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TITLE:  教師の違法行為の正当化の論理 − 福岡生き埋め訴訟から見えてくるもの − 
AUTHOR: 馬場 健一
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第159号(1995年11月)
WORDS:  全40字×278行

 

教師の違法行為の正当化の論理

−福岡生き埋め訴訟から見えてくるもの−

馬 場 健 一 (神戸大学法学部)

 

1.はじめに

  例えば体罰問題などのような、教育作用の中での教師の生徒に対する違法行為・人権侵害事件を抑止するためにこれまでさまざまな立場からとられてきた実践的アプローチは、大別して次の二つではないかと思われる。第一は、教師の「人権意識」「法意識」等の低さを問題視し、広報や啓発によってそうした意識の改善をめざすいきかたである。第二は、生徒と教師の置かれた具体的環境や政治的・社会的状況のありように問題点を見いだし、それを改善し、学校・教師・教育行政に対する広い意味での社会的監視やコントロール(立場によってその主体は「国民」「父母」「法」「教師集団」あるいは「国家」とさまざまであるが)を強化し、、さらに紛争処理機構を整備していくなどの方向性である。前者を「内在的アプローチ」または「人権アプローチ」と、後者を「外在的アプローチ」または「紛争アプローチ」呼ぶこともできるであろう。

  こうした二つの接近法は、互いに排斥しあう性質のものではなく、その手法に工夫する必要はあれ、どちらも不可欠のものではある。しかしながらこうした、内面の啓発をめざし、また外堀を埋める手法だけで違法行為の抑止が実効的に行いうるかどうかは疑問の余地なしとしない。

  体罰にせよ常軌を逸した校則による管理にせよ、それらは多くの場合当事者たる教師たちのなんらかの「正当性」の信念に裏打ちされている場合が多い。もちろん反省的な思考なく、無自覚に習慣的にやっているにすぎない場合もあろうが、それでもそうした実践が批判にさらされ、弁明を求められれば、学校や教師はそうした正当性の言説によって自らの実践の正当化を試みることが普通である。こうした信念は、犯罪学者のマッツァが、法の遵守の必要性を否定し、自らの違法行為の正当性を主張するための「中和の技術」と呼んだものに類似のものと扱ことができるであろう。こうした弁明を学校や教師の「独善」や「人権意識の低さ」に還元したり、逆にそうした言辞を一切無視して問題を「事件」「紛争」「教育荒廃」として処理することは、たやすいことである。しかしこうした「中和の技術」が存在する場合、いくら「啓発」や「人権意識の向上」を狙う内面的啓蒙的方策をとっても、それは「事情を知らない部外者のきれいごと」としてその実質が咀嚼されることなく無視されることになりがちであろうし、外在的アプローチに対しては、そうしたコントロールの目をかいくぐって事態が潜行することとなり、いきおい統制側は権力的介入の姿勢を強めるか、名目的な統制に堕して大部分の行為を放置することになりかねない。逆にこうした正当性の信念の特質を見極めることは、一見遠回りのように見えながら、内在的・外在的アプローチの手法を洗練し、実効性を高めることにもつながるであろう。ここでは荒削りながら、そうした問題意識から違法行為を行ったとされる教師の弁明に耳を傾け、そこからこうした「中和の技術」の析出を試みたい。それはいわば「人権」や「紛争」等といった法の論理をひとまず括弧にいれておき、教師の、学校の、あるいは近代公教育の内在的な論理に(戦略的に)身を寄せてみることである。それは教育法的観点からすれば、教師のある種の法意識の検討ということになり、またこうした論理を法的にどう評価すべきか、それは一種の教育内在的な教育条理や教育慣習(法)的なものととらえることになるのか、それとも教育の本質からして外在的なその阻害要因と見るべきものなのか、それはなぜそう言えるのか、という問題を呈示するものでもあるといえよう。

  教師の主観を構成するこうした正当化の言説には、単純で素朴なものから実践の指針になったり、体系的に理論化されたような比較的高度なものまで幅がある。一方の端には、愛の鞭、教育熱心、厳しさの必要性、親のしつけの低下、親の期待・支持、子どもの非行防止、今日の学校教育の困難さ、等々といったおなじみの言い訳がならぶ。こうした議論は粗雑なものだが、それだけにいわば俗流教育論ともいうべきかたちで社会に広く共有されやすいものでもある。他方の極には例えば「プロ教師の会」などによるいわゆる民主教育批判、管理教育の提唱などがこよう。しかしこうしたものはその性質上かなり特殊なもの、わかりにくいものとなり、一部の支持は得ることはあろうとも社会的には広がりにくい。おそらく教育専門家としての教師が、日常的にあるいはいざというときに依拠する「中和の技術」の最も一般的なものは、こうした両極の間(それも比較的前者に近い位置)に位置づけうるようなものではなかろうか。そのような仮定のもとで、教育のためには違法行為も必要、やむなしとする教師の一般的論理はどんなものかを、ある教育裁判における被告教師の尋問記録から検討してみたい。

