◆200609KHK227A1L0331A
TITLE:  教育基本法「改正」問題について
AUTHOR: 伊藤 靖幸
SOURCE: 大阪教法研ニュース 第227号(2006年9月)
WORDS:  全40字×331行


教育基本法「改正」問題について


伊 藤 靖 幸



 1.はじめに


  本年の全国教法研の大会で青木茂男氏の東京都の教育の話を聞き、今さらではあるが慄然とした気分になった。青木氏によれば、すでに東京の情況はあたかも、教育基本法・憲法が改悪された後のような有様を呈しているという。実際、都教委はすでに2001年に都の教育目標及び基本方針から「憲法・教育基本法に基づき」という語句を抹消し、2002年4月には米長教育委員(2004年の園遊会で天皇に「日本中の学校で国旗を掲げ、国家を斉唱させるのが私の仕事です」という発言を行なった都の教育委員)は公式の席で「都は教育基本法を事実上改定した」と述べているのである。

  具体的には東京では今、次の様な事態が進行している。@2003年10月23日の「日の丸・君が代」を強制する都教委通達及びその後の大量処分、また被処分者への思想改造研修とも見える「再発防止研修」の実施。A教科「奉仕」の必修化と「つくる会」教科書の都立中高一貫高・障害児学校への導入。B「授業力向上」という名の教員管理の実施。C現代版「視学」制度ともいうべき「都立学校経営支援センター」の設置。D職員会議の「補助機関化」の徹底。なんと校内人事委員会や予算委員会等も校長権限を侵すので禁止されているという。E教員の人事考課の実施と「主幹」職の設置。青木氏はこうした情況を「新しい勅令主義」と呼んでいるが、全くそのような一見アナクロな言葉が本当にふさわしい状態になってしまっているのである。大阪の現状は、東京よりは幾分マイルドで、「君が代斉唱」において単に起立しなかっただけで処分されるところまでは行っていない。しかしながら大阪府も、「首席」・「指導教諭」なる職を新設し、教職員の人事考課制度である「評価・育成システム」を処遇に反映させるなど、着実に東京の後を追っている。さて、2006年9月21日に日の丸・君が代の強制をめぐる東京都のいわゆる「予防訴訟」で、東京地裁は都教委の03年10月23日通達(日の丸・君が代を教職員に処分をもって強制する内容)は教育基本法10条1項の「不当な支配」にあたり、違法であるとの判断を下した。この判決は現行の教基法・憲法の下しごく常識的な判断であると考える。別に学習指導要領に基づく「日の丸・君が代」の指導がそれ自体違法・違憲というのではなく、このような思想信条の自由に関わる問題に対し、積極的に式の進行を妨げるのではなく単に起立しないだけで処分をするのは行きすぎであると言っているのに過ぎないからである。産経新聞の9月22日付け社説がこの判決を「公教育が成り立たぬ判決」とするのは曲解というべきである。現にこの判決の趣旨では、大阪府教委のようなもう少しマイルドな指導は問題とはならないであろう。教基法が「改正」されてしまったら、このような常識的な判決すら出る余地を失い、東京のような「異常な」情況がまかり通ってしまうであろう。このような時期にあたって、教基法「改正」案の内容をきちんと検討しておくことは我々現場の教職員にとってまさに緊要の課題であるだろう。


