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TITLE:  評価権の法的位置付けについて
AUTHOR: 松本 恵司
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第126号(1993年1月)
WORDS:  全40字×97行

 

評価権の法的位置付けについて

 

松 本 恵 司 

 

  今年も、進級判定会議が近づいてきた。私の勤務校では、年によっては、単位認定・進級判定をめぐって長時間の審議が続くことがある。その際に、問題とされるのは、@欠課時間が授業時数の3分の1を超えた生徒の進級・卒業を認めるか、A教科が評価1と会議に提出してきたものの単位認定をどうするか、ということである。@Aに関する教師の立場は、その入口で大きく二つに別れる。一つは、内規では欠課時数が3分の1を超えた場合はその科目の履修を認めず従って留級が確定することになっているので、会議の議題とする必要はない、評価権は教科にあるので教科が評定1とした以上は単位不認定として後は内規に従って処理をすれば良いというものである。この立場にたつと、教科担任・学級担任から出される評価・欠席欠課の数字さえあれば、内規に機械的にあてはめることによって短時間に判定会議は終わることになる。もう一つは、内規は尊重しながらその運用は弾力的に行なう、単位認定は判定会議が行なうのだから教科の提出した評価が1であったとしてもその是非をめぐる議論はする余地があるというものである。会議は、@Aを議題とするかどうかでひともめしながら、後者の立場をとる教師がいる以上議論が始まってしまうのである。

  こうした現状から、評価権・単位認定権について調べてみようというのが今回のレポートの出発点であった。校長に全ての権限があるという見解はさておき、評価権は教科担当に・単位認定権は判定会議にあり・校長が対外表示を行なうというのが理論的には妥当であろうし、実務もほぼそのように行なわれている。私も、そのとうりだと思うのだが、では、教科が評価1とした以上は判定会議は単位不認定とせざるをえないのであろうか。「生徒の学習権が危ない」という本の21ページには「成績評価権は教師に単位認定権は学校にあると考えられるから、成績会議で評定は変えられないとしても、単位を認定するかどうかの判断は本来可能なのである」とした上で、評価1は不認定とする文部省通知によって評価と単位認定が連動してしまったと指摘している。

  なんとなくわかったような気にもなるが、釈然としない面も残る。他教科の教師がつけた評価1に対し、私が疑問を持ったとする。会議で疑問を投げ掛け教科担当に再考を求めることは当然であろう。審議の結果、疑問が氷解し、または教科担当が評価を改めた場合はそれで良い。しかし、疑問はますます高まり、教科は自己の評価に固執するといった場合、判定会議は単位認定権をもって単位を認定することができるのであろうか。また、評価は1であるが単位は認定するということも(文部省通知に縛られなければ)できるのであろうか。例会でも話し合ってみたが、この問題に論理的整合性を持った結論は得られなていないと、私は感じた。

  判例でも、手元にある資料では、この問題をつきつめたものはない。ただ、20年近く前に、教科担任が不認定にした単位を校長が認定してしまい、教科担任がそれを不当であるとして訴えた事件があり、教科担任側の敗訴でおわったのではないかという記憶がある。論理構成は覚えていないが、多分、私たちの考え方からすると望ましい論理ではなかったであろう。

  現実の学校では、判定会議が始まる前に各方面で根回しが行なわれることが多い。だから、そうした根回しにもかかわらず会議に提出されてきたデータについては「仕方がない」ととらえる人も多い。会議の場で評価等のデータに関してまで議論を始めると、教師間の考え方の相違が明らかになってしまい、時には感情的なしこりを残してしまうからである。

  そこで、このような問題を回避し、評価1・単位不認定という主張を受け入れながら、学年を進級させる手段として、履修(授業に出席する)する単位と修得(5段階で2以上の評価を受ける)する単位を分離し、いくつかの科目で単位を修得できなくても進級・卒業させるように内規を変更することも考えられる。私の勤務校も、最近になって履修単位と修得単位を分離するようになったので、「他の多くの教師が単位を認定し卒業・進級させたら良いと考える生徒でも、一つの科目の担当教師が評価を1とすると卒業・進級できない」という問題はとりあえず解消した。これからは、評価1としたい教師は1をつけ、その単位は落としたまま進級・卒業していく生徒が増えるが、判定会議はそれほどもめないようになると予想される。

