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TITLE:  新自由主義教育政策の批判的検討
AUTHOR: 吉田 卓司
SOURCE: 大阪教法研ニュース 第221号(2005年8月)
WORDS:  全40字×345行


新自由主義教育政策の批判的検討



吉 田 卓 司




 はじめに ― 日本の子どもたちの学習力低下と問題行動の深刻化


  2000年に、OECDが行った国際学力比較テストPISA(Progtamme for International Student Assessment)において日本が8位という結果は、多くのメディアによって日本の学力低下問題として取り上げられた。近年の学力や学習意欲の低下に関する日本の問題は、このPISAに限って現れたものではない。日本の総務庁や国際教育到達度評価学会などの調査によれば、日本の子どもの家庭学習時間が最低水準にあるとの結果が出ている。例えば、総務庁調査(1993年)では、小学1年生から中学3年生までを対象に、「家庭学習の時間」をきいたところ、韓国では2〜3時間に3分の2の子どもたちが分布し、アメリカでは1〜2時間に3分の2の子どもたちが分布しているのに対して、日本では、30分〜1時間の間に3分の2の子どもたちが分布している。この時間は、日本の場合塾を加えると30分程度増えるものの、相対的にみて学校以外での勉強時間が少ないことは明らかである。さらに、IEA(国際教育到達度評価学会)の調査(1995年)でも校外(塾含む)での学習時間(対象は中学2年)が世界の平均が約3時間であるのに対して、日本は2・3時間であり、比較可能な39カ国中30位であり、1999年調査の速報値では、日本はさらに学習時間が低下し、比較可能な38カ国中最下位となった。
  学習の意欲の低下も深刻である。第3回国際数学・理科教育調査(1995年)では(対象は中学2年)学力成績において、41カ国中数学、理科ともに3位であったが、応用問題については平均以下で、公式など暗記の分野では高得点を維持しているが、思考力の必要な応用的問題を解く能力の低下が顕著であり、「数学が嫌い」とした子どもの比率が41カ国中2番目に多く、「理科が嫌い」と答えた子どもの比率は41カ国中で1番多いという最悪の結果となっている。そのことは、OECD(経済協力開発機構)による「一般市民の科学知識と関心度調査」(1996年)でも、「科学知識」に関して先進14カ国中13位、「科学への関心度」は先進14カ国中最下位の14位という結果であり、さらに惨憺たるものとなっている。これまで、世界中から傑出した教育成果と高学力を評価されてきた日本の子どもたちが、なぜ、これほど急速に、勉強しなくなり、勉強嫌いになってしまったのかが科学的に検証されなくてはならいだろう。
  また、相次ぐ青少年の「凶悪」犯罪の動機の背後にある社会心理的要因にも注目する必要があるであろう。従来日本は、他の資本主義先進工業国に比して、犯罪率が低く、少年の問題行動も少ないと見られてきた。その要因としてしばしば挙げられてきたのが、日本の学校教育であり、諸外国に比して、子どもの学習能力は、世界最高水準にあるとされてきた。けれども、その前提条件は、今日大きな変化をみせている。日本国民全体にとって、悲劇的結末をもたらしつつある近年の新自由主義的教育政策が、これまでの憲法・教育基本法にいう「自由」と「平等」に代えて「主体的選択=自己責任」と「多様化=選別」の論理を学校教育にもち込み、それが「学校離れ」、「学習からの逃避」を現出させていることについて、非行防止の視点から検証することは、今後のあるべき教育制度を展望する上で、重要であろう。いいかえれば、今日の教育政策の問題は、単なる教育問題ではなく、青少年の健全育成ならびに青少年の問題行動の防止と問題をかかえた少年の更生を阻害する問題と直結しているといえよう。
 ここでは、日本国民全体にとって、悲劇的結末をもたらしつつある近年の日本の教育政策、とりわけ、その「教育改革」の根底にある新自由主義的教育政策を批判的に検討したい。とくに、新自由主義が、これまでの憲法・教育基本法にいう「自由」と「平等」に代えて「主体的選択=自己責任」と「多様化=選別」の論理を学校教育にもち込んだことと低学力問題の現出との関係を考察し、今後のあるべき教育制度の展望を示したい


