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TITLE:  「人権」のアンビバレンス
AUTHOR: 原田 琢也
SOURCE: 大阪教法研ニュース 第207号(2003年4月)
WORDS:  全40字×124行

 

「人権」のアンビバレンス

 

原 田 琢 也

 

1 問題意識

 

  「人権」とは何かと問われれば,「人間が人間として当然持っている基本的な権利。決して侵すことができない永久の権利」と,とりあえずは答えることができよう。そのような意味での人権が大切であることは言うまでもない。

  しかし,現実場面では,ことはそんなに単純ではない。相対する立場や考え方が,互いに「人権」という衣で身をまとい,対峙しあっているということは,よくあることでもある。

  本当に人権を大切にするためには,あるいは今後積極的に人権教育を進めていくためには,一旦は「人権」という言葉の脱構築を図る必要があるのではないか。これが,本稿の基底に横たわる問題意識である。

 

2 様々な場面での「人権」の使われ方

 

  筆者は今まで教育や差別問題について論じてきたが,筆者が今まで論じてきたことの中に,この問題意識と関連の深いエピソードがいくつかあった。ここでは,それらを簡単に振り返り,それらを考察することを通してさらに問題の本質に迫ろうと思う。

@ 学校の服装や頭髪指導をめぐる議論で

  拙稿「なぜ学校は異質な空間なのか」(原田1997)では,学校が行う服装や頭髪指導について論じた。学校が行う服装や頭髪指導については,憲法13条(自己決定権)や憲法21条(表現の自由)の侵害にあたるのではないかという指摘がある。実際の裁判事例を見てみても,原告理由のほとんどは同様の論旨をとっている。しかし,私の知る限りでは,学校が行う服装や頭髪指導そのものを人権侵害だと示した判例は一つもない。

  校則に関する裁判については,坂本秀夫著『校則裁判』(坂本 1993)に詳しい。判例の態度を概括すれば,当初は「特別権力関係論」に依っていたが,その後「強制ではなく指導だ」という論旨をとるように変化してきたということができるだろう。

  学校で行われている服装・頭髪指導にどのような指導戦略が用いられているかについては,拙稿「80年代校内暴力の終息過程」(原田 1997)で分析を行った。そこには排除をちらつかせ同化を迫る,M.フーコーによって「ディシプリン権力」と呼ばれた「権力の技術」が用いられていた(Foucault 1975)。服装・頭髪は,個人の趣向の問題であるが,個人の趣向が文化によって形成されている側面があることを考えれば,「個人的な問題」とは言い切れない。P.ブルデューによれば,個人の趣向は,その人の社会空間における位置に付随する文化の影響を受けている(Bourdieu 1990)。「指導」は,確かに法制度的な意味における「強制」にはあたらないが,社会的権力作用であることには違いない。「人権」という概念は,社会的権力作用をうまく問題対象化できない。

  人が人に対して「人権侵害だ!」というとき,そのことによって自分たちの苦しみや憤りを伝えることはできるが,それが客観的・普遍的に人権侵害であることを意味するわけではない。人が何を「人権」の内実と考えるかは,その人の社会空間における位置,あるいは文化的背景によって規定され千差万別である。「人権」という言葉を用いることによって,相手をせめぎあいの土俵に引きずり出すことはできるかもしれないが,それは「人権」という掛け金をめぐる闘いの始まりにすぎない。その闘いに勝利してはじめて,ここで問題にされた人権の内実が確定されるのである。この闘いは,通常は社会において力を有している者,つまり経済資本・文化資本・社会資本をより多く持っている者ほど有利に展開することができるだろう。つまり,「人権」の内実は,ポリティカルに決定されていくのである。

A「同和教育から人権教育へ」という議論で

  拙稿「岐路に立つ同和教育」(原田 2002)では,「同和教育から人権教育」というスローガンのもと,人々の意識の中で,従来の同和教育が目指してきた方向と一致する動きと,全く逆の指向性を持つ動きが,矛盾することなく併存していることを指摘した。もう少し具体的に言えば,「学校選択の自由」は,人々の差別意識を顕現化させたり,階層差を拡大させる恐れがあるのだが,「自由」を尊重するという観点から,「人権を大切にする教育」という範疇に入ってくるのである。

