◆199401KHK138A1L0504E
TITLE:  服装指導の法的問題に関する考察
AUTHOR: 松岡 義之
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第138号(1994年1月)
WORDS:  全40字×504行

 

服装指導の法的問題に関する考察

 

松 岡 義 之 

 

はじめに

  今もなお、服装指導(注1)は存在している。これが教育現場で様々な問題を惹き起こしていることは周知のことと思う(注2)。このことについて制服の着用強制を正当化する論理を生徒らの提起した問題点を吟味しつつ、検証したい(注3)。なお服装指導の研究対象は、幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び大学での事例があり、かなり多岐に渉るが、本稿においての対象は拙稿同様に、主に公立中学校及び公立高等学校に限ることにする(注4)。

 

  一 服装規程の法的意義

  まず、服装指導の法的意義について検証し、なぜに強行性があるのか考えてみたい。

1 特別権力関係論、部分社会論批判

  前提として、公立学校の教員は当然に地方公務員である(注5)ということを確認し、一般的に生徒は、地方公務員の使用者たる住民である(注6)ということを定義する。まず学校は公の施設であって、法律で公の施設は、正当な理由がない限り、住民の利用を拒めないとされている(注7)。校則は、施設利用者に対する施設管理者の施設管理規程であるという説(注8)がある。これを具体的に検討したい。大阪府立高等学校にあるように制服を着用しない者を校門で追い返すという事例がある。この場合において、服装がこの法律にいう正当な理由にあたるのであろうか。学校施設は、学校教育の目的以外に使用することを政令で原則として禁止されている(注9)。しかし生徒は、学校教育の主体として施設を利用しているのではと思われる。施設管理のための規程は、あくまで設置目的に適した施設管理のため必要な範囲という制定限界がある。正当な理由なくこれを踰越することは許されないと考える(注10)。

  さて特別権力関係は支配関係であるといわれている(注11)。しかしながら教員の立場は、前述したように公務員であって地方公共団体の住民が地方公共団体の名で連帯して、教育水準の向上のために地方公共団体の固有事務としての教育という行政サービスを行わせるため雇用した者である(注12)という点、また生徒は学校という機関の利用者であれども、一般住民としての権利は保障されるべきであることからすれば、民主主義社会の形成を標榜している学校教育にあっては、なおのこと教員と生徒との関係が上下関係であってはならず、支配関係が成立してはならないのではないかと思う(注13)。加えて、内閣や国家行政組織などは、特別に法律の委任がなければ人に義務を課し、権利を制限する政令や命令を定めることを法律をもって禁じられている。また地方公共団体でも住民の権利や自由を制限する権力的作用に関する事務は、議会の議決による条例に定めなければならないとされている。このことから言ってもたとえ教員という広範囲に裁量権を認められている専門職であっても公権力の行使についてはあくまでも法律による授権の範囲内という限界があると考える。そもそも学校は一般法体系から除外された「法外地」などでもなく、世間の法秩序がダイレクトに適用されるべきである。「教育の常識は世間の非常識」などと指摘されるような事態が存在することを断じて許してはならないと考える。もっとも教育行政において教育委員会及び地方公共団体の長の職務権限の行使には、法令等に準拠することが義務付けられており、また学校長や教員にも法令等に従なければならない義務がある。生徒にルールの遵守の必要を説く教員が、日本国憲法、条約、法律、条例その他の校則の上位法規の効力を否定するような主張をすることが許されるはずもないと考える(注14)。

 

2 付合契約論、在学契約論批判

  一般に契約は、当事者間の合意によるものとされている。在学契約という教育に関する契約についても、生徒が契約に合意しており、契約当事者である学校と生徒とが対等の立場で交渉することができる関係であること、それ以前に契約内容が明らにされていることが必要となるであろう(注15)。付合契約の典型例とされている保険契約は、法で重要事項の秘匿が禁じられている。このことなどから付合契約には契約内容の告知義務があるといえよう。しかし、学校は一般に契約約款であるされる学校内規などを生徒に対して秘匿する体質がある。そのために生徒やその保護者などが、契約約款たる校則を容易に確認することができないという問題がある(注16)。さらには、こまかい校則は文章化されていないのに強制的拘束力を持つという場合には、はたして契約の前提となる自由な意思と言ってよいのであろうか。ましては校則を秘匿することによって生徒を錯誤に陥れた上、それに乗じるというのは、悪徳業者と何ら変わりがないと思う。

  一方、各契約論では、入学以後において校則が変わったときに、改正校則の規定が契約事項としての効力を持つかについての検討が不十分であるかに思う。このように遡及した適用があるとするなら、校則を契約とみなすのは問題があると考える(注17)。