 1.学校のカフェテリア化とトラッキングの破綻


  1996年の中教審第一次答申は「知識を教え込む教育から、自ら学び、自ら考える教育への転換」、「 教育課程の弾力化」、「特色ある学校づくり」をスローガンに「改革」を進めることとし、文科省は、その「新学力観」にもとづく「ゆとり教育」を教育現場に持ち込んだ。 文科省は、これから学力の「基礎・基本」は知識や技能を中心にとらえるのではなく、子どもが「主体的に生きていくために」必要な資質・能力を中心にとらえるべきだとする。しかし、その施策の真意は、学校統廃合等の教育予算削減と同時進行されていることに端的にあらわれている。中教審答申は「これからは全員が同じ教育内容を受けるような形式的平等ではなく・・・、個性ある例外を認め、ゆっくり成長する者に安心のいく道を用意する」と述べている。すなわち、公教育における平等な教育の保障を断念し、低コストで内容のうすいカリキュラムや学校システムを選択肢として用意するとともに、それを個々の子どもの選択にゆだねるかたちをとって、その不十分な教育成果を「自己責任」に帰する政策といわねばならない。
  それでは、少数のエリート教育を「選ばれし者」に行う教育システムと、「低学力」とされた圧倒的に多数の子どもは、安価なコストで学習量の少ない教育システムを並存させ、競わせるという選別的教育システムは、「効率的」な教育システムといえるだろうか。その答えは、すでに一定程度明確になりつつあるといえよう。

  2000年に、OECDが行った国際学力比較テストPISAでは、1位フィンランド、2位カナダ、3位ニュージーランドとなっており、日本は8位である。この上位8位までの国の共通点は、いずれも15歳までの学校教育のなかでトラッキング(能力や進路の差によってコースを振り分ける教育)をしていない国か、廃止を推進してきた国であるということにある。逆に最下位のドイツは、よく知られているように小学校4年生の成績によって大学進学を目指すギムナジウム、職業訓練を行うレアル・シューレ、学力の低い子ども向けのハウプト・シューレの3種の学校に3分される典型的なトラッキング残存国である。かつては、欧州の多くの国でドイツのようなトラッキング教育を実施していたが、1960年代から1970年代にかけてこのような分岐システムを廃止して、中等教育の統合化が進められたが、ドイツとフランスは、保守政治の壁に阻まれて、統合化は進展していなかったのである。しかし、2000年のPISAの結果は、ハウプト・シューレのみならず、エリート教育を行っているはずのギムナジウムでさえも、フィンランドやカナダの上位層に得点で下回り、その上、フィンランドをはじめとする上位国の成績分布では、学力格差も少ないということが明らかになっている(佐藤学『習熟度別指導の何が問題か』岩波ブックレット(2004年)参照)。
  アメリカでは1980年代に、学力低下が社会問題となり、バージニア大学教授のエリック.ハーシュがその著書『教養が国をつくる』(1987年)のなかで、創造性の育成や能力開発に名を借りた教育課程の断片化と多種多様な科目・コースの選択という「カフェテリア方式」の高校が読み書き能力を衰退化させ、国民共有の知識と文化が欠如してきたことを指摘している。そして、皮肉なことに日本とスウェーデンの初等教育をモデルにした教育改革を訴えたのである。これらを受けてレーガン・ブツシュ・クリントンの各政権は共和党・民主党と変遷しても、旧来の多様化路線を改める教育改革が断行された。その結果、1997年のSAT(Scholastic Assessment Test)において過去25年間で最高の得点をあげる結果を得たのである。
  このような世界の教育動向に反して、日本では、世界ですでに放逐され、時代遅れとなった教育システムを導入しようとしている。「学校選択の自由」を名目にして、東京都品川区や荒川区、町田市のように徐々に、学校選択制を採用している地域が増え始め、高校の多様化、個性化が強行に進められ、近畿圏では兵庫県宝塚市で市長が小学校選択制の導入をもくろんでいる。また、学校のなかにも、新自由主義的教育政策はすでに、着々と持ち込まれつつある。小・中学校の段階では算数・数学や英語などの科目に習熟度別学習が導入され、教科書にも「発展的内容」として、一部の生徒にのみ学習させるための教材が提示されているのである。けれどもそれがいかなる教育「成果」をあげうるのか、その科学的な検証はされていない。むしろ、これまで海外でも非常に評価の高い、しかも大きな成果をあげてきた日本の教育カリキュラムの実施を危機にさらしている点に十分留意すべきである。新自由主義的観点から「先駆的」に取り組んだ学校地域にいかなる問題が生じているのか、逆に対峙する志向性をもった取り組みのなかでどのような成果が得られているのか、教育政策と法的システムの今後の検討を後日の課題としたい。


