■ 期待される人間像 昭和41年10月31日 中央教育審議会答申「後期中等教育の拡充整備について」別記

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中央教育審議会 第20回答申(昭和41年10月31日)
「後期中等教育の拡充整備について」 別記

期待される人間像

まえがき
第1部 当面する日本人の課題
   1 現代文明の特色と第1の要請
   2 今日の国際情勢と第2の要請
   3 日本のあり方と第3の要請
第2部 日本人にとくに期待されるもの
 第1章 個人として
   1 自由であること
   2 個性を伸ばすこと
   3 自己をたいせつにすること
   4 強い意志をもつこと
   5 畏(い)敬の念をもつこと
 第2章 家庭人として
   1 家庭を愛の場とすること
   2 家庭をいこいの場とすること
   3 家庭を教育の場とすること
   4 開かれた家庭とすること
 第3章 社会人として
   1 仕事に打ち込むこと
   2 社会福祉に寄与すること
   3 創造的であること
   4 社会規範を重んずること
 第4章 国民として
   1 正しい愛国心をもつこと
   2 象徴に敬愛の念をもつこと
   3 すぐれた国民性を伸ばすこと


ま え が き


 この「期待される人間像」は,「第1部 当面する日本人の課題」と「第2部 日本人にとくに期待されるもの」から成っている。
 この「期待される人間像」は,「第1 後期中等教育の理念」の「2 人間形成の目標としての期待される人間像」において述べたとおり,後期中等教育の理念を明らかにするため,主体としての人間のあり方について,どのような理想像を描くことができるかを検討したものである。
 以下に述べるところのものは,すべての日本人,とくに教育者その他人間形成の任に携わる人々の参考とするためのものである。
 それについて注意しておきたい二つのことがある。
 (1) ここに示された諸徳性のうち,どれをとって青少年の教育の目標とするか,またその表現をどのようにするか,それはそれぞれの教育者あるいは教育機関の主体的な決定に任せられていることである。しかし,日本の教育の現状をみるとき,日本人としての自覚をもった国民であること,職業の尊さを知り,勤労の徳を身につけた社会人であること,強い意志をもった自主独立の個人であることなどは,教育の目標として,じゅうぶんに留意されるべきものと思われる。ここに示したのは人間性のうちにおける諸徳性の分布地図である。その意味において,これは一つの参考になるであろう。
 (2) 古来,徳はその根源において一つであるとも考えられてきた。それは良心が一つであるのと同じである。以下に述べられた徳性の数は多いが,重要なことはその名称を暗記させることではない。むしろその一つでも二つでも,それを自己の身につけようと努力させることである。そうすれば他の徳もそれとともに呼びさまされてくるであろう。


第1部 当面する日本人の課題


 「今後の国家社会における人間像はいかにあるべきか」という課題に答えるためには,第1に現代文明はどのような傾向を示しつつあるか,第2に今日の国際情勢はどのような姿を現わしているか,第3に日本のあり方はどのようなものであるべきかという3点からの考察が必要である。


1 現代文明の特色と第1の要請
 現代文明の一つの特色は自然科学のぼっ興にある。それが人類に多くの恩恵を与えたことはいうまでもない。医学や産業技術の発展はその恩恵のほどを示している。そして今日は原子力時代とか,宇宙時代とか呼ばれるにいたっている。それは何人も否定することができない。これは現代文明のすぐれた点であるが,それとともに忘れられてはならないことがある。それは産業技術の発達は人間性の向上を伴わなければならないということである。もしその面が欠けるならば,現代文明は跛(は)行的となり,産業技術の発達が人類の福祉に対して,それにふさわしい貢献をなしがたいことになろう。社会学者や文明批評家の多くが指摘するように,人間が機械化され,手段化される危険も生ずるのである。
 またその原因は複雑であるが,現代文明の一部には利己主義や享楽主義の傾向も認められる。それは人類の福祉と自己の幸福に資することができないばかりでなく,人間性をゆがめる結果にもなろう。
 ここから,人間性の向上と人間能力の開発という第1の要請が現われる。
 今日は技術革新の時代である。今後の日本人は,このような時代にふさわしく自己の能力を開発しなければならない。
 日本における戦後の経済的復興は世界の驚異とされている。しかし,経済的繁栄とともに一部に利己主義と享楽主義の傾向が現われている。他方,敗戦による精神的空白と精神的混乱はなお残存している。このように,物質的欲望の増大だけがあって精神的理想の欠けた状態がもし長く続くならば,長期の経済的繁栄も人間生活の真の向上も期待することはできない。
 日本の工業化は人間能力の開発と同時に人間性の向上を要求する。けだし,人間性の向上なくしては人間能力の開発はその基盤を失うし,人間を単に生産手段の一つとする結果になるからである。
 この際,日本国憲法および教育基本法が,平和国家,民主国家,福祉国家,文化国家という国家理想を掲げている意味を改めて考えてみなければならない。福祉国家となるためには,人間能力の開発によって経済的に豊かになると同時に,人間性の向上によって精神的,道徳的にも豊かにならなければならない。また,文化国家となるためには,高い学問と芸術とをもち,それらが人間の教養として広く生活文化の中に浸透するようにならなければならない。
 これらは,いずれも,公共の施策に深く関係しているが,その基礎としては,国民ひとりひとりの自覚がたいせつである。
 人間性の向上と人間能力の開発,これが当面要請される第1の点である。


