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◆199210KHK123A1L0335E TITLE: 学校における「子どもの権利」の捉え方 AUTHOR: 羽山 健一 SOURCE: 大阪高法研ニュース 第123号(1992年10月) WORDS: 全40字×335行
羽 山 健 一
はじめに
「子どもの権利条約」が一九八九年一一月国連総会で採択され、日本も一九九〇年九月に署名した。この頃より、マスコミや教育現場で本条約のことが話題になりはじめ、賛否両論が交わされるようになった。ところが、教育現場においては、教育関係に権利概念が入り込むことについての困惑を隠せないでいる。この困惑の原因の一つには、これまで教育の世界が愛情や道徳等によって主導されており、子どもの権利保障という意識が薄く、子どもが権利の主体であることについての理解が不足していたことが考えられる。そこで、子ども一般がどのような意味で権利主体であるのか、とりわけ子どもの権利と成人の権利は同じものであるのかどうか、といった子どもの権利の特質や限界について整理してみることにする。
(1) 慎重・反対論
マスコミにおいては批准促進派と、促進派や条約そのものに対する批判がだされ、一つの論争の的となっている。批判的な立場として、たとえば、森隆夫教授は「子供を従来のような『保護』の対象から権利を『行使』する主体として認めようという点になると疑問なしとしない」として、「『他律による自律化』の機関が学校なのであり」「そもそも子供の意見を聞かなくてもわかるのが専門職の専門職たるゆえん」である等と本条約の趣旨に疑問を投げかけ、教育基本法のめざす「人格の完成」が軽んじられ、「人権栄え、人格亡ぶ」ことのないようにと警告している[注1]。同様に、高橋史朗教授は、あからさまな日教組批判を展開し、日教組が「教師の権利」を獲得する運動のために本条約を利用し、子どもをダシにしようとしていると論難する。そして条約の解釈については、それが憲法の枠内で行われるもので、「わが国の憲法・教育基本法は、子どもが大人と同じ権利行使の能力をもつという子ども観には立脚していない」と説く[注2]。また、小田晋教授は、「権利には必ず義務が伴う。これがわかった段階で初めて一人前。....責任がとれない子どもの間は一定の制約が課せられる」として、「この条約が一挙に実現しえないことは明らかだ。憲法の軍事規定と努力目標みたいなもの」と結論づけている[注3]。さらに、日本の教育界には、子どもを守り育てるという考えが強く、「権利」という概念はなじまず、子どもに権利や自由を認めようとする意識は弱い、という指摘もある[注4]。
これらの諸論は本条約の趣旨を全面的に否定しているわけではないが、子どもの権利行使を認めることについては消極的な立場をとり、子どもがいかなる権利行使をなし得るかについて検討されていない。
(2) 教育現場における教師の本音
次に、教育現場においては本条約への対応をめぐって、少なからず混乱がみられ、教師の率直な意見としては、本条約を歓迎するよりも、不安や戸惑いを示すものが多いようである。たとえば、次のような意見が出されている。「子どもに権利を認めると、ますます指導がやりにくくなる」「生徒のためにならない」「これ以上子どもを甘やかすことはない、わがままになるばかりだ」「利己主義的な自由や権利主張がはびこって収拾がつかなくなる」「子どもの権利は大きく認められるべきものではない。認めたら、どんなに自分勝手な子がはびこるか。大混乱が起きるだろう。子どもの権利はだれが見ても虐げられたと思うときだけ考えられるべきだ」「権利主張の前に義務を果たせ」「条約の趣旨は分かるが、生徒たちが権利を主張しはじめたらこわい」[注5]。このような不安や戸惑いの中には、権利そのものや、子どもの権利についての誤解に基づくものが含まれているように思われる。
憲法の規定する基本的人権は、子ども(本項では未成年者の意味で用いている)にも適用されるのであろうか。ここでは子どもと学校・教師との関係において問題となる、子どもの憲法上の権利について述べることにする。ただし、親と子の見解の対立の問題は扱わず、親子の意見が一致していることを前提とする。また学校における子どもの権利の制約には、子どもであることを理由とする制約と、学校という部分社会における生徒としての地位を根拠とする制約とがあるが、後者については扱わない。