 2.競争から共同へ ― フィンランドの教育に学ぶ


  あまり日本ではなじみのないフィンランドの教育制度であるが、教育の質の向上と平等の達成に成功した国として、注目に値する。PISAで世界一の教育成果をあげ、そして教育の平等と教育の質の向上という2つの目標を達成したフィンランドの教育システムとは、どのようなものか。それは、少人数教育を基礎とした小学校から高校までの共通カリキュラムの実施と親の経済力に左右されない教育を受ける権利の実質的保障であるといえよう。
  フィンランドの義務教育は、7才(特別な場合は6才)の総合学校は入学に始まり、その修了をもって義務教育が完了する。総合学校は9年制で、6年制の初等課程(小学校)と3年制の中等課程(中学校)に分かれている点は日本と同様である。総合学校を卒業した若者は、高等学校又は職業専門学校に進むことができる。1996年には総合学校卒業生の55・3%がそのまま高等学校に進学し、36・8%が職業専門学校に進んでいる。そのどちらの教育機関も無料で教育を提供している。ちなみに、フィンランドでは、大学でも授業料は徴収していない。日本やアメリカと異なり、経済的弱者にも意欲と基礎的能力があれば、高等教育を受ける権利が保障されている。
  高等学校では大学進学を目指す生徒に、普通教育を実施し、3年間勉強した後、国が行う大学入学資格試験を受ける。その他に、高等職業専門学校への進学や、中等教育後の職業学位を取得するという選択も可能である。高等学校のなかには語学、科学、スポーツ、音楽、美術の専門高校もあるが、高等学校の教育課程はかなり均一化されている。高等学校の授業はすべてコース制を採用しているものの、大半の学校は、厳格な生徒の能力別編成を行うことなく運営している点で、日本とは異なる。高等学校は全国を網羅するように配置され、全日制の高等学校が447校あり、生徒数は11万29026人である(1998年現在)から、1校あたり生徒数は250名ほどであり、日本に比してかなり少人数での教育が行われているといってよい。 しかも、フィンランドは、ヨーロッパ諸国の中でも最も「平等」を尊重してきた国であり、貧富の差が最も少ない国ともいわれている。そのような社会的背景をもつフィンランドは、1990年代に、社会主義体制崩壊後の東欧諸国の混乱の余波のなかで、国家的危機を乗り越えるための教育改革を断行し、その結果として、驚異的な教育の成果を得たのである。その教育改革の根幹とは、国家財政急迫にもかかわらず国家教育予算額を維持しながら、@国家教育委員会による教育内容や教師教育の統制を緩和し、A教育施策の権限を地方行政と学校に移譲し、B教師養成を大学の学部段階から大学院段階へと移行して、教師の資質と専門性を高め、C教師による教育の自由と創造性を高める改革を推進したのである。フィンランドの教育は、教育の「質」と「平等」を追求することは矛盾するどころか、むしろ「質」と「平等」を同時に追求することが教育政策の基本でなくてはならないことを示している(佐藤・後掲書8−24頁)。
  もともと日本の教育が世界に誇ってきた卓越性は、小・中学校の「平等」な教育システムの強みであって、高校入試の段階以降は、受験学力による「スライス・ハム」とも称されるような極端なトラッキングが持ち込まれている。このような学校間格差のある後期中等教育(トラッキング)が、10代後半の子どもに悪しき優越感や劣等感を根付かせ、学習意欲の低減や不必要ない心理的ストレスを与えて精神的に疲弊させ、さらには社会的な差別と排除の合理化手段と化していることは、疑うべくもないことである。事実、このトラッキング教育の学習効果上の失敗は世界各国の科学的調査でも裏付けられているのである。だからこそ、アメリカ・イギリス・カナダ・ニュージーランドのような英語圏諸国では、大学入試以外に受験がなく、高校までは日本の中学のように少なくとも形式的には点数による選別はなく、フランス・ドイツ・イタリアなどのように中等教育で普通高校と職業高校に分岐する教育システムをとる欧州諸国でも、 普通高校と職業高校との格差はあっても、日本の高校のように普通高校のなかに学校間格差があるというシステムにはなっていない。
  このような世界の教育システムの動向からみると、日本の教育改革がどれほど危険な方向に舵をきろうとしているかがわかる。
  1993年に出された「高等学校教育の改善の推進に関する会議」の一連の報告と、これを受けた文部次官通知は、高校教育の個性化とこれに応じた入学者選抜方法の多様化という方向を明確に打ち出した。その基本的な論理は、高校教育の特色化・個性化であり、そのための入試の多様化である。しかし、「生徒の個性を尊重する」ことと高校の「特色化」は、大きな矛盾をはらんでいる。つまり、「高校が個性化する」ということは、「その学校には一定の特性をもつ人間を集中させ」、それ以外の生徒は排除されたり、カリキュラム上疎外されることなる。それは、生徒からの個性を奪い、特定の進路へと精神的に追い込む「画一化」にほかならない。しかも、入学者選抜が多様化すれば、子どもたちの受験準備は早期化し、中学2年生の時点で、人生の方向性について最終的な進路決定を迫られることにもなる。そして、進学後は、「高校が個性化」すればするほど、その後の子どもたちの進路変更が困難になり、個性が殺されるのである。
  したがって、学校のなかに多様な進路実現の道を保障することこそが、子どもたちの個性を伸ばす唯一の道であり、高校の「特色化」は子どもの「個性化」に相反するものといわねばならない。