2 今日の国際情勢と第2の要請
 以上は現代社会に共通する課題であるが,今日の日本人には特殊な事情が認められる。第2次世界大戦の結果,日本の国家と社会のあり方および日本人の思考法に重大な変革がもたらされた。戦後新しい理想が掲げられはしたものの,とかくそれは抽象論にとどまり,その理想実現のために配慮すべき具体的方策の検討はなおじゅうぶんではない。とくに敗戦の悲惨な事実は,過去の日本および日本人のあり方がことごとく誤ったものであったかのような錯覚を起こさせ,日本の歴史および日本人の国民性は無視されがちであった。そのため新しい理想が掲げられはしても,それが定着すべき日本人の精神的風土のもつ意義はそれほど留意されていないし,日本民族が持ち続けてきた特色さえ無視されがちである。
 日本および日本人の過去には改められるべき点も少なくない。しかし,そこには継承され,発展させられるべきすぐれた点も数多くある。もし日本人の欠点のみを指摘し,それを除去するのに急であって,その長所を伸ばす心がけがないならば,日本人の精神的風土にふさわしい形で新たな理想を実現することはできないであろう。われわれは日本人であることを忘れてはならない。
 今日の世界は文化的にも政治的にも一種の危機の状態にある。たとえば,平和ということばの異なった解釈,民主主義についての相対立する理解の並存にそれが示されている。
 戦後の日本人の目は世界に開かれたという。しかしその見るところは,とかく一方に偏しがちである。世界政治と世界経済の中におかれている今日の日本人は,じゅうぶんに目を世界に見開き,その複雑な情勢に対処することができなければならない。日本は西と東,北と南の対立の間にある。日本人は世界に通用する日本人となるべきである。しかしそのことは,日本を忘れた世界人であることを意味するのではない。日本の使命を自覚した世界人であることがたいせつなのである。真によき日本人であることによって,われわれは,はじめて真の世界人となることができる。単に抽象的,観念的な世界人というものは存在しない。
 ここから,世界に開かれた日本人であることという第2の要請が現われる。
 今日の世界は必ずしも安定した姿を示していない。局地的にはいろいろな紛争があり,拡大化するおそれもなしとしない。われわれは,それに冷静に対処できる知恵と勇気をもつとともに世界的な法の秩序の確立に努めなければならない。
 同時に,日本は強くたくましくならなければならない。それによって日本ははじめて平和国家となることができる。もとより,ここでいう強さ,たくましさとは,人間の精神的,道徳的な強さ,たくましさを中心とする日本の自主独立に必要なすべての力を意味している。
 日本は与えられる国ではなく,すでに与える国になりつつある。日本も平和を受け取るだけではなく,平和に寄与する国にならなければならない。
 世界に開かれた日本人であることという第2の要請は,このような内容を含むものである。