  それに学区すべての学校が制服着用を義務付けている場合には、契約の任意性の問題があるといわれている。公立中学校の場合は、市町村教育委員会の指定した学校が制服着用強制校であったとすれば、市町村教育委員会に私服の公立中学校に就学指定の変更や区域外就学が認められなかった場合に(注18)、競争率の高い国立や高額の授業料を要する私立の中学校に合格できなかったときであったならば、住居を引越すこと以外に私服を選択する余地がない。これらの実行は、非常に困難であると思う。こうなると間接的に市町村教育委員会が、一方的に地域住民一般に基本的人権を制限することになると思われるが契約の任意制に反するのではないかと考える。

 

3 行政指導論の検討

  市川須美子氏は、生活指導規程は、原則的に非強行的な規定であると位置付けられている(注19)。また本会のH氏は、玉東中丸刈り事件、大原中制服事件などでの判例は「生徒はその気になれば校則に従わないことができる」とし、校則はあくまで行政指導などの要綱、通達の一種と判示しているように思われるとしている。もし行政指導なのであれば、校則を生徒指導の基準として定めることについて支障ないと思われる。このことからも校則に対する服従に任意性が担保されていなければならないといわれている(注20)。また最高裁判所判例でも任意性のない行政指導は違法としていることや行政指導に関する法律により、相手方の任意の協力によるものであって、相手方が行政指導に従わないからといって不利益な取扱いすることを禁じている(注21)。さらにH氏は、法的弱者に対する配慮や教育上の考慮を加えるなら校則に対する服従は、特に高度かつ広範囲の任意性が担保され、教員らによって「これらへの服従は任意である。」と教示されるなど十分に保障されていなければならないといわれる。さて現状はどうか。教員が成績や内申書などの専門的裁量事項を盾にとり、陰湿な方法により服従させるなど行政指導に対する任意性と同様に、生徒指導に対する服従の任意性は形式的なものとなっているのではないか。これでは現在の服装指導が適法であるとは到底言えないといわれている。

 

  二 服装規程による生徒指導の問題点

  服装指導に関わる生徒指導の問題点について考えてみたい。

1 服装規程の違法性

  警察官など司法警察権を持つ特定の公務員に、その執務中又は立入検査などの際に制服を着用するように規定した法律は多い。また民間人であっても鉄道係員や警備員などその高度な公共性のために一律的に法律で制服着用を義務付けられた職業もある(注22)。しかし生徒に制服着用を義務付けた根拠法令はひとつもない。現在、学校に制服を制定する権限について法令による明示の委任は存在しない(注23)。こじつけ的ながら文部省や教育委員会などが、特に制服を制定するよう明示の指示をしていないことからすれば、むしろ制服着用の強制を規定することがないように要請しているとも考えられると思う。

 

2 生徒会関与の問題点

  文部省は、高等学校生徒会での教育的特質のひとつに規則の遵守を養うのに役立つことを挙げ、その活動内容のひとつとして、学校生活における規律とよき校風の確立のための活動を位置付けている(注24)。具体例としてある中学校の生徒心得は、生徒会が制定したことになっている(注25)。また全国各地で生徒会が、校則遵守宣言をする例も多く見られる(注26)。しかしたとえ生徒心得を生徒会が承認して制定されたものであるとしても公共の福祉などによる権利の制限として正当化されてはならないと考える。そもそも人権や民主主義の意義を教える場である学校においては、「基本的人権を多数の同意されあれば、制約することができる。」という「数の論理」が絶対であるかのように認識させるべきではないと考える。坂本秀夫氏は、多数決による基本的人権侵害がある場合にこそ、司法判断を求めるのであると述べられている(注27)。アメリカ合衆国の例であるが、服装規則や髪型規則を学校管理者が定めても違法であれば、たとえ生徒会で採択されたものであっても、違法であるとしていた判例がある(注28)。

  一方では、私服登校者に対して教員からの圧力のみでなく、生徒よりいじめやリンチが行われる危険もあり、生徒会の決定に服従しないことは極めて困難である。もっとも現在の生徒会役員や生徒会顧問のなかには、民主主義の理念について理解しているのかという疑問をもたされる者は多い(注29)。生徒が個人の資格で、校則を改正するように学校に要求すると、生徒指導教諭が生徒会で討議するべき問題であると言って突き返すことをみかける。もしも生徒会が労働組合のように意見聴取義務や、団結権、争議権、団体交渉権といった防禦権が確立し、その運営については不可侵とされ、その組織が真に構成員の利益を代表し、構成員の意見を代弁することが可能な生徒会なのならば、教員の主張は、妥当とも考えられなくもないとは思う。しかしながら現在の生徒会がそうなってるかどうかは疑問である。実際には生徒会顧問を兼ねる生徒指導教諭らの主導によって、その意のままに操られ、結局は生徒会が生徒の管理に精を出すという事例が多い。これは生徒会の構造的問題であると思う。はたしてそのような生徒会での討議や議論が何の意味があるのか。また直接には教育効果がなく、違法かつ人権侵害の疑いの濃い制服の強制指導についてその意義について理解させ、校則の遵守を確約させてどうしようというのか。そもそも中学校の教育目標の一は公正な判断力を養うことであり、高等学校の教育目標の一は健全な批判力を養うことではなかったか(注30)。これでは戦前の皇国主義教育において「神風」などという迷信を信じろといっていたのとすこしも変わらないではないか。実生活に即した教育をという法の定めた教育の基本方針に反している(注31)。民主社会は真理と理性によって支配されるべきである。

