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◆200104KHK195A2L0427NM TITLE: バーネット事件連邦最高裁判決 AUTHOR: 福岡教法研 SOURCE: 『いま福岡の教育を問う』(2001年4月) WORDS: 全40字×427行
West Virginia State Board of Education v. Barnette,
319 U.S. 624 (1943)
ウェスト・ヴァージニア州教育委員会他対バーネット他
ウェスト・ヴァージニア南地区の連邦地裁判決に対する上告
No.591 1943年3月11日弁論 1943年6月14日判決
1. 州の行為に対して修正第14条が(権利の)保障をしているが、そのなかには州教育委員会の行為が含まれる。
2. 国旗に敬礼し忠誠を誓うことを−右腕を伸ばして掌を上にあげ、「星条旗と星条旗が表象する共和国、すべての国民に自由と正義をもたらす不可分の国家に忠誠を誓います。」と宣誓することによって−公立学校の子どもたちに強制する州の行為は、修正第1条及び第14条に違反する。
同意することを拒否したために退学となり、それによる欠席は「違法欠席」となり、子どもも両親または後見人も処罰されたが、それは修正第1条及び第14条に違反する。
3. 子どもたちが宗教的理由で同意を拒否したことは、本件の判断を左右しない。また、彼らの信仰が真摯であるかどうかの詮索も必要ではない。
4. 連邦憲法の下では、本件で用いられているような強制は「国家的統一」を達成する手段としては認められない。
5. ゴビティス判決(合衆国判例集310-586)は棄却。ハミルトン判決(合衆国判例集293-245)は事案が異なる。
「合衆国控訴審裁判所判例集」47巻追加251は、原判決を維持。
公立学校の子どもたちにアメリカの国旗に敬礼することを求めるウェスト・ヴァージニア州教育委員会の規程の効力を差し止めた三人の判事の地裁判決に対する上告。
上告人の弁護にウェスト・ヴァージニアの司法次官補のホルト・ウッドデル氏及びイラ・ゼイ・パートロウ氏
被上告人弁護にヘイドン・シー・コヴイントン氏
アメリカ法律協会の権利事典委員会を代表して次の人々(略)、及びアメリカ自由人権協会を代表して次の人々(略)による法廷助言者の準備書面が提出され、上告棄却を主張。そして米国在郷軍人会連盟を代表してロルフ・ビー・グレッグ氏が原判決の破棄を主張。
ジャクソン判事が法廷意見を申し渡した。
ゴビティス訴訟(合衆国判例集310-586)における1940年6月3日の本法廷の判決にしたがって、ウェスト・ヴァージニア州議会は「アメリカニズムの諸理念原理及び精神を教授、育成、不滅にし、政府の組織、機構の知識を増すために」法律を改正して歴史、公民科、連邦及び州の憲法の教科課程を実施することを州のすべての学校に義務づけた。上告人の教育委員会は、州教育長の助言によって公立学校に対して「これらの科目を含む教科課程を定める」よう指示された。法律は「公立学校に準じた」教科課程を定めることを私立、教区立、宗派立の諸学校の義務とした。 [1]
1942年1月9日、教育委員会は、主にゴビティス判決にある説明部分を含め次のように命じる決議を採択した。すなわち、国旗敬礼を「公立学校の教育課程の正規の一部」にし、すべての教師・生徒は「国旗に表象される国家を尊敬する敬礼儀式に参加することが義務づけられる。しかし、国旗敬礼の拒否は反抗行為とみなし、処置されるという条件で」。 [2] その決議はもともとそれが定めるのは「国旗への普通の敬礼」を求めたものである。ヒットラーの敬礼にあまりにも似ているとして、敬礼に反対する意見がPTA、少年少女団、赤十字及び女性団体連盟から出された。 [3] これらの反対意見に従って若干の修正がなされたようであるが、エホバの証人派への譲歩はなされなかった。 [4] 現在義務づけられているのは「腕を真っすぐ伸ばした」敬礼で、次の言葉すなわち、「国旗と国旗が表象する共和国、すべての国民に自由と正義をもたらす不可分の国家に忠誠を誓います。」が朗誦されている間、掌を上に向けて右手を挙げておくのである。
従わなければ「反抗」として退学に処せられ為。再入学は規則に従うまで法によって認められない。一方、退学させられた子どもは「違法欠席」 [5] となり非行少年として訴追されることもある。 [6] 彼の両親あるいは後見人は、起訴され [7] もし有罪となれば50ドルを超えない罰金及び30日を超えない期間の拘禁に処せられる。 [8]