 

2.壱岐中事件とは

  本件壱岐中事件とは、いわゆる「生き埋め体罰事件」として5年ほど前に新聞で大きく報じられた事件である。(報道があったのは高塚高校校門圧死事件の直後であった。)この事件は、恐喝をはたらいた中学校二年生男子2名をその事実を認めさせるために、男性教師7名が9月の雨天の夜間の海岸に首(または肩)まで埋めて波をかぶらせた、というものである。現在福岡地裁で当事者の生徒のうちの一人が当の教師らを相手取って慰謝料請求の民事裁判が進行中である。この11月に公判は終了し、来年2月に判決が出される見込みである。なお、裁判においては、生き埋め行為自体の他に、その後に生徒を丸刈りにしたことと、違反服を着用してきたことを理由に学校に入れなかったことも賠償の請求事由としている。(余談だが、評判の『家栽の人』という漫画で現在連載中のストーリーは、この事件の取材に基づいている。)この「生き埋め事件」は、報道が全国的に関心を集めただけでなく、法務局からは体罰事件として「特別事件」と認定され、被告らは「説示」と「勧告」を受けている。さらに法務省人権擁護局発行の啓発パンフレット『体罰をなくそう』(第3版)では巻末の体罰事例集に入れられており、かなり重大な事件として扱われている。また立件こそ見送られたものの、被告らは警察の取り調べも受けている。さらに教育委員会からも訓告措置が出され、そうした対応の甘さや教育長談話に被告らへの同情がみられるものの、一応教委としても体罰であることは認めている。これだけの事態に至ればとりあえずは非を認めて謝罪することが普通であると思われるところであるが、本事件で特徴的なことは、報道のあった当初から裁判が継続している現在に至るまで、当の教師らが本件生き埋め行為等の正当性を正面から強く主張し、違法な体罰であったとは認めていないことである。その背景には被害生徒の非行行為が存在したこと、一教師の激情的体罰ではなく、一時期荒れた教育困難校での管理体制のもとで教師集団が連携して行った行為であったこと、事件発生から報道までにかなりの時間(10ヶ月)があったこと、生徒が精神的にはともかく肉体的には大きな傷害を負わなかったことなどの事情があったと考えられる。逆に教師らがそうした態度をとり続けたことが結果的に訴訟にまでつながったともいえるわけであり、本件では福岡で子どもの人権問題に関心をもつ複数の弁護士が、実利を目的とせず、教師や学校、教育行政の姿勢を問うという一種の公益訴訟的なかたちでかかわり、5年ほどの歳月をかけて裁判に取り組んできた。ちなみに担当裁判長は、いじめ自殺事件において学校側の責任を一定認めた福島いわきいじめ訴訟を担当した裁判官であり、どのような判決が出されることになるのか興味深い。

  そうした事情で本裁判の中では、「生き埋め」等の評価をめぐり、原告側と被告側の見解が鋭く対立し合っている。当然のことながら被告らは裁判の場でも自らの行為の正当性をさまざまに主張し続けており、そういう意味で本裁判は、上記「中和の技術」がどういうものでありうるかを直接当事者の口から聴くことのできる絶好の機会である。そうした裁判記録としては、準備書面や陳述書といった事前提出の書類もあるが、とりあえず本報告で検討したのは被告ら教師の本人尋問の速記録である。ここには法廷でやりとりされた会話が原則としてほぼそのままのかたちで記録されており、特に原告生徒側の弁護士が行う反対尋問において非常に興味深い内容になっている。被告らは当然十分な事前の準備をして公判に臨むわけであり、自分たちのとった行為が正当である理由をさまざまに十分練り上げてきている。それは準備書面や尋問に先立って提出される被告各人の陳述書にも記されるが、必ずしもそこに書かれているものだけに限られるものではなく、尋問の中で飛び出してくるものもある。他方でそうした事前提出の書面は反対尋問を行う原告側弁護士の手にも渡っているのだから、そうした情報に立脚した上で反対尋問の尋問内容は構想される。そうした尋問の場においては、即興的状況におけるハプニングが生じたり、ホンネが思わず露出したりすることもある。またいわば敵方の弁護士による反対尋問とその受け答えが論争状態になり、その中で教師の論理が明確化されたり、破綻をきたしたりすることもある。裁判の場に引き出された以上、逃げ出したり権威や力で押し切ることはできない。そこでは、違法行為を問う弁護士側の法の論理と学校での教育の論理を盾とした教師の主張とがぶつかりあい、確執、相克することになる。そしてそうした論争は、世上にあまたみられる教育をめぐる一般論でなしに、被告ら教師自らの具体的行動と具体的利害に依拠したものであり、それだけナマの教育の現実に肉薄しうるものともなりうる。もちろん裁判という特殊状況ゆえの限界、例えば自己に有利にことを運ぶために、ことさらに事態を誇張したり、タテマエを無理矢理通すことやつじつまあわせをすることもあり、自己に少しでも不利になることはあえてしゃべらない傾向があることには注意されねばならない。時間の制限や傍聴人・裁判官の存在や裁判自体の権威性といった要因で、主張したいことがうまく表現できないこともあるであろう。にしても、本報告のように、検討対象が教師の違法行為の「正当化の論理」自体である場合には、これらの問題点に注意を払いさえすれば、こうした記録は貴重なデータを提供してくれるものとなる。

