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TITLE:  反省文の量で反省の気持ちがはかれるのか
AUTHOR: 羽山 健一
SOURCE: 柿沼・永野編著『問題をくり返させない、特別指導−こんな場合、あんな指導−』1992年1月(学事出版)
WORDS:  全40字×200行

 

反省文の量で反省の気持ちがはかれるのか

 

羽 山 健 一

 

<話題>

 先生(停学中の生徒の家庭訪問中)「日課表では、朝八時に起きたことになっているけど、これでは普段登校しているときよりも起きるのが遅いじゃないか。」

 生徒「謹慎中は外出が禁止なので、家に閉じ込もりきりで、運動不足になってしまって、そのせいか、体調がおかしく、夜もなかなか寝つけないんです。それに反省文に何を書けばよいか分からなくて・・・・・・。」

 先生「その反省文のことだけど、三行では少なすぎる。もっと書くことがあるだろう。」

生徒「でも、たいていのことは、もう書いてしまったし・・・・・・。もう十分反省しているつもりなんだけどなあ。だいたい、反省の気持ちは反省文の量ではかれるんですか?」

 先生「君が反省していることは他の先生には分からないから、反省文を見て判断することになるんだ。だから少しでも多く書いておいた方がよいだろう。今回の事件のことに限らず、たとえば、今までの自分の授業態度や生活態度、勉強に対する姿勢、これから高校生活を送っていくうえで改善すべき点は何かなど、これまで書いた以外にも反省すべきことはいくらでもあるはずだ。それから、昨日の反省文には『やっぱり勉強は好きになれない』なんて書いてあるけど、これでは反省が足りないと思われてもしかたがないね。この他にも『校則だからしかたがない』などと批判がましいことを書くのは、まだよく分かってないという証拠だ。」

 生徒「と言われても、自分の気持ちを正直に書けと言われたので、書いたんですが。」 先生「それはともかく、最も問題なのは課題が十分できていないことだね。」

 生徒「まだ習っていないところも多くて、どうやってよいのか分からないんですけど。」

先生「読書百辺自ずから通ず。何度でもやってみなさい。課題が十分できていないと、今回のことを本当に反省しているとはいえないし、なによりも、謹慎をしたことにならないから、謹慎期間が延びてしまうかもしれないよ。」

生徒「反省の気持ちは、やった課題の量ではかれるんですか?」

 

<どう考えたらよいか>

一 停学中の指導の役割

  高校進学率が上昇し、ほとんどの青年が高校に入学してくるようになった現在、学習意欲が低く、各種の問題行動や校則違反を引き起こす生徒も増加しており、停学処分等の懲戒処分が発動されない学校は存在しないといっても過言ではない。特に喫煙者やバイクの三ない規則に違反する者は、あとを絶たない。かつての選ばれて高校に入学してきた生徒に対する停学処分は、その生徒にとってたいへん不名誉なものとして受けとめられ、処分を受けるような行動を繰り返すことは少なく、処分の効果を期待することができた。これは、停学処分によって授業を受けられなくなるという不利益が、それほど大きなものではないにもかかわらず、生徒は正式な懲戒を受けることに強い羞恥心を抱くからである。ところが現在では、停学処分を受けても、それを不名誉であるとも感じず、単に問題行動や校則違反が見つかったのが運が悪かったとしか考えることができないような、規範意識の低い生徒も多くなってきた。このような生徒を停学処分にしても処分の効果は期待できない。また勉強が嫌いで学校を休みがちな生徒にとって、停学処分を受けることは、「学校公認の休暇」をもらったことに等しい。とりわけ、家庭の教育力が低い場合には、停学処分は意味をなさない。

  そこで、停学処分を言い渡して登校を禁止しただけでは、処分による教育的効果は期待できないということが認識されるようになり、停学処分に際し積極的な生活指導を行う必要があると考えられるようになった。そのため、「停学は単なる特権の剥奪としての登校停止命令ではなくして、自宅における学習という積極的な命令、と考えられる。学友から交際を断ち、ひとりになって家庭において、学校生活を反省する一種独特の学習活動である。」という捉え方がなされている(坂本秀夫『生徒懲戒の研究』学陽書房)。このような停学についての理解は、現在では一般的になっているように思われる。また、学校における懲戒処分は、積極的な指導を伴うという意味で、公務員などの懲戒とは異なり、教育的懲戒と呼ばれることもある。

実際にも、このような観点から、停学期間中の生徒に対し様々な指導が行われている。一般的には、@学習課題、A反省文、B生活日誌を課し、さらにC外出を禁止し、D電話で友達と話すことを禁止する。そしてこれらの指導が効果的に行なわれるよう、E家庭訪問を行う。この停学中の指導には、学習指導と生活指導が含まれている。

 