 2.教育基本法「改正」の経緯


  まず、今回の教育基本法「改正」にいたる経緯を簡単におさらいしておこう。政府・自民党は現行教育基本法の「改正」をずっと目標にしてきてはいたが、あの1980年代の臨教審設置法でさえも、「教育基本法の精神にのっとり」とうたわれており、近年に至るまで教基法の「明文改正」が具体的な政治課題となることはなかった。ところが、小淵首相の時に「『21世紀日本の構想』懇談会」(1999年3月発足)と「教育改革国民会議」(2000年3月発足)の2つの私的諮問機関がつくられた。前者は新自由主義的な教育改革を推進することを提起し、2000年12月に森喜朗首相に後者の最終報告書「教育を変える17の提案」が提出された。17の提案の16番目が「教育振興計画」についてであり、17番目が「教育基本法」についてであって、これが直接のきっかけとなって2001年の11月に中央教育審議会に、遠山文科相が「教育振興計画の策定について」と「新しい時代にふさわしい教育基本法の在り方について」諮問を行なったのである。中教審は2002年11月に中間報告を決定し、2003年3月に最終答申「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」を文科相に提出した。これを受けて2003年の5月に「与党教育基本法に関協議会」が発足し、2006年4月に「教育基本法に盛り込むべき項目と内容について」という最終報告をまとめ、政府に提出した。政府はこれを受けて、同月「教育基本法改正案」を閣議決定し国会に提出した。また、5月には民主党も独自の教育基本法改正案である「日本国教育基本法案」を衆議院に提出した。結局6月に閉会した第164通常国会では継続審議となったが、教育改革の推進を唱える安倍新総理の下、臨時国会以降の動向が注目されるところである。


 3.「教育基本法改正案」(与党案)について

 1)公明党と自民党の妥協の3点セット

  2003年5月から70回以上議論していた「与党・教育基本法改正に関する検討会」で、自民党と公明党が歩み寄って、2006年の4月12日に合意に達した。3年近くも与党の協議が続いたのは、主として愛国心・宗教的情操の涵養・教育行政の3点について自民党と公明党の間で意見がまとまらなかったからといわれている。本年になって「あっと言う間」に合意に達したわけであるが、いずれにせよこの3点が教基法「改正」の焦点であることは間違いない。以下まずはこの3点について見ていこう。

  @愛国心について  与党案は「愛国心」という直截の表現をさけ、「伝統と文化を尊重しそれらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する・・・・態度を養うこと。」となった。あくまで「心」を主張する自民党に対し、公明党は当初「大切にする」等を主張していたが、結局上記の表現に落ち着いたとされる。しかし表現は少し変わったとは言え、問題はこのような内容を教基法に盛り込むこと自体にあるので、私はたいした違いはないと考える。 私は愛国心にかぎらずすべて心の中身は法律で強制すべきではないと思っている。現行の教基法自身も市川昭午が問題としているように前文・1条・2条で心の中身にかかわる教育理念を定めている。現行教基法は一般的普遍的な理念を述べており、「改正案」のように「愛国心」のような評価の分れるものを含む20を越える徳目を羅列しているのとは話が違うと言うことはできる。中曽根元首相らが、「憲法も教基法もどこの国でも通用するような内容で、蒸留水のようで日本固有の味はない」から改正しなければならないと述べているのは、この点からすればむしろ現行教基法への過度なオマージュに聞こえる。本当に蒸留水のような普遍的な内容なら、心を法律でしばることも問題が少ないからである。しかし、いつでもどこでも通用する真に普遍的な理念などというものは、実は存在しないのである。現行憲法も教基法も不磨の大典ではなく、一定の歴史性を持っており限界もある。どんなに普遍的に見える理念・徳目であれ法律でしばることには反対したい。私は日の丸の掲揚に反対しているのではなく、日の丸であれ赤旗であれ国連旗であれ起立を処分で強制することに反対しているのである。したがって、現行教基法もこの点で問題はあるのだが、「改正案」に至っては一般の意見が分れている「愛国心」を含め、教育勅語を上回る多くの徳目を法定しようとしており論外というべきである。「改正案」2条の徳目はじつは現行学習指導要領の道徳の内容をほぼなぞっている。学習指導要領は周知のように法的な位置付けについて議論があるが、大綱的基準としてその範囲内で法的効力を持つとの最高裁の判断が定着している。したがって、「予防訴訟」地裁判決も大綱的基準を逸脱した部分について、学習指導要領の法規的性格を否定しているのである。しかしそのようなあいまいな性格の学習指導要領であっても、そこに「愛国心」条項があれば、東京都教委のように司法から違法と判断されるような指導や、愛国心を通知表の評価項目に入れている福岡県のような例が出ている。これが正式に法制化されるとどのような事になってしまうのか寒心に耐えない。