3 日本のあり方と第3の要請
 今日の日本について,なお留意しなければならない重要なことがある。戦後の日本は民主主義国家として新しく出発した。しかし民主主義の概念に混乱があり,民主主義はなおじゅうぶんに日本人の精神的風土に根をおろしていない。
 それについて注意を要する一つのことがある。それは,民主主義を考えるにあたって,自主的な個人の尊厳から出発して民主主義を考えようとするものと階級闘争的な立場から出発して民主主義を考えようとするものとの対立があることである。
 民主主義の史的発展を考えるならば,それが個人の法的自由を守ることから出発して,やがて大衆の経済的平等の要素を多分に含むようになった事実が指摘される。しかし民主主義の本質は,個人の自由と責任を重んじ,法的秩序を守りつつ漸進的に大衆の幸福を樹立することにあって,法的手続きを無視し一挙に理想境を実現しようとする革命主義でもなく,それと関連する全体主義でもない。性急に後者の方向にかたよるならば,個人の自由と責任,法の尊重から出発したはずの民主主義の本質は破壊されるにいたるであろう。今日の日本は,世界が自由主義国家群と全体主義国家群の二つに分かれている事情に影響され,民主主義の理解について混乱を起こしている。
 また,注意を要する他の一つのことがある。由来日本人には民族共同体的な意識は強かったが,その反面,少数の人々を除いては,個人の自由と責任,個人の尊厳に対する自覚が乏しかった。日本の国家,社会,家庭において封建的残滓(し)と呼ばれるものがみられるのもそのためである。また日本の社会は,開かれた社会のように見えながら,そこには閉ざされた社会の一面が根強く存在している。そのことが日本人の道徳は縦の道徳であって横の道徳に欠けているとの批判を招いたのである。確固たる個人の自覚を樹立し,かつ,日本民族としての共同の責任をになうことが重要な課題の一つである。
 ここから,民主主義の確立という第3の要請が現われる。
 この第3の要請は,具体的には以下の諸内容を含む。
 民主主義国家の確立のために何よりも必要なことは,自我の自覚である。一個の独立した人間であることである。かつての日本人は,古い封建性のため自我を失いがちであった。その封建性のわくはすでに打ち破られたが,それに代わって今日のいわゆる大衆社会と機械文明は,形こそ異なっているが,同じく真の自我を喪失させる危険を宿している。
 つぎに留意されるべきことは社会的知性の開発である。由来日本人はこまやかな情緒の面においてすぐれていた。寛容と忍耐の精神にも富んでいた。豊かな知性にも欠けていない。ただその知性は社会的知性として,人間関係の面においてじゅうぶんに伸ばされていなかった。
 ここで社会的知性というのは,他人と協力し他人と正しい関係にはいることによって真の自己を実現し,法の秩序を守り,よい社会生活を営むことができるような実践力をもった知性を意味する。それは他人のために尽くす精神でもある。しいられた奉仕ではなく,自発的な奉仕ができる精神である。
 さらに必要なことは,民主主義国家においては多数決の原理が支配するが,その際,多数を占めるものが専横にならないことと,少数のがわにたつものが卑屈になったり,いたずらに反抗的になったりしないことである。われわれはだれも完全ではないが,だれでもそれぞれになにかの長所をもっている。お互いがその長所を出しあうことによって社会をよりよくするのが,民主主義の精神である。
 以上が民主主義の確立という第3の要請の中で,とくに留意されるべき諸点である。
 以上述べてきたことは,今日の日本人に対してひとしく期待されることである。世界は平和を求めて努力しているが,平和への道は長くかつ険しい。世界平和は,人類無限の道標である。国内的には経済の発展や技術文明の進歩のかげに多くの問題を蔵している。今日の青少年が歩み入る明日の世界情勢,社会情勢は,必ずしも楽観を許さない。新たな問題も起こるであろう。これに対処できる人間となることが,わけても今日の青少年に期待されるのである。
 以上,要するに人間としての,また個人としての深い自覚をもち,種々の国民的,社会的問題に対処できるすぐれた知性をそなえ,かつ,世界における日本人としての確固たる自覚をもった人間になること,これが「当面する日本人の課題」である。


第2部 日本人にとくに期待されるもの


 以上が今日の日本人に対する当面の要請である。われわれは,これらの要請にこたえうる人間となることを期さなければならない。
 しかしそのような人間となることは,それにふさわしい恒常的かつ普遍的な諸徳性と実践的な規範とを身につけることにほかならない。つぎに示すものが,その意味において,今後の日本人にとくに期待されるものである。