合衆国及びウェスト・ヴァージニア州の市民である被上告人たちは、彼ら及び同様の立場にある人々のためにエホバの証人派に対するこれらの法律及び規程の効力の停止の差し止め命令を求めて連邦地裁に提訴した。証人派は、神の法によって課された義務は世俗の政府によって制定された法の義務に優先する、という教えをもつ法人格のない団体である。彼らの宗教的信念には、出エジプト記第20章第4節及び第5節の訳文が含まれている。すなわち「あなたはいかなる偶像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にあるいかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向ってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」彼らは、旗はこの教えのなかの「偶像」であると考える。このため彼らは国旗敬礼を拒むのである。
この信仰をもった子どもたちは学校を放校となったのであり、それ以外の理由で放校のおそれはない。当局は、犯罪傾向のある子どもたちに用意された感化院に彼らを送ろうとしている。このような子どもたちの両親は訴追されて、青少年犯罪を引き起こした理由で起訴される恐れがある。
教育委員会は、これらの事実を説明する申立て及び法規程が信教の自由や言論の自由を否定する憲法違反であり、連邦憲法修正第14条の「適正手続」及び「平等保護」条項の下で無効であるとする申立てを却下することを求めた。訴訟は訴答書面で3人の裁判官の地裁に付託された。地裁は原告及びその派の人たちについてその効力を差し止めた。教育委員会は、直接上訴によって本件を当法廷に訴えた。 [9]
本件は、当法廷がこれまでしばしば求められたように、先例判決を再考することが求められている。 [10] しかしながら、ゴビティス訴訟にふれる前に、この論争がそれとは事実を異にするある特徴に注意することが望ましい。
これらの被上告人たちによって主張されている自由は、他のいかなる個人によって主張されている権利とも衝突するものではない。それはある人の権利がどこで終わり、別の人の権利がどこから始まるかを決定するために国家の介入を要求することにかかる論争である。しかし、これらの人たちの国旗敬礼儀式への参加の拒否は、他の人たちがそれに参加する権利を妨害も否定もしていない。本件においては、彼らの行動が平穏で秩序あるものであることもまた何ら疑問がない。唯一の衝突は当局と個人の権利との間に存する。州は、公教育を受けるには一定の身振りと宣誓を行うという条件の下に置き、同時に、親と子を処罰によって出席を強制する権限がある、と主張する。後者は、個人的意見や人格的態度の問題は自己決定権があると主張する。
現在の首席裁判官がゴビティス訴訟の反対意見で述べたように、州は「米国史及び愛国心の喚起に役立つ市民の由由の保障条項をはじめ、政府の機構と組織のすべてを教授と学習によって教育することを要求」できる(合衆国判例集310-604)。しかし、本件での問題は、生徒たちに一つの信念を表明するよう強制している点である。生徒たちは、国旗敬礼が何であるか、あるいはどういう意味をもっているのかさえ、分かるように熟知させられていないだけである。本件の問題は、合法的に忠誠心を喚起するための次のような遅々としてないがしろにされた [11] 方法が、強制的な敬礼とスローガンを代用することによって近道になりうるかどうかである。 [12] この問題は、出席を強制することなしに自発的に入学する生徒たちに大学を開放する州では、教育課程の一部として軍事訓練を定めても憲法に違反しないとした当法廷の以前の判決に拘束されるものではない。判決は、そういう機会を利用する者は、良心という理由でそのような条件の承諾を拒否することはできないとした。Hamilton v. Regents(合衆国判例集293-245)。本件の場合は、出席は自由意思ではない。前記訴訟もまた本件訴訟と区別されなければならない。というのは、大学の特権または要求とは別に、州は国民軍を育成しそれに参加する義務を課する権限を持っているからである。