 3.新自由主義は日本の教育システムを破壊する ―「教育改革」は「教育破壊」


  新自由主義教育観の本質は、「差別と選別によって子どもの学習動機を高めれば学力が向上する」という考え方にある。その論理は、成績主義の徹底とリストラの威嚇によって労働者を追い詰めて働かせることと軌を一にする。けれども、その本音は、教育においては、高校の統廃合をはじめとする教育予算の抑制という教育リストラであり、労働分野ではアルバイトや契約社員といった不正規雇用の増大などを含む低賃金雇用政策である。21世紀初頭に日本で進められている「教育改革」すなわち「学校の特色化・多様化」は、現行の全日制普通科高校のように文理科目の普通教育を開講する大学ないし大学院進学を目的とする学校、外国語科目や理数科目に特化してその特定の進路に特化した学校、進学にも就職にも特に有利ではないが高卒の単位を修得できる総合学科などのような学校に細分化され、現在の普通科のかかえる差別・選別の問題、さらに固定化され、深刻化する可能性が高い(橋本・後掲論文「高校入学者選抜における平等化と個性化」)。
  けれども、日本の国民の多くは、そのような教育システムを望んでいるとは言えないし、そのような教育制度の改編は、回復不可能なほどのダメージを日本社会と子どもたちの未来に与えてしまうであろう。
  まず、第一は、「特色化」高校改編による高校入試のトラッキングの強化、さらには、習熟度別授業の急速な浸透が、深刻な学力低下をもたらしつつあるという事実である。教育システム上のトラッキングは、子どもたちの側からみて、中・下位のグループに分類された子どもの学習意欲を著しく阻害する。それは、小学生からの習熟度別授業の導入によって、中学・高校へと累積的に低学力というより低学習意欲者を排出し続ける。
  学力の向上どころか、何年にもわたって劣等感を植え付け続けることによって、自己評価の低い子どもを育てることにつながり、そのなかから意欲を喚起して這い上がることは、至難のことといわねばならない。そのような人間の育成によって、唯一利益を得る者があるとすれば、自己評価の低い(しかし労働力としては当然1人前の)労働者を低賃金の不正規雇用の地位に固定化し(それに疑問を感じない労働者数を一定量確保)することで、労働コストの低減をはかることの利潤を拡大できる資本にほかならない。
  教育システムによる差別・選別の強化による労働者の共同の阻害と賃金コストの総量抑制は、資本の論理として、いわば一貫してこれまでも存在し続けていたが、今日のアメリカ主導の経済のグローバル化のもとで、新自由主義経済政策の競争原理が、多くの日本企業自体を、追い詰めているという現実も見逃すことはできない。そのため、従来の自由主義教育観が、少なくとも教育の「機会均等」という「平等」の理念を基礎として「自由競争」の論理を主張していたのに対して、「新」自由主義教育観は、教育における「平等」という理念自体をも「悪平等」として、批判している点に特に注目しなくてはならない。いわば、それほどまでに、今日の日本の企業経営集団は、極めて露骨な資本の論理を子どもに押し付けようとしているのである。


