることも考えられてよいであろう。学校事故の場合、教師に注意義務違反があったとしても、刑事責任を負わすことによって、これを防止することが可能であるとは考えられないし、また教育的活動が積極的に行なわれることには、相互重大な意義があると考えられるからである。」(山火正則「学校事故と刑事責任」〔学校事故研究会編・前掲書A『学校事故の法制と責任』二五九頁〕)とされ、教員個人への刑事責任追及の謙抑を主張されている。
(8)東京高判昭和三二年五月七日東高判決特報八巻五号一一二頁
(9)福岡高判昭和三〇年一一月七日高刑集八巻一〇号一一九五頁
(10)東京高判昭和三一年二月二一日高裁裁判特報三巻七号二九二頁)
(11)結果の予見可能性について、判例の基本的立場は、大審院以来「一般通常人が認識することができる事情及び行為者が特に認識していた事情を基礎とし、かつ、一般通常人の注意を払ったかどうか」(大判昭和四年九月三日裁判例三巻刑法二七頁)といった客観説に立つとされている。
(12)「行為者と同じ具体的状況に置かれた一般人」という公式の曖昧性が、恣意的な判断を許す可能性を指摘するものとして、松宮孝明「『過失の標準』再論」刑法雑誌三二巻三号(一九九二年)三八二頁以下。
(13)判例の基本的立場は、「過失犯における注意義務違反が認められるためには、結果の発生が予見可能であること、すなわち、内容の特定しない一般的、抽象的な危惧感ないし不安感の程度ではなく、特定の構成要件的結果及びその発生にいたる因果関係の基本部分の予見可能性が必要であるが、その存在は、行為者の置かれていた具体的状況に同様の地位・状況にある通常人を当てはめて判断すべきである」(札幌高判昭和五一年三月一八日高刑集二九巻一号七八頁−−北大電気メス禍事件)等、過失責任に具体的な予見可能性を要するものとする。
(14)志保彌教授により神戸地検に提出された「忠告事項」(細井・前掲書二二六頁以下所収)の一項は物理的観点からこの点を明確に述べる。
(15)前注(2)に掲げた判例のうち、第二類型の学校行事中の事故の場合、現場を担当した教諭のみに刑事責任が科された例はない。むしろ、学校全体の組織的な活動については、その統括者ないし企画・立案担当者が問責されることが多かったといえよう。但し、行政法上ないし民法上の責任はともかく、監督者に刑事責任を科すことの当否は別個慎重な検討を要する。
(16)兵庫県高等学校生徒指導協議会『平成元年度生徒指導のあゆみ』四七〜四八頁。
(17)兵庫県教育委員会による「平成二年度県立高等学校生徒指導部長会」(平成二年五月一六・一七日開催)資料八頁参照。同資料は、右掲の資料とともに、本裁判において証拠として採用されたものである。

(吉田 卓司)









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