宣誓と関連して、国旗敬礼は表現の一形式であることは疑いない。象徴的表現は、思想を伝える素朴ではあるが効果的な方法である。ある組織、思想、制度、または人物を表すために紀章や旗を用いることは、以心伝心の簡単な方法である。主義や国家、政党、組合支部、教会団体などは、その支持者の忠誠心を旗やのぼり、または色やデザインに結びつけようとする。国家は、冠や職標、制服や黒衣などによって、位階、職能、権能を表明する。教会は、同じく十字架や十字架像、祭壇や聖堂、聖職の衣服によって。国家の象徴は、宗教的象徴が神学上の観念を表わすのと同じように、政治的観念を表わすことが多い。受容や尊敬を表わす適当な身振りは、これらの象徴の多くと関連している。すなわち、敬礼、低頭や脱帽、折り膝など。人は象徴からそれに自分が注入する意味を得るのであって、ある人にとっては慰めや刺激であっても別の人には笑い草や軽蔑である。
10年以上前に、ヒューズ首席裁判官は、本法廷において、組織された政府に対する平和的合法的手段による反対の象徴として赤旗を用いることは、憲法の言論の自由の保障条項によって保護されるとする判決を行なった。Stromberg v. California(合衆国判例集283-359)。本件では、現在組織されている政府に対する忠誠の象徴として旗を使用するのは州政府である。旗は、それが表わしている政治思想を受け入れることを、個人が言葉や身振りで伝えることを要求する。強制されて行うこういう伝達方法に対する反対は、古くからあるもので権利事典の立案者たちはよく知っていたものである。 [13]
また、強制的な国旗敬礼と宣誓は、一つの信念と考え方を肯定することを要求するものであることに注意しなければならない。規程が、生徒たちが反対の確信を抱く前に規定の儀式にやむを得ず参加するようになることをもくろんでいるのかどうか、また、生徒たちが、信念のない言葉や意味のない身振りによって同意のふりをすれば、規程の意にかなうのかどうか明らかでない。意見の表明に対する検閲または抑圧がわが憲法によって許されるのは、その表現が国家が防止ないし処罰できるような行為の明白にして現在の危険がある場合だけである、ということは現在ではごく当たり前のことである。意に反して認めさせるには、沈黙を求める以上に直接かつ緊急な理由のある場合にのみ許されるだろう。しかし、本件では、国旗敬礼儀式のあいだ消極姿勢のままでいることが、表現を抑えこむ努力を正当化するような明白にして現在の危険をつくりだしている、という何らの主張もなしに強制権力が発動されている。国旗敬礼の強制を支持するためには、自分自身の考えを述べる個人の権利を保障する権利章典が、心にもないことを強制的に表明させるのを公権力の自由にしたと言わざるを得ない。
憲法修正第1条が、州公務員がこういう性格の儀式の遵守を命令することをゆるすかどうかは、それが自発的な活動として良いとか悪いとか無害であるとかと考えるかどうかにはよらない。ナショナリズムという信条は、ある者が認めないことを含んだり、またある者が必要だと考えることを含めなかったり、異なった意味合いまたは解釈を受け入れるので違った付帯的意味を持つ傾向がある。 [14]
もし公権力が愛国心の受入れを強制するために存在するのならば、公権力のもつ内容を裁判所が決定することはできないが、制定当局にとってそれはかなり自由裁量の余地が大きいものと考える。というのは、その制定権限は疑いなく修正権限をもっているからである。ここから、アメリカ市民に強制的に公に信念を告白させたり、賛成の意を表わす儀式に参加させたりする権限の有効性は、問題となっている儀式の有用性についてわれわれが持つ考えとは別個に、考えられなければならない権限の問題を提起している。
また、われわれがみるところ、その問題は特珠な宗教観の所有またはその宗教観に対する誠意には関係がない。宗教が、被上告人が本件で争点となっている不快感を堪え忍ぶ動機となっているが、こういう宗教観を持たない多くの市民は、こういう強制的な儀式を憲法上の個人の自由を侵すものと考えている。 [15]
われわれは、先ず国旗敬礼を法的義務とする権限の所在を見つけ出さない限り、非宗教的信念の持ち主であれば国旗敬礼義務を免れるかどうかを問う必要はない。しかし、ゴビティス訴訟及び本件訴訟で弁論がなされたが、ゴビティス判決は、国旗敬礼儀式を一般の生徒に課す権限は州政府にあるとした。前記法廷は、審理はしたが争いのない一般規則からの宗教的信念に基づく免責の要求を拒否した。 [16]
国旗敬礼論争の根底にある問題は、意見や政治的態度といったきわめて内心にふれる問題をもつそのような儀式が、わが憲法の下で、ある政治組織に委託された権力下の行政当局によって個人に課されてよいかどうかである。われわれは、この権限の存在を当然としないで審理し、本件では、争点のこのような広い定義に反対して、ゴビティス判決に示された特別な理由を再審理する。