第1章 個人として


1 自由であること
 人間が人間として単なる物と異なるのは,人間が人格を有するからである。物は価格をもつが,人間は品位をもち,不可侵の尊厳を有する。基本的人権の根拠もここに存する。そして人格の中核をなすものは,自由である。それは自発性といってもよい。
 しかし,自由であり,自発的であるということは,かって気ままにふるまうことでもなく,本能や衝動のままに動くことでもない。それでは本能や衝動の奴隷であって,その主人でもなく,自由でもない。人格の本質をなす自由は,みずから自分自身を律することができるところにあり,本能や衝動を純化し向上させることができるところにある。これが自由の第1の規定である。
 自由の反面には責任が伴う。単なる物には責任がなく,人間にだけ責任が帰せられるというのは,人間は,みずから自由に思慮し,判別し,決断して行為することができるからである。権利と義務とが相関的なのもこれによる。今日,自由だけが説かれて責任は軽視され,権利だけが主張されて義務が無視される傾きがあることは,自由の誤解である。自由の反面は責任である。これが自由の第2の規定である。
 人間とは,このような意味での自由の主体であり,自由であることがさまざまな徳性の基礎である。


2 個性を伸ばすこと
 人間は単に人格をもつだけではなく,同時に個性をもつ。人間がそれぞれ他の人と代わることができない一つの存在であるとされるのは,この個性のためである。人格をもつという点では人間はすべて同一であるが,個性の面では互いに異なる。そこに個人の独自性がある。それは天分の相違その他によるであろうが,それを生かすことによって自己の使命を達することができるのである。したがって,われわれはまた他人の個性をも尊重しなければならない。
 人間性のじゅうぶんな開発は,自己だけでなされるのではなく,他人の個性の開発をまち,相伴ってはじめて達成される。ここに,家庭,社会,国家の意義もある。家庭,社会,国家は,経済的その他の意味をもつことはもとよりであるが,人間性の開発という点からみても基本的な意味をもち,それらを通じて人間の諸徳性は育成されてゆくのである。
 人間は以上のような意味において人格をもち個性をもつが,それは育成されることによってはじめて達成されるのである。


3 自己をたいせつにすること
 人間には本能的に自己を愛する心がある。われわれはそれを尊重しなければならない。しかし重要なことは,真に自己をたいせつにすることである。
 真に自己をたいせつにするとは,自己の才能や素質をじゅうぶんに発揮し,自己の生命をそまつにしないことである。それによってこの世に生をうけたことの意義と目的とが実現される。単に享楽を追うことは自己を滅ぼす結果になる。単なる享楽は人を卑俗にする。享楽以上に尊いものがあることを知ることによって,われわれは自己を生かすことができるのである。
 まして,享楽に走り,怠惰になって,自己の健康をそこなうことがあってはならない。健全な身体を育成することは,われわれの義務である。そしてわれわれの一生の幸福も,健康な身体に依存することが多い。われわれは,進んでいっそう健全な身体を育成するように努めなければならない。古来,知育,徳育と並んで体育に重要な意味がおかれてきたことを忘れてはならない。


4 強い意志をもつこと
 頼もしい人,勇気ある人とは,強い意志をもつ人のことである。付和雷同しない思考の強さと意志の強さをもつ人である。和して同じないだけの勇気をもつ人である。しかも他人の喜びを自己の喜びとし,他人の悲しみを自己の悲しみとする愛情の豊かさをもち,かつそれを実行に移すことができる人である。
 近代人は合理性を主張し,知性を重んじた。それは重要なことである。しかし人間には情緒があり,意志がある。人の一生にはいろいろと不快なことがあり,さまざまな困難に遭遇する。とくに青年には,一時の失敗や思いがけない困難に見舞われても,それに屈することなく,つねに創造的に前進しようとするたくましい意志をもつことを望みたい。不撓(とう)不屈の意志をもつことを要求したい。しかし,だからといって,他人に対する思いやりを失ってはならないことはいうまでもない。頼もしい人とは依託できる人のことである。信頼できる人のことである。互いに不信をいだかなければならない人々からなる社会ほど不幸な社会はない。近代人の危機は,人間が互いに人間に対する信頼を失っている点にある。
 頼もしい人とは誠実な人である。おのれに誠実であり,また他人にも誠実である人こそ,人間性を尊重する人なのである。このような人こそ同時に,精神的にも勇気のある人であり,強い意志をもつ人といえる。


