◆199005KHK095A2L0244E
TITLE:  図書館の本にクレームが
AUTHOR: 羽山 健一
SOURCE: 柿沼昌芳編著『職員室の話題にみる−親の責任・教師の責任の教育法的検討』(1990年5月)学事出版
WORDS:  全40字×244行

 

図書館の本にクレームが

 

大阪高等学校教育法研究会  羽 山 健 一

 

●話題●

 A(司書) 「困ったわ。先日、校長先生から『図書館には、こういう本は入っていないだろうね?』と聞かれ、学校図書館には不適切だとされる図書のリストを渡されたのです。ところが、その中の一冊が書架にあるんです」

 B 「校長が職権で本を除去させようとするのは、秦の始皇帝の焚書や、日本の治安維持法下の禁書と同じ性質のものじゃないか! そういえば、以前にも愛知や千葉の公立高校で、図書館用の本を選ぶときに、校長が特定の著者や出版社の図書を、偏向している、戦争を扱っている、反体制的なものだから、などの理由で禁止させていたことがあったけどそれと同じでまさしく思想の弾圧だね」(注1)

 A 「校長先生だけでなく、他の先生からも『こんな政治家の書いた本を置いていいの?』と、ある団体からの寄贈本に対して異議が出されたこともあったわ」

 B 「各学校に本を寄贈することは、よほど財政の豊かな団体でないとできないから、その寄贈本の内容にも一定の傾向があるのだろう。それにしても、図書館の本にもいろんな問題が起こるんだなあ」

 A 「そうなのよ。たとえば最近、黒人差別を理由に絶版になった『ちびくろサンボ』や身元調査を勧めている冠婚葬祭の本などのように、他人の人権にかかわるものには特に気を使うわ。それ以外にも、先生方から寄贈してもらった本の中に、とうてい高校生にはふさわしくないような家庭医学書があったり……」

 B 「めんどうだったら、内緒で書架から除いておけば? 誰も気が付かないよ」

 A 「そういうわけにはいかないわ」

 

●どう考えたらよいか●

 

 一 学校図書館の意義

 

  先に述べた″禁書″や″自主規制″などの問題は、学校図書館の知的自由に関するものであるが、それを論ずる前に、学校図書館の意義を再確認しておきたい。

  学校図書館は、学校図書館法三条および学校教育法施行規則一条によって、各学校にその設置が義務づけられている。それでは、なぜその設置が義務づけられるようになったのであろうか。まず、戦前の中央集権的な教育制度のもとでは、教師が国の定めた教育内容を、教科書に従い型どおり教える、画一的な教育が推し進められた。そこでは教科書以外の図書および図書舘は何ら必要とされず、逆に取り締まりの対象となっていた(注2)。

  これに対して、戦後教育改革においては「個人の価値と尊厳」に教育の基礎がおかれ、生徒の個性や教師の教育の自由が重視された。また、教育方法においても、画一的・詰め込み式教授法が廃され、自発的学習形態が求められるようになった。そして「学校の仕事が、規定された教育課程と各科日ごとに認定されたただ一冊の教科書とに制限されていたのでは、これらの目的はとげられようがない」という反省のもとに、生徒が各自の興味や能力に応じて自由に利用できる教材の必要性が認識され、「自学自習のための図書賭その他の機関が、重要な役割を演ずるべきである」と指摘された(注3)。

  戦後教育改革の理念は現行教育法制に反映し、学校教育法二一条二項は「教科用図書以外の図書その他の教材で有益適切なものは、これを使用することができる」と定め、学校図書館法は、「学校図書館が、学校教育に欠くことのできない基礎的な設備である」(一条)として、その設置を義務づけたのである。

 

 二 「図書館の自由」の概念

 