(1)子どもの人権享有主体性
憲法の教科書では、子どもの人権享有主体性についてあまり論じられていなかったが、宮沢俊義教授は、次のように説いていた。人権とは、人間が生まれながらもっている権利、すなわち、生来の権利であり、「人間がただ人間であるということにのみもとづいて、当然に、もっていると考えられる権利」である。したがって、「人権の主体としての人間たる資格が、その年齢に無関係であるべきことは、いうまでもない」[注6]。つまり、子どもも人間としての資格に基づいて成人と同様に人権を享有することになる。ところが、宮沢教授も続けて「しかし、人権の性質によっては、一応その社会の成員として成熟した人間を主として眼中に置き、それに至らない人間に対しては、多かれ少なかれ特例をみとめることが、ことの性質上、是認される場合もある」[注7]としている。確かに、大人に対しては許されないような基本的人権の制約が、子どもに対しては許容される場合があり得えよう。
(2)子どもの人権の分類
子どもの権利の制約を考えるにあたっては、子どもの権利内容を、すべて一括して扱うことはできず、権利内容を分類しておく必要がある。便宜上ここでは、@保護・教育を受ける権利、A市民的権利・自由、の二つに大別しておく。
@は子どもとしての資格に基づく権利であり、「子ども固有の権利」であるといえる。その内実は「人間的環境のもとで肉体的・精神的健康が保たれ、人間的に成長・発達する権利」だといえる。そして「その権利の充実のためには、その発達段階にふさわしい学習と教育が保障されていなければならない」[注8]。Aは、人間としての資格に基づく権利であり、憲法の保障する基本的人権から@の権利を除いたものである。この権利は、「子ども固有の権利」に対して、「一般人権」あるいは「子どもの人権」と呼ばれることもある。
これまで、学校においては、子どもの「保護・教育を受ける権利」を保障するという名目で、子どもの「市民的権利・自由」を犠牲にする傾向があった。これに対し、子ども・親側が、教師の独善・偽善を批判する理念として、子どもの「市民的権利・自由」を主張し始めてきたといえよう。「保護・教育を受ける権利」と「市民的権利・自由」とは対抗関係として捉えられがちであるが、しかし、子どもはその両者を必要としているのであって、「教育は子ども・生徒の人権をふまえてこそ良いものになるはず」[注9]である。すなわち、子どもの「市民的権利・自由」は、いわば語のすぐれた意味での「保護」とかみあってはじめて、子どもを実質的に独立と責任の主体へと導く条件となりうるのであろう。そして具体的な事例においては、子どもの年齢と局面に応じて絶えず変化する「保護」と「自由」のかねあいを、個別具体的な争点に即して考量せざるをえない[注10]。
(3)子どもの人権制約の根拠
子どもは精神的・肉体的に未成熟であり、通常社会人としての判断能力・認識能力を欠くため、その市民的権利・自由については、大人には許されない制約を受けることが許容される場合があり得る。この点において大人の権利と子どもの権利は、まったく同一のものであると言うことはできない。
その制約が正当化される根拠は、第一にパターナリズムがあげられる。パターナリズムという用語は「原義からいえば、父と子の関係に似た、優者が劣者に対する行動様式」で、「おおむね優越的立場にある者が、自己への服従とひきかえに保護を与える形式をさす」とされている[注11]。とりわけ、子どもは一般的に、「精神的肉体的発達の未熟性のゆえに真に自らの利益に合致するような判断ができず」「経済的に他に依存せざるをえない状況にある」ことから他からの保護を受けざるをえないため、「完全にパターナリズムを排除することはできない」[注12]。したがって、学校・教師は、子どもがより豊かに発達し学習できるように、各種の害悪から子どもを守るという、子ども本人の利益のために、一定の範囲において子どもの権利を制約できると考えられる。
