◆198706KHK061A2L0187F
TITLE:  高等学校における退学処分と自主退学
AUTHOR: 羽山 健一
SOURCE: 『自由と正義』1987年6月号(日本弁護士連合会)
WORDS:  全40字×187行

 

高等学校における退学処分と自主退学

 

羽 山 健 一 

 

一 問題の所在

  高等学校における生徒の退学は一般に次のように分類される。@生徒の申出による退学、依願退学(以下「自主退学」という)、A授業料滞納や休学期間超過等による退学(除籍)、B懲戒による退学(以下「退学処分」という)。退学処分は生徒が特定の学校で教育を受けることのできる法律上の権利を剥奪するものであり、教育的懲戒の一形態として行われる。従来このような作用は、教育という専門技術的な立場にある学校の裁量にまかせられており、司法が関与するには不適当な分野として、裁判所はその判断に入り込まないようにしてきた。しかしながら、学校の恣意的・独断的な権利侵害から生徒の権利を守ることは緊急の課題であり、そこで学校の教育的裁量判断を尊重しながらも、違法な退学処分をチェックするにはどのような基準や方式が成り立ち得るかについて考えてみたい。

 

二 退学処分の裁量性

(1) 学校教育法(以下「学教法」という)一一条は「教育上必要があると認めるときは・・・・懲戒を加えることができる」、また同法施行規則一三条二項は「懲戒のうち、退学、停学及び訓告の処分は、校長・・・・がこれを行う」と定め、退学処分を含めた懲戒について、学校(法文上は「校長」であるが、条理上は教師集団とされている。以下同様)に幅広い裁量権を認めている。すなわち、リーディングケースになっている京都府立医大事件(最三判昭二九・七・三〇民集八巻七号一四六三頁)によれば、@当該行為が懲戒に値するものであるかどうか、A懲戒処分のうち、いずれの処分を選ぶべきか、Bひとたび懲戒事由に該当する事実があると認めた場合に懲戒権を発動するかどうかは、学校の裁量に任せられている。ただし学校における懲戒は一般企業等団体内部の規律保持のためにするものとは異なり(注1)、「教育上の必要がある」ときに行われ、教育作用の一環としてとらえられていることに注意すべきである。

(2) 退学処分は他の懲戒処分とは異なり、生徒を学外に排除するという最終的手段を用いた重大な処分であるため、最も慎重に行われなければならず、その限りにおいて学校の裁量の余地は、他の懲戒処分よりも狭められていると考えられる。学教法施行規則一三条三項が、退学処分についてのみ、四個の処分事由を定めているのも、この趣旨である。さらに昭和女子大事件(最三判昭四九・七・一九判時七一九号)でも「その要件の認定につき他の処分の選択に比較して特に慎重な配慮を要することはもちろんである」と述べている。これは、生徒が心身ともに未成熟な部分を残し、可塑性に富んでいることからすれば当然のことであろう。

(3) 学教法施行規則一三条三項は退学処分の事由として、次の四個をあげている。「一、性行不良で改善の見込みがないと認められる者 二、学力劣等で成業の見込みがないと認められる者 三、正当な理由なくて出席常でない者、四、学校の秩序を乱し、その他学生又は生徒としての本分に反した者」。この規定は、ほとんどの高校の学則にとりこまれて各校の退学処分の要件となっている。ところがこの規定には次のような問題がある。まず、「改善の見込みがない」「生徒としての本分」などの文言があまりにも抽象的で、ほとんど判断の基準とはなり得ない。にもかかわらず、各学校において、教育自治的に審査基準が吟味されていない。次に、「学力劣等」や出席不良が退学処分事由とされているのは、学習権を保障する現行教育法制の理念に反する(注2)。つまり、学力劣等は教科教育上の問題であり、出席不良は単位履修上の問題であるので、ともに退学処分事由とされるべきものではない。実際にもほとんどの高校で、単位の修得や卒業・進級の認定についての基準を定めた”教務内規”を整備しており、学力劣等、出席不良生徒に対し、教務措置として、単位不認定や原級留置き(落第)を決定することとしている。したがって、この教務措置以上に退学処分を行うことは、後に述べる平等原則・比例原則に反する違法な処分となろう。

 

三 退学処分における裁量権の限界と審査

  憲法・教育基本法上要請される生徒の学習権保障の原則は、学校の退学処分の領域に対しても、その誓約原理として機能する。したがって学校の退学処分についての裁量判断がファイナルなものとする、伝統的自由裁量行為論は否定されなければならない。一般に行政庁の裁量処分について、今日の裁判所の基本的姿勢は、行政側が裁量権を主張するなら、あっさりそれを認めて、そのうえで、裁量権の踰越・濫用を審査するというもので(注3)、昭和三七年に行政事件訴訟法三〇条が新設されたもの、このような趣旨と解される。