  学校図書館がその機能を発揮するためには、選書その他の活動において、図書館運営上の自由が認められなければならない。もし、図書館運営に対し権力による介入が公然と行われるようになれば、図書館は思想善導の機関と化してしまう。この自由について、図書舘事業の進歩発展をめざす民間団体である日本図書館協会(JLA)は、「図書館の自由に関する宣言(一九七九年改訂)」を決議し、国民の知る自由を保障するため次のような原則を確認した。すなわち、(1)図書館の資料収集の自由、(2)資料提供の自由、(3)利用者のプライバシーの保護、(4)利用者の公平な権利、(5)図書館員の身分保障、である。

  これらの諸原則の中で、冒頭の″禁書″問題に深くかかわるのは、資料収集の自由である。この自由について同宣言は、「図書館は自らの責任において作成した収集方針にもとづき資料の選択および収集を行う」と定め、その「収集方針」のうち特に重要なものとして、次の要素をあげている。

@ 多様な、対立する意見のある問題については、それぞれの観点に立つ資料を幅広く収集する。

A 著者の思想的、宗教的、党派的立場にとらわれて、その著作を排除することはしない。

B 図書館員の個人的な関心や好みによって選択をしない。

C 個人・組織・団体からの圧力や干渉によって収集の自由を放棄したり、紛糾をおそれて自己規制したりはしない。

  次に資料提供の自由について同宣言は、すべての資料が「原則として国民の自由な利用に供されるべきである」と定めた上で、「極力限定して適用」するという条件をつけながら、次の場合に限りその自由が制限されることがある、としている。

@ 人権またはプライバシーを侵害するもの。

A わいせつ出版物であるとの判決が確定したもの。

B 寄贈または寄託資料のうち、寄贈者または寄託者が公開を否とする非公刊資料。

  もとより、自由の概念が他人の人権を侵害する自由を含むものではないことは明らかであるが、それでは具体的に、ある一冊の図書が右の各項目に該当するか否かを判定するのは至難のことであろう。

  この宣言に掲げる図書館の自由に関する諸原則は、「すべての図書館に基本的に妥当する」ものであり、学校図書館も公共性・公開性をもった図書館として、これらの諸原則があてはまる、と考えられている。

 

 三 学校図書館の自由(収集・提供の自由)

 

  学校図書館に「図書館の自由」が妥当するといっても、どんな資料をもすべて収集し、生徒に提供しなければならない、ということではない。「学校教育の教育活動が必要とし、児童生徒や教師から求められた資料で、正規の選択機構によって選びだされた資料の収集〔やその提供〕が、学校内外からの権力的な規制を受けたり、それをおそれるあまりの自己規制によって収集〔提供〕できないといったことがあってはならない」(注4)というのである。この「権力的な規制」とは、教育基本法一〇条の「不当な支配」に他ならない。資料の収集、提供は、教師の教育の自由の一環として、不当な支配に服することなく、教師の自主的判断に基づいて行われなければならないのである。

  しかしながら、学校図書館は、公共図書館とは異なる特性を備えていることも否定できない。このことが学校図書館における「図書館の自由」に影響を与える。まず第一に、公共図書館は「一般公衆の利用」を想定している(図書館法二条)のに対し、学校図書館は「児童又は生徒及び教員の利用」を想定している (学校図書館法二条)。そこで、利用者の中心が未成熟な子どもであることから、その発達段階に応じた図書が収集・提供されなければならないことになる。

  第二に、公共図書館の設置目的が一般公衆の「教養、調査研究、レクリエーション等に資すること」であるのに対し、学校図書館のそれは「学校の教育課程の展開に寄与するとともに、児童又は生徒の健全な教育を育成すること」にある。つまり学校図書館は、まったく「自由な研究の場」ではなく、学校教育を充実するために設けられる設備なのである。したがって、そこで収集・提供される資料には、学校教育上の適格性が求められる。

  第三に、学校図書館には、公教育としての中立性が要請される。すなわち、学校は特定の政党を支持し、反対するための政治教育が禁止される。さらに公立学校は、特定の宗教のための宗教教育が禁止される(教育基本法八条・九条)。学校図書館がこの規定と無関係であるとはいえない。

