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TITLE:  日の丸・君が代問題について − 座談会の記録から (1) −
AUTHOR: 編集部
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第184号(1999年6月)
WORDS:  全40字×39行

「日の丸」「君が代」処分事例集 参照

 

日の丸・君が代問題について

−座談会の記録から(1)−

 

 前回5月8日(1999)の座談会では、各会員の近況や活動の状況が報告された後、意見交換が行われた。その内容は多岐にわたるので、ここではその中から、「日の丸・君が代問題」と「PTA寄付金問題」について、私見をまじえながら紹介する。なお、大阪府の教育改革については、とりあえず、「教育改革プログラム」(大阪府教育委員会・1999年4月)<http://www.pref.osaka.jp/osaka~pref/kyoisomu/programn.htm>をご覧下さい。(文責:羽山)

  今年2月、君が代の実施をめぐって、広島の県立世羅高校の校長が自殺をした。学校の管理教育と職場の労務管理が、ついに人を死にいたらしめたのである。「誰が校長を死なせたか」について、マスコミの報道では評価が分かれている。つまり、単純化すると「校長は実施したかったが、教員が強行に反対した」というものと、「校長は実施したくなかったが、教育委員会が無理に強制した」というものである。どちらの立場にも、校長の死を政治的に利用しようとする意図が伺われる報道もある。しかし、校長の心境がどのようなものであったとしても、日の丸・君が代の実施への反対には処分が行われているのであるから、明確な「強制」であるといえる。

  事実、大阪でも教職員の抵抗の程度に差があるものの、今年、多くの学校現場で、日の丸に加えて君が代が新たに実施された。校長達も校長会などをとおして理論武装しており、職員会議で、「学習指導要領の法的拘束力」や日の丸についての判決に言及することがあった。ところが、その内容は誤解によるものや一面的な援用が少なくなかった。このような誤った援用を野放しにしておくべきではなく、教職員の側も、これに反論できるだけの正しい認識を持つ必要があるように思われる(別記資料参照)。

  埼玉県の所沢高校や広島県の世羅高校をめぐる今日の事態は、教育管理が完成の域に達したことを象徴しているように思われる。次に現れるのは、教育管理を通しての「国民管理」であろう。現に、今国会で日の丸・君が代を国旗・国歌として法制化することが日程にのぼっている。法制化によって、日の丸・君が代に反対する教職員の行動は急速に衰えていくと予想される。したがって、法制化は、管理の完成した学校をとおして、国民全体に「愛国心」を醸成する機能をねらったものであろう。

 かつて、教育紛争の構図が「教育行政 vs.教職員」から「教育行政・学校 vs.生徒・父母」に変化したように、もはや、この日の丸・君が代の分野でも、同じような変化が起きる段階に差し掛かっているように思われる。日の丸・君が代から、戦前のような「お国のためにつくす」という思想を想起し、これに反対する生徒や父母は、今後は、自分自身の思想信条の自由や宗教の自由などの人権を根拠に、国歌斉唱拒否や式への参加拒否などの行動をとるかどうかの選択を迫られることとなろう。こうした拒否の権利が充分に保障されるべきことはいうまでもない。

 

 


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