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◆198804KHK071A3L0047O TITLE: 教育法規の文理解釈と条理解釈 AUTHOR: 羽山 健一 SOURCE: 大阪高法研ニュース 第071号(1988年4月) WORDS: 全40字×47行
羽 山 健 一
文理解釈とは、法令の規定をその規定の文字や文章の意味するところに即して忠実に解釈することである。これに対し条理解釈とは法令の文言にとらわれることなく、法令の目的・趣旨・道理(条理)などに重きをおいて解釈することである。条理とは物事のすじ道として当然そうあるべきところ、あるいは事柄の性質上そこにあるべき原理や仕組みを指す(注1)。もともと法の解釈には、二つの異なった精神作用が含まれると考えられている(注2)。1つは、制定法の文言の規範的意味内容を論理的演繹により確定する作用で、いま1つは法文を手がかりとして望ましい法規範を創造する作用である。前者の作用を主とする法解釈は客観的認識行為説、後者の作用を主とするものは主観的実践行為説といえよう。認識行為説をとれば、文理解釈が原則であり、例外的に条理解釈がとられるにすぎない。実践行為説の立場では、望ましい法規範を創造するために、文理解釈で不十分と考えられる場合には、いつでも条理解釈がとられることになる。一般に法学者や実務家は、法解釈を行なうにあたり、この両説のいずれか一方、または、その組合せを基本的態度としていると思われる。
教育法規の解釈について、文理解釈と条理解釈のいずれが重視・優先されるか、について立場が分かれる。「もし条文の文理どおりでは条理に反するという場合には、その法規の当該部分は、あるいはその効力を否定され、あるいは条理に適するように解釈されねばならない」(注3)とするのが条理主義であり、「成文法主義をとる国においては、一応、文理解釈が主であって、論理(条理)解釈が従である」(注4)とするのが文理主義である。
条理主義に対して、次のような問題点や批判が提出されている。条理は客観的に「一義的に定めることはできない」のであって、「条理主義の人びとは、自分の考えるところの条理だけが正しいという態度をとる」(注5)。また学習指導要領について、「法的拘束力否定説は…、きまって『教育条理解釈』とか、『教育法の体系的解釈』とか称するものを持ち出してくる」。「規定から普通には出てくると思われる意味とはむしろ逆の結論をひき出してくる」(注6)。極端にいえば、何のために成文法令があるかわからないことになる。教育法規の解釈は、憲法・教育基本法の理念にのっとって、子どもの学習権を十分に保障し、その人間的成長発達に寄与するように行なわれるべきことはいうまでもない。しかしその解釈作法が、一面において法を主観的判断において解釈するという誤りを犯す危険性をはらんでいることに注意しなければならない。
(注1) たとえば、兼子仁『教育法』(1978年)40頁など
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