 

3 校則の制定改廃手続きの問題

  教員は、外部の要請、圧力によって校則を改悪することがある。表面的には教育目的であると称して、先に述べた生徒会の民主的手続きや生徒の意見を無視して校則を制定し、改廃することがある(注32)。日本国憲法体制、民主法の支配への挑戦ともいえよう。また生徒会に対する学校の不公正な圧力や「法の教育」の不備によって、その役員に権利意識の欠落した者がなることも多い。極端な事例では教員を批判する生徒が立候補しようとするときに立候補を断念するよう説得工作をし、立候補したときには妨害工作をして結果的には当選させないようにするという選挙を公然と妨害する事例もある(注33)。生徒会は疑似的「民主政治」の「ママゴト」をする組織なのであろうかという疑問を持つ。

  さて学校は、校則の是正を悪意によって先伸ばしすることがある。すなわち自ら校則が不当または違法であると知っていながら、「学校が生徒の要求をのむ形での私服公認は、政治的にまずい。」として「規則はあるから守るものである。」「これは必要悪である。」などと述べて学校当局から規制を撤廃する等環境改善をするのを嫌うように思える。また生徒が署名活動をするなど実際的要求があっても、それらは「不当である」「越権である」「生徒の大半は、服装指導に賛成である。」などといい、これを無視し、または要求を排除、抑圧するのが一般的事例であると聞く。たとえ生徒会が開明的な役員を得たときでも、複雑かつ、し意的な校則改正の手続き規定を経て、全校生徒が苦心してやっとのことで勝ち取った成果が、今まで「無地のポロシャツ」に「ワンポイント」を認めさせたのみという気の毒に思う事例もある。これでは生徒指導が教育的配慮を欠き、教員集団に対する不信を招いたとしても当然のことと言えよう(注34)。そもそも教育法規や人権擁護に関する法令には、行政にその規定する人権を擁護し、それを実現するために必要な措置を義務付けているものがある(注35)。これら規定に照らすならば、制服規定などの服装指導に係る校則が、人権の実現を妨げ、人権を侵害している事実が判明したのならば、学校側から積極的にこれら校則を撤廃する等の措置を行う義務があると考える。

  なお昨今、文部省や大阪府教育委員会は、学校に厳しすぎる校則を見直すよう求め、ひどい事例には指導していると聞くが、厳しい管理教育に教育効果が疑問であることを公的に証明しているといえると思われる(注36)。

 

4 生徒指導における問題意識の問題点

(1)「例外が一般化する」という恐怖心

  服装違反を黙認するとそれが非行の固定化の肯定となり、やがて全校生徒に波及するという主張をよく聞く(注37)。いわゆる「腐ったミカン」論といわれるものである。私服登校によって、生徒指導が困難になる、学校が荒れるとどうするのかという問題提起もよく聞かれる。しかし生徒全員の服装が皆同じでなければならないことを生徒指導の必須条件としているようであるが、その前提を充たすことがなくても別に問題を起すことのない私服校の実例が多く実在する。これにより当該主張は当たらないと考える。そもそも風紀上の問題を服装の問題とするのは、論理のすりかえであって、教員側の指導力量の問題であり、教員が自己批判すべきものと思う。また風紀を地域による問題とすることは、地域差別の構造であると考える。

(2)「統一の美」という意識、「統制の乱」に対する嫌悪感

  制服には、イデオロギー的性質と営業政策的性質があるという(注38)。前者については、生徒本人の「服装はこうありたい」「こんな服装はいやだ」という思想、信条や意見を侵すことになると思われる(注39)。後者は、それがために全員の斉一を指向しているものである。また統一の美なるものが、学校の評価になることがあるのも事実であろう。大阪府箕面市議会では、保守系会派の議員による一般質問において、地元高校の近年状況を「寒心に堪えない」として、これを悲観した。この理由に服装指導の不徹底、不統一を挙げ、市長はその答弁において「極めて遺憾である。」と言い、教育長も「生活指導上問題がある。」とそれに同調し、大阪府教育委員会に要望することを確約したという事例もある(注40)。服装規定に違反する者に対しては、他の規則の違反よりも目の敵にされ、弾圧の対象とされていることが多くある。「服装違反は即ち非行であり、非行者がいれば学校の評判が下がる。」このように考えている教員も多いようである(注41)。もっとも統一の美や統制という意識は、極めて主観的なものであって、受け手の趣味や趣向によって大きく左右されるものである。よってし意的なもの画一的なものとなり、万人の納得する明確な基準といったものがない。このようなものを停学を含む処分をもって、維持しなければならないというものではないと考える。そもそも国民が、国家の名声のために行動する必要はない。これと同様にして生徒といえども、学校が名声を得るために行動しなければならない義務はないと思う。このように服装の統制とは、生徒の犠牲的動員であって、これによる学校の名声は邪道であり本末転倒であると非難されて然るべきであると考える(注42)。

