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◆199208KHK121A1L0191AN TITLE: イギリスの教育制度 − その歴史と改革の動向 − AUTHOR: 伊藤 靖幸 SOURCE: 大阪高法研ニュース 第121号(1992年8月) WORDS: 全40字×191行
伊 藤 靖 幸
はじめに
しばらく中断していた英米法部会を、今年度からぼつぼつ再開している。これまでずっとアメリカの文献にあたってきたので、今回は趣向を変えてイギリスの文献に手をだしてみようとしている。イギリスの教育制度はアメリカとはまた異なった伝統と歴史を持ち、日本の教育制度と比較してみるとたいへん興味深い点がある。またイギリスでもサッチャー政権から「戦後最大」ともいわれる教育改革が進行していることも、日米の教育改革の動向とあわせて興味深い。とりあえずは、イギリスの教育制度の歴史と教育改革の動向を簡単に紹介して、再開英米法部会の第1回報告に替えたい。
ここでは、Bサイモン「現代の教育改革−−イギリスと日本」(エイデル研究所1987)にしたがって、19世紀末からのイギリスの中等教育の歩みを「すべての者のための中等教育の歴史」と位置付け、4期にわけて検討していこう。
(1) 第1期(19世紀末〜1944)
この時期はコンプリヘンシブ・スクール(総合的中等学校)運動の起源と考えられる時期である。よく言われるようにイギリスは階級社会的要素が強く(このような手垢にまみれたステレオタイプによる理解には注意すべきであるが、ここでは簡単に説明するためにこのように言っておく)、グラマー・スクールを中心とする中等段階の教育と、労働者階級のための初等教育はまったく分離されていた。1902年教育法は無料の初等教育を地方教育庁に義務づけたが、中等学校段階は旧態然としたラテン語グラマー・スクール等が温存されていたのである。1907年の教育法では中等学校の中に、一握りの子供たちのための「無償席」が確保されたが、このような制度が存在したこと自体、中等教育がすべての者のためのものでないことを逆照射しているだろう。こうした状況の中において、「中等教育をすべての者に」ということが、労働組合や当時支持を拡大しつつあった労働党の運動となっていく。この「中等教育をすべての者に」“Secondary Education for All ”というのは経済史家トーニーが1922年に労働党のために書いたパンフレットの題名なのである。1918年の教育法でも状況はかわらなかったが、トーニーも参加した公的な機関である教育院諮問委員会は1926年「青年期の教育」という報告書を出し、さまざまなタイプの中等学校の形成を提言して、すべての者への中等教育の理念に近づけようとした。1938年には同諮問委員会は「中等教育」という報告書を出し、明確にすべての子供たちが11歳の時点で中等教育に自動的に進学することを提言した。39年に政府はこの提言を直ちに拒否したが、すべての者への中等教育の要求は一般的なものとなり、1944年教育法において結実することとなる。
(2) 第2期(1944〜65)
この時期はコンプリヘンシブ・スクール運動の始まる時期である。1944年教育法の成立により、はじめて「すべての者に中等教育を」の原理が実現された。その意味でこの法律は画期的な意味を持つが、その半面でこの法律はまた多くの限界を持っていた。最大の問題点は実施計画が不明確であり、結局のところ複線型教育システムである三分岐型中等教育システムを形成することになった点である。すでに第1期の時代から労組・労働党を中心とする勢力は単線型の中等教育(コンプリヘンシブ・スクール型)をめざしていたが、44年教育法は「中等教育は11歳以上のすべての子供たちにその年令・能力・適性にしたがって提供されねばならない」と記すのみであった。イギリスでも米国と同様に教育の権限は地方当局にあり、理論上は地方当局がコンプリヘンシブ・スクール型の中等教育を導入することもできたし、労働党色の強いロンドンなどではそうした意見も強かったのであるが、大勢は教育省の訓令やパンフレットにより三分岐型中等教育を押しつけられる事となったのである。