  ここでは,「自由」と「平等」という二つの価値の葛藤が見られる。憲法学者の内野正幸(1992)によれば,「平等」には,「形式的平等」と「実質的平等」がある。「形式的平等」とは,「個人個人を,その能力その他の違いを無視して一律に扱うこと」を意味する。「実質的平等」とは,広い意味では,「異なったものは異なったように扱え」ということを意味し,狭い意味では,「不利な立場にある人をより有利に扱うこと」を意味するということである。そして,「形式的平等」と「自由」は調和するが,「実質的平等」と「自由」はぶつかってしまう。平等を定める日本国憲法14条は,「形式的平等」を採用することを要請しており,「実質的平等」に対しては合理的理由がある場合には例外的に特別な措置をとることを許しているだけなのである。

  「形式的平等」に依拠した教育政策は,現にある不平等を拡大再生産していくことにつながってしまう。社会的に有利な立場に立つ人にしてみれば,「自由」を重んじる政策の方が都合がよい。そして,日本社会では,そう思える人の方が多いだろう。しかし,その逆もあるのである。

B 教育基本法3条をめぐる議論で

  拙稿「「教育の機会均等」と学校改革」(原田 2003)では,教育基本法3条をめぐる議論を分析した。

  第3条に対して,教育基本法の「改正」を押し進めようとする人々は,戦後教育は過度に平等を重視し,結果の平等までをも求めたあまり,画一的になりすぎ,個人の個性や能力を十分に生かし切れていなかったと批判する。このような方向性に対して,教育基本法を擁護しようとする人々は,「多様化」は「能力による差別の原理」を導入するものだと批判する。

  一見,Aと同様の「自由」と「平等」の葛藤であるかのように見受けられるが,冷静に考えてみればそうではないことがわかってくる。擁護論者の主張は,学校の中で差異的処遇をすることそのものを「差別」だと言っていることからもわかるように,形式的平等観に基づくものなのである。つまり,擁護論者の主張は,「自由」に重きを置く改正論者の主張と補完しあえる性格を持っているのである。

  苅谷剛彦は(2001)は,「能力主義的差別」や「差別=選別教育」という意味での「差別」は,日本特有の差別観なのであり,このような差別感が画一的な処置がまかり通るような事態を生じさせ,社会的カテゴリーと結びついた不平等の問題を見落とす結果を招いてしまったと批判している。

 

3 まとめ

 

  今まで筆者が論じてきたものの中から,3つのエピソードを紹介した。これらのエピソードから共通して見えてくることは,「人権」という概念そのものは,社会的文脈と切り離された概念であり,実際の運用場面では,どのような社会的立場,あるいは社会的カテゴリーに立脚して主張されるかによって,相対する内容を並立させうるということである。そして,その内容の決定は,ポリティカルに決定されていくことになる。従って,「人権」をはじめから,「反差別」,あるいは「マイノリティの権利を守る」というイメージでとらえていたなら,逆に「人権」がイデオロギーとして機能しだし,差別や不平等を再生産させることに手を貸すことになってしまう恐れもあるのである。

  少々パラドキシカルな言い方になってしまうが,ほんとうに人権を重んじるためには,極力「人権」という言葉の使用は避け,個々具体的な問題を,自分がどの社会的立場に立脚しているのかを明確にしながら,議論し合うことが大切なのではないだろうか。

 

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引用文献

Bourdieu, P..La distinction 1.石井洋二郎訳.1990.『ディスタンクション1』藤原書店
Foucault, M..1975.Surveiller et punior:naissance de la prison.田村俶訳.1977.『監獄の誕生』新潮社
原田琢也 1997,「80年代校内暴力の終息過程」柿沼昌芳・永野恒雄編著『校内暴力』批評社,175-221頁
原田琢也 1997,「なぜ学校は異質な空間なのか」柿沼昌芳・永野恒雄編著『学校という〈病い〉』批評社,40-88頁
原田琢也 2002「岐路に立つ同和教育」藤田敬一編『こぺる』113号,阿吽社,1-11頁
原田琢也 2003「「教育の機会均等」と学校改革」柿沼昌芳・永野恒雄編著『教育基本法と教育委員会』批評社,64-73頁
苅谷剛彦 2001,「能力主義と「差別」との遭遇」『階層化日本と教育危機』有信堂,67-96頁
坂本秀夫 1993,『校則裁判』三一書房
内野正幸 1992,『人権のオモテとウラ─不利な立場の人々の視点』明石書店

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