(3)「家庭教育の崩壊」を理由とする「しつけ教育」の越権

  そもそも被服選択権は、生徒本人固有の権利又はそれを補完する保護者の権限の範囲である。しかしながら、学校の生活指導は家庭教育という親権の範囲に介入することが多くあり、「しつけのことは学校にまかせろ。」などと言明する学校長も実在するが(注43)、服装に関する教育は、法律の上では小学校において解決すべき問題であって中学校や高等学校段階の問題ではない(注44)。こどもの養育及び発達に関する第一次的責任は親権者が有している(注45)。教員は親権者が信託・委任した範囲内において行動しているに過ぎない。授権の範囲を越えて生徒の行動を規制することは、不当であると考える(注46)。

 

  三 制服拒否の合理的理由

  生徒が、制服を着ないことに合理的理由があるのか考えてみたい。

1 意識下の制服の問題

  当然なことながら学校が地域統一協定をしていない場合(注47)、他校との差別化のために学校によって制服が異なる。服装は人間性から勉強の出来、不出来まで現すと考えている教員は根強く存在している。また「制服を着ていない者は、学校に誇りを持っていないのか。」と主張する教員もいる。坂本秀夫氏は、制服の本質として学校が有名になるための簡単な方法として「生徒にきちんとした制服を着させることであり、これは非常に効果がある。」「制服は、生徒を歩く看板とする。」などという問題点を指摘している(注48)。

  私は、一般的に指摘されるエリート意識の問題点とは逆に、学校に劣等感を持っている者、つまり制服を着用することを強制されるによって、例えば「指導困難校」の生徒であることを内外に表示しなければならないことに屈辱に感じ、心に重大な傷を残す者も実在することを指摘したい(注49)。これでは制服を着ることにより、学校に愛着や誇りがもてるという主張は成立しえない。なお「指導困難校」、新設校ほど校則が厳しいとされ、進学校、伝統校ほど規制が緩やかであるといわれているのは皮肉な結果ではなかろうか。このように優劣の差別意識に根差した制服は民主主義教育にはなじまない。

  さて現在、制服業界の流行となっているブレザーは、もともと水兵服を模して作ったものであるという(注50)。詰襟学生服やセーラー服などについては論を待たない(注51)。またジャンパーもポロシャツでも同様にどのようなデザインであっても制服のスタイルは、軍服に採用されているか、軍服がベースになっている。軍事イメージを思い起こす制服着用を強制することは、教育の平和主義に反すると考える(注52)。

  服装指導は、学校への犠牲的動員、滅私奉公を要求しているという一面があることは既に述べたところである。実際これにより自立的に思考したり自律することができない者として、いわゆる「指示待ち症候群」「集団同調依存症」などと呼ばれる問題点が指摘されている。これをもって学校は「生徒は、指示されなければなにもできない。」と主張し、校則の自己増殖が始まるという問題事例が多く実在する。これは相互監視や連帯責任という戦時中の隣組的締め付け方式の生徒指導による当然の帰結ともいえる(注53)。また制服を着てこない、私服通学者を、「異装者」とし、「異常者」であるとか「秩序破壊者」や「犯罪者」のようにみなす風潮は、生徒指導教諭のうちに根強く存在しているように聞き、近年には生徒のなかにも同じような見かたをする者も多くなっているようである。生徒のうちでも異装者を迫害する者もいるのは問題なのではないか。これは、個人の尊重と自主的精神に満ちた国民を育成するとした教育の目的に反すると考える(注54)。

 

2 機能上の制服の問題

  自宅で洗濯ができる「丸洗い」表示のもの以外は、クリーニングの専門業者に依頼することになるのが一般的である。制服は高価なものであることが多く(注55)、簡単にスペアを購入できるものではない。よって洗濯は長期休業の際にしかできないこととなる。これでは到底衛生的ではないので是正する必要があると考える。また制服は、儀礼的役割を持たせ、外見の見映えを重視する面も多いので、機能性を無視し又は軽視してしまう場合が多い。また冬の制服だけでは寒さを防げない。夏の制服は通気性が悪く暑いものである。校則では冬場に体を鍛えるため、精神修養のためであると称し、外とうなどの防寒具を着用を禁じることもある。夏場ではシャツやブラウスを脱ぐということはできないうえに、男子のズボンは長ズボンであったりする。このように服装規則は、個人の暑さ寒さに関する感覚を無視したものであり、制服は防寒や防暑の役を成さないものである(注56)。