1. 国旗敬礼論争は、本法廷に次の問題をつきつけた。「リンカーンが、記憶すべき両刀論法で投げかけた問題、すなわち、『必要な政府は人民の自由のために強すぎねばならないか、それとも、政府自身の存在を維持するために弱すぎねばならないか。』」そして、その答は強さを支持しなければならない、といわれた(ゴビティス判決、上記596)。
これらの争点は、このような考察から生ずる圧力または制約から離れて自由に審理することができると考える。
リンカーン氏なら、政府が政府自身を維持しようとする力は、少数の子どもたちを退学させる州の権限を確認することによって強く立証されると考えたかどうか疑問である。それほど過度の簡略化は、政治的討論ではたいへん便利だが、司法判断の前提条件に必要な正確さに欠けることが多い。引用された発言が、もしこの問題に確実に適用されれば、権限の問題すべてを当局者に有利に解決することになり、彼らの政策の実行を弱めたり後らせたりすると考えられるすべての自由を無視することをわれわれに要求することになるだろう。
限られた権限の政府だからといって無気力な政府である必要はない。権利が安全であるという保障は、強い政府に対する恐怖やねたみを和らげるのに役立ち、われわれに強い政府の下で生活するのに安全だと感じさせることによって、より良い支持が得られる。制限的権利章典の約束がなかったら、わが憲法はその批准が得られるだけの力を集めることができたかどうか疑わしい。現在、これらの権利を強めることは、強い政府よりも弱い政府を選ぶことではない。それは、ただ歴史が期待に背く悲惨な結末を教えている公的に規律された統一よりも、強さの手段として個人の精神的自由を堅持することである。
今われわれの前にある問題は、この原理の例証である。自由な公教育は、非宗教的教育と政治的中立の理念に忠実であるならば、いかなる階級、宗教、政党、党派の敵味方とはならないであろう。しかし、もしそれがイデオロギー的教育を行なうとすれば、各政党、宗派は教育制度の影響を抑制しなければならない、あるいはそれに失敗しても、弱めるようにしなければならない。憲法の制限条項の遵守は、その運用が適切であれば政府を弱めることはないだろう。
2. また、ゴビティス訴訟では、州・郡・学区の教育職員の機能は、彼らの権限に干渉することは「事実上、連邦最高裁を国の教育委員会にする」ようなものであるとされた(同判決598)。
修正第14条は、現在諸州に適用されているように、州自体及び州の創造物(諸機関)のすべてから市民を保護している−州の教育委員会も例外ではない。勿論、州の教育委員会は、重要で細心の注意を要する高度に裁量的な機能を有しているが、権利事典の枠内で遂行できない機能はないのである。子どもたちを市民として教育するのは、個人の憲法上の自由を周到に保障するためである。もし、自由な精神をその根源において抑圧することなく、子どもたちにわが国の重要な統治原則を単なるきまり文句としてその価値を割り引いて教えるべきでないならば。
このような教育委員会は多数ありその管轄権は狭いことが多い。しかし、小さな、地方の当局は憲法に対する責務をあまり感じず、広報機関はそれを説明するのに注意が足りないかもしれない。国旗敬礼の遵守を任意にし [17] 、軍兵を募集するというような重大な問題で反対者の良心を尊重する [18] 、などの米国議会の処置は、国民の福祉にとって比較的小さな問題についてのこれらの地方の規程とは際立って対照的である。地方には暴君も愛国者もいるが、誰もが法に従って行動すれば憲法の枠を超えるものではない。
3. ゴビティス判決は次のように判示した。本件は、「裁判所が明確な管轄権限を全くもっていない」分野であり、継承されてさた自由を守るのは裁判所だけでなく州議会にも委託されており、「そのような論争を司法の舞台に移すよりはむしろ世論の場や立法議会の前で、立法権力の賢明な利用を勝ち取る」ことが憲法上適切である。というのは、すべての「政治的変化を呼び起こす有効な手段は、自由に残されている」から(同判決597-598,600)。
権利章典の目的は、まさにある一定の問題を移り変わる政治論争から引き払って多数派や公務員の手の届かない所に置き、それを裁判所が適用する法原理として確立することであった。生命、自由、財産に対する権利、言論の自由、出版の自由、礼拝及び集会の自由に対する権利及びその他の基本的人権は、投票に付されるべきではない。それらの自由や権利は選挙の結果に左右されるものではない。