制約の第二の根拠は、「公共の福祉」をあげることができよう。憲法一二条、一三条に規定する公共の福祉は、すべての人権主体に対して適用され、当然子どもも例外ではありえない。各人の権利の享有・行使は、他人の権利との関係において、何らかの制約を受ける。フランス人権宣言第四条の「自由は、他人を害しないすべてをなし得ることに存する」という言葉は、この権利制約の原理を端的に示している。学校においては、他の子どもの保護・教育を受ける権利若しくは市民的権利・自由を保障するために、または他の大人への害悪を防止するために制限がなされる。特に子どもは、発達・判断能力の未熟性ゆえに、大人と同じ行為を行っても、「子どもが行った方が有害度が大きい場合がありうる。その意味で、他者への害悪防止のための制約は、子どもの方が成人よりも多く受けるといえる」[注13]。
(4)子どもの権利制約の限界
憲法の下では、子どもも原則として大人と同じく基本的人権を享有するが、子どもに対しては、特例(例外)として、前項で述べた根拠に基づき、「必要最小限度の制約が憲法上許される」、ということができる。したがって、「今後残された問題は、人権の性質に従って区分されるそれぞれの人権について、同じく未成年者といっても心身の成熟によって区分される年齢に応じて、いかなる人権の制約が許容されるかということを具体的に検討することである」[注14]。その制約の範囲や限界については慎重に、かつ個別具体的に検討されなければならない。
@大人と同等の保障が及ぶ権利
基本的人権の性質の違いによっては、「子ども固有の制約」の容認される限界が異なる。この点につき、アメリカのJ.H.ガーヴェイの指摘は示唆的である。彼は、基本的人権を「憲法上の選択の自由」と「その他の憲法上の権利」とに峻別し、両者の間には決定的な相違があるとする。前者は「何らかの行為をするかしないかという個人の選択に対する国家による制約からの保障」を意味し、これには表現の自由・信教の自由・集会結社の自由・投票権等が含まれる。これに対し後者は、「一定の行為や状態を国家の干渉から保護」するものであるが、「反対の行為ないし状態を追及することを許す」自由を保障するものではない。これには不当な捜索・押収を受けない権利・正当な補償を受ける権利・手続き的保護・平等権等が含まれる。このように区分した上で、「憲法上の選択の自由」については、子どもには必ずしも大人と同等の保障が及ばないが、「その他の憲法上の権利」については大人と同等の保障が及ぶとする[注15]。
A「パターナリズムに基づく制約」の限界
子どもの保護・教育を受ける権利の保障は、ともすれば、無定限のパターナリズムと結びつきやすい。しかし近時のアメリカ合衆国の子どもの権利論をめぐる学説においては、「子どもの保護にも考慮を払いながら子どもの自律を最大限尊重しようとする点で共通している」[注16]。それらの諸説によれば、パターナリスティクな介入は、未成年者の判断や行為の成熟化の過程を育成促進し、自律的存在へと成長発達していくのに寄与するためのものでなければならないとする。「換言すれば、未成年者が成熟した判断を欠く行動の結果、長期的にみて未成年者自身の目的達成諸能力を重大かつ永続的に弱化せしめる見込みのある場合に限って容認される」というアプローチがとられている[注17]。
B「他人への害悪防止のための制約」の限界
子どもの市民的権利・自由が「公共の福祉」の観点から制約を受けるとしても、学校での子どもの権利について、「教育目的の実現を阻害するおそれがある」、若しくは「教育上望ましくない」等の抽象的な漠然とした理由で、これに制約を加えることは許されないと考えられる。
アメリカ合衆国の高校における生徒の政治的表現の自由が問題となったティンカー事件判決[注18]において連邦最高裁は、生徒は「連邦憲法上の『人』である」として、生徒が基本的人権をもつことを確認した上で、生徒の表現活動が「学校の教育活動や規律を、具体的にしかも実質的に妨害する」ということが証明されなければ、それを禁止することはできない、と判示した。この事件で学校側は「学校は示威行動を行うための場所ではない」、「混乱が起こる心配があった」ことを主張したが、判決では、「特定されない混乱の心配や危惧は、表現の自由を制限するのに十分なものではない」として学校側の主張を退けた。これに対し日本では、いわゆる内申書事件最高裁判決[注19]において、「教育環境に悪影響を及ぼし、学習効果の滅殺等学習効果をあげる上において放置できない弊害を発生させる相当の蓋然性がある」ことから、政治活動の制限を是認した。しかし、公共の福祉の観点からの制約を認めるとしても、その際には「相当の蓋然性」があるだけでは足りず、生徒の表現活動が「教育環境や学習効果に対して具体的にどのような弊害を与えたのかを....実質的に審査する必要がある」[注20]というべきである。