  A「宗教的情操の涵養」について  「愛国心」の表現で自民党は公明党に譲歩してもらったので、宗教教育(与党案15条)についてはほぼ現行の9条どおりで、改正論議で追求されていた「宗教的情操の涵養」規定は「特定の宗派教育につながる恐れがある」と反対していた公明党の立場に配慮して導入しなかったといわれる。ただ、「宗教に関する一般的な教養」(の尊重)という文言が新たに挿入されている。成島隆はこの文言は不明確であり、かつての「宗教的情操」の観念と同様に特定の宗教・宗派を超越した一般的普遍的心情と解される恐れがあると指摘している。しかし「倫理」で宗教に関する内容を教えている立場からすれば「宗教に関する一般的教養」は問題がないように思える。「宗教的情操の涵養」を導入しようという意見は、結局のところ宗教を通じて道徳感・倫理感を身につけさせようとしているのであり、2条の教育の「目標」に徳目が羅列されていることで「宗教的情操」を入れなくてもこうした「心の教育」は可能になっているのである。

  B教育行政について  周知のように現行教基法の10条1項は「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を持って行なわれる」と定めている。この「不当な支配」の対象には教育行政それ自体も含まれると解され、現に上述の「予防訴訟」判決でも、東京都の03年10月23日通達が10条1項に違反するとしているのである。このような効力を持つ現行10条は改正論者の目の敵とされており、「不当な支配」の禁止の削除が提案されていた。しかし公明党の反対もあって、結局改正案の16条は「不当な支配」の禁止は残した。しかし後段の「直接責任」を削除し、「この法律及び他の法律の定めるところにより行なわれるべきもの」とした。従来から政府は法令に基づく教育行政機関の行為は「不当な支配」にあたらないという解釈をとっていたのであるが、改正案ではこのような政府解釈が通りやすい構図になっているわけである。ただ、「不当な支配」の禁止が残っているために、教育行政が「不当な支配」にあたるという解釈の余地が全く無いわけではない。このため公明党に譲歩しすぎであるとの不満も自民党内にあるという。

  このように公明党と自民党の妥協の産物としての与党改正案は、主要な3点に関して与党中間報告などにくらべて、一見マイルドに見えるようにはなっている。自民党内に不満がくすぶっているのも事実であろう。しかし、町村元文科相がゴルフに例えて「フェアウエーど真ん中ではないがフェアウエー上に球はあるから、前に打たなければならない」と述べているのは、言い得て妙と言うべきである。3点とも基本的な方向性は何ら変化したわけではない。長い間の自民党の悲願であったこうした方向での教基法の改正案が、初めて国会に登っているという事自体が大きな意味を持っている。このままあるいは若干の修正を加えて「改正案」が通れば、憲法改正国民投票法案が同じように継続審議になっている事もあり、次に来るのは「愛国心」を強要する方向での憲法改正であることは目に見えているだろう。