当事者の弁論を考察する場合に、修正第1条の原理を伝える手段としての修正第14条の適正手続条項と、修正第14条だけが適用される諸問題とを区別することが重要である。修正第14条に抵触する立法のテスト(基準)は、それはまた修正第1条の原理に抵触するから、修正第14条だけの場合のテスト(基準)よりも遥かに限定的である。適正手続条項の曖昧さの多くは、修正第1条の明確な禁止条項がその基準となる場合には消え失せる。例えば、公益事業を規制する州の権限は、適正手続のテスト(基準)に関する限りは、州議会がそれを行なうのに「合理的根拠」をもっている制限はすべて課する権限を持っていると言えよう。しかし、言論、出版の自由や集会、礼拝の自由は、そのような薄弱な理由で侵すことはできない。それらは、国家が適法に保護する利益に重大な直接の危険がある場合にのみ、それを防ぐために規制が許される。州に直接関係があるのは修正第14条であるが、最終的に本件を支配するのは、修正第1条の一層明確な制限的諸原理である、ということに注意することが重要である。
また、当局の主張に対して権利章典を適用するわれわれの義務は、権利の侵害がある分野での明確な管轄権があるかどうかにも左右されない。実際、18世紀の由由な政府の典型の一部と考えられた権利章典の威厳のある一般原則を、20世紀の諸問題を扱う公務員に対する具体的な制限に当てはめる仕事は、自信が揺らぐような仕事である。これらの原理は、個人が社会の中心であり、個人の自由は政府の干渉がないことで成立し、政府には私事に対しては僅かの統制権とごく緩やかな監督権しかない、という哲学を持った土地で生まれたのである。われわれは、自由放任主義または不干渉の原理が少なくとも経済問題に関しては消え失せた土地に、そして社会のより一層の統合と拡大強化された政府の支配権という状況の中で、社会の発展が大いに求められている土地に、これらの権利を移植しなければならない。これらの変化した状況は、先例から信頼性を奪い、われわれ自身の判断ではどうしようもないことを投げかける。しかし、われわれは、われわれの権限の権威によってではなく、委託された力によってこれらの問題を処理する。われわれは、公教育のような専門的な事項の故に自制的に判断するからといって、自由が侵されている時に本法廷の機能として歴史が示している判断を差し控えるものではない。
4. 最後に、そして次のことはゴビティス判決のまさに核心であるが、次のように判示している。「国家的統一は国家の安全の基礎であり」、当局は「それを達成するための適切な手段を選ぶ権利」を持っており、ここから「国家的統一」のためのそのような強制的な手段は合憲であるという結論を出している(同判決595)。本件におけるわれわれの回答は、この推論が正しいかどうかにかかっている。
公務員が説得と実証によって育成しようとする一つの目的としての国家的統一が、問題なのではない。問題は、わが憲法下において本件で用いられている強制が、国家的統一の達成のために許される手段であるかどうかである。
その時代やその国に不可欠と考えられたある目的のために、意見の統一を強制しようとする努力が、善人悪人を問わず多くの人々によってこれまで行なわれてきた。ナショナリズムは比較的最近の現象であるが、以前は時と所によってはその目的は、民族または領土の安全、王朝や政体の維持、人々を救うための特別の計画などであったりした。統一を達成するための最初の穏健な方法は失敗したので、その達成への方法は絶えず厳しさを増していかねばならない。統一への政府の圧力が大きくなるにつれて、誰のための統一かについて争いが益々激しくなる。恐らく、公教育職員が、どんな主義であれ、誰の計画であれ、それを子どもたちに一致して抱くように強制するのを選択する必要があると分かることによって生ずるわが国民の分裂ほど深い分裂は、いかなる挑発によっても生じないであろう。統一を強制するこのような試みが究極的に空しいことは、次のような試みの教訓がある。すなわち、異教徒の統一の妨害者としてキリスト教徒を撲滅しようとした古代ローマ人の大運動や宗教的・王朝的統一の手段としての宗教裁判所やロシアの統一の手段としてのシベリア流刑などから、下っては現在のわれわれの敵である全体主義者の急速に失敗しようとしている空しい試みまで。意見の相違を強制的に排除し始める者は、直ぐに自分と意見の異なる者を根絶してしまうことに気付くのである。強制的な意見の統一は、墓場の全員一致にしかならない。わが憲法修正第1条は、これらのきざしを避けることによってこういう結末を回避するために制定された、ということは平凡ではあるが必要なことであろう。アメリカの国家またはその権威の性格や起源の概念には、なんら神秘主義はない。われわれは、被治者の同意によって政府を創立したのであり、権利章典は権力を持つ人に同意を強制する法的機会を拒否している。この権威は世論によって支配されるべきであり、世論が権威によって支配されるべきでない。