1945年からは労働党政権にとなったのであるが、それにもかかわらずこうした状況であったのである。三分岐型中等教育システムとは11歳のときのイレブンプラスと呼ばれる試験の結果等で、とくに優秀な生徒がグラマースクールに、その次クラスの生徒がテクニカルスクールに、残りの生徒がモダーンスクールに振り分けられる制度である。グラマースクールは高等教育に通じており、モダーンスクールは就職組である。これに対して、コンプリヘンシブスクールはこれらの3本立ての中等学校を単一化し統合しようというものである。44年教育法の第二の限界は「パブリックスクール」(直訳すれば公立学校となってしまうが、周知のようにイートン、ハローなどのエリート私立学校のことを指す)が法によってなにも手をつけられずに温存されたことである。その他離学年令を16歳とする時期がもりこまれなかった点(そのために離学年令を15歳とすることは1947年に実施されたが、16歳とするのはやっと1972年に実施されることとなった)、また、15歳から18歳までの青年に週1日の義務教育を与えるカウンティカレッジと呼ばれる構想が、強い支持を受けていて法政化されたがこれも実施時期が明記されず、結局実施されなかった点等が44年教育法の限界をなしていた。
この時期に44年教育法の最大の問題である三分岐システムに対して、労組・教員等を中心にコンプリヘンシブスクールを支持し拡大する運動が展開されたのである。しかし1951年から政権をにぎった保守党政府は断固としてこれに反対し、1964年に労働党政権に移行するまでコンプリヘンシブスクール化は進まなかったのである。
(3) 第3期(1965〜1979)
この時期はコンプリヘンシブスクールが確立していく時期である。64年に政権についた労働党政府は65年に通達を出し、すべての地方当局に現存する教育制度をコンプリヘンシブスクール型の総合制中等教育へ転換する計画を提出するよう求めた。上述のようにイギリスでは地方当局が教育の主体であり、政府の方針がすべての地方で貫徹されるわけではないが、第2期の運動の成果もあり大多数の地方当局はコンプリヘンシブスクール化を進めた。18歳まで一貫した学校を創った地域もあれば、13歳または14歳の段階で分ける2段階制度をとった地域もあるが、ともかくもコンプリヘンシブスクール化は進行し、70年代はふたたび保守党政権となりあのマーガレット・サッチャーが教育相となったのであるが、彼女もコンプリヘンシブスクール化の動きをもはや止めることはできなかった。60年代後半には他の点でも大きな動きが見られた。初等教育においてそれまでは、能力別学級編成(Streaming )が一般的におこなわれていたが、これを廃止しようとする運動がもりあがり成功したのである。さらにこの能力別学級廃止の運動は総合化された中等学校においても発展していった。日本の文部省は、欧米では能力別学級が常識であるとして、「習熟度別学級編成」の導入に熱心であるが、このイギリスの動きのように欧米でも能力別学級が全面的に賛同を受けているわけではない点は押さえておきたい。
(4) 第4期(1979以後)
この時期はサッチャー政権の下、新たな矛盾が出現した時期である。学校数全体が増え、コンプリヘンシブスクールの割合も増加しているが、政府財界等には、教育一般とりわけコンプリヘンシブスクールへの強い批判が存在するようになってきた。またイギリスで深刻な多数の青年失業者の問題も、教育制度に暗い影を与えている。まず政府は一部の保守党地方当局の地域でコンプリヘンシブスクールを、グラマースクールとモダーンスクールといった分岐制度に再変更しようとした。しかしながら、そうした地域の人々は、分岐教育支持が多いと考えられていた中産階層勢力の強い地域を含め総合制教育システム(コンプリヘンシブスクール)を支持し分岐教育復活のための選抜制度を拒絶したのである。この結果政府は戦略を改め、分岐教育の復活でなく、コンプリヘンシブスクール間あるいは個々のコンプリヘンシブスクールの中に格差を拡大させる方向をとることとなった。能力別学級編成を行い、上位20%程度をアカデミッククラスとし、第二グループを技術クラスに、底辺のグループを職業クラスに位置付けようというわけである。この他「底辺40%」とジョセフ教育相(産業相から教育相に就任したサッチャリズム推進派)が呼ぶ者に対する特別な教育計画や、16歳での試験の実施なども実質的に分岐教育を復活させようという試みであろう。このようにすべての者のための(単一の)中等教育を求める方向と、分岐教育を推進しようと方向の対立はイギリスにおいて古くて新しい問題なのであり、現在も問題でありつづけているわけである。