 2)教育振興基本計画の新設について

  今回の教基法「改正」では1)の点がよく議論されているが、17条の「教育振興基本計画」も将来の教育に大きな影響を与える大問題である。中教審への諮問は、まずこの「教育振興基本計画の策定」でありそれから「教育基本法の在り方」という順番であったのである。つまり、この教育振興計画の策定は結果的には与党案(民主党案も)の中に取り入れられているが、教基法「改正」それ自体と同等かそれ以上に重要な問題なのである。この問題を考えるにあたってはまず、基本法一般の性格を見ておく必要がある。じつは教基法は最初の基本法なのであるが、基本法と名のつく他の法律とは異なる意味合いを持っている。周知のように教基法は憲法と関わりが強く、「教育の憲法」と呼ばれ準憲法的性格を持ち、他の法律に法形式上優先するという議論もある。他の基本法ではそのような事は問題とされていない。また他の基本法には対応する基本計画が策定されている場合が多いが、教基法は対応する基本計画を持っていない。最近の10年間で多くの分野で「基本法」と基本計画が制定されて来ている。それらの「基本法」はすでに24本を数え、いわば「基本法」のインフレ状況にあって、必ずしも法実務上基本的に重要な法とされているわけではない。また、そもそも現行教基法は条文数も少なく教育の理念を定めたものと言える。したがって具体的な政策に連なる「基本計画」とは、本来相容れないものであるはずである。教基法改正案に「教育振興基本計画」が入ることは、教基法も他の基本法に近いものにしようという意図が感じられる。憲法との関連を薄め、理念法から具体的な施策法にしようという流れである。

  じつは、中教審への諮問がまず「教育振興基本計画」であったのは、文科省が早急に基本計画を策定することが必要であると判断したからであるといわれる。弱小官庁と揶揄される文科省にとって、厳しさを増す財政事情の中で財源配分をめぐる他の省庁との競合にとり残されないためには、「教育振興基本計画」を教基法「改正」の中に書き込む必要があった旨を苅谷剛彦は指摘している。本来文科省は、教基法「改正」にそれほど積極的ではないのだが、与党の言い分を飲みながら教育行財政の後退を食い止めるためには「教育振興基本計画」と抱き合わせの教基法「改正」が必要だった。与党案は与党と文科省と間の妥協の産物でもあるのだと苅谷はいう。このように分析されると、我々現場の教職員の「教育振興基本計画」への立場も微妙なものとなる。もちろん、現行教基法10条のしばりをはずした上で、国・文科省が基本計画を策定することは、教育への国家の介入そのものであり、断固許せないと大上段に批判することは可能である。しかし教育予算獲得の根拠を求める文科省の立場は理解できなくはない。苅谷の指摘するように教基法の「改正」は見送って、別の法律で「教育振興基本計画」を根拠付けるのがベターであるが、教基法と教育振興基本計画の抱き合わせの「改正」しか許されないのであれば、我々は究極の選択を迫られていることになる。苅谷によれば「改正案」に断固反対を貫けば、教育予算カットに歯止めがかからず、教育関係者抜きのトップダウンの政策決定の仕組みが放置されるかもしれないというのである。


 3)その他の論点

  @前文について  現行の教育基本法には前文がついている。この点も教基法が他の基本法と異なる点である。与党側も教基法が「上位の理念法」である点を重視して前文を現行法どおり残した。しかしその内容はかなり変えられてしまっている。まず、「われらは」で始まっていた現行法に対し、与党案は「我々日本国民は」で始められており、冒頭から「日本」を強調している。民主党案は法律名としては異例なことに題目が「日本国教育基本法案」である。与党・民主党とも、普遍的な理念よりは個別日本の特殊性を強調したいのであろう。現行前文の憲法の理想の実現は「根本において教育の力にまつべきものである」という美しいフレーズが削除されたので、「憲法の精神にのっとり」という文言は残されたが「憲法理念の教育による実現」という趣旨は消えている。全体として憲法と同様に「権力を拘束する規範」という趣旨だったのが、「我々日本国民が自己を拘束する規範」へ180°方向が転換されてしまっているといえる。「真理と平和」の希求が「真理と正義」に変えられ、さらに「公共の精神を尊び」「伝統を継承」というフレーズが追加されている。かなり抽象度の高い(それゆえに「蒸留水のよう」と批判されていた)現行の前文が卑俗な道徳律に変えられてしまったのである。

  A1条(教育の目的)  ここでは「人格の完成」の文言は残したが、「真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた」という具体的内容が「必要な資質を備えた」という語に置き換えられた。その資質の内容は2条で事細かに羅列されるという構図になっている。