本件が難しいのは、決定の原則が曖昧であるからではなく、問題の旗がわれわれ自身のものであるからである。にもかかわらず、われわれは知的かつ精神的に多様なまたは相反する自由が、社会機構を崩壊させるのではないかという何らの懸念もなしに憲法の制限条項を適用するものである。愛国的儀式が強制的慣例でなく自発的で自然なものになれば、愛国心は育たない、と信ずることは、わが国の制度が自由な精神に訴えるということを不当に評価をすることである。われわれは、時折の風変わりな行為や異常な態度を犠牲にした異例な人々のおかげで、知的な個人主義と豊かな文化的多様性を持つことができる。われわれが本件で扱う人々のように、彼らが他人や国家に害を及ぼさない場合には、その代償はそんなに大きいものではない。しかし、意見を異にする自由はどうでもよいことに限られない。そうであれば、名ばかりの自由にすぎなくなる。自由の実質の基準は、現存の秩序の核心にふれる問題について意見を異にする権利である。わが国の憲法という星座に恒星があるとすれば、それは地位の高低を問わず公務員が、政治、ナショナリズム、宗教その他思想的問題について、何が正統であるかを決めたり、市民に言葉や行動にによって自己の信念を告白することを強制することはできない、ということである。例外を許す事情があるとしても、そのような事情は今思い浮かばない。 [19]
国旗敬礼と宣誓を強制する地方当局の行為は、その権限について憲法上の制約を超えており、わが憲法修正第1条がすべての官憲の統制から守ろうとしている知性と精神の領域を侵すものである、と考える。
ゴビティス事件の本法廷の判決及びそれ以前の同様の判決は無効とし、ウェスト・ヴァージニア州規程の効力を禁止する判決は維持される。
[1] ウェスト・ヴァージニア州法1734(1941年追加)
「本州のすべての公立、私立、教区立、宗派立の学校では、合衆国の歴史、公民科及び連邦憲法、ウェスト・ヴァージニア州憲法ついての正規の教育課程を実施しなければならない。それは、アメリカニズムの理念、原理及び精神を教え、育成し、不滅のものにし、連邦政府及びウェスト・ヴァージニア州政府の組織と機構の知識を増すためである。州教育委員会は、州教育長の助言によって、公立の初等中学校、公立の中等学校及び州立の師範学校にこれらの科目を含む教育課程を定めなければならない。その支配、監督下の学校に対して公立学校に要求されるのと同様の教育課程の実施を定めることは、私立、教区立、宗派立の学校に権限を有する公務員や教育委員会の義務である。」
[2] 原文は次のとおりである。
「ウェスト・ヴァージニア州教育委員会は、連邦憲法及びウェスト・ヴァージニア州憲法の権利章典で保障されている権利及び特権、特に、連邦憲法修正第14条とウェスト・ヴァージニア州憲法第3条の信教の自由の保障に再び条文化されている修正第1条を最大限尊重する。そして」
「ウェスト・ヴァージニア州教育委員会は、次のような幅広い原理を尊重する。宇宙の本源的な神秘性や宇宙と人間との関係についての個人の信念は法の範囲外にあり、信教の普及は、教会や礼拝堂であれ、回教寺院やユダヤ教会堂であれ、ユダヤ神殿やクエーカー宗徒の礼拝堂であれ保護され、連邦憲法及びウェスト・ヴァージニア州憲法は、個人の宗教活動で他人の−政府内の少数派であれ多数派であれ−その宗教的見解を傷つけても処罰されない寛大な免責を保障しているということ。しかし」
「ウェスト・ヴァージニア州教育委員会は、次のことを承認する。人間関係の持つ多様な性格が、宗教義務感が友人の世俗的利害と衝突することがあること、良心の咎めによって、宗教の信仰の促進または制限を目的としない一般法に個人が服従するのを、宗教的忍耐の長い苦闘の過程で阻止できなかったこと、政治社会に関係する事柄と矛盾する考えを持っているからといって、個人の政治責任を解除しないということ、そして」
「ウェスト・ヴァージニア州教育委員会は、次のように考える。国家的統一は国の安全の基礎であること、わが国の国旗は、憲法の枠内であればその違いがどれほど大きくても、すべての内心の違いを超えたわが国家的統一の象徴であり、国家権力の象徴であり、その最も真の意味での自由の象徴であること、そしてそれは、被治者の同意に基づく政府、法に基づく自由、弱者の強者からの保護、独断的な権力の行使からの安全、自由な制度の外国の攻撃からの絶対的安全を意味すること、そして」