 

3 平等論への反駁

  制服を廃止すると貧富の差が生じるという制服存続理由をよくきく。最近、警察官の制服の発注入札で、素材指定をしたことが談合問題として新聞に報道されていたが、同様にして、近年の学校が服制改正の際、色、デザインや素材に至るまで詳細に規定し、制服の購入店を指定するなど同一の品物を同価額で購入するよう求めるという事例があるが、これは公正な商取引とは言い難いと考える(注57)。むしろそれならばすべての生徒に対して、国庫や地方公共団体の予算で、一律に学校生活に要する被服を貸与し、支給するか、購入費用を財政補助するという制度を設けた上で制服を採用するべきではないかと思う(注58)。そもそも公立の中学校は、生徒が学校に就学する権利を持ち、行政はそれを保障する義務を有するものである。これを受益者負担の原理などによって、生徒やその親権者に特別の服装を購入させるこの主張は誤りであると考える。アメリカ合衆国の事例では、無償公教育の権利は、生徒が特別の被服を購入をさせられることがないことを保障し、不着用による不利益処遇を禁じている(注59)。また制服によって、貧富の差を隠そうというのは、差別の根本的解決にはならないと思われる。

 

4 「流行の弊害」論への反駁

  私服登校をこばむ理由として、私服にすると華美になる、学業が疎かになるというのがある。流行の追及は、学問や修行の妨げとなり、生徒としてふさわしくないという禁欲主義がその理由であるといわれている。この主張では制服は、華美でないまたは質素であるということを立証できなければ、私服を批判することができないのではないかと考える。もっとも現実には、近年には学校自体が「DCブランド」という流行に振り回されている例もある(注60)。官公庁の例では、1991年に陸上自衛隊員という地味な制服の代表例のようなものでも流行を意識したものに改められた。さらに千九百九十四年四月から警察官の制服すら流行を意識したものに変えられるという。今日では、すでに官公吏の制服でも華美なものになる傾向にあると考える。また裁判官は、今は差程でもないが戦前では豪勢な刺しゅうの施されている法服を着用していた(注61)。仏教では宗派によっては、大僧都や大僧正など高い法位法階にある僧侶などが法衣に金糸を用いることが許されると聞くが、彼等の法衣は、素人目にはとうてい質素とは言い難い。そういえば僧侶は修行自体を生業としている人々ではなかったか。そもそも「華美な格好」とは、いったい何なのか合理的に定義できる者がいるのか、華美という感覚は極めて主観的なものではないか。華美になることが教育活動を妨げるものになると証明ができるのであろうか。それを理由とする服装指導は看過されるものではないと考える。

 

  四 規則遵守意識の学習は服装指導の理由足り得るか

  私は、学校において教員らの服装指導の存続の理由として主張されている「制服規則や服装指導に係る規則は、規則であるから守らなければならない。」という考え、つまり「悪法でも法は、法である。」という主張は、まったくもって的外れであると思う。私は、法的強制力を伴う校則を制定することはできないと考えるが、仮に校則の制定が認められるならば、近代的法体系上での位置として、合理的に教育事業目的のために必要であるという理由がある場合に制定することができるかも知れないと考える。ただ生徒の権利を制限し、生徒に特別の義務を課することに関する校則などは、他の人の人権を擁護し、またその実現のため必要な最小限度に限って制定されるという行政内立法であると考える(注62)。この場合、地方公共団体の行政事務及び教育事務は、条例によらなければならないと定められており、地方公共団体の執行機関の行政権の濫用を制限している点に留意しなければならない(注63)。学校の生徒指導教諭と生徒会との団体交渉の過程において、学校の設置目的たる教育目的との関係について、例えば「学校長が必要であるというのなら正当な教育目的なのである。」ということがある。「生徒に、遵法意識を身に着けさせる。」ということが制服着用強制によって成し得る教育目的であるという主張である。このようなことはこじつけである。服装規則のような権利を制限し、義務を課するという性質のものをあたかも法規範に対しての「踏み絵」とすること、また生徒指導に関する校則が無限に自己増殖するという危険性を、学校に認めてはならないと思う。

 

質疑応答から

  今日の過剰な労働環境のもとにあっては、校則について学校等と論議することが親に過大な負担を与えることとなり、結果として親権者の生存権が脅かされることがあり得る。その防止のために消極的制服容認があるのではないかという主張があった。私は、子には利益相反行為による特別代理人や親権喪失など親権濫用に対する防禦権を認められると思うと述べた(注64)。また、真に親権者の生存が危ういという場合は、やむを得ない事由として親権辞任ということもできるであろうと考える(注65)。会場から現実として、そのような状況は、稀有であるという意見もあった。