  それでは、何が違法を導く裁量権の踰越・濫用に該当するかを検討する必要がある。従来、多用されてきたのは「社会観念上著しく妥当を欠く」か否かの基準である。しかし、この基準は抽象的すぎ、結果的に裁量判断を肯定することとなり、必ずしも裁量統制の基準として有効とはいえない。そこで次に、いかなる基準が裁量統制の機能を果たし得るかについて考えたい(注4)。

(1) 事実誤認 

  処分事由となる事実が存在しない場合の退学処分は、当然のこととして違法である。このような例は少ないが、前掲京都府立医大事件はこの典型例である。また処分事由の認定には、当該事実に対する評価を伴うものも少なくないため、要件事実の認定につき、全く条理を欠く場合は、裁量は違法である。

(2) 目的違反・他事考慮 

  退学処分についての裁量権は、教育目的を達成するために付与されたものである限り、その行使が教育目的から逸脱し、不正な動機に基づいて裁量を行ったり、その目的に照らして本来考慮にいれるべきでない事項を考慮にいれて裁量判断をしたときは違法なものとなる。ここでいう教育目的とは、直接には処分を受ける生徒の「教育上の必要」を意味する。したがって、専ら学内の規律保持のためだけの処分は認められない。また教育目的といっても当然、学校教育における目的を指し(学教法四一条)、学校教育の範囲には、自ずから限界がある。たとえば、学外で単車に乗るのを禁止することが、学校教育の範囲であるかどうかは疑わしい。

  裁量判断にあたり、「当該行為の軽重のほか本人の性格、平素の行状」など諸般の要素を考慮する必要があるが、「学校の権威」「父母の学校に対する不信感」、私学における「経営上の理由」を考慮したり、「学校の体面や他の生徒への影響を過大視」(注5)することは、「本来考慮に容れるべきでない事項を考慮に容れ、かつ本来過大に評価すべきでないことがらを過重に評価」(注6)した点で、その裁量判断は違法なものであろう。なお、福渡高校事件(岡山地判昭五五・一一・二五学判一八四九・二)では「外部の者の介入またはその圧力により」学校が教育目的を離れ、自律性を失った状態で行った退学処分の効力を否定している。

(3) 比例原則・平等原則 

  生徒の懲戒はその目的を達成するために必要な限度で行われなければならない。厳罰主義、過酷に失する処分は排されるべきである。体罰に関するものであるが、田川東高校事件(福岡地裁飯塚支判昭四五・八・一二判時六一三号)では「懲戒を加えるに際してはこれにより予期しうべき教育的効果と生徒の蒙るべき右権利侵害の程度とを常に較量し」正当性の範囲を超えないように留意すべきであると述べている。次に平等原則について、磐城高校事件(福島地判昭四七・五・一二判時六七七号)は、「懲戒処分が生徒に対する権利侵害を含むことがあるので、他との衡平性および画一性が要求され」と述べ、懲戒処分の個別性とあわせて平等原則を説いている。

  以上は、裁量判断の実体的な内容に対する審査基準であった。以下は裁量判断の外面的手続・過程に対する審査基準を揚げる。

(4) 教育的手続の要請 

  学教法施行規則一三条は懲戒を加えるに当たって「教育上必要な配慮」を要請している。退学処分も懲戒の一つであり、教育作用の一環である。したがって退学処分は、説諭や反省を促すなどの教育的配慮に基づいた教育指導を重ねた上での最終的手段でなければならない。つまり教育指導過程を経ない退学処分は、教育的懲戒とはいえない違法なものである。

  また処分事由である「性行不良で改善の見込みがない」と認定する際は、反省の機会を与えるなど段階的な教育指導を試み、指導の可能性を追求したうえでの認定でなければならず、「十分な指導を行わないままに指導の限界である」(注7)とするのは、手続上の瑕疵があるといわざるを得ない。さらに学校の誤った、教育的配慮を欠く対応が生徒の反発を招き、処分事由とされる行為を引き起こした場合(注8)にも同じく手続上の瑕疵を構成する。

  教育的手続につき、前掲昭和女子大事件一審判決では「教育機関にふさわしい方法と手続により本人に反省を促す過程を経る必要があり、これは教育機関の法的義務に属する」としたが、最高裁はその義務を否定した。本件は大学生の政治・思想活動に関わる退学処分であり、このような場合にまで反省の機会を経る義務が存するとするのは疑問の余地があろうが(注9)、これは一般化すべき事例ではないと考えられる。

(5) 処分決定手続の適正(注10) 

