◆199003KHK094A1L0162P
TITLE:  学校づくりを考える − 私の実践から −
AUTHOR: 青木  一
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第094号(1990年3月)
WORDS:  全40字×162行

 

学校づくりを考える

−私の実践から−

青 木  一(大阪高法研顧問)

 

  私自身の体験から、学校づくりということをお話します。

  小・中あわせて25年間校長をしました。はじめは教師になるつもりはありませんでしたが、応召で軍隊にいったことで、子どもたちを戦争にやらない教育の必要を感じ、また、軍隊にいくまえは国家主義教育のお先棒をかつぎ、手も汚していたのでその罪滅ぼしという気持ちもありました。

  1921年の4月に復員しましたが、学校では適格審査合格まで子どもを受け持つことができず、GHQからの指令を解釈・研究し先生がたに伝えるという仕事をするように校長にいわれ、それをしたことが新教育の理解に大きく役立ちました。

  一方、組合やサークル活動に参加していたので名前が知られていたのか、新制中学の校長予定者から教頭にという話がいくつかありましたが断わっていたところ、突然校長をやれといわれました。当時35歳で、大阪府下最年少の校長だといわれました。

  いやいや行ったところが泉北郡取石村でした。ここは昔は村に学校がなく、他の二つの村の小学校に子どもを預けていましたが、室戸台風の時、隣村の学校が倒壊したのを機に、村に学校をつくったというところでした。

  貧しい村だったので、予算が少なく、机も作れない状況でしたが、台風で神社の大きな松の木がたおれていたので、それで刑務所に頼み、やっと机をととのえることができました。また、先生集めにも一苦労しました。

  さて、新制中学は、村の最高学府であるということから、教師にとっては「新しい学校」、子どもにとっては「楽しい学校」、親・住民にとっては「村の学校」という3点を学校経営の柱としました。当時(1949年)書いた『本校経営の一頁』という「実践報告」の中で、「新しい学校」については、「新しいとは生命の躍動している、生きているものの真実の姿である。即ちダイナミックな生活の表現である。学校は生きている。その活動は創造的であり、その進動は開拓的である。そして、そのパイオニアは教師である。だから、教師は、いつも昨日を踏まえ、明日をはらんだ中今の今日にたっている。歴史のフロンティアであるといえる。徒に流行を追い、時流におもねることを新しいというのではなく、目的完遂の悩みと問題解決の苦しみの追求過程の後に来るものが新しいのである。ここに新教育の意義がある。教育の民主化とは教師自身の問題である。新教育の第一歩は教師自らの民主化からである。この基本が確立すれば、新教育の方途はデモクラシーに徹した教師自身がひたむきな愛情を持って対する子どもたちの日常の教育実践の中から自然に生まれてくるものである。・略・」とし、「楽しい学校」については、「子どもたちはいわゆる集められた集団であり、敗戦という厳しい現実の最大の犠牲者である。強いていえば、単に集まっているというに過ぎない。これを集まった集団にすることは並み大抵のことではない。そのため本校はこの子どもたちを民主化するために楽しい学校というスローガンを掲げて学校経営の着眼の第2とした・略・」し、「村の学校」については、「従来、学校は社会と遊離し、教育は教育者の専売特許であると考えられていた。社会そのものを研究室や実験室とすることを考えなかった。従って、学校教育に対する父母の関心はきわめて依存的であり、無関心であり、・略・とくに、教育の母胎である母親は、わが子のみを眼中にいれて人の子を見ず、立身出世主義を押しつけ排他的となり、他人を押し倒してもわが子の安全のみを祈る利己主義の奴隷であった。この母を済度しなければ子どもは永遠に救われないのである。機会あるごとに『学校の母親になってください』とよびかけ、『教育は皆さんの手中にある』と叫んできた。あくまでも村の学校だ、自分たちの学校だという意識を強化して、コミュニティー・スクールの実現を期したい。」としています。

  こうした気持ちから、「学校は文化の中心である」とか「中学校は村の最高学府である」とか、絶えずいっておりました。するとあるとき、いなごやザリガニが発生して困っていることが学校に持ち込まれました。職員会議にはかって、それらからアミノ酸醤油をつくることに決まり、授業参観で公開しました。子どもがつくる醤油を気味悪がっていたお母さんがたも「配給の醤油の方が正体不明だ」というと安心して味見し、水増しした配給のものよりおいしいといって喜んで持って帰り、これで、「新制は偉いところや」ということになりました。

