◆199001KHK092A2L0074C
TITLE:  学校に対する元号使用の強制
AUTHOR: 羽山 健一
SOURCE: 投稿(1990年1月)
WORDS:  全40字×74行

 

学校に対する元号使用の強制

 

羽 山 健 一 

 

  元号法は,近い将来,天皇が死亡するであろうことを予想して,早くも1979年に制定されました。その内容は次のとおりです。

   1.元号は,政令で定める。

   2.元号は,皇位の継承があった場合に限り改める。

 付則

   1.この法律は,公布の日から施行する。

   2.昭和の元号は,本則第1項の規定に基づき定められたものとする。

  元号に関する「政府の統一見解」によれば,元号は年を表示するひとつの方法であり,その使用を国民一般に強制するべき性質のものではないので,同法は元号制度を法制化したにとどまり,元号の使用を国民に義務づけるものではない,としています。これは,元号使用の法的強制が思想・良心の自由(憲法20条),言論・表現の自由(23条),法の下の平等(14条)個人の尊厳(11条)を侵害する危険があるからです。

  しかし,この法律は全文29文字という簡単な条文であり,はなはだ法意があいまいであるので,同法がいったん施行されると,元号の使用が権力的に強制される危険性が心配されていました。事実,広島県教育委員会は,1987年3月,元号にするとの規則に従わず西暦で卒業証書を交付した54名の学校長を文書訓告などの処分にしました。また現在も進行している教科書裁判のなかでは,教科書の記述について,元号・西暦の併用は認めながらも,元号の記述を先に出して西暦を後ろに併記するようにというのが文部省の教科書検定の方針となっています。

  先の「政府統一見解」によれば,「元号制度は法律でもって国会が定めた以上,国の機関としては特に理由のない限り,元号を使用すべきことは当然であり,地方公共団体も国に準ずるものと考える」としています。ということは,学校も「お役所」の一つとして,当然のこととして元号をしようしなければならない,ということになるのでしょうか。このことには大きな疑問を持たざるを得ません。たとえば,広島県の1987年の卒業式では,一部の卒業生が元号記入の卒業証書の受け取りを拒否するなどの混乱がいくつのも学校で起こったため,県教委は翌年1月,元号のほか西暦の併記も認める方針を出しました。

  学校において元号使用が強制されることへの疑問は,次の諸点です。まず第一に,元号そのものの問題があります。元号の「一世一元」制は,天皇中心的な考え方にもとづくもので,国民主権の原理に矛盾する面があり,その使用について世論も分かれています。また,公的機関が元号表記に統一することで,国民に元号の使用が事実上強制されてしまう心配もあります。

  第二に,学校における年代表記は教育内容の一部となqることもあり,これに対する権力的な統制は許されるべきではありません。この意味において学校における元号使用は,「お役所」におけるそれとは根本的に異なるものです。教育基本法10条1項は,「教育は不当な支配に服することなく国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」として,教育内容についての不当な支配を禁止しています。元号法が国民に対して具体的な使用義務を課するものではない以上,教育委員会,管理職等が,教員に元号使用を強制することは,教育に対する「不当な支配」にあたり,教育基本法に違反します。

  第三に,元号は皇国史観と結び付いた,極めてイデオロギー的な年代表記方法であり,その使用は個人の思想,信条,あるいは,歴史観,世界観,価値観,人生観,天皇観,道徳といったものに深く関わっています。そういった点を捨象して,教育の場において元号の使用を強制することは,学校が,元号と密接不可分な特定の思想,信条を生徒に注入することになります。いうまでもなく,学校は政府が正当と認めた思想だけを生徒に教え,教化する場所ではありません。

  第四に,教科教育において西暦を使用することは,個々の歴史的事象を全体の歴史の流れの中に位置付けて,その事象をより的確に把握させることができ,また,日本の歴史を世界の歴史の流れの中に位置付け,世界史との関連を見るのに役立ちます。したがって,日本史においても西暦の使用が不可欠であり,優先的に使用されるべきです。

  ところで,元号の使用の問題は,「始末をつける」教育観との関係で理解されなければならないと思います。「始末をつける」教育とは,社会的に議論の余地のある問題について,その議論を尽くすことなく,権力者側が自らの立場から教育を支配し,その立場を子どもに注入することによって,教育によって「ケリ」を付けてしまおうというものです。元号についても,このようなことが行われているのではないか,と心配されます。国民は子どもの頃から学校で元号の使用に慣らされ,育てられたならば,何年か後には,元号の使用について何の異和感も持たなくなり,また疑問も抱かなくなってしまいます。そしてその時には,元号が完全に定着し,議論の余地さえもなくなってしまうのです。このようなことから,権力者側は教育のもつ絶大な威力に期待し,教育に対する介入を強めようとする傾向があります。私達は,国民に対し思想的に強力な影響力を発揮しうる教育という営みに携わっていて,それは権力の介入を受けやすいものである,ということを深く自覚しておく必要があると思います。

  国民は教育を受ける権利を持っていますが(憲法26条),この「教育」とは,個人の人格を完成させるための教育であり,将来の自律的な主権者となるために役立つ教育でなければなりません。そのために,教員は生徒に特定の価値観を押しつけることのないよう注意するべきであり,また生徒が様々な価値判断にあたって,自ら正しい判断が下せるような能力を育てていかなければなりません。

  以上に述べたことは,元号の問題のみならず,日の丸や君が代の問題にも共通するところが多かったように思います。日の丸,君が代は学習指導要領改訂の移行措置として,実施されようとしており,より切迫した問題であるといtえます。この問題についても充分な認識を持っておきたいものです。


Copyright© 執筆者,大阪教育法研究会