5 畏(い)敬の念をもつこと
 以上に述べてきたさまざまなことに対し,その根底に人間として重要な一つのことがある。それは生命の根源に対して畏敬の念をもつことである。人類愛とか人間愛とかいわれるものもそれに基づくのである。
 すべての宗教的情操は,生命の根源に対する畏敬の念に由来する。われわれはみずから自己の生命をうんだのではない。われわれの生命の根源には父母の生命があり,民族の生命があり,人類の生命がある。ここにいう生命とは,もとより単に肉体的な生命だけをさすのではない。われわれには精神的な生命がある。このような生命の根源すなわち聖なるものに対する畏敬の念が真の宗教的情操であり,人間の尊厳と愛もそれに基づき,深い感謝の念もそこからわき,真の幸福もそれに基づく。
 しかもそのことは,われわれに天地を通じて一貫する道があることを自覚させ,われわれに人間としての使命を悟らせる。その使命により,われわれは真に自主独立の気魄(はく)をもつことができるのである。


第2章 家庭人として


1 家庭を愛の場とすること
 婚姻は法律的には,妻たり夫たることの合意によって成立する。しかし家庭の実質をなすものは,互いの尊敬を伴う愛情である。種々の法的な規定は,それを守り育てるためのものともいえる。また家庭は夫婦の関係から出発するにしても,そこにはやがて親子の関係,兄弟姉妹の関係が現われるのが普通である。そして,それらを一つの家庭たらしめているのは愛情である。
 家庭は愛の場である。われわれは愛の場としての家庭の意義を実現しなければならない。
 夫婦の愛,親子の愛,兄弟姉妹の愛,すべては愛の特定の現われにほかならない。それらの互いに性格を異にする種々の愛が集まって一つの愛の場を構成するところに家庭の本質がある。家庭はまことに個人存立の基盤といえる。
 愛は自然の情である。しかしそれらが自然の情にとどまる限り,盲目的であり,しばしばゆがめられる。愛情が健全に育つためには,それは純化され,鍛えられなければならない。家庭に関する種々の道徳は,それらの愛情の体系を清めつつ伸ばすためのものである。道を守らなくては愛は育たない。古い日本の家族制度はいろいろと批判されたが,そのことは愛の場としての家庭を否定することであってはならない。愛の場としての家庭を守り,育てるための家庭道徳の否定であってはならない。


2 家庭をいこいの場とすること
 戦後,経済的その他さまざまな理由によって,家庭生活に混乱が生じ,その意義が見失われた。家庭は経済共同体の最も基本的なものであるが,家庭のもつ意義はそれに尽きない。初めに述べたように,家庭は基本的には愛の場である。愛情の共同体である。
 今日のあわただしい社会生活のなかにおいて,健全な喜びを与え,清らかないこいの場所となるところは,わけても家庭であろう。大衆社会,大衆文化のうちにおいて,自分自身を取りもどし,いわば人間性を回復できる場所も家庭であろう。そしてそのためには,家庭は清らかないこいの場所とならなければならない。
 家庭が明るく,清く,かつ楽しいいこいの場所であることによって,われわれの活力は日々に新たになり,それによって社会や国家の生産力も高まるであろう。社会も国家も,家庭が健康な楽しいいこいの場所となるように,またすべての人が家庭的な喜びを享受できるように配慮すべきである。


3 家庭を教育の場とすること
 家庭はいこいの場であるだけではない。家庭はまた教育の場でもある。しかしその意味は,学校が教育の場であるのとは当然に異なる。学校と家庭とは協力しあうべきものであるが,学校における教育が主として意図的であるのに対し,家庭における教育の特色は,主として無意図的に行なわれる点に認められる。家庭のふんい気がおのずからこどもに影響し,健全な成長を可能にするのである。子は親の鏡であるといわれる。そのことを思えば,親は互いに身をつつしむであろう。親は子を育てることによって自己を育てるのであり,自己を成長させるのである。また,こどもは成長の途上にあるものとして,親の導きに耳を傾けなければならない。親の愛とともに親の権威が忘れられてはならない。それはしつけにおいてとくに重要である。こどもを正しくしつけることは,こどもを正しく愛することである。


4 開かれた家庭とすること
 家庭は社会と国家の重要な基盤である。今日,家庭の意義が世界的に再確認されつつあるのは,そのためである。
 またそれだけに,家庭の構成員は,自家の利害得失のうちに狭く閉ざされるべきではなく,広く社会と国家にむかって開かれた心をもっていなければならない。
 家庭における愛の諸相が展開して,社会や国家や人類に対する愛ともなるのである。