 

3.被告教師の体罰その他の正当化の論理

  さて、本来以下で具体的な証言を詳細に引きつつ、上記の「中和の技術」を帰納していく作業に進むべきであり、報告においては参加者に現物のコピーを見ていただきながら話を進めたのだが、データの量が膨大であり、執筆時間の制限もあり、また分析自体もそれほどしっかりとしたものにまで熟していないこともあって、以下では結論のみを、それも試論的なものであることを断った上で羅列することでよしとせざるをえない。後日きちんとしたものを論文としてまとめたいと考えている。

 

(1) 「指導」の論理

 被告らの主張の中で頻発するのはこの「指導」という用語である。そもそも本件生き埋め、丸刈り、登校の事実上の禁止は、裁判の中で被告らによって「本件三指導」と呼ばれ、それぞれ「砂埋め指導」「丸刈り指導」「再登校指導」とされる。(ちなみに原告側はこれらを「生き埋め拷問」「丸刈り強制」「教育機会の剥奪」と呼ぶ。小規模な言語的政治闘争!)

  この指導という用語は、教師の生徒に対するさまざまな行為に正当性を付与するために用いられる。砂埋めも、それに付随する暴行も、丸刈りも、中学生を教室に入れないことも、すべて「指導」である。そして生徒はこの「指導」に基本的に無条件で従わなければならない。さらにその「指導」は「いきすぎる」ことはあっても誤ることはない(かのような表現が用いられる)。またこの日常語たる「指導」という用語は、教育現場の一種のジャーゴン(専門用語)と化している。被告らはそれを「指導がとおる」「話し込みによる指導」等、独特の用語法で用いることがある。学校教育が独特のサブカルチャーを有する特殊な世界であることを感じさせる。また教育法的発想からは興味深いことに思われるのだが、罰や懲戒といった概念は好ましくないものとして退けられ、かわりに「指導」という言葉が用いられる。「この行為は罰や懲戒ではなくて指導である」、「罰としての丸刈りや体罰は許されないが、指導であるなら許される」といった具合である。また、これはそれほど不思議なことではないが、教師たちの「指導」の正当性は、これまで教育にたずさわってきた経験によって担保される。面白いのは被告らは自分たちの「指導」が成立する前提として生徒との間に信頼関係を打ち立てることが絶対に必要であり、自分たちの実践もそういうものであったとは法廷でも認めないことである。「信頼関係の有無」などというものは立証のしようのないものであるにもかかわらず、「子供と信頼関係を信じてやらないとできませんので、あるというふうに思っていました」、「それを信じて教育しております」という、いわば信頼関係の擬制が行われる。次にそうした擬制の上に成立する「指導」の内実であるが、ひとことで言って形式主義と主観主義ともいうべきものである。恐喝の事実をとにかく教師に自白させる(「素直にさせる」)ことが目的となる。そのあとは一通りの説教をして、丸刈りにして相手方の学校の教師(被害生徒ではなく!)に頭を下げさせることがめざされる。さらに違反服を着ることは集団秩序・社会規範に挑戦するわがままであるから許されないという論理である。また「服装の乱れは心の乱れ」というクリシェは、「服装の乱れを直せば心の乱れも直る」という意味で用いられる。こうした中では生徒の内面をくみ取ることは全く考慮の外にあるといっても過言ではない。さらに教師の行為の正当性は「本人のためを思って」「子供の将来を考えて」「立ち直ってほしいという熱い思い」「毎日一生懸命に」等々という情熱・感情・主観によっても支えられ、それゆえ内実を問わない「熱心な指導」で自分たちの行動が正当化され、その問題性が滅却されると考えるのである。(このあたりはいわゆる「教師の独善性」としてよく指弾されることでもあり、特に目新しい視点でもないが・・・)さらに生徒が反省して素直になることと、教師が管理的・暴力的であるかどうかは関係がなく、教師が集団でとりかこむ威圧的な状況にあっても、生徒の自白や謝罪、「指導」の受け入れは、「反省」に立った自発的なものでありうるとする。こうした一連の弁明に共通するのは、教師は生徒の上に立つものではあり、生徒は教師に従うべき存在であるが、いかなる場合でもそこで行使されるのは力関係や権力ではなく、「指導」「教育」という名の影響力であるとする考え方である。個々の弁明は確かに独善的であるが、学校という自治空間は権力的関係で規律されるものではなく、「教育関係」は特殊なのだ、教師は善意なのだとする発想は、被告らのような権威主義的教育者のみがもつものではなく、立場の違いを越えて教育を論ずる文脈ではしばしば頭をもたげるパラダイムではなかろうか。

