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TITLE:  いじめに関する学校の法的責任と限界
AUTHOR: 羽山 健一
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第152号(1995年3月)
WORDS:  全40字×228行

 

いじめに関する学校の法的責任と限界

 

羽 山 健 一 

 

はじめに

  ここ数年来、学校教育に関わって発生している「いじめ」事件は、いっこうに解決の兆しをみない。もとより、この問題は、学校、家庭、社会などの抱える病理が複雑に絡み合って生起するものであって、いわば複合汚染とも言えよう。とはいうものの、その防止がもっぱら学校教育に期待されており、学校側の責任を厳しく問う傾向が見られる。学校側に責任の存することは論をまたない。しかし、この問題はひとり学校側のみによって防止できるものでもないだろう。学校側にのみその解決を迫ることによって、かえって生徒の管理強化を招き、問題をより複雑化あるいは潜伏化させかねない。そこで、本稿では学校の果たすべき最低限の義務を明らかにし、その責任の守備範囲を画定するとともに、学校の対策を促す一助としたい。したがって、本稿はいじめの防止対策を解明しようとするものではないことを、予めおことわりしておく。

  本稿では、近年の「いじめ」を、とりあえず「未成熟な者が特定のより弱い立場にある者に対して、集中的・継続的に、精神的・肉体的に苦痛を与えること」であると捉えておくことにする[1]。いじめには次のような特質がみうけられる。すなわち、@集団的、A弱い特定の個人が対象となり支配被支配関係ができる、B継続的、C陰湿かつ残忍な方法、D親や教師に隠れて行われる、E制止する子どもがいないことである。

  いじめと、けんかや暴行による生徒間事故とは、生徒が他の生徒に被害を及ぼす点においては共通する側面もあるが、その現象的性質を異にする。すなわち、生徒間事故は一般的に突発的・偶発的でああるのに対し、いじめは、長期にわたり継続的に行われ、被害者であるいじめられっ子は特定しており、突発的・偶発的事故とは言えない。

 

1.学校の安全義務・責任

  校長や教師はその教育活動にともなって、生徒に対し、生徒の生命・身体の安全を守るべき義務を負うとされている。これは、総じて、安全保持義務、安全配慮義務、安全確保義務、安全注意義務などと呼ばれている(以下、単に安全義務という)。したがって、校長や教師が、いじめを看過し、または放置したことによって被害が発生した場合には、この義務懈怠に対し主に民事上の損害賠償責任が問われることになろう。被害生徒側が学校側に損害賠償請求をする根拠としては、不法行為と債務不履行をあげることができる。しかし、どちらの構成をとっても、学校側の作為義務ないし安全配慮義務の「範囲や程度、具体的な義務違反の認定基準などについては、現在のところ差異はないといえる」と考えられている[2]。

  学校側の安全義務について、学校教育法等にはこの安全義務を定めた明文の規定がないので、この義務の根拠は明かではない。しかし、学校側が職務上当然にこの義務を負うことは否定できない。その根拠としては、学校教育法の精神ないし立法趣旨、学校教育の条理、信義則に求めることができよう。

  学校側の安全義務は、教育委員会・校長などの学校管理者の管理安全義務と、教育現場において教育に当たる教師などの教育活動上の安全義務の両者が相俟った組織的義務ということができよう。その意味で「学校側」の義務と呼ぶことにする。したがって、教師の個人的過失に留まらず学校全体の組織的過失が問題とされる場合も有り得る。

  いじめについての学校側の安全義務とは、学校側がいじめによる被害発生を防止ないし軽減すべき適切な対策を行わなければならないという作為義務である。したがって、不法行為や債務不履行責任の問題は、「教師が加害行為に加担した場合でない限り、不作為の法律構成をとることになる」[3]。

  具体的な作為義務は個々の事案ごとに措定されるべきものであって、「学校がいじめの被害に対して、どのような場合にどの程度まで責任を負うかは、生徒の年齢・発達状況、家族環境、当事者の関係、日頃の生活態度、いじめの態様・程度・期間・いじめの結果生じた被害の程度などの具体的状況に応じて判断されることになる」[4]。

 

2.いじめ予見義務

  いじめは、陰湿化し、教師等に隠れて行われることが多いため、これを防止するためには、生徒の動向に関心を払い、注意深く観察するなどして、その発見に努めることが重要である。すなわち、学校側の安全義務には「いじめ予見義務」が含まれるといえよう。