  もう一つは子どもの学力低下の問題です。なんとかしなければということで、まず実態調査をしてどこでつまずいているかを明かにし、親とも話し合いました。次に、ではどう学力をつけるかということでは、学年のわくを外して段階的に集めて指導しようということになりました。しかし上級生が劣等感を持つのではないかということで、半年ほど議論しましたが決定打がでないままカリキュラムづくりをはじめました。そろばん塾は、級(段階)の間がスモール・ステップになっているので子どもが喜んですることなども参考にし、数学のほうは割に早くできましたが、国語の漢字は、ある程度社会常識のできた中学生に、単に小学生の段階を順に踏ませるのでは駄目で、発達に応じてわかるものを教えようということになりました。ところが戦前の漢字調査では「朕」だとか「勅」などが高頻度となっており駄目だということで、幾種類かの新聞・総合雑誌ひと月分の漢字使用の頻度を調査しました。劣等感の問題は、段階の名前を「3年クラス」などとせずにほかの名前をつけることにして、たとえば数学では「パスカル・コース」、「デカルト・コース」など大数学者の名前を、国語では「ゲーテ・コース」、「シェイクスピア・コース」、「人麿コース」、「白楽天コース」など大文学者の名前をつけました。子どものほうもカタカナことばに魅力を感じて喜びました。朝の第1時限の月・水・金は国語、日・木・土は数学を学年のわくをはずして、この段階学習をしました。1年間でだいたい成果をあげたので、以後はショートタイムにして実施して、3年で目的を達しました。

  次に、生徒が学校外の影響で荒れるということがありました。原因は村の青年団にあるということで、直接青年団長を買って出て、「ルールを守る」ということで、その運営の基本にしました。

  また新教育には金がいるということで走り回り、17町村から百万円集め、教研の調査や新教育の研究者の講演会を開いたりもしました。これは勤評闘争時代まで続き、郡の教育全体のレベル・アップがはかれ、私の学校が新教育のメッカといわれるようになりました。

  地域の行事にも参加しなければならないということで、昔、村からでた一揆の首謀者のことを音頭にし、盆踊り大会を催しました。8時まで小学校、10時まで中学校、後は青年団ということにして皆が参加することによって、地域の気持ちを一つにすることができました。

  それやこれやで、府教委から学校表彰やら個人表彰を受けました。

  次に赴任した高石小学校では、PTAが私の赴任に反対していたので、「PTAが反対しているような学校へは行けません」といって、2週間赴任しなかったら、PTA会長が迎えにきてくれました。しかし、はじめの1年は裸の王様のようなおもいでしたが、正義は貫きました。職員会議にPTAの費用でお茶菓子を出していたのでやめさせ、PTAの改革にも手をつけました。

  最初は、運動会の前日からの席取り合戦やお昼の弁当のための生徒呼び出しの混雑、出番が少なくうろついて叱られている1年生などを見て、土・日の2日間を 1・3・5年と 2・4・6年の学年に分けて、半日づつ行い、昼食も子どもの希望による給食を、また、運動会前だけ付け焼き刃的に詰め込んでいるダンスをやめ、学年毎のフォークダンスを決定して、年度を通じて指導し、それを発表することにしました。また団体競技も学年で2種目にし、1つは学年で固定しました。例えば1年生は「紅白玉入れ」、6年生は「騎馬戦」で、他の1つは学年での創作としました。そして、終りの集いは、その年の運動会のテーマにそって、全員総出で分担して、運動場いっぱいの大ページェントで幕を閉じ、毎年の呼物となりました。

  PTAの改革では、会費はPTA活動以外には費消しないことを原則とし、活動はすべて学習に徹すること、例えば学級PTAが中心になり、PTAの活動はすべて学級から始まり学級に還るということを原則にしました。勉強のための「お母さん教室」「クラブ活動」、すべて教育にかかわる内容で、OBになっても、今日なお続けられているという状況です。またPTA会則を変更して、学級委員、学年委員、会長などの四役、すべて直接選挙による立候補制にしました。