 

(2) 文脈主義

  この指導の論理と関連するが、行為の問題性の判断にあたっては、その行為だけを見ていてはいけないのであって、前後関係・流れ全体を見なければならないという文脈重視の発想がある。例えば「その行為だけを取り上げれば体罰、前後の関係を考えれば体罰とは思わない」「体罰それ自体に効果があるかどうかはわからないが、指導の流れ全体の中で必要になってくることもある」「体罰に及んだときは(相手生徒に対する)アフターケアが大事」「我々が教育現場でやっている指導は、同じ条件とか同じことというのはあり得ない(だからこれからは同じような体罰は二度とやらないとということは言えない)」等々という言い方にこうした考え方が見られる。すなわち教師の指導・更生の努力の中で個々の違法行為は違法性を失うという発想である。こうした発想は、要件と効果とを切り離し、行為の事実や権限・裁量の逸脱があったかどうかという認定を個々に判断し、しかる後に違法性阻却事由の存否、情状酌量の余地、責任の配分等々を判定・考慮していく法的論理とは大きく食い違うところであろう。また「体罰は人権侵害」「効果なし」という体罰批判とも、こうした文脈主義はすれ違うことになりかねない。こうした被告らの弁明を手前勝手ないいのがれと批判することはたやすいが、これを、個々の教師の言動をスナップショット的に取り上げ揚げ足を取って文句を言うのではなく、自分たちのやっていることの全体を見て判断してほしい、全体状況の中での我々の置かれた立場を考えてほしい、等々という主張と解釈すれば、こうした見解は多くの教師によって共有されているのではないか。

 

(3) 法の排除と自己流解釈

  各種教育法規についての被告らの知識や考え方にも興味深いものがある。まずいえることは、これはそれほど不思議なことでもないのかもしれないが、校長を含め被告ら教師の法律論一般と個々の教育法規に対する知識と理解の低さということである。例えば本件事件当時の校長は、自ら生徒を足蹴りにしたことがあり、それを「体罰を行ったときはアフターケアが大切だ」という文脈で語り、事件当時学校教育法の体罰禁止規定は絶対禁止だとは理解しておらず、生き埋めや鼓膜を破るような体罰についても教育委員会規則の事故報告義務を無視して教育委員会に報告せず、現在でも報告しなかったことは正しかったと証言している。また少年法の児童福祉機関先議の原則といった職務に密接に関連する規定さえも熟知しておらず、一四歳未満の少年の犯罪行為も警察が担当するのだと断定している。丸刈り強制も自ら指示し、服装を理由とした学習機会の剥奪も当然のこととして認めている。学校教育法二六条の出席停止措置がどういう規定であるかも知らないと証言している。校長においてこの程度であるから、他の被告らの状況は推して知るべしというところである。被告の一人は正直に「法の規定がどういうものであるかという頭で現場ではやっていないんですよね」といったことを証言している。

  また彼らの個々の法規の理解についても、かなり独自のものがある。例えば体罰禁止に関しては、まずそれを怪我をするほど強く殴ったり蹴ったりすることと縮小解釈しておいて、それに加えて「教育目的から外れるものが体罰だ」という論を述べる。(教育目的をもって加えられるから体「罰」なのであって、それがなければただの暴行であるとするのが教育法的理解である。)また先に見たように、「そのことだけを取り上げれば体罰だが、前後の文脈の中では体罰でない」「罰の体罰は許されないが、その子のためを思うならよい」「体罰を加えた場合はアフターケアが大事」等といった趣旨の証言内容にみられるように、体罰に該当する行為も教師の主観や教育作用の経過の中でそもそも禁じられた体罰としての性質を失うのだと主張する。それに加えて、「道路交通法は法として守らねばならないが、体罰禁止法は守るべき法ではない」という教育関係の特殊論が重なり、体罰禁止法は遵守すべき法規範ではなく、生徒指導においては体罰は必要だということになる。