  高校は、本来単位制をとっており、80単位以上修得すれば卒業できることになっている。私の勤務校のように96単位履修させているところでは、0〜16の幅で落としても良い単位を学校が決められるのである。この幅を広げていくことは単位制の趣旨にそうものであろう。私は、高校生にもなれば、受けたい授業を受け、取りたい単位を修得する単位制が良いと思う。しかし、そのためには、受けたくない授業は受けず、取りたくない単位は取らない自由を認め、その結果おこるかもしれないことの責任はそのような選択をした生徒個人にあるということを、生徒も教師も親も社会も認識しなければならない。つまり、高校が「大人の社会」にならなければならないのである。ところが、現実はそうではない。生徒は、月曜の一時間目から土曜の六時間目まで教室で授業を受けなければならない。また、教師は授業をしなければならない。そこで、高校は、事実上学年制になってしまったのである。私は、理念としては単位制が良いと思うが、現実が学年制になっている以上、履修すれば単位は認定するという前提で履修単位と修得単位を一致させるのが良いと考えてきた。そして、前任校ではそれで何の問題も起こらなかったのである。実は、今でもその方が良いと思っているのだが、履修しても「評価1」とする教師がいる以上進級させるためには履修単位と修得単位の分離もやむをえないとしか言いようがないのである。

  今回のレポートでは、評価権と単位認定権という教務上の議論を扱ったが、実は、この問題は議論に勝つための理論という気もする。というのは、冒頭で述べた@Aをめぐる教師間の見解の相違は、現在の学校特に生活指導をどうみるかでの理念の相違から生じていると思うからである。校則で生徒を管理しようという姿勢と、出席・評価によって学校をしめようという姿勢には深い関連がある。そして、評価・単位認定をめぐって悩んでいる学校は、生活指導でも悩んでいる学校でもあるのである。単位不認定・原級留置の出現率が、学校・年度・教科・教師によって大きく変動するのは、評価・単位認定が目標到達度を客観的に審査するというやり方だけで行なわれているのではないことを示している。

  ほぼ全員が高校にくるようになった今、高校で学ぶ全ての科目を(本来の意味で)修得することが、どの高校生にも可能なのだろうか。入学して来る生徒の学力によっては、アチーブメント形式の評価では単位認定が困難になっているのが現状である。そこで、学校によっては学期毎に評価の平均値を上げておき、事実上不認定が出て来ないようにしているところもあるようである。

  高校中退者が増加したため、教育行政の方ができるだけ進級・卒業させるよう求め、現場の教師の方が、学校秩序を守るために生活指導でも教務措置でも厳しい姿勢をみせる傾向がないとはいえない今日、高校のあるべき姿を考えてみることは必要だと思う。その際、単位制について現場にいる私たちが拒否反応を示さないことが重要である。私は、高校は、今後、二極分化していくのではないかと予想する。ひとつは、必要な科目だけ履修し修得するタイプの高校である。このタイプが育つための条件は、選択する自由とその結果への責任をとる大人の高校生の出現と、彼らが昼日中に教室外にいてもそれを当然と認める社会の存在である。もう一つは、月曜1時間目から土曜4時間目まで教室で授業をうけるかわりに、普通に生活すれば、学力に関わりなく卒業できるタイプの高校である。

  現在、全ての高校が、同じ設備・同じ教員配置で運営されている。この条件では、教育困難校はますます困難になっていくことは避けられないであろう。私は、高校が将来二分化すると予想したが、もし、そうなった時には、後者のタイプの高校に、例えば、一クラス20人一学年4学級、全校生で240人といった思い切った優遇措置をとって欲しいと願うものである。



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