(1) 予見可能性

  学校側の責任を問うためには、被害の発生を予見することが可能であったということが要件となる。つまり、学校側が損害の発生を予測していた場合、あるいは損害の発生が通常予測され得るもので、通常人の経験則から相当の注意を払えば予測できるものである場合でなければならない。具体的には「ある生徒の行動により他の生徒の生命、身体、精神、財産等に重大な危害が及ぶことが現実に予想される」ような場合である[5]。

(2) 予見の困難性

  近年のいじめの特質は、それが隠れて行われ、被害生徒もいじめの事実を学校や親に言わない傾向が強いことである。被害生徒自身が被害事実を言わない理由は、@報復が恐ろしい、A教師や親に話してもいじめが解決しない、B自分を「惨めないじめられっ子」と見られたくない、C他の生徒から注目されたくない、との考えからであろう。また被害生徒が、恐喝などのいじめを受けた結果、万引きや親の金を持ち出すなどの問題行動をしている場合には、この傾向はさらに強まる。そして、「いじめの深刻さは、いじめる側の動機や行動以上に、いじめられる側の被害感情に依存するところが大きい。」したがって、「生徒間のいじめの事実は著しく認知し難いものとなる」[6]。さらに、学校側にとっては、被害生徒が「仲良し非行グループ」の一員であるのか、集団的・継続的いじめを受けているのか、判別しにくい場合もある。そして、個々の被害事実が発覚したときにも、これが突発的生徒間事故か、継続的いじめか、という判別は非常に困難である。このように、いじめは、生徒間事故に比べ、継続的に行われる点で、予見可能性が認められやすいと考えられがちであるが、いじめの特性からは、その予見が極めて困難な側面がある。

(3) 気がつかない責任

  いじめの事実があるにもかかわらず、本来なら気が付くはずであったのに、故意または過失によって、それに気がつかないでいた場合には、学校側にいじめ予見義務違反があるというべきであろう。たとえば、学校側が@集中的、かつ、継続的に暴行を受け又は悪戯をされている事実を把握していた、A親から訴えを受け、善処を求められていた、というような場合には、学校側はいじめに気が付かなかったという抗弁をできるものではない。また、生徒に長期間の欠席、早退の急増など、いじめの存在が推測される際には、学校側は決してこれを軽視すべきではなく、当該生徒から事情を聴取するなどして、いじめの有無を把握する努力をなすべきであろう。

 

3.いじめ対策義務

  学校側が被害生徒やその親から救済を求められたり、いじめの被害や現場を発見するなどして、いじめが顕在化した場合には、学校側に具体的、個別的な結果回避義務、換言すれば、「いじめ防止対策義務」が発生すると考えられる。

(1) 一般的いじめ防止指導

  いじめが顕在化していない状況であっても、学校側にはいじめを防止するための事前的、日常的指導が求められているといえよう。これは、日常の教育活動の一環としての人権尊重の教育である。教育基本法1条は教育の目的として、「人格の完成をめざし」、「個人の価値」を尊ぶことを挙げている。また、学校教育法18条1項は、小学校の教育目標として、「学校内外の社会生活の経験に基き、人間相互の関係について、正しい理解と共同、自主及び自律の精神を養うこと」が挙げられ、これは中学校及び高等学校においても引き継がれている(36条1項、42条1項)。いじめは、生徒が学校生活における集団生活を送るなかで発生し、学校の集団生活にはいじめを発生させる土壌があるのであるから、学校という場は、いじめの発生する潜在的な危険性をはらんでいると言えよう。したがって、学校側としては、生徒にいじめが人権侵害であること理解させ、望ましい人間関係を確立するための人権教育を行う必要があろう。この意味で、「いじめの防止の問題はまさに学校側の生徒指導の対象に含まれるものである」[7]と考えられる。

  しかしながら、いじめが顕在化していない段階に於いて、学校がどのような教育指導を行うべきかについて、その具体的な形態・方策は学校側に委ねられているのであって、あるべき防止対策を想定して、それを直ちにそのまま学校側の負うべき安全義務の内容とすることには同意しがたい。

(2) いじめ防止対策義務

  いじめが顕在化し、学校側がこれによる被害の発生を実際に予見していた場合、あるいは、いじめの徴候が具体化し、被害の発生を予見し得る状態にあった場合には、その重大性と切迫性等の具体的状況に対応して、いじめを防止すべき具体的、個別的ないじめ防止対策義務が学校側に生ずることになる。