C目的の正当性と手段の相当性
学校では、子どもの権利が「教育目的」を達成することを根拠に制約されることは否めないが、この教育目的という文言はかなり広範で多義的な概念を含んでいる。そのため、この文言が過度に拡大して解釈されているきらいがある。しかし学校の教育目的は、あくまでも、普通教育あるいは専門教育を施すことにあるという点に留意すべきである(学校教育法17,35,41条)。たとえば、校外におけるバイク事故の防止や非行防止が学校の教育目的に含まれるとは考え難い。
ここでは、子どもの権利というものが、教育実践を進める上でどのような意味で指針となるかについて考えてみることにする。学校という特別の場において、子どもが学校の生徒として、学校外とは異なった権利関係を形成すると考えられている。これは「特別権力関係論」「附合契約説」「部分社会論」と呼ばれるものであるが、ここでは触れる余裕がない。
(1)子どもの人格の尊重
子どもも当然に権利主体であることから、教師は子どもを一人の「人間」として認め、その人間性を尊重しなければならない。教師と子どもは、教えるものと教えられるものという違いはあるとはいうものの、人間としての価値に上下関係があるとは考えられず、権利の享有主体としては異なるところはない[注21]。
(2)過ちを犯す権利、間違う権利
学校や教師が、子どもの生活の隅々まで管理しようとするのは、未成熟な子どもが誤った判断を行い、間違った途に進むことのないようにという、善意から出たものであり、いわば「転ばぬ先の杖」と言えよう。しかし、アメリカの脱学校論者カール・ベライターによれば、この「過ちを犯させないようにするという言い分は、過去数世紀にわたって、奴隷、女性、はては民族全体を軛につなぐ口実に利用されてきた」として、子どもには「過ちを犯す権利」があると立論する[注22]。多くの教師は、子どもは過ちを犯してはならない、という深く根ざした信念に基づいて行動しているようである。しかし、国家や学校・教師といえども、他人の子どもを、思いのままに、自らが正しいと思った人間にしたてる権限を有するものではない。また、過ちをさせまいとする善意から出た管理的な指導が、かえって、子どもの自主性を否定し、子どもの不信と反発を招き、ひいては子どもの成長を損なっていることもある。
子どもに権利の行使を認めると、常に適切な結果をもたらすとはかぎらない。必ず間違った判断をすることがある。それにもかかわらず、子どもの権利行使を認めるべきであるとする理由は、第一に。子どもが自ら主体的に判断し自己決定することは、子どもがどのような判断をするかとは関わりなく、自主的に判断すること自体に価値があるからである。第二に、子どもの成長・発達の観点からも、誤りを犯す権利が支持される。すなわち、賢明な大人の目からみて、子どもが誤って権利行使をしていると見えても、その行使を許した方が子どもの将来にとって有益であることもあるからである[注23]。諺に「失敗は成功のもと」と言われるとおりである。
もっとも、社会や他人に危害を及ぼすことが具体的に明かである場合や、本人の将来に重大で回復できないような損害をもたらす場合には、子どもが過ちを犯すことを傍観してはいられないのは当然のことである。
(3)権利行使能力を獲得するための手段的機能
教育基本法一条には、教育は「国家、社会の有為な形成者」としての国民の育成を期して行われなければならないとある。すなわち、正しく権利を主張し行使できる能力、ならびに義務を果たす能力を持った主権者を育成する教育(主権者教育)が望まれているのである。そのためには、子どもに対し、正しく権利を行使する能力を発達させ、合理的な判断能力を持った成人へと成長していくのを援助する教育を行う必要がある。