  原田琢也氏は、学校慣習法として校則が確立している。また服装指導についても法律学的考察では不十分であって、それ以外に社会学や教育学的にも考えるべきであると主張された。私は、慣習は公序良俗に反せず、法令より認められるか法令に規定のない事項に限って、法律としての効力を有するのであって、それが違法な慣習であれば慣習法ではなくなると思う(注66)。また教育に関する法規と教育実践との乖離があり、どちらが優先されるかということはよく論議されていることである。現に法律における教育のあるべき姿と学校現場の状況はかなりかけ離れている。私は教育とは、国民のために日本国憲法に基づいて行われる事業であると考える。加えて本邦は、民主主義を実現するために、国会を唯一の立法機関とし、法規法律主義を採用していることは先に述べたとおりである(注70)。それらのために教育という事業が、日本国憲法の具体的規定である法令を無視して行い得るものではないと思う。さらに、企業や官公署の制服について質問があったが、すでに述べたとおり回答している。また間接民主制のため国民の参政権には限界があるがどうかという質問については、私は、単に国民の意見を反映させるための制度上の問題であり、これが国民が国会などの議会に無責任であってよいとは思わないと述べている。

 

むすび

  本稿では、服装指導について改めてその違法性や問題点について検討してみた。私は、服装指導に生徒に対し、法的強行性を与えるとする法的根拠はないと考える。また服装規則などを拠所にする管理教育とは、先に述べたようにルールに関する概念を実体験させるという建前でありながら、民主主義国家を標榜する本邦における法規の基本理念である人権実現の精神が微塵も含まれていないことが明らかになったと考える。私は服装指導が、生徒指導における必要最小限の規制であって不可欠なものであるとは言えないと思う。

 

< 註 >

(1) 本稿において「服装指導」とは、登下校のとき又は校内に滞在するときに、生徒の意に反し、学校の定めた服装を着るよう求め不利益な措置をもって強いることと定義する。

(2) 大阪府教育委員会の退学した者への調査による『府立高等学校退学者実態調査報告書平成3年版』によると退学の動機としては「学校の生徒指導に不満があった」とする者

  は27.3%である。また39.8%の者が学校へ「服装などについてもっと自由を」と要望している。さらに大阪府科学教育センターの調査による『高校生活に関する調査・中途退学問題とかかわって』によると在学生の47%が「生徒指導がきびしい」とし、その60%の者が、「指導のきびしい事柄」として「服装指導」を挙げている。

(3) 本稿は、要友紀子『私服を着る側の論理』の着眼点を参考とした。

(4) 松岡義之『制服の法的問題について−生徒の立場からの視点−』大阪高法研ニュース第132号及同第133号。大学であっても私立女子大学の少数に制服の事例がある。

(5) 地方教育行政の組織及び運営に関する法律第37条、教育公務員特例法第3条

(6) 地方公務員法第37条

(7) 地方自治法第244条第1項、第2項及び第3項。『基本法コンメンタール地方自治法』248頁。また学校は「公の施設」に該当するとした行政実例がある(1963年12月10日文部省初等中等教育局長回答)。1990年9月10日付朝日新聞夕刊「服装違反で『強制下校』」

(8) 高知地判1988年6月6日判例時報814号37頁。松岡義之『施設管理権論の法的問題について』大阪高法研ニュース第136号

(9) 学校施設の確保に関する政令(昭和24年政令第34号)第3条第1項。

(10) 学校とは所管が異なるが、例えば大阪府庁舎管理規則第8条乃至第12条は、府庁舎内での服装について何ら制限的な規定をしていない。

(11) 京都地判1985年6月5日

(12) 地方自治法第2条第3項第5号、第10条第2項

(13) 教育基本法前文。最大判1976年5月21日判例時報814号37頁

(14) 内閣法第11条、国家行政組織法第12条第4項及び第13条第2項、地方自治法第2条第15項及び第14条第2項。地方教育行政の組織及び運営に関する法律第25条、地方公務員法第32条。また「…遡及規定は、過去の法律関係を覆すことになるので、一定の制約がある。…また、既得の権利・地位を害するような遡及規定は、強い公共の福祉がない限り許されないと解されている(自治大臣官房文書課『条例・規則作成の手引』173頁)」とあるが、生徒指導がここにいう強い公共の福祉となりえるかどうかという問題点があると考える。

(15) そもそも付合契約は、特約を付することを一定程度容認することのあるものであり、契約条項の逐条について確認して行うものであるから、例えば制服規程について拘束されない旨の留保特約をすることが一切できない、絶対例外を認めないというものであっては、任意による契約といえないように考える。