  B2条(教育の目標)  現行の2条「教育の方針」を削除して、ここで前条の「必要な資質の内容」を20を越える徳目の列挙のかたちで示している。内容の奈何にかかわらず、このような徳目の法定化そのものに反対である事はすでに述べた。内容に関しては愛国心条項や「公共の精神」等の復古的内容が目立つが、一方で「能力主義」教育のように、競争主義と自己責任原則のいわゆる新自由主義イデオロギーに繋がるとみられる部分も存在している。

  C3条(生涯学習・新設)  現行2条(教育の方針)の「あらゆる機会に、あらゆる場所において」という印象的なフレーズを取り入れる。ただ改正案では当然2条の目標にそった生涯学習に矮小化されてしまっている。生涯学習を条文に入れることは生涯学習局を持つ文科省の省益にかなうという。

  D4条(教育の機会均等)  現行3条にほぼ対応している。「能力に応ずる」が「能力に応じた」となり、「障害のあるもの」への支援が新設された点である。後者については「障害者の権利条約」が制定されつつある今、民主党案の所で述べる国際人権法尊重の立場から私は当然の規定であると考える。

  E5条(義務教育)  現行4条に対応している。現行法の9年という義務教育年限を削除した点がまず目に付く。これは飛び級・飛び入学等新自由主義的能力主義的再編に対応したものとされる。また2項で義務教育として行なわれる普通教育の目的を新たに規定している。内容には「各個人の能力を伸ばしつつ」とあり、やはり新自由主義イデオロギーの傾向がみられる。3項では義務教育の国と地方の役割分担について定めている。これは近年、小泉前首相の三位一体改革路線で攻め込まれ続けている文科省が「地方への全面委譲路線」にとにかく歯止めをかけたものとされる。

  F男女共学  現行の5条の男女共学は削除されてしまった。これについては「改正案」に批判的な市川昭午も削除を主張している。男女共学の理念は十分浸透したという判断である。しかし、中教審の中間答申では男女共同参画社会の観点からの規定を設けるように提案していた。私もむしろこの項目は拡充し存続すべきであると思う。学校においても未だ十分に男女共同参画社会の理念は根づいているとは言えず、「隠れたカリキュラム」といわれるような男女共同参画の視点から問題のある事例も多い。最近男女共同参画へのバックラッシュ現象が指摘されている。上述の「日の丸・君が代」に関する東京都の03年10月23日通達には伏線があって、同年の7月に都立七生養護学校の性教育を民主党の土屋都議が「不適切」と都議会で追求し、産経新聞が「異常な性教育」とキャンペーンをはるという事件が起きている。保守政治家やマスコミは、性教育や男女共同参画の理念に憎悪を抱いているようである。まだ男女別学の公立高校が存在する現状で、男女共学あるいは男女共同参画の理念を抹消してよいものであろうか。

  G6条(学校教育)  現行6条に対応している。現行法の6条の1項の「公の性質」はほぼそのまま残し、2項の教員に関する部分を9条に回し新たな2項で学校教育のありかたを定めている。その新2項で「学校においては教育の目標が達成されるよう」とあり、2条の徳目規定と連動している。また「教育を受けるものが・・・・必要な規律を重んずる」とあり、現行法の「権利としての教育」から戦前のような「義務としての教育」に転換をめざしているような規定である。

  H7条(大学・新設)  市川昭午によれば、中教審の委員は現行の教基法の構成原理をよく理解しておらず、義務教育の条文があるのに大学の条文がないのはおかしいという認識があり、大学の項を追加すべきだという議論が出てきたという。改正案は多くの条文を新設しているが、基本法としての性質に鑑みれば「自主性・自律性の尊重」とは言うが、慎重に「大学の自治」の文言を避けている本条項も必要ないのではないか。