(1) サッチャーの教育改革
1979年から12年にもわたって政権を担当したサッチャーの政策の柱の一つに、ほぼ同じ時期に政権についたアメリカのレーガン・日本の中曽根と同様に、教育改革があげられていた。そのおおざっぱな方向性は上述したが、サッチャーの教育改革は1944年教育法を根本から見なおす1988年教育法を成立させた。以下簡単にその内容を示そう。
サッチャーは1988年2月の保守党定期大会で次のように述べている。「イギリスの最大の課題は教育の質の向上である。米独日との経済競争に敗けないためにも、高学歴の若者が必要である。イギリスの未来をかけて教育改革に取り組まなければならない。」こうした意気込みのもと、多くの教育関係者の反対を押し切って1988年教育法が成立した。その主要な内容として三点をあげることができる。第一点は全国共通カリキュラムの実施である。学習指導要領に「拘束」されているわれわれ日本の教師にとっては共通カリキュラムなど珍しくもないが、何度もくりかえすがイギリスでは地方当局が大きな権限を持ち、さらに学校ごとの理事会が学校運営上のの決定を行なうことになっている。サッチャーは言わば「日本に学び」教育の中央集権化をめざしたわけである。第二点として全国一斉学力テストの実施である。7、11、14、16歳の時点で全国共通の学力テストを実施し、すべての子供を4段階に評価しようというものである。これもわが国では「いつか来た道」ではあるが。わが国の場合と同様、この共通テストには教員側の反発が強く政府も一定譲歩して、学力の評価については共通テストの結果だけでなく担当教師の意見も考慮されることとなったが、教育現場に競争原理を持ち込もうという目的が変更されたわけではない。第三点としてはオプトアウト(Opt Out =離脱)制度の導入である。イギリスで教育の権限を握るのは地方当局であり、しかも地方当局は中央政府が保守党であっても労働党の勢力が強いのが一般的な傾向である。そこで、教育改革の断行をめざすサッチャー政権は、学校理事会に地方教育委員会からオプトアウト(離脱)する権限を認めたのである。オプトアウトした学校は地方当局の統制を離れ、独立校として運営される。予算は政府からGMSTと呼ばれる大企業の匿名の出資による財団を通じて支払われることになる。オプトアウトした独立校は言わば国営の私立学校となるわけである。このオプトアウト制度の政治的ねらいは、イギリスの状況からして、労働党の牙城である地方当局の勢力を削ごうとするものであることは明白であり、そのことは全国の地方当局の総本山的存在で、やはり労働党色の強い教育政策を推進していた内ロンドン教育委員会の解体が決定されたことにも如実に示されている。しかしオプトアウト制度を単にそうした政治的視点でのみ評価することはまた一方的でもあるだろう。当時のベーカー教育相は、「オプトアウトした独立校(公費助成学校)はイギリスですでにある親の学校経営参加システムをさらに強めたものであり、できるだけ親に権限を持たせたほうがよいと考えている」と述べているが確かにそうした側面は否定できないからである。88年教育法による教育改革は地方当局と教員の権限を削り、中央と学校理事会(親)の権限を増大させたと考えられる。教育の中央集権化には反対であっても、親の教育権限の増大の面についてはより慎重な検討が必要であろう。
(2) 親の教育の自由とイギリスの教育改革