「ウェスト・ヴァージニア州教育委員会は、次のことを主張する。ウェスト・ヴァージニア州憲法に基づく州議会によって設立され、適法に定められた手段によって課された税金によって維持されている公立学校は、公民としての資格を形成する発達過程を取り扱っており、国旗は、このように公的に維持されている学校の教育課程の一部として許されるということ。」
「したがって、次のことが決議された。ウェスト・ヴァージニア州教育委員会は、以下のことを承認し命令する。星条旗に対して通常受け容れられている敬礼−右手を胸の上に置き、一斉に次の宣誓『私は、星条旗と星条旗が表象する共和国、すべての者に自由と正義をもたらす不可分の国家に忠誠を誓います。』を繰り返すのであるが−その敬礼は、現在では公的資金の一部または全部で維持されている公立学校の教育課程の正規の一部となっていること、そしてウェスト・ヴァージニア州法によって定められたすべての教師とその学校の生徒は、国旗に表象される国家に敬意を表わす敬礼儀式に参加しなければならないこと。しかし、国旗敬礼の拒否は反抗行為とみなし、それにしたがって処置されるという条件で。」
[3] 米国国旗協会本部は、次のような見解をとっている。この国旗敬礼の場合に右腕を伸ばすのはナチ・ファシストの敬礼ではない、「それに全く似ているけれども。国旗敬礼儀式では右腕を伸ばして上に挙げ、掌を上に向けるが、一方、ナチは腕を真っすぐ前にのばし(指先はほぼ目と同じ高さである)、掌は下に向け、そしてファシストは腕を少し高く挙げる以外はナチと同じであるということ。」James A. Moss「星条旗−その歴史と象徴性」(1914)108
[4] 彼らは、国旗敬礼儀式に参加する代わりに「定期的に公然と」次の宣誓を行なうことを申し出ている。「私は、イエスがすべてのキリスト教徒に祈りを命じている全能の神であるエホバとその王国に、無条件の忠誠と献身を誓います。「私は、星条旗に敬意を表し、それをすべての国民の自由と正義の象徴と認めます。」
「私は、聖書に説かれているように、神の法に矛盾しないすべての連邦法に忠誠と服従を誓います。」
[5] ウェスト・ヴァージニア州法1851(1941年追加)
「もし、学校の合法的な要件と郡または州教育委員会が制定した規程に服さないために、子どもが出席停止、停学、退学になれば、その子どもの学校への再入学は前記要件と規程に従うまでは拒否される。そのような子どもは誰でも、前記要件と規程に従うことを拒否している間は違法欠席として扱われ、このような子どもを法的または事実上監督する者は、子どもの欠席を理由に本条項に基づいて訴追される。」
[6] ウェスト・ヴァージニア州法(1941年追加)
[7] 前記[5]参照
[8] ウェスト・ヴァージニア州法1847、1851(1941年追加)
[9] 裁判所法266、合衆国法律集28の380
[10] グリフィス事件の先例参照(合衆国判例集」318の371,401,注52)
[11] ニューヨークタイムズが実施した米国史の学習に関する全国調査参照。その結果は、1942年6月21日版に発表され1頁の1段に以下のように要約されている。
「合衆国の高等教育権関の82%は、大学の卒業学位には米国史の学習を必要としない。単科大学と総合大学の18%が、学位が与えられるには米国史の課程を履修しなければならない。多くの学生は米国に関するいかなる歴史課程も受講することなく大学の4年間を終えていることが分かった。
単科大学と総合大学の72%が米国史を入学の必要科目としていないが、28%はそれを必要としている。その結果、この調査の示すところでは、多くの学生は、自分の国の歴史の科目を学習することなしに中等学校、大学を卒業して専門的な機関や大学院に進んでいる。」
「全大学生の10%未満の者が春学期終了前の期間に米国史講座を受講した。新入生の30%がヨーロッパ史または世界史を受講したが、米国史の課程を受講したのは僅か8%であった。」
[12] 教育委員会の決議は、国旗敬礼が教育的価値があると要求されたからそれを採用したのではなかった。それは国家的統一の促進に関係があったと思われる(脚注[2]参照)。その正当化は後に本件の見解のなかで考えられたものである。教育的側面に関する情報は、オーランダー「国旗敬礼に関する子どもの知識」(「教育研究ジャーナル」35号300,305)以外にはわれわれの注意を惹くものはない。それは、多くの代表的な子どもたちが、学校で毎日朗唱する国旗敬礼の意味を記憶していて説明する能力に関する研究を発表している。それで明らかになった彼の結論は、「国旗敬礼儀式の言葉だけでなくその意味を子どもたちに教えようとする試みのむしろ哀れを誘う姿」であった。