しかし、子どもが成人年齢になれば、突如として、権利を正しく行使できるようになる、などとは考えられない。したがって、子どもが合理的な判断能力を身につけるためには、権利を行使する「練習」をすることが必要となる。というのは、権利を行使する能力は、実際にそれを行使することによって形成されていくという面を有しているからである[注24]。
(4)親の教育権の尊重
親の教育に関する権利については、「人間性の中に深く根ざしているところの人類普遍の原理である自然法上の権利」[注25]として、それが本源的・包括的権利であることが一般的に支持されているといえよう。このような理念のもとに、民法八二〇条にも監護・教育権が規定され、さらに子どもの権利条約でも、親には子どもの養育・発達に第一次的責任があり(一八条一項)、子どもの権利行使に対し指示・指導する権利・義務があるとされている(五条)[注26]。
親の権利は義務としての性格の強いものであるが、そうであるとしても、自分の子どもをどのような人間に育てるかは、まずもって親の基本的権利に属するものである。およそ、親が「子どもたちを各々の価値観にそって育てる権利を認められていないのでは、とうてい自由社会とはいえない」[注27]。そして、この権利は子どもの成長の全面を覆っているのであり、また、一定の年齢に達するまでに限られるわけでもない。これに対し、親以外の者の子どもに対する権利は、法律・制度・契約等によって発生するもので、時間的・事項的に限定された性質のものである。だからこそ親は、優先的権利を有するとか、子どもの養育・発達に第一次的責任があるとされるのである。したがって、公共の福祉を根拠とする介入の場合は格別、パターナリズムに基づく子どもの権利の制約は第一次的には親の義務なり権利に属すると言えよう。子どもの権利行使を認めるかどうかは、通常、親の選択に委ねた方が、その子どもの教育、成長・発達に有益であると考えられるからである。
子どもの権利が大人の権利と同じものではなく、それへの制約が正当化されると考えられる場合であっても、直ちに国家・学校・教師の介入が認められるものではなく、子どもは、「両親の決定に従うことにより、なお国家の干渉から自由である権利を有する」[注28]と考えられる。つまり、子どもの不完全な権利が親の同意によって補完され、大人同等の権利行使ができる場合があるのである。
このような観点からすれば、子どもが権利行使しそれに親が同意する場合には、他人がその子どもの権利行使を制約することは、同時に親の権利を制約することにもなる。ここでは、子どもの保護・教育を受ける権利を保護するために、子どもの権利を制約するという図式は、親がその権利を放棄あるいは濫用していない限り、妥当しなくなる。
(5)手続き的権利の重視
手続き的権利とは、適正な手続きによらなければ、権利・自由を奪われないというものである(アメリカ合衆国憲法修正第五条・第一四条参照)。人間の権利・自由の保障を確保する上で適正手続きの保障は極めて重要な役割を果たす。子どもの権利条約第一二条第一項には、意見表明権として「自己の見解をまとめる力のある子どもに対して、その子どもに影響を与えるすべての事柄について自由に自己の見解を表明する権利を保障する。その際、子どもの見解が、その年齢および成熟に従い、正当に重視される。」(国際教育法研究会訳)と規定している。この権利は「子どもの最善の利益」を発見するための手段であるという側面もあるが、他方では、これは子どもの手続き的権利を定めたものと捉えることもできる。このような手続き的権利は、学校における子どもにも適用されると解され、教育委員会や学校が子どもに対する処分・措置を行う際にも、適正な手続きが採られなければならない。具体的には、懲戒処分、進級認定等の教務措置、習熟度別の学級編成、障害者の学校・学級指定等において、子どもや親に十分な情報を伝えた上で、子どもや親に意見を述べる機会を保障しなければならない。