  教師の研究体制は、サークル研究を重視し、自主的な研究を重んじ、研究による教師の集団化を大切にしました。そのため出張旅費は保障して、その研究内容をみんなに報告することにしました。また忙しくて研究の時間がとりにくいということから、午前中に40分授業で5時間をし、午後の時間は研究に開放する「午前5時間制」を実施しました。その条件として、1・2年生は授業時間がたっぷりあるから3年生になるとき、いわゆるおちこぼれを出さないで学力保障をする事、子どもは午後3時まで校内で拘束し、1・2年は教師が配慮し、3年以上は自主的な班で、学校中どこを使ってもよいから班学習をする。そのため宿題を一切出さない。ワークブック・テスト用紙は市販のものを使わないで教師自ら製作をする。子どもは自分の課題を教科毎に見つけて、それを達成する。また子どもは家で好きな教科の授業記録を書く。5年生のある子どもは、「夕づる」の授業14時間分の全記録を原稿用紙82枚に書き上げました。そのため教師はいわゆる授業で勝負するという授業をしなければ、子どもは課題も発見できず、記録もつくれないことになります。また教師は子どもの授業記録や課題で子どもに学ぶことになります。しかし、きびしいことはいうまでもありません。だから、西日本の作文大会や、第1回全国授業研究大会等、数多くの自発的な研究会が持てたのも、集められた教師が集まった教師集団になったからです。

  学校行事もすべて子ども中心に行われました。遠足も文字通りマイペースで歩きます。Aコース1・2年向き、Bコース3・4年向き、Cコース5・6年向きに決められていて、自分の体調によってコースを選ぶ仕組みになっています。1年でもBコースに挑戦したり、6年だが体の調子が悪いので、Bコースを選んで欠席しないようにがんばれるといった具合です。それぞれ時差によって出発し、最終的には全校の子どもたちが同じ場所で落ち合い、すぐに解散して、学年2名づつで12名の班を作ります。そして、班毎に分散して水遊びをしたり、飯ごうすいさんで、それぞれ任務を分担して昼食をとり、人間関係を深め、帰路はまたコース別で歩きます。なおこの班は運動会の観覧席に引き継がれ、父母も同席して応援に熱中したりして、ますます人間関係が深まり、日常の運動場での遊びにも生かされ、その仕上げを、2月雪の金剛登山もこの班編成でしますが、事故もなくよく助け合って大行事ができるのです。子どもは信じられると偉大な力を発揮するものです。

  なお外部からの持ちこみ行事は一切やりませんでした。例えば警察の交通訓練、図画や音楽のコンクール、指導主事の学校訪問による授業巡視等一切おことわりしました。すべて、ためにする結果に終り、本質をそこなうからです。

  こうして高石小学校では12年過ごしましたが、68年10月9日、教科書裁判京都出張法廷で、家永側の証人として、現場実践を証言したことや、泉北コンビナートによる公害で子どもたちに与える健康上の調査を克明にして、その弊害を発表したことから、自民党や企業からの要請で、不意配転で、高陽小学校に出されました。組合員もいないし、教育長の膝元で、戦後も「日の丸」・「君が代」の学校で、いわば座敷牢に入れられたようなものでした。

  毎日がたたかいの学校づくりでした。でも、子どもはすばらしい可能性の持ち主です。 卒業式にかかげた日の丸の旗をおろして、チューリップや桜の花咲く、「君が代」のない入学式から始めました。いよいよ校長も運のつきだというささやきが聞こえましたが、まず、教師集団づくりからということで、通知簿づくりから授業研究へと方向づけるなかで、教師の良心が研究体制をみごとにつくりあげました。もちろん簡単ではありませんでしたが、たっぷり1年はかかりました。そのきっかけを作ってくれたのが、子どもたちでした。みごと運動会を子どもたちの手でなしとげました。どの子どもも自治能力は持っていたのです。教師主導の運動会が子どもの手によってすばらしい成果をもたらしました。 だから、次の年の入学式も、2年生になる子どもたちの手でやりとげました。去年先生たちがつくりあげた舞台も、子どもの発想できりんやぞうやくまさんが歓迎の姿で並び、新1年生を喜ばせました。

  わたしが退職する年の卒業式の舞台は、子どもたちの発想で、金屏風をつくり、卒業生一人ひとりがそこに憲法の前文をあざやかに書きました。

  この3年間は、対外的には鳴かず飛ばずの3年間でしたが、研究者たちの挑発で、先生たちがたちあがり、72年3月22日「高陽の教育を考える研究集会」を持ち、 300人の父母と 200人の先生たちを集めて、わたしの引退の花道を飾ってくれました。

  学校は校長によって変わるけれども、校長によって変わらない学校がほんものです。そのためには集められた教師が集まった教師になることがその基本ですし、また、教師一人ひとりが、方向目標で一致して、到達目標は個性的であるのが原則です。ことばを変えれば、教師も子どもも、みんな公転しながら自転するということが、学校づくりの原点です。これが、わたしの25年間の校長生活から学びえたことでした。

 (注:この文章は、青木先生の記念講演から、編集部でまとめたもので、誤りなどはすべて編集部の責任であることをおことわり申し上げます。)

 


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