第3章 社会人として


1 仕事に打ち込むこと
 社会は生産の場であり,種々の仕事との関連において社会は成立している。われわれは社会の生産力を高めなければならない。それによってわれわれは,自己を幸福にし,他人を幸福にすることができるのである。
 そのためには,われわれは自己の仕事を愛し,仕事に忠実であり,仕事に打ち込むことができる人でなければならない。また,相互の協力と和合が必要であることはいうまでもない。そして,それが他人に奉仕することになることをも知らなければならない。仕事を通じてわれわれは,自己を生かし,他人を生かすことができるのである。
 社会が生産の場であることを思えば,そこからしてもわれわれが自己の能力を開発しなければならないことがわかるであろう。社会人としてのわれわれの能力を開発することは,われわれの義務であり,また社会の責任である。
 すべての職業は,それを通じて国家,社会に寄与し,また自己と自家の生計を営むものとして,いずれも等しく尊いものである。職業に貴賤(せん)の別がないといわれるのも,そのためである。われわれは自己の素質,能力にふさわしい職業を選ぶべきであり,国家,社会もそのために配慮すべきであるが,重要なのは職業の別ではなく,いかにその仕事に打ち込むかにあることを知るべきである。


2 社会福祉に寄与すること
 科学技術の発達は,われわれの社会に多くの恩恵を与えてきた。そのことによって,かつては人間生活にとって避けがたい不幸と考えられたことも,技術的には解決が可能となりつつある。
 しかし,同時に近代社会は,それ自体の新しい問題をうみだしつつある。工業の発展,都市の膨張,交通機関の発達などは,それらがじゅうぶんな計画と配慮を欠くときは,人間の生活環境を悪化させ,自然美を破壊し,人間の生存をおびやかすことさえまれではない。また,社会の近代化に伴う産業構造や人間関係の変化によってうみだされる不幸な人々も少なくない。しかも,今日の高度化された社会においては,それを構成するすべての人が互いに深い依存関係にあって,社会全体との関係を離れては,個人の福祉は成り立ちえない。
 民主的で自由な社会において,真に社会福祉を実現するためには,公共の施策の必要なことはいうまでもないが,同時にわれわれが社会の福祉に深い関心をもち,進んでそれらの問題の解決に寄与しなければならない。
 近代社会の福祉の増進には,社会連帯の意識に基づく社会奉仕の精神が要求される。


3 創造的であること
 現代はまた大衆化の時代である。文化が大衆化し,一般化することはもとより望ましい。しかし,いわゆる大衆文化には重要な問題がある。それは,いわゆる大衆文化はとかく享楽文化,消費文化となりがちであるということである。われわれは単に消費のための文化ではなく,生産に寄与し,また人間性の向上に役だつような文化の建設に努力すべきである。そしてそのためには,勤労や節約が美徳とされてきたことを忘れてはならない。
 そのうえ,いわゆる大衆文化には他の憂うべき傾向が伴いがちである。それは文化が大衆化するとともに文化を卑俗化させ,価値の低迷化をもたらすということである。多くの人々が文化を享受できるようにするということは,その文化の価値が低俗であってよいということを意味しない。文化は,高い方向にむかって一般化されなければならない。そのためにわれわれは,高い文化を味わいうる能力を身につけるよう努力すべきである。
 現代は大衆化の時代であるとともに,一面,組織化の時代である。ここにいわゆる組織内の人間たる現象を生じた。組織が生産と経営にとって重要な意味をもつことはいうまでもないが,組織はえてして個人の創造性,自主性をまひさせる。われわれは組織のなかにおいて,想像力,企画力,創造的知性を伸ばすことを互いにくふうすべきである。
 生産的文化を可能にするものは,建設的かつ批判的な人間である。
 建設的な人間とは,自己の仕事を愛し,それを育て,それに自己をささげることができる人である。ここにいう仕事とは,農場や工場に働くことでもよく,会社の事業を経営することでもよく,学問,芸術などの文化的活動に携わることでもよい。それによって自己を伸ばすことができ,他の人々に役だつことができる。このようにしてはじめて文化の発展が可能となる。
 批判的な人間とは,いたずらに古い慣習などにこだわることなく,不正を不正として,不備を不備とし,いろいろな形の圧力や権力に屈することなく,つねによりよいものを求めて前進しようとする人である。社会的不正が少なくない今日,批判的精神の重要性が説かれるのも,単に否定と破壊のためではなく,建設と創造のためである。


