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TITLE:  正座・作業罰の検討 − 身体面・精神面から
AUTHOR: 羽山 健一
SOURCE: 『月刊生徒指導』1987年11月号24頁(学事出版)
WORDS:  全40字×189行

 

正座・作業罰の検討 − 身体面・精神面から

 

羽 山 健 一

 

 さまざまな罰と正座・作業罰

 

  罰とは、社会的に望ましくない行動がくり返されないようにするため、生徒に苦痛・嫌悪・不快などの感情を引きおこす刺激を与えることであり、教師の「事実上の懲戒」にあたるものであろう。日頃行われる罰の形態は多様であるが、次のように大別することもできよう。

  身体的罰−−生徒の身体に向けられ、生徒に肉体的苦痛や不快を与えるものである。これには次のような種類がある。@正座や起立など特定の姿勢を保持させる罰。A腕立て伏せ、うさぎ跳びといった運動を科する罰。B便所掃除など生徒が好まない作業を科する作業罰。C放課後教室などに残留させる罰。D殴る、蹴るの暴行を加えるもの。殴る、蹴るは当然のこととして、その他の身体的罰も、それが生徒に肉体的苦痛を与えるときは、法で禁止された体罰にあたる。

  精神的罰−−生徒の精神に苦痛や不快を与える罰である。@他の生徒のいる所で、特定の生徒を怒鳴りつける。A生徒を中傷・侮辱する言葉の暴力。たとえば「死ね」「ブタ」「マヌケ」などの悪口雑言。B非行生徒の氏名を公表する(注1)、成績の悪い生徒の点数を発表する。C生徒に屈辱的な行為をさせる辱しめの罰。たとえばプラカードを首から吊す、生徒の顔に落書きをする(注2)、三回まわって「ワン」と言わせる。これらの精神的罰が度を越して生徒に精神的苦痛を与え「心理的暴力」と考えられるときは、違法な懲戒となる。

  以上の二つに整理しにくいものとして、教科の成績評価を下げる罰、授業中に生徒を教室外へ追い出すような権利剥奪の罰などがある。

  一応このように罰を大別するにしても、ある一つの罰が身体的罰と精神的罰の両者の性格を帯びることも多い。たとえば正座は、授業中の教室や職員室など、他の生徒や教師の見ている所で、長時間にわたって行われることが珍しくなく、このとき生徒は肉体的苦痛のみならず、精神的苦痛をも受けることになる。作業罰についても同様で、たとえば日常の掃除当番とは別に、「正門前庭の掃除をさせる、というのは本人への辱しめを考慮してであり、トイレ掃除をさせるのは〔精神的〕苦痛を与えることを意図してのことであろう」(注3)。このように正座や作業罰は、「身体的精神的罰」というべき性格を持つ。とりわけ、精神的罰としての側面を見のがしてはならない。

 

 なぜ、正座・作業罰が多用されるのか

 

  学校教育のなかでもっとも多く、一般的に行われている罰は、命令による正座である。今橋盛勝茨城大学教授の調査によれば(注4)、小中高の学校で、正座の罰を体験したことのあるものの割合は、八六・八%と非常に高い。また別の調査によれば、作業罰や運動を科する罰の体験率は、二〇〜三〇%である。それではなぜ正座や作業罰が多用されるのであろうか。いずれも教師みずから直接手を下さないという点で、気楽に行えるということもあろうが、次のような理由が考えられる。

  (1) 正座や作業は、罰としてでなく行われることがあり、教師にとってとくに重大な罰とは感じられていない。

  便所掃除や腕立て伏せ・うさぎ跳びは、それ自体として日頃行うことのある労働や運動である。また正座は、畳のある日本の生活様式では普通の姿勢であり、現在も多くの家庭で行われている。しかしながら、問題となるのは、これらが罰として生徒に強制されることであり、それを前提として、肉体的苦痛・精神的苦痛の有無や程度を考えなければならない。

  (2) 正座や作業罰に対して生徒の抵抗が少ない。

  先の今橋教授の調査によれば、「短時間の正座・起立」については、七七・六%が「時には」認容し、「ぜひ必要だ」の二・九%を合わせると、肯定的は八〇・五%になる。本来は屈辱的な罰であるものが、このように認容されるのは、児童期から正座や作業罰を受けて、自専心が鈍化しているためであり、これらの罰が「体罰よりまし」ととられているからであろう。