  いじめ事件に関する判例においては[8]、一般論として、防止対策義務の内容を次のように具体化している。@関係者から事情聴取などの調査をして事態の全容を正確に把握する、A関係生徒に対する個別的な指導・説諭による介入・調整、B当事者の所属するクラス全体、場合によっては当該学年全体、更には学校全体の問題として生徒に集団討論させ、いじめを根絶する指導を行う、C関係生徒の保護者との連携による対応、D被害生徒の登校を見合わせる、E学校教育法26条の出席停止又は学校内謹慎等の措置、F学校指定の変更又は区域外就学についての具申、G児童相談所又は家庭裁判所への通告H警察その他の司法機関に申告して、加害生徒をその措置に委ねる。

  深刻ないじめを知った教師の多くは、以上の対策のなかの、生徒に対する指導を中心に何らかの対策を行っているものと予想されるが、その指導の効果は十分とはいえず、いじめの解消に至っていないように思われる。その他の対策についても、加害生徒の取り締まりに類するような対策は、いじめの抜本的解決にはならないと考えられる。とはいうものの、これらは、対症療法的な最低限の対策として学校側に課せられた義務と言えよう。

  いじめが社会的問題化して、学校側の責任が厳しく問われるようになるに伴って、教師個人や学校がいじめの事実をひたすら隠そうとする体質が生まれているように思われる。つまり、学校側はいじめ問題が公になり、その責任を追求されることを恐れるあまり、教師がいじめの徴候を察知しても、見て見ぬふりをして、何らかの防止対策をせず、あるいは、学校内だけで対処しようとして、学校としていじめの事実を保護者などに訴え、協力を呼びかけることをしないのである。このような事実が明かな場合には、学校側にいじめ防止対策義務違反が認められよう。

 

4.学校の責任の範囲

  いじめは、学校、家庭、社会などに起因する問題であるから、ひとり学校のみが責任を負い、これを根絶できるものではない。したがって、学校の負うべき責任の範囲にも自ずと限界があると考えなければならない。

  一般的に、教師の生徒に対する安全義務の範囲は「学校における教育活動及びこれと密接不離な生活関係」に限られるとされている[9]。そして授業や学校行事などの教育活動中の事故については、特に厳しく学校側の責任が問われ、続いて、休憩時間・放課後・部活動中での事故についても、学校側の責任が認められることがある。ところが、いじめ事件の場合は、このような時間帯による区分によって責任の軽重を論ずることができない。

 また、法律上、不作為による違法を認定することは容易ではない。学校側に違法性を認定するためには、学校側が危険の切迫性を知り、または知り得べき状況にあって、かつ「その措置をとれば容易に生徒の生命及び健康等の被害の発生を防止でき、しかもそうしなければ右結果の発生を防止でき」ない状況にあったことが必要というべきである。[10]

(1) いじめの特殊性と学校の責任

  いじめが意図的に教師の目を盗んで行われることから、学校側の責任にも限界を認めざるを得ない。「いじめが教師の目に触れないようこっそりと行われ、しかも、被害者がなかなか親や教師に救済を求めず一人でじっと堪えていることが多いとなると、教師に不法行為責任の成立を認め、学校設置者あるいは教師個人の法的責任を追求することは容易ではない」[11]。

  いじめの徴候をいち早く察知し、関係生徒からその実態を正確に聞き出すことは、至難のことである。教師のなし得る生徒の動静把握や事情聴取には限界があるため、これを行おうとすれば、現在の学校の状況においては、有形力の行使や生徒の管理を強める結果になりかねない。次のような指摘は当を得ているように思われる。すなわち、「一般に、学校教育という集団教育の場においては、児童が他の児童との接触や衝突を通じて社会生活の仕方を身につけ、成長して行くという面があるのであり、したがって、学校としては児童間の衝突がいっさい起こらないように、常時監視を行って児童の行動を抑制し、管理しようとすることは適当では」ない[12]。

  さらに、いじめの解決には、心理学・社会学など各方面からの考察も必要とされることから、教師のいじめ防止能力にも限界を認めざるを得ない。いじめの解消に当たっては、学校側は、その能力の限界を認識した上で、保護者との協力や外部の相談期間との連携を図る義務があると言えよう。したがって、学校側の安全義務違反の有無を具体的に検討するに当たっては、「単なる理想論を当てはめるのではなく、現実的な学校教育における限界を考慮する必要がある」[13]。