  学校は退学処分を決定するにつき、不公正な恣意・独断が疑われるような手続を採用する裁量の自由を有するものではない(注11)。これは憲法三一条が行政手続に適用があるかどうかの問題ではなく、「憲法一三条なり、憲法全体の構造からも導かれる法治主義の要請」(注12)からも導かれるものであろう。処分手続について何らの規定の存しない現状においても、最小限、次のような手続が要請される。@違反事実を明確に通告すること、A該当生徒・関係者から十分事情を聞くこと、B学校のもつ資料への要求に応じること、C事前に弁明する機会を保障すること、D会議として適正に職員会議が開かれ、その審議の中で、右の手続が反映されること。これらは厳密な手続の形式をとる必要はないにしても、実質的に保障されるべきもので、その具体的あり方によっては処分の違法性を導くと解すべきである。

  判例にも適正手続を求める傾向がみられる。すなわち新潟県立高校事件(東京高判昭五二・三・八判時八五六号)では、手続的要件の審理をし、さらに職員会議における審理について「[退学]処分の重要性を考えると、右処分をするかどうかについて職員会議に諮問することが条理上当然であるといえよう」と述べている(注13)。

 

四 自主退学の問題(注14)

  近年、高校における中途退学者の増加は社会問題にもなっている。ただし退学処分が増加しているわけではなく、「自主退学」の形式をとる中途退学者が増加しているのである。ここで自主退学がまったく生徒の意思による場合や、退学処分の決定した生徒が、将来に与える影響を考慮して自主退学の途を選ぶ場合には問題はない。そこで、右以外の場合に生じる、自主退学をめぐる問題点を指摘したい。

(1) 学校が本来退学処分を行えない状況において、それがあたかも退学処分であるかのような申し渡しをすることがある。たとえば安西高校事件(広島地決昭五六・一・一六判時一〇〇三号)では、「本校で学べないことになりました」「今日の職員会議で退学が決まった」などの申し渡しをしている。職員会議で決まったといっても、強制力のない退学勧告(勧奨)にすぎない場合が多い。学校が退学を勧告するときには、それが指導であって、処分ではないことを明らかにすべきである。

(2) 自主退学が強要され、実質的にそれが退学処分として機能している場合がある。自主退学の強要には単なる説得だけではなく、次のような手段がとられている。@事前に「今後どのような指導にも従う」という内容の誓約書をとっておく、A停学中の生徒に、停学期間を延長して学校への復帰を認めない(前掲安西高校事件)、B進級の認められなかった生徒に、再履修の手続を行わない。生野高校事件(大阪地判昭四九・三・二九判時七五〇号)は、これに近いものである。

(3) 学校では問題行動をくり返している生徒に「日付のない退学願」を提出させ、以後問題を起こしたときにそれを発動させる由、申し渡すことが少なくない。しかし前掲福渡高校事件では、これを「停止条件付退学の意思表示」と解することはできないとしている。また「日付のない退学願」に当該生徒の父が、本人と相談せずに日付を記入し、再提出した阪南高校事件(大阪地判昭四九・四・一六月刊生徒指導昭四九年七月)では、「本人の意思に反する退学願」は有効なものではないとした。

(4) 自主退学は「学業不振」生徒が、原級留置きの決定する前後に集中している。これは、この時期に担任教師が積極的に進路変更(自主退学)指導を行うためでもあるが、その原因となっている原級留置きの措置が恣意的に行われていなかったかどうかを審査してみる必要があろう。

<注>

(1)矢掛高校事件(広島高裁岡山支判昭二七・七・一八行集三巻六号一三〇九頁)
(2)兼子仁「『学力劣等』は懲戒退学の理由?」季刊教育法五二号 エイデル研究所
(3)宮田三郎「裁量統制」日本公法学会 公法研究四八号 有斐閣
(4)田村悦一「自由裁量論」ジュリスト五〇〇号判例展望 有斐閣、同「裁量権の逸脱と濫用」ジュリスト増刊行政法の争点 有斐閣
(5)「府立学校に対する指示事項」大阪府教育委員会(一九八六年)二一頁
(6)東京高判昭四八・七・一三行集二四巻六=七号五三三頁、いわゆる日光太郎杉事件
(7)前掲注(6)二一頁
(8)坂本秀夫「生徒懲戒の研究」学陽書房二一八頁
(9)兼子仁「教育権の理論」勁草書房一八二頁
(10)羽山健一「生徒懲戒処分と適正手続」月刊ホームルーム一九八四年一一月増
(11)同旨、東京地判昭三八・九・一八行集一四巻九号一六六六頁、いわゆる個人タクシー事件
(12)室井力「高校生の処分とその手続」別冊ジュリスト教育判例百選第二版 有斐閣
(13)職員会議の構成における瑕疵につき落第判定を無効としたものとして、明訓高校事件(新潟地判昭四七・四・二七教育判例百選三七事件)
(14)永野恒雄「自主退学の教育法的検討」月刊ホームルーム一九八三年一一月増

 


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