  (3) 「いくら言って聞かせても、いうことを聞かない」という「嘆き」を持たない教師は少ない。それだけ現場での指導が困難なものになっているのである。このため何らかの罰が必要とされるようになり、教師にも生徒にも抵抗の少ない正座や作業罰が用いられるようになったといえる。

  しかし、指導の困難性が短絡的に罰と結びつくというのでは、教師の専門性が疑われてもしかたがないであろう。「親の中には罰を与える以外、子どものしつけ法を知らない人達がかなりいる」という批判はよく聞かれることであるが、この批判は教師にもあてはまる。事実、高校教諭の免許状を受けるために必要とされる、教職に関する専門科目(教育原理など)の最低修得単位数は一四単位にすぎない(教育職員免許法五条)。あとは現場で経験し研鑽していくなかで、自分の指導方法を確立していかなければならない。ところが現場ではそのような余裕はなく、即時的効果のある方法として、正座や作業罰が用いられることとなる。生徒は反感や敵意をいだきながらも、それは行為として表面化せず、結果的には指導に従うことが多い。そのため、教師は生徒がわかってくれたものと思い、その教育的効果を過信してしまいがちである。

  (4) 正座や作業罰の適否が身体的側面からのみ判断され、体罰に至らない限度でなら行ってもよいと考えられている。

  体罰と法律で認められた懲戒との区別については、一九四八年に出された旧法務庁法務調査意見長官の回答、「児童懲戒権の限界について」がよく引用される。それによれば、正座や起立のような懲戒は体罰の一種と解しながらも、具体的に特定の正座や起立が体罰にあたるかどうかは、「当該児童の年齢・健康・場所的および時間的環境等、種々の条件を考え合わせて」判断する、という。これに従えば、健康な高枚生に、少々の正座や起立をさせても体罰にはあたらないという結論になる。さらに作業罰についても、「懲戒として学校当番を多く割当てることは、差し支えない」として、作業罰を部分的に認めている。つまりこの回答では、正座や作業罰のもつ精神的罰としての問題性が見すごされているのである。

 

 正座・作業罰の問題性

 

 (1) 教師と生徒の関係を上下関係にする

  正座や作業罰を行うときの教師は、人間として生徒と対等な関係に立つものではなく、明らかに生徒に対して「権力者」として現れる。

  多くの教師は、罰として生徒を足元に座らせながら、自分は椅子に腰をかけ、または立って生徒と向かい合い説諭する。まさにこれは、教師と生徒の関係が上下関係になっていることを生徒に思い知らせることになる。生徒と同じように床に正座する教師は見あたらない。また生徒は、便所掃除のような作業罰を受けるに際して、その便所掃除がなぜ必要であるか、あるいは自分の犯した過ちが、なぜ便所掃除と論理的につながるかを理解できないまま、教師の命令に服従することが強制される。

  仮に、体罰が教師と生徒の関係を飼主と飼犬の関係にするものであるとすれば、正座や作業罰はその関係を支配者と被支配者の関係にしてしまうものであろう。それは教師と生徒との間の、愛情や信頼感に基づいた望ましい関係(ラポール)とは無縁のものである。

 (2) 生徒の性格形成に歪みをつくることがある

  前記のような上下関係に慣らされていくと、生徒は、「権威主義的パーソナリティ」を持つことになる。「権威主義的パーソナリティの持ち主は人間をタテの上下関係においてしか見ようとしない。自分より強い者には絶対服従する一方、弱い者に対しては絶えず攻撃を加えようとする」(注5)。このような生徒が「いじめっ子」になり、さらに成長してからは差別などの反民主主義的傾向を持ちやすいことは容易にうなずけよう。

  正座や作業罰が多用されたり、感受性の強い生徒に加えられると、その生徒が何事にも消極的・無気力で、ひっこみ思案の性格になり、「萎縮したパーソナリティ」(注6)が形成される危険性がある。極端な場合は、登校拒否をも引き起こす。このような生徒には、社会の価値や規範を内面化していくといった社会化があまりみられず(注7)、相手の顔色をうかがい、「先生が見ているから悪い事をしない」というような他律的な性向が身についていく。