二 停学中の指導の法的性格

  停学じたいは、学校教育法一一条及び同法施行規則一三条二項に基づく法的効果を伴う懲戒処分の一つである。この停学の法的効果は、生徒の教育を受ける権利を一定期間停止するものであり、同法施行規則一三条二項では、校長のみが停学を行うことができるとしている。これに対し、停学中の指導は停学に付随するものとはいえ、停学とは異なり、法的効果を伴わない事実行為としての懲戒である。これはまた同法二八条六項の「児童の教育をつかさどる」教諭の教育活動の一環であるといえる。したがって、停学そのものと停学中の指導とは法的性格の異なるものとして、ひとまず、区別して理解しておかなければならない。ところが、実際にはこの区別が意識されているとはいえず、次のような混乱がみられる。

 (1) 強制と指導の混同

停学処分は強制力をもつものであるが、停学中の指導は、文字どおり「指導」であって、生徒の任意の同意・協力を得て、その目的が達成される。停学処分の法的効果として、生徒に強制できることは、生徒に通常の授業を受けさせないことであり、その余の課題や生活面の規制については、「停学を受けている身」であるからといって、強制することはできない。このことを反省文の指導について述べるならば、生徒に対し、その非違を戒め将来にわたってそのようなことのないよう注意させ、反省を求めることは、指導として重要なことであるが、教師が適切であると考える反省文ができるまで、何度も書き直しを強いることは行き過ぎである。

  停学中の外出禁止や交友禁止は、停学処分の法的効果として当然に導き出されるものではない。少年院の長は「二〇日を超えない期間、衛生的な単独室で謹慎させる」権限をもつが(少年院法八条)、学校の校長の行う懲戒はこのような性格のものではない。これらの禁止措置は生徒の納得と自発的意志によって実現されるよう、生徒を説得しなければならない。また、規律正しい生活習慣を身につけさせるために、生活日誌を点検し助言を与えることは指導として重要であるが、これもプライバシーの侵害にわたることのないよう、私生活への過度の干渉は慎むべきである。

 (2) 学習指導と生活指導の混同

教育活動は教科の学習指導と生活指導に大別される。停学中の指導は本来、生活指導の範囲に含まれる。とはいうものの、実際には必ずといってよいほど、停学中の生徒に教科の学習課題を出し、家庭訪問に際してその指導を行うようである。これは、「停学中の生徒に対しても、学習指導に配慮」しなければならないからである(大阪府教育委員会『府立高等学校生徒指導資料』)。このように学習指導を行う目的は、当然のことながら、授業を受けることができない停学中の生徒にも一定の学力を保持させることである。それによって、生徒は停学期間終了後、学校での学習活動にスムーズに復帰することができる。したがって、停学中の学習課題は、教科の学習指導の一環であり、決して生活指導的懲戒の意味あいを持つものではないことに注意するべきである。ところが、停学中の生徒に課される学習課題の中には、教科書の丸写しなど、罰としての性格の強いもの、あるいは、停学中の生徒に自由な時間を与えないようにするためのものとしか考えられないものが含まれていることもある。学習意欲の低い生徒に、このような罰としての学習をさせることによって、生徒をますます勉強嫌いにしてしまうことになる。

三 停学期間の延長

  停学中には各種の課題が出され、それについての指導が行われることが多いが、問題となるのは、生徒がこれらの指導に従わない場合である。たとえば、学習課題の達成が十分ではない、反省文の文字数が少ない、反省が不十分と考えられる発言があった、家庭訪問をした時に生徒が自宅にいなかった、などの場合である。このようなとき、生徒が停学中にふさわしい生活を送らず、その結果、実質的に停学を受けたことになっていないという理由で、生徒の停学期間を延長することがある。無期停学の場合は、停学の期間が、あらかじめ決められていないので、特にこの傾向が強い。これは、停学中の課題や反省が不十分であるのに、所定の期間がすぎたというので、生徒の停学を解除し学校に復帰させたのでは、今後、停学中の生徒の指導が困難になるという危倶があるからである。つまり、指導に従わなくても停学が解除されることが分かっていれば、停学中の課題に真剣に取り組み、指導に素直に従う生徒がいなくなるという危倶である。

しかしながら、停学期間の延長はそう簡単にできるものではないことに注意したい。停学が法的効果を伴う懲戒であることは先に述べたが、その法的効果とは生徒が学校で通常の教育を受けることができるという法律上の権利を一定期間停止するということである。したがって、特別の事情のない限り、生徒は当初定められた期間、登校することを取りやめれば、法的には停学処分に服したことになる。教育活動の一環として停学中の生徒に反省や課題の達成を要求することは当然のことであるが、学校教育法は、停学に際しこの権利剥奪以上に特定の義務(自宅学習や外出禁止)を生徒に課していない。同法の制定当時は、教育を受ける権利の剥奪のみによって、懲戒の効果が十分期待できたからであろう。このような停学の法的性格からすると、生徒が停学中の指導に従わないという理由だけで停学を延長することには、いささか無理がある。したがって、反省文や課題の不足分は、必要であれば、停学の解除後に放課後などに取り組ませるのが適当である。ただし、「処分後登校した場合には欠席として取り扱い、処分に服した日には加えない」ことにする運用は判例でも認められている(磐城高校事件・福島地裁昭和四七年五月一二日判決)。