4 社会規範を重んずること
 日本の社会の大きな欠陥は,社会的規範力の弱さにあり,社会秩序が無視されるところにある。それが混乱をもたらし,社会を醜いものとしている。
 日本人は社会的正義に対して比較的鈍感であるといわれる。それが日本の社会の進歩を阻害している。社会のさまざまな弊害をなくすため,われわれは勇気をもって社会的正義を守らなければならない。
 社会規範を重んじ社会秩序を守ることによって,われわれは日本の社会を美しい社会にすることができる。そしてその根本に法秩序を守る精神がなければならない。法秩序を守ることによって外的自由が保証され,それを通じて内的自由の領域も確保されるのである。
 また,われわれは,日本の社会をより美しい社会とし,われわれのうちに正しい社会性を養うことによって,同時によい個人となり,よい家庭人ともなることができるのである。社会と家庭と個人の相互関連を忘れてはならない。
 日本人のもつ社会道徳の水準は遺憾ながら低い。しかも民主化されたはずの戦後の日本においてその弊が著しい。これを正すためには公共心をもち,公私の別を明らかにし,また公共物をだいじにしなければならない。このように社会道徳を守ることによって,明るい社会を築くことに努めなければならない。


第4章 国民として


1 正しい愛国心をもつこと
 今日世界において,国家を構成せず国家に所属しないいかなる個人もなく,民族もない。国家は世界において最も有機的であり,強力な集団である。個人の幸福も安全も国家によるところがきわめて大きい。世界人類の発展に寄与する道も国家を通じて開かれているのが普通である。国家を正しく愛することが国家に対する忠誠である。正しい愛国心は人類愛に通ずる。
 真の愛国心とは,自国の価値をいっそう高めようとする心がけであり,その努力である。自国の存在に無関心であり,その価値の向上に努めず,ましてその価値を無視しようとすることは,自国を憎むことともなろう。われわれは正しい愛国心をもたなければならない。


2 象徴に敬愛の念をもつこと
 日本の歴史をふりかえるならば,天皇は日本国および日本国民統合の象徴として,ゆるがぬものをもっていたことが知られる。日本国憲法はそのことを,「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く。」という表現で明確に規定したのである。もともと象徴とは象徴されるものが実体としてあってはじめて象徴としての意味をもつ。そしてこの際,象徴としての天皇の実体をなすものは,日本国および日本国民の統合ということである。しかも象徴するものは象徴されるものを表現する。もしそうであるならば,日本国を愛するものが,日本国の象徴を愛するということは,論理上当然である。
 天皇への敬愛の念をつきつめていけば,それは日本国への敬愛の念に通ずる。けだし日本国の象徴たる天皇を敬愛することは,その実体たる日本国を敬愛することに通ずるからである。このような天皇を日本の象徴として自国の上にいただいてきたところに,日本国の独自な姿がある。


3 すぐれた国民性を伸ばすこと
 世界史上,およそ人類文化に重要な貢献をしたほどの国民は,それぞれに独自な風格をそなえていた。それは,今日の世界を導きつつある諸国民についても同様である。すぐれた国民性と呼ばれるものは,それらの国民のもつ風格にほかならない。
 明治以降の日本人が,近代史上において重要な役割を演ずることができたのは,かれらが近代日本建設の気力と意欲にあふれ,日本の歴史と伝統によってつちかわれた国民性を発揮したからである。
 このようなたくましさとともに,日本の美しい伝統としては,自然と人間に対するこまやかな愛情や寛容の精神をあげることができる。われわれは,このこまやかな愛情に,さらに広さと深さを与え,寛容の精神の根底に確固たる自主性をもつことによって,たくましく,美しく,おおらかな風格ある日本人となることができるのである。
 また,これまで日本人のすぐれた国民性として,勤勉努力の性格,高い知能水準,すぐれた技能的素質などが指摘されてきた。われわれは,これらの特色を再認識し,さらに発展させることによって,狭い国土,貧弱な資源,増大する人口という恵まれない条件のもとにおいても,世界の人々とともに,平和と繁栄の道を歩むことができるであろう。
 現代は価値体系の変動があり,価値観の混乱があるといわれる。しかし,人間に期待される諸徳性という観点からすれば,現象形態はさまざまに変化するにしても,その本質的な面においては一貫するものが認められるのである。それをよりいっそう明らかにし,あるいはよりいっそう深めることによって人間をいっそう人間らしい人間にすることが,いわゆる人道主義のねらいである。そしてまた人間歴史の進むべき方向であろう。人間として尊敬に値する人は,職業,地位などの区別を越えて共通のものをもつのである。



(生涯学習政策局政策課)




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