確かに上記ベーカー発言に見られるように、イギリスでは親の教育権限または教育の自由は88年に突然出現したわけではなく、44年教育法時代から規定が見られる。44年教育法76条は「大臣および地方当局によって遵守されるべき一般原理」のひとつとして限定つきながら「親の希望にしたがって教育されるべきであるという一般原理」を規定している。これは親の教育の自由を示していると解される。こうした親の教育の自由は、まず学校選択の自由の問題としてあらわれる。地方当局は通常通学区域を定めるため、親の学校選択の自由と葛藤が起こる場合がある。この点は日本でも同様であり、学校間格差が生まれないようにするためには公立学校では、部分的に親の学校選択の自由が制限されることも止むを得ない局面もあるだろう。宗教教育でも親の教育の自由が問題となる。日本やフランスでは公立学校では宗教教育は行なわれていないが、イギリスでは特定の宗派の特色を示さない形での宗教教育・礼拝が公立学校で行なわれている。(44年法25.26 条)しかし親がその宗教教育・礼拝への生徒の出席免除を希望する場合は、生徒は出席を免除される。こうした形の親の教育の自由の保障はほぼ米国と同様で、日本のように初めから宗教教育をしないほうがすっきりしているとも思えるが、親が一定の内容の教育について、拒否権あるいは欠席権を行使できるという思想を発展させていくためにはイギリス・米国型に学ぶべき点があるのではないか。
学校理事会の構成については44年法は、主として地方当局の任命する理事の比率をさだめているだけで親の参加を定めていない。親代表の理事が選ばれることについて、政務次官が強い希望を表明していたが、親の参加について特別の規定を持つ地方当局はごく少数であった。しかし60年代のコンプリヘンシブスクール化への運動等を通じて、親の学校運営への参加の動きが高まってくる。1975年に発足したテーラー委員会は、学校関係者の学校運営への参加の問題を検討し、1977年に報告書を出している。テーラー報告では理事会の構成は地方当局・教職員・親(可能な場合生徒を含む)・地域住民の四者が同数に割り当てられるとするものであった。しかしこの報告に対しては教員組合、地方当局は反対の立場であった。政府はこの報告をうけ1978年教育法案を創ったが、そこでは親・教員代表は含まれるが、同数原則は採用されていない。この後1979年に政権が交替しサッチャー政権の下でさらに内容がテーラー報告より後退したが1980年教育法として成立する。この法律で、とにかくも親・教員代表が理事会に参加することが立法化されたわけである。政府は親代表理事が理事会の多数を占めるという方向で法改正をめざし、1984年に緑書「学校での親の役割」を発表した。翌85年に発表された白書「よりよき学校」では理事会の構成は地方当局・教員・親代表のいずれもが単独で多数を占めないことが原則であるとしている。結局、1986年教育法でこの白書で示された構成の方向で法制化された。教員以外の職員・地域代表が入っていない等問題も多いが、親代表は地方当局と同数でありかなり比重が高まったとは言える。また86年の教育法は生徒が停学・退学処分をうけたとき、親に通知し、生徒や親が理事会や地方当局に陳情できる事等を管理細則に規定すべきこととし、また、体罰禁止条項も盛り込まれ、こうした面でも親の教育の自由の方向に前進が見られる。
確かに、1988年教育法は一面ではこうした親の教育の自由・参加の方向の延長線上にある。しかしまた一方、この法律は中曽根教育臨調路線と同様「自由化・多様化」の理念の下、公教育に市場競争原理を導入し、学校間にサバイバル競争をさせることをめざしていることもまた明白な事実である。各学校への予算の配分は生徒数を基準とする、各学校の定員は最大限に定める等の規定がそのことを示している。たくさん生徒を集める学校がよい学校であり、予算もたくさん配分されるというわけである。そしてこのような競争が成立するためには、親の学校選択の自由も最大限保障されなければならないということになるわけである。当然、こうした教育への競争原理の導入については、労働党・教員組合を初め各方面からの批判も強く、また学校間格差の拡大、テスト偏重、障害児等の教育の無視等さまざまな問題点も見え始めてきている。とにかく、今年の選挙でメージャー保守党政権が存続したため、イギリスの教育改革路線は当面継続されることとなった。われわれとしても、中央政府・地方当局・教員・親の四項の関係を視点としてイギリスの動向を見守っておく必要があるだろう。
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