  I8条(私立学校・新設)  私立学校の「公の性質」に鑑み「自主性を尊重しつつ」「私立学校教育の振興」を規定している。この条文については、自民党の票田である私学関係団体におもねたものであるとか私学振興法と重複しているとの批判もある。しかし私は私学助成が必要ないとするか、あるいは私学教育の自由を認めない立場でないかぎり、この条文は認められるべきだと思う。憲法89条は「公の支配に属しない」私学への公金の支出を禁じている。このためにかなりアクロバット的な憲法解釈で私学助成が行なわれている。本来この憲法89条が改正されるべきであるが、当面「憲法に準ずる」とされる教基法にこのような条文を置いて私学助成の根拠とする事は有意義であろう。

  J9条(教員・学校教育から分離)  上述のように現行6条の2項が独立した条文である。内容的には「全体の奉仕者」の規定が削除され、「養成と研修の充実」が追加されている。後者は一見問題がないように見えるが、これも2条の目標と考えあわせれば自主的な研修の保障ではなくて、行政研修が主眼であろう。であるとすれば「不適格教員」の排除のシステムと連動される恐れがあるだろう。

  K10条(家庭教育・新設)  この条文について、プライバシーの領域に法が入り込むとの批判がある。しかし「父母その他の保護者は子の教育について第1義的責任を持つ」という本条は子どもの権利条約18条の規定の法制化と見られ、本条約の発効に際して国内法制が整備されなかった事を想起すれば、国際人権法の尊重の立場から私は容認したい。

  L13条(学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力・新設)  本条は学校・家庭のほか地域住民その他関係者に教育における「役割と責任」を自覚させ、「相互の連携・協力」を求めている。早い話が、地域ぐるみで2条の広範な徳目を実践させようということで、例えば「日の丸・君が代」の強制が校門の外にまで及ぶことを意味する。戦前の隣組を連想させるこのような規定の新設には断固反対である。


4.「日本国教育基本法案」(民主党案)について

 1)基本的特徴

  2.で触れたように、民主党は2006年5月23日に与党案の対案として「日本国教育基本法案」を発表している。この案は与党に揺さぶりをかけるため、「与党案」よりストレートに3点セットを取り入れたと言われる。確かに、教基法の「改正」に積極的でないとされる公明党に配慮して、少なくとも文言上はある程度マイルドになった与党案よりも、民主党案の方がタカ派的色彩が色濃く見られる。まず、「日本国教育基本法案」という名前そのものからして、「日本国憲法」以外に日本国を冠した法は無いことを考えれば、強く日本国家を意識していると見られる。第一の論点である「愛国心」について、上述のように与党案は慎重に愛国心という表現は避けたのだが、民主党案は前文に「日本を愛する心の涵養」という文言を入れている。条文の中ではなく前文なので、法的拘束力は弱いという見方もあるが、むしろ教基法の理念法的な性格からすると、前文に入ったほうが影響は強いと見るべきであろう。また与党案が結局直接は入れなかった「宗教的情操」についても、16条のBで「宗教的感性の涵養」を明記している。教育行政についても、与党案ではともかく文言は残った「不当な支配に服することなく」を民主党案ではあっさり削除している。このように論点とされる基本的なポイントで、もと自民党文教族の西岡武夫氏がとりまとめ役となった民主党案は、日本会議などの保守的団体が求めてきた教基法改正の方向に近く「フェアウエーど真ん中」を狙ったものといえる。