  以上のような学校図書館の特性が「図書館の自由」への権力的介入に口実を与えることにもなり、学校図書館はその自由がたいへん侵害されがちな図書館となっている。しかも、それが「教育的配慮」の名のもとに合理化され、問題が顕在化しにくい。たしかに学校図書館は、公共図書館に比べ、その自由の領域が狭いかも知れないが、その反面、授業などの教科教育の分野と比較すると、その自由の領域はかなり広い。なぜなら、学校図書館は「自発的学習の場」であるから、授業や教科書の内容について求められている「全国的に一定の水準の確保」(注5)という原理は、直接的には適用されないからである。

 

 四 憲法上の論拠

 

  日本図書館協会の宣言は、何らの法的拘束力を持つものではないが、学校図書館がその資料を収集・提供するにあたり権力的介入を受けないという自由は、次に掲げる憲法上の権利と密接に関連している。

 (1) 生徒の学習権(二六条)

  教育は「子どもの全面的な発達を促す精神的活動であり、それを通じて健全な次の世代を育成し、また、文化を次代に継承するいとなみであるが、児童、生徒の学び、知ろうとする権利を正しく充足するためには、必然的に何よりも真理教育が要請される」(注6)。将来の主権者たる児童・生徒は、自らが所属する社会がどんな社会であり、またどんな課題をかかえているかを正しく知り、学習する権利を有するのである。このような真理学習の権利は、生徒が一方的に教えられるだけでなく、自発的に探し求めるような学習によって、よりよく実現される。したがって、その真理学習の拠点として学校図書館が整備されなければならず、その整備のためには資料の収集・提供の自由が不可欠なものとなる。つまり、児童・生徒の学習権を成り立たせるものとして、学校図書館の自由が必要なのである。また、この自由は、教育について直接責任を負う教師の、教育の自由の一要素を構成するとも考えられる。

 (2) 表現の自由、知る権利(二一条)

  知る権利ないし知る自由が憲法二一条によって根拠づけられることは通説といえる(注7)。なぜなら、「表現の自由は他者への伝達を前提とするのであって、読み、聴きそして見る自由を抜きにした表現の自由は無意味となるからである」(注8)。この知る権利は、学校図書館を利用する児童・生徒にも保障されるべきものであり、資料の収集・提供に対する権力的介入は、この権利を侵害する。また同様に、憲法二一条に規定する検閲は、「発表の禁止」に限定されるものではなく、「情報受領との関係でも成立する」(注9)と考えられる。したがって、権力的に資料収集を事前に制限し、あるいは収集した図書を除去させることは、検閲として憲法上許されない。

 (3) 思想・良心の自由(一九条)

  学校は、意見の分かれる問題で何が正統であるかを決定する権限を持つものではなく、好み、偏見、党派的理由によって、生徒が特定の思想にふれることを阻害してはならない。アメリカ連邦最高裁は、公立学校図書館からの図書の除去をめぐって次のような判決を示した。「教育委員会は、当該図書に含まれている思想を好ましくないという理由だけで学校図書館の書架から図書を除去してはならず、また蔵書を除去することによって、政治、ナショナリズム、宗教、その他の問題で何が正統であるかを指図しようとしてはならない」(注10)。学校管理者が不正な動機によって資料の収集・提供に権力的に介入することは、思想自体の抑圧に当たるとともに、生徒の思想形成の自由を侵害するものである。

 

 五 選書方針・再検討手続きの整備

 

  学校図書館の蔵書の適正を保ち、蔵書に対する学校内外からの異議申し立てに対処するため、学校には次の手続きが整備されるべきである。その一つは、どのようにして図書を選ぶかを明記した図書選定方針。いま一つは、蔵書として不適当であると異議申し立てを受けた図書を、再検討するための公式の処理手続きである。当然これらの手続きは、学校図書館の自由を擁護し、生徒の学習権を保障するためのものでなければならない。権力的な介入は別として、異議申し立て自体は、蔵書の適正化をはかる上で正当な機能を有するものであり、選書に対する貴重な意見として有効に生かされるべきものである。また右の手続きが整備され厳格に履行されることによって、権力的な介入を阻止することが可能になるであろう。