  停学の延長は、手続き的な問題を含むこともある。停学の延長を行うことのある学校では、それが生活指導主事や補導係などの一部の教師によって決定されることが多い。しかし、この決定には関係者の感情が混じりやすく、恣意・独断が疑われることにもなりかねない。また当初、正式の会議で、日数も含めて停学処分を決定したことが、会議の議を経ることなく、一部の教師によって変更できるのであれば、当初の会議は無意味なものになってしまう。

  停学中の指導に従わないというだけではなく、その間に喫煙を行うなどの新たな問題行動が発覚した場合には、停学期間の延長は可能である。ただしこれは最初の停学に引き続いて、別の新しい停学が行われると考えるべきである。したがって、後のほうの停学についても、通常の停学と同様の手続きを採るべきであろう。

四 反省の強要

教育が「人格の完成」をめざして行われるべきものである以上(教育基本法一条)、教師が生活指導において、生徒の人格そのものに関わることは避けられない。もとより、生活指導は「すべての生徒のそれぞれの人格のよりよき発達」をめざす教育活動であり、その「対象とするものは生徒の人格そのもの」であるとされている(文部省『生徒指導の手引(改訂版)』)。このことから、生活指導においては、生徒の心の内面に触れるような指導が求められることにもなる。しかし、その際には個々の生徒を「人格として尊重する」(同上書)という基本的な立場を忘れてはならず、生徒の思想や良心といった、内面の自由・精神的自由を侵すことがあってはならない(憲法一九条)。たとえば、オートバイの免許を取ったり、飲酒・喫煙の場に同席しただけで停学になった生徒に、その処分の根拠となった校則の趣旨を説明し、学校の意図を理解させるような指導を行うことは当然必要である。しかし、停学中の生徒が反省文のなかに、あるいは家庭訪問時の教師に、校則について批判的な見解を述べたことをもって、反省の実があがっていないとして、停学期間を延長したり反省文の書き直しを命じることは、いささか穏当を欠く。なぜなら、オートバイの三ない規則に反対する見解や、飲酒・喫煙の同席者を処分する校則が不当であるとする見解は、その是非はともかくとして、個人の精神活動の一部として尊重されなければならないからである。これを強制的に変えさせようとするのは、思想の改変に他ならず、生徒に「思想の改変を要求することは、思想の問題につき公的教育機関に要求される寛容の基準を越えるものとして許されない」(昭和女子大事件・東京地裁昭和三八年一一月二〇日判決)。戦前・戦中の例を引くまでもなく、教師が特定の価値観・人生観を生徒に押し付けることは、たいへん危険なことである。

ところが教師は、停学中の生徒から「教育者への一方的な従順と感謝と尊敬を勝ちとりたい」という誘惑に駆られる(日垣隆「中退させる権利」『世界』一九九一年五月号)。そして、教師の粘り強い指導の結果、生徒がしおらしく振舞い、このような指導に対する感謝の気持ちを表すようになると、教師は「生徒がやっと分かってくれた」と信じ、指導の成果があったものと本気で思い込んでいるようですらある。しかしこれは、生徒が教師に心を閉ざし、迎合しているだけであり、生徒はしらじらしい面従腹背の態度をとっているのである。もとより、停学処分という強制力を背景とした反省ほど、あてにならないものはない。にもかかわらず、一定の文字数を決めて反省文を書かせ、その内容にクレームをつけては書き直させる例も稀ではない。このような指導によって生徒に教えることができるのは、自立性・自発性とは無縁な「権力への盲従」だけである。

このような、反省文の信頼性の低さを意識してか、反省文だけでは足りず、決意文を書かせることもある。これから学校生活を続けていくうえでの心構えや、教師の指導を守るという決意表明をさせるのである。さらに停学の解除に当り、「この決意文で書いたことを破った時にはどのような指導にも従う」という由の誓約書を親子連名で書かせるたり、「日付のない退学願」を提出させることもある。しかしこの誓約書や退学願における意志表示は「詐欺又は強迫に因る意志表示」(民法九六条)に当たり、生徒やその親はこれを取り消すことができると考えられる。学校が「日付のない退学願」を提出させ、今後停学処分に該当する事件に関わったときは、この退学願を発動し自主退学の取扱をすることを、生徒・親に承認させたとしても、「日付のない退学願の提出をもって停止条件付退学の意志表示がなされたと解することはできず」、このような退学の約束は無効である(福渡高校事件・岡山地裁昭和五五年一一月二五日決定)。


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