(2) 無過失責任の否定

  学校側がいじめを発見できず、あるいは防止対策を講じたにも関わらず、いじめ被害が発生してしまった場合、結果的にいじめ被害を防止できなかったという理由だけで、一概に学校側に安全義務違反があったと判断するわけにはいかない。

  まず、教師が通常の注意を払って、生徒の動静を観察している限り、いじめを予見できなかったとしても、教師の予見義務違反を問うことは酷であろう。「予見可能性がない場合には、教師の過失は存在しない。教師には無過失責任まで要求されていないのである[14]。次に、いじめを察知した教師は何らかの防止対策を講じていると推測されるが、多くの場合、これが効を奏していないようである。学校側がいじめの防止に「積極的に努力している場合には、たとえ執拗ないじめによって被害が発生したとしても、その責任を学校・教師に負わせることは妥当ではない」ように思われる[15]。

  ただし、現実には、教師がいじめの徴候を察知し得る状態にあったり、また、実際に察知しているのに、それを放置しているケースも少なくないように思われる。このような事情が明白な場合には、学校側は安全義務違反の責任を免れない。

(3) 教育専門的義務か教育外在的義務か

  いじめ被害は教育内在型事故であるのに対し、生徒同士のけんかや「ふざけっこ」などの生徒間事故は教育外在型事故であるので、いじめ被害については生徒間事故に比較して、より専門的な安全義務が問われるとする指摘がなされている[16]。

  しかし、このような見解には疑問がある。なんとなれば、生徒間事故は、本来的には、教育活動に関わるものではなく、教育活動そのものの内在する危険が発現して生じる事故ではない。そして通常は予測できないものである。同様に、いじめによる事故も教育活動に内在する危険が顕在化して発生するものではないと考えられるからである。この両者は共に、教育を実施する学校という機関に特有のものではなく、学校以外の集団生活の場においても起こり得る事故であり、教育活動自体によって発生するものではない。このように、いじめ被害は「教育活動と密接な関係において生ずるものであり教育外在型事故としての特色をもつ」[17]といえよう。現象的にいじめと生徒間事故は酷似しており、実際のいじめ被害が常に、「長期にわたって」いることが容易に予知可能で、「突発的で偶発的」な生徒間事故と識別できるのでない限り、両者についての学校側の安全義務に差異を設けることは妥当ではないだろう。ただし、いじめの場合は予見可能性において、生徒間事故と異なる側面が存することは否定できない。

 

おわりに

  東京の中野区富士見中学で、生徒のいじめによる自殺事件が発生したのは1986年のことである。その時には大きな話題となり、各方面でいじめ問題に対する取り組みが論議された。そして、その後の文部省の調査では、いじめは減少傾向にあると発表された。しかし、実態は今日に至るまで何ら変わらず、むしろ、より深刻化していたのである[18]。このギャップは、被害生徒がいじめを隠し、堪え忍んでいただけではなく、学校がいじめ事件を隠していたことから生じたものといえる。今後は学校側のいじめ対処能力を一層高めるとともに、学校の能力の限界を前提に、学校側とその他の第三者機関や父母及び父母集団との協力関係の構築が重要な課題となろう。

 < 注 >

[1]座談会「いじめと現代社会」ジュリスト836号他
[2]伊藤進・織田博子『実務判例・解説学校事故』801頁
[3]藤村啓「『いじめ』とその法的問題」ジュリスト836号
[4]戸波江二「いじめ事件と学校の法的責任」季刊教育法92号
[5]いわき市いじめ自殺事件・福島地いわき支判平2.12.26 判時1372
[6]中野富士見中いじめ自殺事件・東京地判平3.3.27 判時1378
[7]長谷川幸介「判例研究『いじめ』による学校事故と安全保証義務」季刊教育法59号
[8]前掲、中野富士見中いじめ自殺事件、いわき市いじめ自殺事件判決
[9]三室小いじめ受傷事件・浦和地判昭60.4.22 判時1159
[10]羽村町いじめ自律神経失調症事件・東京地八王子支判平3.9.26 判時1400
[11]前掲、藤村啓論文
[12]杉並区いじめ小児神経症事件・東京地判平2.4.17 判タ753
[13]前掲、羽村町いじめ自律神経失調症事件判決
[14]座談会「いじめの法的問題と学校・家族」ジュリスト976号
[15]前掲、戸波江二論文
[16]市川須美子「いわき市『いじめ自殺』事件判決」平成二年度重要判例解説
[17]前掲、伊藤・織田書384頁
[18]今橋盛勝「なぜいじめは放置されているか」『世界』1995年4月号



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