(16) 保険募集の取締に関する法律第16条第1項第1号、第2号及び第3号。そもそも校則や内規は、アメリカ合衆国マサセーセッツ州法にあるように希望する者には例外なく無償 で提供され、法令同様に一般の批判にさらされるべきである(Mass.Gen.Laws chap.71, sec.37 H)。情報公開条例などによる公開請求によらなければ入手できないというのは 問題と思う。松岡義之『大阪府立高等学校における学校内規等の資料提供要求について (報告)』大阪高法研ニュース第126号

(17) 当事者の一方が勝手にその約款を変更することは、明らかに契約違反であるといわれている。

(18) 学校教育法施行令第5条、第8条及び第9条。教育委員会に就学するよう指定された学校に行くことが著しく負担となることを客観的に予測される場合は、教育的見地にたって就学学校を変更し、区域外就学を容認するともとれる行政実例が複数ある(1952年4 月1日文部省初等中等教育局庶務課長回答、1955年9月10日文部省初等中等教育局長通知、1985年6月29日文部省初等中等教育局長通知)。

(19) 市川須美子『長髪禁止規定と子どもの人権』季刊教育法第62号

(20) 『校則に基づく生徒指導と行政指導』大阪高法研ニュース第117号。東京高判1989年7月19日判例時報1331号6頁、熊本地判1985年11月13日判例時報1174号48頁

(21) 最判1985年7月16日。行政手続法(平成5年法律第88号)第6条第7号、第32条第1項及び第2項。また、行政手続法第37条では、届出は提出先に到達したことによりその義務を果たしたこととしている。異装を届出制にしている学校は、届出の受理を拒むことができず、提出をしさえすれば、校則違反にはできないことになると思われる。

(22) 公務員の事例では、自衛隊法第58条第2項、関税法第105条第2項、出入国管理及び難民認定法第61条の5第1項、海上保安庁法第17条第2項。また特定の職業従事者については、鉄道営業法第22条、道路運送法第24条第1項、警備業法第9条第1項などが例示できよう。

(23) 1984年以降に愛知県立旭丘高等学校長が従来、黙認状態であった私服通学を公認したが、愛知県教育委員会が白紙撤回するよう圧力をかけたといわれる事例がある(平野祐二他編著『生徒人権手帳』239頁以下参照)。

(24) 文部省『高等学校学習指導要領解説・特別活動編』51頁

(25) 例えば、大阪府箕面市立第三中学校生徒心得には、「本校生徒会が結成されてから生徒議会のよって議決された…」と校則は生徒が定めたと宣言している。しかし実際は 生徒会執行部提案の生徒心得改正決議案が、生徒議会に提案される前に、生徒会顧問教 諭によって退けられた事例があることなどから、教員が定めたものであると思う。

(26) 坂本秀夫『こんな校則あんな拘束』161頁

(27) 坂本秀夫『校則裁判』197頁

(28) Matter of Cossey, 9 Ed.Dept.Rep. 11 (New York State Commissioner of Education 1969); Arnold vs. Carpenter,459 F.2d 939 (7th Cir.1972); Scott vs. Board of Education, Union Free School District No.17,305 N.Y.S.2d 601 (S.Ct.,Nassau Co.1969)

(29) 丸刈り校則での事例であるが、熊本丸刈り訴訟で原告に対し、生徒らが「刈り上げウーマン」と紙を背中に張り嘲笑したことがあった。原告はショックで2週間の登校拒否に陥ったといわれる(前掲『校則裁判』33頁)。また一部では、原告に対し、生徒によるリンチの噂もあったという(前掲『校則に基づく生徒指導と行政指導』など)。また私は生徒会の機関である風紀委員会が、行き過ぎた生活指導を見直すべきという生徒会執行部の見解に、反して公然と服装指導を含む管理教育に参加し、風紀委員がまるで シュタポのように生徒に対して統制することを中学時代に実体験した。

(30) 学校教育法第36条第3号、第42条第3号

(31) 教育基本法第2条

(32) 最大判1957年12月27日刑集11巻14号3461頁。学校長などの制定者が校則の制定改廃を文書掲示などにより公表することなく、口頭による伝達で行うのは、権利を制限し、義務を課する行政行為として、また法規範としても、無効となるべき重大な問題であると考える。具体例はこども110番弁護士日記編集委員会編『こども110番弁護士日記』10頁を参照

(33) 私が生徒会選管委員長在任中、学校の生徒指導について批判的であった者が生徒会役員に立候補したときに、生徒会顧問を兼ねる生徒指導教諭より、立候補を断念するよう有形無形にわたっての圧力を受けて結局、当該候補者は落選した。このとき選管では教員らの行為は明らかに「自由選挙の妨害」であり、選挙を無効にするべきであるとした事例がある。また前掲『こども110番弁護士日記』8頁の類似事例参照