学校においても手続き的権利を重視すべき理由は、第一に、不適正な手続きによってなされた決定は正当と言えない場合が多く、学校側が主観的善意によって「子どもの教育に必要」と判断した処分や措置であっても、独善的なものとなる危険性がある。子どもや親がそれに納得していなければ教育効果は期待できない。第二に、子どもや親に意見を述べさせる等の手続きを経ることによって、処分や措置の決定過程に参加させることができる。子どもや親と話し合いをするなかで、納得や合意がえられる可能性が高く、その処分や措置による教育的効果を増進させることができる。
おわりに
子どもといっても、成長・発達の程度は極めて多様であり、「子ども」という言葉で一様に判断できない面があり、その権利行使の制約が許容されるかどうかは、行使しようとする権利の種類、子どもの年齢・成熟の度合い・判断能力によって異なり、個別具体的に判断しなければならないものであるが、本稿ではこれらの諸点につき触れることができなかった。
[1]産経新聞1990年10月18日正論
[2]高橋史朗「誰が『児童の権利』を守るのか」文芸春秋1991.11
[3]朝日新聞1992年4月27日
[4]日経新聞1989.12.16社説、毎日新聞1992.2.3外交百話
[5]朝日新聞1990.9.4、1990.11.22、1991.11.20、1992.3.29等参照
[6]宮沢俊義『憲法II〔新版〕』有斐閣法律学全集4(1974)、77頁、246頁
[7]同前書246頁
[8]堀尾輝久『人権としての教育』岩波同時代ライブラリー66頁
[9]兼子仁=堀尾輝久『教育と人権』岩波現代法叢書(1977)236頁
[10]森田明「子どもの保護と人権」ジュリスト増刊総合特集43(1986)20頁
[11]山田卓生『私事と自己決定』日本評論社(1987)17頁
[12]樋口範雄「子どもの権利のとらえ方」法律時報61巻13号(1989.11)21頁
[13]米沢広一「『子どもの権利』論」『人権の現代的諸相』有斐閣(1990)62頁
[14]中村睦男『憲法30講』37頁
[15]初宿正典=高井裕之「憲法における自由と意思能力」『政法論集』第8号(1988)33 頁、ここではガーヴェイの論文
Freedom and Choice in Constitutional Law, 94 Harv. L. Rev. 1756-1794(1981)を包括的に紹介している。
[16]米沢広一『子ども・家族・憲法』有斐閣(1992)124頁
[17]佐藤幸治「未成年者と基本的人権」法学教室133号(1991.10)
39-40頁、同「子どもの『人権』とは」『自由と正義』38巻6号(1987)9頁
[18]Tinker v. Des Moines Independent Community School
District, 393 U.S. 503 (1969).
[19]最小判昭63.7.15、判時1287号65頁
[20]中村睦男「麹町中学内申書事件上告審判決」判例評論363号
[21]次の、アメリカ合衆国のアイオワ州デモインのカサディ小学校の規則表「学級における権利と義務」は、権利・義務の関係を学習させる実践として興味深い。ラルフ・ペットマン著・福田弘=中川喜代子訳『人権のための教育』明石書店(1987)42頁。
1.私はこの教室のなかで楽しく過ごし、思いやりの心を持って扱われる権利を持っています(私は他の人を嘲笑したり、他人の感情を傷つけたりしない義務を負っています)。尚、同趣旨の「私たちの市民的権利」と題する文章について、平原春好「教育を受ける権利と学校制度」季刊教育法No50も参照。
2.この教室では私は、自分自身が認められ、尊重される権利を持っています(私は他の人を、皮膚の色が黒いとか白いとか、太っているとか痩せているとか、背が高いとか低いとか、男の子か女の子か、とかいう理由で、不公平に扱われない義務を負います)。
3.私はこの教室で、身が安全である権利を持っています(私は人を殴ったり蹴ったり、押したり、つねったり、傷つけたりしない義務を負います)。
4.私はこの教室で、人の言うことを聞いたり、自分の言うことを聞いてもらう権利をもっています(私は大声を出したり、金切り声を上げたり、怒鳴ったり、騒いだりしない義務を負います)。5、6略
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