 (3) エスカレートして重罰になる危険性がある

  何度も罰を受けると、罰に対し鈍感になり、最初は恥ずかしいと感じた罰でも、ついには恥ずかしいと感じなくなる。

  そこで、正座や作業罰がさまざまな形で「応用」されるようになる。別室で正座をするだけでは何の苦痛も感じなくなった生徒には、その罰の効果はまったく無くなる。そのため、より大きな苦痛を与える罰が行われることになる。まず正座をさせる時間を長くしたり、他の生徒や教師の見ている中で正座をさせる。それでも利かないとなると、校門前や、さらには授業中の机の上に座らせるようになる(注8)。今後もっと恐ろしい正座が考案されるかと思うと背筋が寒くなる。

  作業罰についても、単に当番となっている区域、あるいは教室の掃除から、便所掃除、廊下のぞうきんがけ、校庭の草むしり、などと重くなっていく。愛媛県のある中学校では、遠足で生徒を自衛隊の演習場へ連れて行き、服装の乱れていた生徒に罰として、演習場にある便所の掃除をさせていた(注9)。遠足に行ってまで、このような罰を加えられれば、生徒の受ける精神的苦痛はより大きなものとなろう。

 (4) 教育的意味を持たない

  正座は、本来「正しく座る」という意味であるが、罰として行われる正座は、姿勢を正しくするという指導の意味を持たない。また「罰として課された労働ほど、労働の本来の意味から遠いものはなく」「決して労働の喜びはない」(注10)。

  ギリシア神話に出てくるシシュポスは、ゼウスを欺いたため、その怒りにふれ、押し上げるたびに転がり落ちる石を、険しい山の頂上まで持ち上げる罰を科せられた。ゼウスは、無益で希望のない労働ほど恐ろしい罰はないと考えたのであろう。

  作業罰の多くは、生徒の犯した違反行為と因果関係のない「罰のための労働」の強制であり、まさに生徒に、悲劇的なシシュポスの苦痛を味あわせることになる。これではますます生徒を労働嫌いにさせる。

 (5) 「人間としての尊厳」を侵す

  正座や作業罰は、体罰にあたるかどうかという論点から論じられることが多い。しかし問題はそれだけではない。正座や作業罰は衆人環視のなかで行われることが多く、このとき生徒は「みせしめ」や「さらしもの」にされるのである。自我の確立段階にある中・高校生にとって、このような扱いは堪えられないことであり、人間としての誇りや自尊心は傷つけられ、予想以上の精神的打撃を受ける。

  憲法一三条は「すべて国民は個人として尊重される」として人間の尊厳を保障しており、生徒も当然のこととして「人として尊ばれ」「虐待・酷使・放任その他不当な取扱からまもられる」(児童憲章一九五一年)。ところが正座や作業罰を与えることには、生徒を独立した人格を持つ、価値ある存在として尊重する態度がみじんも感じられない。生徒に精神的苦痛を与え、その「人間としての尊厳」を侵すような正座や作業罰は、「教育的配慮」を欠く違法な懲戒である。

  教師は、ややもすれば目先の効果にとらわれ、生徒に正座・作業罰を与え、それをエスカレートさせがちである。しかしそれは、生徒を人間として尊重する気持ちを忘れ、ただ権力・威力を押しつけているだけである。そしてその結果、生徒の敵意や憎悪を引き起こすことになる。したがって教師は、このような失敗を犯すことなく、生徒の成長を長期的にとらえ、生徒の自律性、自己改善の能力を育成するような教育方法・手段を考えていく必要があろう。

 

 < 注 >

(1) 朝日新聞、一九八六・一二・二二
(2) 朝日新聞、一九八四・一二・二
(3) 坂本秀夫『生徒懲戒の研究』学陽書房
(4) 今橋盛勝『体罰その他の人権問題の実態と意識の研究』茨城大学行政法教育法研究室(一九八五年調査)
(5) 波多野誼余「賞と罰の心理学的考察」(『児童心理選集』八巻)金子書房
(6) 上武・辰野編『ほめ方しかり方の心理学』新光閣書店
(7) 沢田・小口編『教育心理学』有斐閣双書
(8) 朝日新聞、一九八三・三・一八 毎日新聞、一九八五・一一・一〇
(9) 朝日新聞、一九八五・一一・一九
(10) 前掲注(5)

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