(34) 憲法や法律では、行政に対して「平穏な請願」という形で要求することを認め、それを行ったことによる差別待遇を禁じている(日本国憲法第16条、請願法第6条、国会法第79条、地方自治法第124条)。また教員に対しても教職の信用を傷つけ、信用を失墜する行為をすることを禁じていることを想起したい(地方公務員法第33条)。

(35) 日本国憲法第97条及び第99条、教育基本法第11条、経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約第2条1、市民的及び政治的権利に関する国際規約第2条2等

(36) 1988年4月25日文部省初等中等教育局長。1986年9月18日大阪府教育委員会通知、大阪府教育委員会『平成5年度府立学校に対する指示事項』19頁。また赤松良子文部大臣も、「学校が校則を定めるのは自由であり、文部省が口をはさむのはお門違いである。しかし、丸刈りに限らず箸の上げ下ろしまで口を出すような校則はいかがなものか。自由な精神を育てる、個性尊重が日本の教育行政の大方針だ。強制的な校則はそういう意味では感心なこととは言えない。(1993年12月1親の例であるなどとし、保護者に体罰を奨励するという、まさに学校の越権といわずして何という。と思われる事例も見られる(岡崎の教育を考える市民の会編『岡崎の中学校のきまりその実態の分析』49頁以下)。

(44) 学校教育法第18条第3号

(45) 児童の権利に関する条約第18条

(46) 市民的及び政治的権利に関する国際規約第17条1及び2は私生活に干渉されない権利を法的に保護することを規定している。

(47) 市町村教育委員会や青少年補導協議会などが、中学校などの服装指導についての補導要綱として、服装の統一的基準を定める事例もあるように聞く。最近では他校との差別化のため異なった制服を定めることが多くなっているともいわれる。

(48) 松岡義之『学校における新校風意識の諸問題』大阪高法研ニュース第127号

(49) 市民的及び政治的権利に関する国際規約第7条、児童の権利に関する条約第37条に、非人道的な若しくは品位を傷つける取扱いを受けない旨の規定があるが、「困難校の構成員」であることを、日々表示させられることに屈辱を感じる場合には、ここにいう品位を傷つけられる取扱いにあたるのではないかと考える。

(50) 服装文化協会編『服装大百科事典』を参照。

(51) セーラ服の起源については、森伸之と図鑑舎編『ミッションスクール図鑑』30頁に詳しい。また神田美年子『阪神間私立女子校制服の実態調査に基づく一考察』

(52) 教育基本法第1条

(53) 経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約第1条、市民的及び政治的権利に関する国際規約第1条。

(54) 教育基本法第1条

(55) 具体的事例としては、ある府立高校での場合(ブレザー型)、男子の夏冬セットでの価格は、6万6800円もする。

(56) 例えば、兵庫県多岐郡但南町立但南中学校の生徒心得によれば、厳冬であっても防寒具類の着用を禁止し、違反すると夏服姿にする又は冬上衣の着用を禁ずるという制裁まで科しているという。また夏場であっても、一般的に冬に用いられるべき素材であるサージのズボンを着用することを強いている。これは学校保健法第3条及び第3条の2で規定された学校に対する安全衛生に必要な措置を義務に反すると考える。

(57) 消費者保護基本法(昭和43年法律第78号)第11条。なお前掲『岡崎の中学校のきまりその実態と分析』20頁には具体的事例が述べられてある。

(58) 就学困難な児童及び生徒に係る就学奨励についての国の援助に関する法律第2条。そもそも義務教育において、保護者の負担する経費は必要最小限度に抑えるべきであり制服の購入義務は、その最小限のものとはいえないと思う。

(59) New York City Chancellor's Regulation A-540,"Student Dress in Fhysical Education,"10/1/79.

(60) 学校での事例は、森伸之『93年度東京女子高制服図鑑』、前掲『ミッションスクール図鑑』、制服ガイド編集部『関西女子校制服ガイド』に詳しい。

(61) 自衛隊法施行規則、裁判官の制服に関する規則、警察官の服制に関する規則など

(62) 原田琢也『「指導」と「強制」制服をめぐって』大阪高法研ニュース第124号

(63) 校則の法的制定形態の典型例として考えられるのは、次の3点が複合されたものであるといえよう。@学校教育法施行規則により、学校長には包括的に学則制定権があり、学則の細目を定める学則細則として校則が定められた。A地方教育行政の組織及び運営に関する法律第14条による教育委員会の規則制定権を同法第26条第2項に基づき、学校管理規則などで学校長に委任し、学校規程として校則が定められた。B地方自治法第244条の2第1項により、学校設置条例により施設管理権を学校に委任して、施設管理規程として校則が定められた。

(64) 民法第826条、第834条

(65) 法例(明治31年法律第10号)第2条

(66) 日本国憲法第41条、内閣法第11条、国家行政組織法第12条第1項及び第4項



Copyright© 執筆者,大阪教育法研究会