 2)その他の特徴

  しかし、このような民主党案にも率直に評価できる点や、与党案よりはマシな点また考慮すべき点は存在する。以下ランダムに民主党案の注目すべき点について見ていこう。

  民主党案でもっとも評価すべき点と私が考えるのは「非国民」の教育を受ける権利に言及した点である。民主党案の第4条は「すべての国民及び日本に居住する外国人に対し意欲をもって学校教育を受けられるよう、適切かつ最善な学校教育の機会及び環境の確保及び整備に努めなければならない。」と述べる。在日朝鮮人をはじめ、在日外国人の教育について日本国憲法も現行の教育基本法も、何も触れることがない。このためもあって在日朝鮮人の民族教育は日本政府によって、敵視あるいは無視され続けてきた。ようやく最近になって、国際人権規約や児童の権利条約の報告制度の中で、規約人権委員会等から度重なる勧告をうけて在日外国人の教育権も少しずつ進展しつつあるのが現状である。教育基本法より、国際人権条約の方が効力は上位であり、国際人権規約や児童の権利条約の発効にともなう国内法制の整備の一環として、在日外国人の教育権を認める方向で教育基本法も改正される必要があったと私は考える。この意味で、民主党案のこの部分に私は賛成する。しかしながら、この部分には以下のような問題がある。市川昭午は中教審の議論の中で、「教育基本法の見直しを機会に日本人が日本人として心に誇るものを持ち続けさせたい」という参考人の発言に対し、在日外国人の子どもたちにも「日本人としての心に誇るものを持ち続けさせるわけですか」と尋ねたが、実質的な答えはなかったという。その後も中教審で在日外国人についての議論が深まることはなく、与党案にこの問題が盛り込まれることもかった。実は、与党案よりも「日本人」や「愛国心」を強調していると見られる民主党案で、在日外国人の教育を規定することはより問題が大きい。愛国心と在日外国人の教育をそのまま並立させるのは無理があるだろう。どうも民主党案は部分的に良い点があっても、全体として法案の整合性に問題があるようである。私見では、この問題については児童の権利条約の29条1のC項「児童の父母、児童の文化的同一性(アイデンティティ)、言語及び価値観、児童の居住国及び出身国の国民的価値観並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成すること」が参考になると考える。この条文は自国が植民地支配を受けた経験に照らしてアルジェリアが提案したものであり、「植民地、人種差別政権下にある子どもも文化的民族的アイデンティティを奪われてはならない」ことを訴え、そのために自己と異なった文明や基本的人権を尊重する教育を求めるものである。つまり都教委の03年10・23通達のような排他的なナショナリズムの強制を排除することをめざしている。日本が批准した国際条約である児童の権利条約の効力は憲法98条2項により教育基本法にも優越する。したがって民主党案の愛国心と在日外国人教育のジレンマにあって、廃棄されるべきは過度な愛国心につながる条文であり、在日外国人の教育については権利条約29条1のC項の精神に則り実施されるべきであろう。

  一般に現行教基法を擁護する立場では、すべての条文について改正の必要がないという考えが強い。しかし私は少なくとも、法律に優越し憲法に準ずる効力を有する国際人権条約が要請している部分については、改正するのが理の当然であると考える。この在日外国人の教育権や異なる文化のアイデンティティの尊重等はぜひ教基法にとりこむべきである。民主党案にはこのような国際人権条約を意識したと見られる条文が、在日外国人の教育権のほかにも存在する。8条の高等教育で無償教育の漸進的導入を述べているが、これは国際人権B規約で日本政府が留保している点である。こうした国際人権条約への目配りという点では民主党案は支持できるところがあると言えるだろう。

  民主党案には他にも評価すべき点がある。6条の「幼児期の子どもに対する無償教育の漸進的導入」であるとか「障がいを有する子ども」の権利を明記した点などは積極的に評価できるし、また徳目を列挙していない点は与党案よりはましと言える。ただ職業教育や情報教育また学校理事会等にも触れている点は、基本法というには細かすぎる感がある。民主党案の問題点は、「愛国心」と「在日外国人の教育権」が無媒介的に共存していたように、与党案より保守的な部分と現教基法よりも優れた点が平気で共存している点にあると考える。民主党自体の構成と同様に、民主党案もまた寄せ集め的で統一性を欠いているというべきであろうか。



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