 4.長崎県・佐世保市の小学生刺殺事件を考える−受験競争の激化した長崎で・・・


  今年長崎県・佐世保市で起きた小学生による同級生刺殺事件は、様々な面から注目を集めたが、この事件を一人の特別な子どもの特殊な事件とみることはできない。なぜなら、長崎県ですすめられている「教育改革」が事件の加害者である少女とその保護者、そして学校の取り組みのなかに大きな影をもたらしていたからである。
  第一には、加害女児が、二月ごろ、好きだったミニバスケットボール部を「お母さんに辞めさせられた。辞めたくないのに」と同級生にそう漏らし、それからの女児は、それ以降、同級生の男子を怒鳴りながら追い掛け回したり、男子をたたいたり、けったり、また自分の頭を壁に何度もぶつけたりもしている。そして「優しい子」という周囲の見方が変わり始め、「最近、怖いよね」と、攻撃的になっていく女児から女の子の友達も次第に離れていった。では、なぜ、それほど女児の保護者が、クラブをやめさせたかったのか。それは、中学受験のためであると考えられている。長崎県では、地域の高校への進学という総合選抜制度が昨年から廃止され、高校入試の差別化が図られた、そして中高一貫校の設置は、数多くの小学生と小学校教師を受験競争に駆り立てたのである。そのようななかで、同小学校は、前年県立中高一貫校を19人が受験したものの合格者はなく、六年担任は、「今年こそ合格者を」との無言の圧力があったと考えられる。その担任は、事件前の保護者会での「このクラスを担任したくなかった」という発言しているが、それは、「5年次に学級崩壊」とされたクラスの担任を引き受けざるを得なかった教師の偽らざる心境であり、それ感じ取った子どもと親の心境も察するにあまりある。
  第二に考えなくてはならないことは、学校が子ども第一に考えて取り組んでいるのかということである。部活をやめてからの女児は、授業中に漫画を描き、ほおづえを突いて居眠りするなど、逆に女児の様子は、以前は見られないものになっていった。はた目にも、女児の変化は明らかだったが、「小学校は(女児の)変化を知ろうとはせず、兆候も見逃した」だけでなく、事件後の対応も極めて、問題が多かった。そのことは、さまざまなマスコミ取材と調査結果によって明らかにされている。事件当日、警察から事情聴取を受けた六年女児が、帰宅後に「指紋を取られた。私、犯人みたいだった」と言って一口も夕食を食べられなかったことや、事件後に無意識に補導された女児の絵を描くようになったなど、警察の捜査のみ優先され、さらに、PTA元会長ら保護者から「取調べが長時間かかり子どもも疲れているので翌日は休校を」との申し入れにも、「給食の準備がしてあるから」として(担任及び同校教師による十分な授業指導体制もとれないままでの)授業強行の姿勢は崩さなかった。また保護者説明会では、「マスコミ取材に一切応じるな」としか言わず、保護者の不信感を増幅させている。そのような対応に対してマスコミも「学校、市教委の自己保身で事件がうやむやのまま忘れ去られれば、怜美さんの魂はどうなるのか」と(2004年6月5日長崎新聞)報じるほどである。この学校としての「子ども無視」の異常ともいえる同校の対応は、基本的に県・市教育委員会の事件報告・県警察の捜査にも一貫して見られるものである(注記参照)。その背後には、子どものことを第一に考えるという教育基本法、子どもの権利条約の趣旨に反して、上位下達の官僚主義的施策の貫徹が優先されたといってよい(広木・後掲論文参照)。