[13] 初期のキリスト教徒たちは、皇帝の像やその他皇帝の権威を表わす象徴の前での儀式に参加することを拒否したために、しばしば迫害された。代官の帽子に敬礼することを拒否したために自分の息子の頭上のリンゴを射ち落とすよう宣告されたウィリアム・テルの物語は古い話である。(ブリタニカ百科辞典21第14版911-912) クェーカー教徒は、ウィリアム・ペンを含め、どんな世俗の権威にも敬意を表わすために帽子を脱ぐよりはむしろ処罰を受けた。[プレイスウェイト『クエーカー教義の起源』(1912年)、フォックス『勇敢なクエーカー教徒』(1941年)]
[14] 例えば、「共和国」という言葉の用法が、わが国の政府を「民主国」と区別して使用されれば、あるいはまた、「一つの国家」という言葉が、「連邦」と区別する意味に使用されれば、わが政治史のなかでかっての苦い論争を引き起こすことになる。「すべての国民のための自由と正義」という文言は、一つの理想というよりは現在の状態を表わしていると受け取らなければならないならば、いくらか誇張した表現のように思われる。
[15] クッシュマン『1939年−40年における憲法』(米国政治科学評論35号250,271)は、次のように述べている。「多数派が愛国心の自由な表現として国旗敬礼儀式を激賞する雄弁さは、感じやすい良心的な子どもに自分を公然と恥さらしにすることを要求するむちゃな強制を表現している場合には、それはただ不快を催すだけである。」 エホバの証人派の信仰を持たない人によるゴビティス判決の批評として、さらに次を参照。
パウエル『民主主義と国家的統一における良心と憲法』(シカゴ大学出版、1941年)1 ウィルキンソン『市民的自由の憲法的保障のいくつかの側面』(フォードハム法律評論11号、50)ファネル『再興された裁判所と宗教の自由』−「ゴビティス訴訟回顧」(ニューヨーク大学季刊法律評論19号、31) グリーン『修正第14条の保障する自由』(ワシントン大学季刊法律27号、497) 国際司法協会会報9号、1 ミシガン法律評論39号、149 セント・ジョンズ法律評論15号、95
[16] 同判決は次のように述べている。「国旗敬礼儀式が、良心のとがめを求めない人々にとっては教育課程の許される一部であることは、全く議論の余地がない。しかし、われわれは次のように主張する。儀式が要求されても、反対者に特別の免責が与えられなければならないということは、そのような免責は学校規律にいろいろな困難を持ち込み、他の子どもたちの心に実施の効果を弱めるのではないかという疑念を生むかもしれない、という議会の判断に対して何の根拠にもならないということである。」(下線は当法廷)合衆国判例集310,599-600 そして、他に考えなければならない問題として次のように述べられている。「ある重要な共通の目的の促進のために社会が必要と考えることをすること、または、公共の福祉に危険だと思われる行為を処罰することを、どんな時に憲法の保障によって免責を強いるのか。」(下線は当法廷)前記判例集593 そしてまた、「…ゴビティス家の子どもたちのような生徒は、国家的統一の促進のため他のすべての子どもたちに要求される行為が免除されねばならないかどうか…」(下線は当法廷)前記判例集595.
[17] 1942年12月22日に承認された両院合同決議359の第7節(合衆国法律集36、法律56の1074)は、規則に従わないことを処罰する定めはないが、次のように規定している。「『私は、アメリカ合衆国の国旗とそれが表象する共和国、すべての者に自由と正義をもたらす不可分の国家に忠誠を誓います。』という国旗への忠誠の宣誓は、右手を胸の上に置いて起立してなされねばならない。しかし、一般市民は、宣誓が行なわれている時、男の人ならかぶりものをとって、ただ気を付けの姿勢で立つことによって国旗への最大限の敬意を表するものとする。」
[18] 1940年の選抜徴兵法の5(a)、合衆国法律集50(追加)307(g)
[19] 国家は徴兵し市民に兵役を強制することができる。選抜徴兵法訴訟(合衆国判例集245-366)勿論、兵役に服する者は、多くの義務を負い、われわれが一般市民生活に関して侵すことができないものとして持っている多くの自由を要求できない。
(福岡県教育法研究会 訳)
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