  まず、図書館選定方針の要素として、選書のための組織(図書選定委員会など)とその構成員、選書の手順、および図書選定基準などが定められるべきである。

  次に、再検討手続きには、次の要素を含めることが望まれる(注11)。

(1) 異議申し立てを最初に受けた時点で、適当な教職員が、申し立て者と非公式に会見し、異議の明細について聞くとともに、図書の適否に関する疑問に答え、その図書がどのようにして、また、なぜ選択されたかについて説明する。

(2) それでもなお、申し立て者が正式の異議申し立てを望む場合には、「再検討申請用紙」を渡し、訴えたい問題や異議の明細を書面で明らかにさせる。

(3) 異議申し立てを受けた図書を再検討するため、広い層の構成員からなる委員会を設けること。

(4) 再検討の全プロセスが完了するまでは、異議申し立てを受けた図書の利用に対し、何らの制限を加えないこと。

(5) 異議申し立てを受けた図書の再検討は、委員会の中だけで閉鎖的に行われるのではなく、全教職員にその詳細を知らせ、関心をもつ者は誰でも、その意見を述べることができるようにしておく。

  以上の選書方針や再検討手続きをもつ学校は、蔵書に関するトラブルが生じた場合、その利用に制限を加えることが比較的に少なく、逆に、これらの手続きを整備していない学校は、トラブルを一部の関係者が非公式のうちに処理し、その結果、図書の利用に制限を加えることが多いように思われる。

 

 おわりに

 

  近年、テレビ、ラジオ等、各種のメディアの普及により、生徒にとって図書館のもつ意味は大きく減退したといえよう。そのため教師も管理職も、学校図書館にどのような図書が入っているか、それほど関心を持たなくなっている。このような状況下では、仮に議論の余地のありそうな図書があっても、それが問題とされることは少ない。

  しかし近い将来、このような平和な状態は終わる、と思えてならない。たとえば、先ごろ発表された文部省の新学習指導要領案によれば、日の丸、君が代が義務づけられ、道徳教育がさらに重視されるようになった。つまり現在、このような教育課程の再編や教科書検定の強化を通して、生徒の内面生活、人生観、世界観、価値観にかかわる教育内容の管理・統制が着々と進められているのである。したがって今後、教育課程や教科書から「閉め出された教材や作品が、学校のなかの図書館には数多く収集され、自由に読めるのはおかしいと攻撃の目が学校図書館に向けられない保障はどこにもない」(注12)のである。

  こういった事態が起こる前に、学校図書館の意義やその知的自由の重要性についての理解を深めておきたいものである。

< 注 >

(1) 朝日新聞一九八三・一・一一、同一九八五・四・四
(2) 文部省文部次官通牒(一九二四・五・一四)
(3) 第一次米国教育使節団報告書(一九四六)
(4) 塩見昇「学校図書館と図書館の自由」(日本図書館協会『図書館と自由、第五集』五頁、八頁)
(5) 旭川学テ事件(最高判昭五一・五・二一)
(6) 杉本判決(東京地判昭四五・七・一七)
(7) 奥平康弘『知る権利』三三頁
(8) 「悪徳の栄え」事件(最高判昭四四・一〇・一五 色川少数意見)
(9) 佐藤幸治「表現の自由」(芦部信喜編『憲法II人権(1)』四五二頁・四八七頁)
(10) Board of Education v. Pico, 457 U.S. 853 (1982)
(11) アメリカ図書館協会他「学校における図書・教材に対する制限(III勧告)」(前掲(注4)書六五頁)
(12) 塩見昇『教育としての学校図書館』二二三頁

Copyright© 執筆者,大阪教育法研究会