 5.今後の教育システムの展望 ― まとめにかえて


  今日の日本では、思春期及び長崎の事件にみられるような思春期の前期にあたる子どものおかれている問題が非常に大きい。その問題解決にとって、どのような教育政策が、より有効かが問われている。すくなくとも、このような状況のなかで、子どもの心身のより豊かな成長を目指す教育システムとは何かという視点から、教育システムの改善が図られなくてはならないであろう。
  橋本健二教授は、今後の政策的課題として、@高校入試の廃止、A高等教育機会の平等化のための積極措置、B階級的な不平等を軽減するための社会政策を挙げている(橋本・後掲「教育機会の不平等と階層格差の固定化」)。そして、「高校入試の廃止は、高校教育の階層的構造を根本的に解消するための決定的な方策である。進学率が100%に近づいた今日、高校入試は高校を、したがって若者たちを序列化するためだけに存在するといって過言ではない。高校入試がなくなる、と学力水準が低下すると危惧する向きもあろうが実際には、小学区制や総合選抜制度などによって高校入試をめぐる競争と高校間の格差を最小限にとどめている県ほど、大学進学率は高い。高校間格差は勉学への意欲をかき立てるというよりは、低所得層を中心に下位ランクの高校に入学した多くの若者たちの意欲をそぎ、進学への道を狭めている」と的確に述べられている。また、広木克行教授によれば、不登校問題の臨床教育学的観点からの全国的調査のなかで、三重県の高校選抜制度改編に関して、総合選抜制度が単独選抜制度に改編された時期の前後において、全国的に極めて不登校率が低かった同県が単独選抜制度の実施によって飛躍的に不登校率の増悪という結果に至ったことを示す統計もある。
  事実、兵庫県の一部学区では、戦後まもなくから民主的教育改革の一環として高校間格差の少ない総合選抜制度が導入され、今日まで地域住民をはじめ地元教育委員会や小・中学校の児童・生徒や教職員らの支持と努力に維持されてきた。その結果、高校生とその卒業生たちが自らの母校に誇りを持ち、いわゆる「指導困難校」とされるような学校を生むこともなく、まさに「心豊かな」高校教育を生み出す基盤が形成されていたのである。また、それは、地域から公立高校増設の運動を呼び起こし、地域の高校として小・中学校や地元諸団体との組織的な連携(地区青少年愛護協議会への参画など)を生むといった、他地域では得がたい教育的成果を生んでいる。総合選抜地区の高校生が、隣接する単独選抜地区の高校生に比べて、「大学受験学力」の面でも、単独選抜地区に比して遜色のない進路実績と多様な進路保障を各高校が実現してきたことを実証するデータも明らかにされている(岩崎・後掲論文参照)。
  これは、一方では、教育コストの低減を目指す前述の資本の論理と背反するものであり、様々ないわれなき批判(「競争がなければ勉強しない」など根拠のない非難)を受けることもあった。そのために、多くの府県では、本来は小学区制や総合選抜制度と無関係な、非行問題や特定大学への合格者数の増減の責任を高校入試制度に転嫁されて、極めていびつな単独選抜型の(「スライス・ハム」と称されるような学校間格差を生む)入試が日本で一般化されることになってしまったのである。
  いまや、長い伝統をもつ小学区制や総合選抜制度は、日本において大変貴重な高校教育制度のテストケースとなっている。それは、新自由主義的教育観とは、まったく志向性を異にした、「質」と「平等」を目指した教育システムである。それは、いまや最も先駆的で、歴史的な取り組みといっても良いであろう。すべての子どもが学習への意欲と関心を失わず、学校や教育委員会、そして教師や親が高校卒業までに自己実現を目指して努力する生徒たちを援助し、生徒の多様な進路を保障する教育システムの構築。それこそが、真の「個性を尊重する」教育である。今日、いわゆる「エリート校」とされる学校でさえも、精神的疾患の増加や様々な「薬物乱用」等の問題行動が表面化し、教育効果を挙げているとはいいがたい。
  前述の長崎県・佐世保市における児童刺殺事件だけでなく、本報告をまとめつつあった2005年6月には、山口県立高校での爆発物事件や明徳義塾での刺殺未遂といった高校生同士の事件、高校1年生が父母を殴打刺殺した後に自宅を爆破した事件、中学生が万引き事件に端をはっして妹をバットで殴打した殺人未遂事件、兄弟いじめの被害者である弟が兄を刺殺した事件などが相次いだ。事件の背後には、新自由主義的政策の一環として、近年の差別・選別を志向する文科省教育政策の悪しき影響がないとはいえないだろう。そのような子どもの行動の根源にある動機の理解には、事件の社会的背景や政治・経済を含む社会全体の変容に対する考察は欠かせない状況にある。いまや、憲法・教育基本法の「改正」が「戦争できる国家への転換」をめざしていることは、誰の目にもあきらかな状況となっている。大量殺戮を目的とする戦争は、人間への差別・選別の究極的な姿であり、繊細な子どもの心身がそのような社会環境に影響を受けないはずはない。事実、一定程度においては、そのような方向への「教育的」圧力が、「日の丸・君が代」に対する意識などの面で、子どもたちの社会認識として顕在化してきているとの声が教育現場から聞かれるようになってきている。平等・公平を基調とする社会か、差別・選別に支配される社会か。平和国家を志向するのか、戦争国家へと邁進するのか。教育のみならず、現在、日本社会全体が大きな岐路に立っていることはおそらく間違いないであろう。そうであればこそ、平和憲法と教育の道理にしたがい、子どもたちにとっても、日本社会の真に豊かな発展にとっても、本当の意味で望ましい「教育改革」へと、針路を切り替えるべく、多面的で広がりをもった取り組みと物事の本質を見極める努力が求められているといえよう。


<参考文献>

[追記]
本稿は、2005年7月9日大阪教育法研究会7月例会及び2004年12月13日 関西学院大学大学院法学研究科刑事法演習において報告した内容に加筆したものである。



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