  またより具体的に被告らは、教師が具体的に直面している教育状況の困難性、非行問題の深刻さを指摘し、現場の厳しさからしてこうした手段もやむを得ないもの、もしくは当然認められるべきものだという点を強調する。教育困難な状況と、子どもの「非行の進行」を前にすれば自らの教育実践の妨げになるルールは不要であり、違法行為も違法でなくなるという論理である。ちなみにこれに対する原告側の反論は、「ルールとは、それに違背しそうになる誘因が行為者の面前に迫る、こうした状況下でこそ特にその存在が意味をもつものである。学校運営や生徒指導がなんの困難もなく、平穏裏に運営されているときはことさら法の遵守を意識する必要はない。教師が困難を強いられ、学校運営が厳しい状況であればあるほど、法の趣旨は意識され尊重されねばならない」云々というものであるが、このあたりも法的論理と学校教育の論理の対立点であろうか。

  ちなみに被告らは、生き埋め行為その他に対して法務局が下した人権侵害事件であるとの判定も受け入れず、「法務局の見解だと思いました」(ちなみにこれは校長の証言)とし、教委の訓告に対しても「反省はしませんでした」と述べている。

  また学習権や子どもの人権といった概念との関係では「指導」に熱心のあまり法律や人権や子どもの人格尊重については思い至らなかった、といった旨のことを述べている。また教室で授業を受けさせなかったことについて、「子どもの学習権も大事だが規範意識の育成も大事だ」とする。結果的に学校に入れなかったのであるから、学習権保障より大事なものが学校教育はあると言っていることになる。

  こうした法に対する考え方にもいろいろ考えさせるものがあるように思うが、詳細は割愛する。

 

(4) その他

  そのほかにも、子どもは未完成・不完全な人間であり、中学生は発展途上でありしつけが重要であるという権威主義的子ども観や、自分に都合のいいときだけ保護者の支持や連携を持ち出し、都合の悪いときはその批判を無視し、親の教育力の欠如を慨嘆し、「親がわり」としての教師の重責を強調する等々といったおなじみの議論もそこここに顔を出している。これらについても指摘にとどめる。

  また以上にさまざまに述べてきたこうした論理が、弁護士の反対尋問で、それも外在的な法の論理や人権論からでなく、被告ら自身の教育の論理自身を使って内在的に論駁され、破綻したりしていくところもスリリングで面白いが、これも省略することにする。

 

4.おわりに

 教育現場における法の規範性の弱さや子どもの人権侵害状況を前にして従来言われてきた解決策は、冒頭に述べたように、日本人・日本社会あるいは現場教師の法意識の低さを問うて啓発等の啓蒙主義的解決をめざし、また官僚主義的組織統制・上からの介入・劣悪な教育条件等を問題視し、また権利侵害に対する救済手続の不備を指摘し、そうした環境の改善をめざすものであったと思われる。そうしたパラダイムからすれば本稿で指摘してきた教師の各種の弁明も、人権意識の低い暴力教師の言い逃れか、教育行政による不当な統制・介入による教育現場の荒廃に起因するもの、などということになるであろう。筆者はこうした見解のどちらも間違いであるとは思わないが、他方で教育の場における教師による子どもの権利侵害といわれる事態には、こうした二者に還元し尽くせない特有の教育の論理(正確には学校教育の論理または近代公教育の論理)といったものがあると考えている。もちろんだからといって教師の意識の低さや教育行政の体質を免責するものではないが、他方で従来のパラダイムが、意識・文化や環境に責任の所在を還元し、違法行為に着手する教師の主観的構成や主体的契機を見落としてはいないか、教育作用を無批判に理想視しまた善なるものと措定し、近年の教育哲学、教育史学、教育社会学がさまざまに描いているような教育の論理や近代公教育の危険性にも注意を払うべきではないか、というようなことも考える。そしてそうした契機を見据えることは、教師に厳しいものである一方で、学校教育の現実に肉薄し、日々の実践の中での教師の人間的主体性を認めた理論的立場でもあると考える。さらにはこうした見方は、教育法学理論や子どもの人権保障のための諸実践にも寄与するところがあるのではないかとも考えるのである。(終)

 



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